以下は「青山学院の歴史を支えた人々」から阿部義宗牧師に関する紹介記事の抜粋です。 著者 気賀 健生氏 (気賀氏のプロフィールはここをクリック) 第6代院長 阿部 義宗(1886-1980) ――青山学院と共に歩んだ半世紀―― ――ただ一牧師として終りたい―― 「私は多くの幻を懐いて居る。しかも、その一つひとつが夢に終ることなく、着々と現実化せられつつあるのを見て、神と人との前に感謝に堪へない」(『青山学報』149号…復刊前の旧号)。 1937(昭和12)年3月、第6代院長阿部義宗はこのように述べた。この年4月から開設されるべき青山学院緑岡小学校と青山学院緑岡幼稚園の「兄弟姉妹打揃ふて校門を入る児童らの美はしい光景」に、彼の“幻の実現”を見ていたのであろう。この4年 前、院長就任演説で彼は次のように語っていた。 今日の青山学院としては、上に伸びる大学よりも下に深く掘り下げて、根底から築き上げてゆく初等教育の方が、より急務と信じます。言ふまでもなく、真の教育は根底から始めるのが大切であります。されば学院の急務は幼稚園を設け、小学校を建て、幼児に基督教々育を徹底させるにありませう。斯くしてこそ青山学院の主義や精神を骨髄とせる人物が、始めて現はれるのであります」。 これは達見である。学校の発展といえば、大学を、と考えるのが普通であろうが、青山学院は、時代を先取りした阿部の見識によって、幼稚園から大学までを擁する今日の一貫教育の基礎がつくられたのであった。 (阿部も大学設立を考えなかった訳ではない。第4代高木壬太郎院長の計画した大学昇格案が、高木の急逝と関東大震災復興事業のため停頓した後、昭和に入って阿部はこの計画の再開をはかっていたが、基督教各派合同大学案が浮上した状況の変化に対応し、「先づ今日は、各学部の内容を充実させ、その精神の振作に力めることが肝要」と判断したのであった)。 青山学院のキリスト教主義教育に対するこのような阿部の理念と方針は、彼の尊敬してやまなかった第2代院長本多庸一の「希くは神の恵により我輩の学校より所謂Man〔人物〕を出さしめよ」という祈りを受け継いだものであったと言うことができるであろう。 しかし阿部の達見はこれにとどまらない。前述の一貫教育、宗教・人格教育の主張と共に、彼はその抱負を次のようにかかげていた。すなわち、*女子礼拝堂と宗教館の新設、*物理化学教室の建設、出版部の新設、*特殊講座の新設、*研究雑誌の発行、*図書館の充実、*郊外運動場の設置、*夜間部の開設、学生および教授の海外見学、*教職員恩給制度の安定、学生の共済および就職戦線の拡大、消費購買組合の拡張等々―(不幸にして、これらの目標は、まもなく突人した第二次世界大戦のために、*印を付したもの以外は実現の陽のめをみなかった)。これらは半世紀後の今日においてもなお新しい。次のように翻訳し直せば、現代の青山学院にとってまさに緊急の重要性をもった提言ばかりである。すなわち、学内宗教教育の充実、情報化の推進、体育振興、生涯教育、学際・総合講座、研究体制の整備、国際交流、年金制度、学生の福利厚生等々―恐らくは、歴代の指導者の中でも、建学の精神から将来構想に至るまで、最も深い理解と時代に先がけた総合的視野をもっていたのが阿部院長ではなかったか、と筆者は考えている。 1933年、47歳の阿部が院長に就任したとき、青山学院は関東大震災から約10年を経て、一応復興しつつあったとはいえ、「世界的経済不況と相応じて、学院の財政が未曽有の大悲境」(院長就任演説)に直面していた。しかも時代は軍部と右翼の肥大化が進行し、阿部の院長在任6年の間には、日本の国際連盟脱退(1933年)、二・二六事件(1936年)を経て日中戦争の火蓋が切られ(1937年)、国家総動員法(1938年)が制定されて国家主義統制が本格化し、外には日独伊防共協定が成立してファシズム体制が完成するという、第二次世界大戦の前夜であった。 滔々たる軍国主義の波からいかにしてキリスト教主義学校を守るか。