阿部義宗と本多記念教会

一九五三(昭和二十八)年一月十八日、渋谷氷川町の青い鳥幼稚園に於て、聖日礼拝がおこなわれた。「日本キリスト教団渋谷氷川伝道所」第一回の礼拝。担任牧師阿部義宗。会衆十三人。これがのちの本多記念教会の濫觴であり、阿部義宗の畢生の事業としての牧仝の、小さな呱呱の声であった。半世紀にわたる阿部のキリスト教界における多彩な活動を知る者にとっては、それは余りにもささやかな出発であった。然し「私がこれまでの一生のうちで、本当に心から神に感謝してやった最大のことと言えば、それは本多記念教会をつくったことでしょう」と自ら述べた通り、阿部自身にとっては、その生涯における最も記念すべき聖日礼拝であった。時に阿部義宗六十七歳、夫人君子六十二歳。

 

阿部義宗―― 一八八六(明治十九)年十二月三日生、一九八〇(昭和五十五)年三月一日永眠。青山学院第六代院長。日本メソジスト教会第六代監督。日本キリスト教団創立総会議長。キリスト教界、教育界のみならず、政治的社会的なさまざまの要職を歴任。藍綬褒賞(昭和四〇年)、勲三等瑞宝章(昭和四十七年)。そして、一切の公職を退き、「一牧師として終りたい」と自ら望んだ切なる祈りによって、本多記念教会を創立、その現役牧師として、伝道者の生涯を全うし、昇天した。

 

生い立ち

阿部義宗は、旧津軽藩士阿部宗定の次男として、城下町弘前に生れた。母ことは、津軽藩家老本多束作久元の五女で、その長兄が、明治期キリスト教界の偉材本多庸一である。

 九〇年にわたる神の僕としての阿部の人生は、幼年時代、母の手にひかれて弘前教会に通った第一歩に始まる。弘前教会は、一八七六(明治九)年、本多庸一によって創立され、一世紀間に二百人にのぼる伝道者を輩出し、東北の一角に信仰の矩火をともし続けた教会である。(本多庸一については本シリーズIを参照)この教会で信仰を育くまれたこと自体の中に、阿部の伝道者としての献身の生涯の原点があったといえよう。

 

 一九〇一 (明治三十四)年は、二〇世紀の初頭にあたり、日本のプロテスタント各派の二〇世紀大挙伝道がおこなわれたが、この時、熱い祈を神に捧げ、飯久保貞次牧師より受洗した十三人の少年のうちに、阿部義宗の姿があった。時に義宗十四歳。中学二年生であった。

 一九〇五(明治三十八)年、青森県立第一中学校(現弘前高等学校)卒業。上京して青山学院に入学。高等科三年、神学部本科三年の学生々活を、尊敬する伯父本多庸一 (当時青山学院長)のもとで、親しくその薫陶をうけつつ送った。青山学院卒業と同時にアメリカに留学、ドゥルー神学校及びニューヨーク大学大学院で、キリスト教神学と社会学をそれぞれ学んだ。

 アメリカ留学中、阿部は、重症の結核の床に臥す賀川豊彦を、プリンストン大学の学生寮に見舞った。これが、後年日本のキリスト教会を代表して、アメリカに中国に手を携えて活躍した二人の、若き日の最初の出会いであった。

 

青山学院とともに――キリスト教会の指導者として

一九一五(大正四)年、ドゥルー神学校卒業と同時に、青山学院に招かれて帰国し、青山学院教会牧師に就任、社会学教授を兼ねた。以後一九三九(昭和十四)年に至る二十四年間、阿部は青山学院と共に歩み、一教師として英語・社会学・神学を教え、キリスト教社会学関係の論文を発表し、牧師、舎監をつとめ、中学部長・神学部長・院長を歴任し、理事・評議員として、経営の責任までを負った。この間、アメリカのオハイオ・ウェスレイアン大学から、神学博士の学位をおくられている。

 大正十二年の関東大震災の折には、中学部長の職にあった阿部が中心となり、青山学院の諸施設を挙げて罹災者を収容し、また狂気のデマの犠牲から朝鮮人を救いこれを保護した。さらに震災後の青山学院の復興に当って奮闘した阿部の労苦と功績は大きく、以後彼の頭髪が白くなったと言われた程であった。

 院長としての阿部は、初代院長本多庸一の教育方針と指導理念を忠実に踏襲し、その就任演説に於て次のように述べた。第一に「キリスト教主義の教育に徹し、その完成を期す」べきこと、第二に「学院は二五〇名の教職員が厳父慈母に代って三六〇〇の子弟を養育する大家庭であり、愛と犠牲と奉仕に充ち満つる所」であるとし、第三に「祖国日本に対する忠誠」を説いたのであった。

 

 青山学院における教育の責任を負う傍ら、阿部はキリスト教界の中心的指導者として縦横に活躍した。メソジスト教会の共励局長、伝道局長から監督代理をもつとめ、青山学院、弘前学院をはじめ、十指に余るキリスト教主義学校の理事や理事長、キリスト教学校教育同盟、キリスト教青年会同盟、日本基督教連盟等々の委員長、会長の職を兼ね、日本を代表して、国際会議のためにしばしば海外に渡った。