それが院長阿部に与えられた重荷であった。日増しに加わるキリスト教界への重圧のもとで、青山学院もまた暗い思想の谷間に呻吟した時代に、「私は微笑してこの重責を敢て負いました」と自ら語った通り、彼は常に明るく、いとも朗らかにこの重荷を負っていった。 青山学院院長の他にも、阿部は多くのキリスト教主義学校の理事・理事長をはじめ、教界の要職を兼ねていた。やがて1939年、彼は日本メソジスト教会監督にあげられ、青山学院院長を辞すこととなる。国家主義の強制から青山学院を守った阿部の重荷は、キリスト教界そのものを守るべき、更に大きな重荷となっていった。そしてそれは、この時代、断固たる宗教的信念や、非妥協的信仰志操だけではどうにもならない、国家総動員法下の現実との対応であった。青山学院院長として6年間、日本メソジスト教会監督として2年間、さらにその後の日本キリスト教団成立時(1941年。これにより日本メソジスト教会は新設の教団に加わり、阿部は最後の監督となった)の役割(新教団設立総会議長)から、第二次世界大戦中の阿部の行動(アメリカへの和平使節、中国での活動)について、余りに政治的であるとか、信仰的純粋さに欠けるとか、妥協的に過ぎるといった批判が一部にあることを筆者も知っている。しかし、そのような批判については、阿部自身がすべて百も承知の上のことではなかったか。青山学院院長就任演説では、「私はこの学院を心から愛し、自分の全生命をこの学院に捧げん」と言い、監督就任の辞では「私の一身は教職として神に捧げられたもの」と宣言した彼は、その上でいずれの場合にも美辞麗句より実務的経営目標を端的に述べている。これが阿部のスタイルであった。 宗教的純粋を固持する殉教精神はそれはそれで尊いに違いない。しかしそれでは誰が学校を守り、教会を守るのか。学校も教会もまたこの現実社会の歴史的存在であってみれば、避けて通ることのできない、いとなみの条件交渉の場というものがある。潔癖な宗教人は、政治的条件や経済問題が精神を蝕む危険を伴うがゆえに、それに介入したり、まして手を汚したりすることを、とかく潔しとしない。しかしそれは、いずれは誰かが負わなければならない重荷なのである。阿部はあえてこの重荷を負った。信仰と政治、教会と社会の接点に身を挺し、国家権力と社会を相手に宗教本来の精神とはまた別の、政治的苦心に満ちた重荷を、彼はあの日本の狂気の10数年間を通して、何もかも承知の上で担い続けたのであった。 日米開戦前夜の1941(昭和16)年夏、阿部は賀川豊彦と共に、日本のキリスト教界を代表してアメリカに渡り、平和を説いて戦争回避に努力し、コーデル・ハル国務長官に会って和平の交渉条件をひき出した。近衛首相は阿部たちのもたらしたハルの条件に乗り気であったが、東条陸相は激怒し、この時以来阿部の身辺には特高がつきまとうこととなる(『特高情報』昭和16年6月20日の項をみると、阿部がすでにマークされていたことがわかる)。 1941年11月25日、日米開戦のわずか2週間前に、日本キリスト教団が成立した。阿部は設立総会の議長をつとめただけで、新教団の一切の公職を辞して中国に渡った。あの、平和を求めたアメリカ遊説も空しく、不幸な戦争が勃発したわずか2日後、12月10日のことであった。 この中国行きの動機と目的については、史料が極めて乏しいが、「日本軍の横暴から中国の教会を守るため」という阿部自身の証言から、筆者はこれを、日本のキリスト教界の指導者阿部義宗の信仰告白としての、神へのとりなしの祈りであり仕事であったと理解している。 第二次世界大戦後、新しい時代の価値観混乱期、キリスト教界の長老としての阿部に対する各方面からの期待は大きかった。そして阿部はここでもまた、政治的、社会的な仕事の多くに、いわば手を汚すことをいとわず、キリスト教界のアポロギア(弁護)のためにかかわってゆくのであった。それはかつて明治期に、彼の人生の師本多庸一が歩んだのと同様の、誰かが負わなければならぬ十字架の道であった。 