 

メソジスト教会監督

一九三九(昭和十四)年、阿部は日本メソジスト教会監督に挙げられた。この年宗教団体法が制定され、教団の統合と教理への国家主義的干渉が強行されはじめ、キリスト教界は受難の時代を迎えていた。前々年に始まった日華戦争は既に引返せない所へ来ていた。

 滔々たる国家主義化の波から如何にして教会を守るか。それが、メソジスト教会監督、また基督教連合会々長たる阿部に与えられた責務であった。それは曾て、明治天皇制絶対主義成立期に、初代監督本多庸一が負った重荷と同じく、信仰と政治、教会と社会の接点に身を挺し、避けて通れぬ条件交渉を、国家権力と社会とを相手に重ねてゆくという、苦悩と信仰的危険にみちた仕事であった。然しそれも、いずれは誰かが負わねばならない重荷なのである。「私の一身は言うまでもなく。教職として神に捧げられたものであります」と監督就任の辞に宣言した阿部は、信仰の先達であり師である本多を範とし、その教えに従いつつ、何もかも承知の上で敢てこの重荷を負い、あの狂気の昭和十年代、護教のために奮闘したのであった。

 

 昭和十六年、迫り来る日米戦争の前夜、阿部は、日米キリスト教会代表者協議会の日本代表団々長として渡米し、平和を求めてアメリカを遊説してまわり、ハル国務長官と会見して平和の条件を話し合い、帰国して戦争回避の方策を近衛首相に進言した。 そしてこの年六月、日本プロテスタント教会史上、最大の事業である教派合同を、阿部は、日本キリスト教団創立総会議長として完成させ、日本メソジスト教会最後の監督として、その終焉を見とどけたのであった。

 

中国へ

日米キリスト教会平和会議の努力も空しく、不幸な戦争が勃発したその二日後、十二月十日に、阿部は賀川豊彦と共に中国に赴いた。自らその中心となって創立に努力した日本キリスト教団を指導すべき役職をすべて抛って、中国に渡ったのぱ何故であったのか。

 日米教会平和会議のために滞米中、阿部と賀川は、―人の中国伝道婦人宣教師に会った。訪米の目的を問われて「日米の平和のために」と彼らが答えた時、婦人達が言った、「あなた方は道を間違えましたね。平和のためというのなら来る方向が違います。中国へ行って、日本軍の横暴から中国の教会を守らなければなりません。」阿部白身は、中国行きの動機について、これ以上多くを語っていないが、それは、日本キリスト教会の指導者阿部義宗の信仰告白としての、神へのとりなしの仕事であったと解すべきであろう。

 こうして阿部夫妻は、以後一九四六(昭和二十一)年に至る五年間、中国の教会を助け、日本軍を説き、東奔西走して和解のための努力を続けたのである。そして敗戦後には、失意の日本人同胞のために、一身を顧みず引揚げ業務を世話し、夫妻白身は、敗戦から約一年後、最後の船で帰国した。

 

重荷を負って――戦後の時代

敗戦後の米軍占領下、旧来の価値観は崩壊し、民主々義の理念は理解定着に程遠かった。明治初期の伝道以来、キリスト教が事実上始めて陽のめをみたこの時代、思想的社会的混乱を前にして、信仰と政治、教会と社会との接点にある多くの問題解決のために、キリスト教会の実力者たる阿部に対する各方面からの期待は大きかった。そして阿部は、誰かが負わねばならないその重荷を、再び負ってゆく。それはいわば明治期に本多が負った十字架であり、戦前戦後を通じて阿部の負った同じ十字架であった。

 こうして阿部は、昭和二〇年代の数年間、引揚者団体全国連合会会長として、困難のうちにある人々のために奉仕し、推されて参議院選挙に出馬し、賀川豊彦と共に平和協会を設立し、文部省に懇請されて米軍占領下の政府の行政に力をかした。また多くのキリスト教主義学校の理事や理事長として、教育行政や学校経営に力をつくしたのである。

 

召命の原点に還る

敗戦後の困難な時期を、阿部は各方面から要請され東奔西走して多くの事業の再建や建設に力をつくした。然し、そうした中にあって、彼はしきりに心中寂莫の感を禁じ得なかった。多彩な活動の人生を歩み、余人を以てかえ難い数々の業績をつみ、今やキリスト教界有数の指導者として、押しも押されぬ名声と実力をそなえた彼の、還暦を過ぎて円熟の境に達した心の隙間に吹く寥々の風は何であったのか。それはまさしく彼自身の言葉の通り、「キリスト教の伝道者として召命を受けた者として、教会をもたぬこと」の悲しみと寂しさに他ならなかった。

 このような時に、阿部の妻君子は熱心に説いた。「もう文部省も平和協会もみんなやめて、伝道に、牧会に専念しましょう」と。彼女は阿部の心を見抜いていたのか、或いは、それが彼女白身の願いであったのか、恐らくはその両方であったのであろう。そしてここに召命の神の声を、阿部はあらためて聴いたのである。

 こうして阿部義宗の長い人生における、最後の、そして最大の事業が始まる。故郷津軽の岩木川のほとりで、十三人の仲間と共に、熱い祈りを神に捧げた少年の日から半世紀、キリスト教々育に、教会の指導に、そして国家と社会とに対する護教のつとめに、彼はその人生を、神への応答として奮闘して来た。そして歳月は、彼をキリスト教界の実力者に押し上げた。然し今こそ、その召命の原点に還り、牧会に専念しようとする。それは「今後、いろいろ肩書の多い者としてではなく、ただ一牧師として終りたい」とみずから望んだ切なる祈りであった。

 

阿部牧師の牧会

こうして阿部義宗夫妻の開拓伝道は始まったのである。教会は「牧師が会員の家族を、教会に来ない家族までを含めて、知ることが出来る大きさが限度」と阿部牧師は考えた。そしてその言葉通り、阿部夫妻は、教会員ひとりひとりの身の上から日常に至るまでの喜びにも悲しみにも眼をそそいだ。激動の半世紀を生き抜いてきた老牧師夫妻が、清濁を見極めつくした達人の眼を以て、いつくしみ育てた教会は、和やかな家庭的雰囲気に満ちた安らぎを、門を叩く人々に与えるのであった。それはいわば阿部牧師夫妻の「手づくり」の教会であった。

 阿部はその師本多庸一同様、単純卒直な信仰の持ち主であった。 「この教会は、やかましい教理をもたない、きわめて単純な信仰の教会――私はそう考えています」と阿部は会員達に語った。それは・この教会の弱点でもあり、また良さでもあった。然し、どれ程多くの人々が、牧師夫妻の暖い懐に抱かれて、慰さめられたことであろう。人生の修羅場をくぐり抜けて入信した中年層の会員の、定着率の高さが、このことを物語っていた。

 

阿部の人物

阿部は寛容であった。人間と世の中をよく知っていた。人間というものは決してそんなに強いものではない。世の中というものは、たてまえ通りにはゆかないものだということを、いつくしみの眼で理解していた。だから教会の内外を問わず、どんな人物とも交わり、どんな状況にも対応した。彼はまた、どんな人間にも、まごころがあり、取りえがあることを、心底から信じていた。だから不遇な人や失意の人々に、同情や憐れみでなく、気軽に声をかけ、隔意なく対し、何とか能力に応じてこれを用いようとした。こうした阿部の知遇に感謝し、彼を生涯の師とし、恩人と仰ぎ、彼のために粉骨砕身を誓った者は多い。彼には、人を容れ、人を動かす力があったのである。

 阿部は本多と同じく生れも育ちも良く、おのずから備わる長者の風格と気品があった。本多は村夫子然として辺幅には無頓着であったが、阿部は端正であり浦洒であり、晩年に至るまで身だしなみに隙のない紳士であった。然し、威厳はあったが、冷徹さや気むずかしさはなかった。豪放転落な笑顔と声が、人に春風胎蕩の想いを与

えた。どんなに偉くなっても、彼は気さくであった。いつでも気易く、高ぶらず、人情にもろかった。そのような阿部を慕って扉を叩く者を、彼はわけへだてなく、親切に面倒をみ、これ以上易しく語ることは不可能と思われる程易しく「キリストの愛」を説いた。

 

教会の発展

阿部牧師の牧会の歩みは、たゆみなく続けられ、教勢は順調に発展して、伝道所はやがて渋谷氷川抑をとなり、一九六五(昭和四〇)年には、待望の新会堂が完成した。そしてこれを機に、阿部自身は、十年来かかわって来たキリスト教学校教育同盟総主事の仕事を辞し、本当に「一牧師」に徹して牧仝に専心することとなった。そして教会は、阿部の願いによって、本多記念教会と改称した。

   I

阿部と本多

阿部は本多によって導びかれ、本多に学び、薫陶を受けた。本多を心から尊敬し、本多を誇りとした。青山学院長からメソジスト教会監督へという、同じ公生涯の過程を辿ったばかりではない。本多はメソジスト三派合同をなしとげて日本メソジスト教会を創立し、阿部は教派合同を実現させて日本キリスト教団を成立させた。国家の難局に当っては、両者ともキリスト教会の名に於て、その解決に奔走した。本多の日清・日露戦争時における活動、阿部の日米キリスト教平和協議会や中国での活動。この世における、避けて通れぬさまざまの経営的政治的な問題にも、二人は等しくその重荷を負った。阿部はその公私の生活の表も裏も本多を範とし、その跡を歩んだ。キリスト教会の実力者として、順風満帆に見える活躍の、内に隠された苦悩や心労の姿もまた同じであった。そしてその最後は――本多はメソジスト教会監督現職のまま、年会を指導中に倒れ、職に殉じた。阿部は監督の後に、長い晩年を与えられたが、その生涯の総決算ともいうべき開拓伝道の教会に本多の名を冠し、現役の本多記念教会牧師として、九十三年の伝道者の生涯を全うしたのであった。

 

(青山学院大学教授 気賀健生)