1953(昭和28)年1月18日、渋谷氷川町の青い鳥幼稚園において、聖日礼拝がおこなわれた。「日本基督教団渋谷氷川伝道所」第1回の礼拝。担任牧師阿部義宗。会衆13人。これがのちの本多記念教会の濫觴である。故郷岩木川のほとりで13人の仲間と共に、熱い祈りを神に捧げた少年の日から半世紀、あらゆる公職を退いた67歳の阿部が召命の原点に還り、「これまでの一生のうちで、本当に心から神に感謝してやった最大のこと」としての牧会の、ささやかな出発であった。そして、「ただ一牧師として終りたい」と自ら願った切なる祈りの23年の後、現役牧師として伝道者の生涯を全うし召天した。1980(昭和55)年3月1日。93歳であった。 阿部義宗。1886(明治19)年12月3日、弘前に生まれ、伯父本多庸一 (青山学院第2代院長)の創立した弘前教会において伝道者としての召命をうけ、青山学院、ドゥルー神学校、ニューヨーク大学大学院に学んで、母校に招かれ、1915(大正4)年から1939(昭和14)年に至る24年間を、青山学院と共に歩んだ。一教師として英語、社会学、神学を教え、キリスト教社会学の論文を発表し、青山学院教会牧師、学生 寮舎監をつとめ、中学部長、神学部長、院長を歴任し、理事、評議員として経営の責任を負った。 院長としての阿部は、その就任演説で次のように語っていた。 「青山学院は、二五〇名の教職員が厳父慈母に代って三六〇〇名の子弟を養育する大家族であり、愛と犠牲と奉仕に充ち満つる所であります」――半世紀後の今日、青山学院が2万を超す学生・生徒と千を数える教職員を擁する大所帯となって、なお人と人との温かいふれ合いを、キャンパスの生活のそこここに、残しているとするならば、それは、寛容で慈愛に満ち、人間と世の中というものをよく知っていた阿部院長の、 信仰的・精神的・人格的遺産に他ならないといえるのではないであろうか。 159号(1992年7月) 阿部義宗(続) 前稿では第6代院長阿部義宗を「青山学院の歴史を支えた人々」のうちに数えたが、ここに阿部が青山学院院長在任中の1938(昭和13)年に書かれた「阿部義宗論」がある。同時代史料である。前稿で筆者が語りつくせなかった“青山学院の阿部”あるいは“青山学院と阿部”を、美事に描いている。前稿を補完する意味で今回はこの評論を紹介したい。 一体、リアルタイムの人物論というものは、それだけに観察と分析が生きているか、あるいは、まさにそれゆえに(即ち善意・悪意・追従・下心・反感などのゆえに)真実を伝えていないか、普通、そのどちらかである。後者は青山学院の歴史を支えた人々の研究上、取扱いに慎重を要する非歴史的史料であるが、前者の場合はその証言自体が貴重な史料である。以下の評論はこの前者の意味において出色である。阿部に対する評者の尊敬と愛情が、手きびしい批判と激励に支えられ、客観的評論として成功しているばかりでなく、当時の青山学院やキリスト教界、さらには日本の情況や姿を小気味よくうつし出している。歯切れのよい軽妙洒脱な筆致で大まじめな議論をするのも、ひと昔前の上等な文化人のスタイルを目のあたりに見る思いで面白いし、何よりも、その指摘するところが今日の青山学院にとってもなお新しい問題を含んでいることを見逃すわけにはゆかない。あえて全文を紹介するゆえんである。 原文は『横浜青年』(横浜YMCA機関誌)264号、昭和13年6月1日所載。論評者の楠正人というのはもちろん仮名で、実は当時の横浜YMCA総主事久芳昇氏である(のち日本キリスト教団銀座教会会員)。久芳氏には、『青山学報』 への転載を快諾していただいた。 「阿部義宗論」 阿部は日本メソヂスト教会の傑物である。彼こそ日本のメソヂストの希望であり、力であると考へてゐる者もある。然しそれだけ又一方彼を恐れて彼を遠ざけようとしてゐる者もあるとの事である。 然し彼は現在日本メソヂストの優れたる指導者である。メソヂストは彼を賢明に用ひなければならぬ。その辺の呼吸が分らぬ様ではメソヂストの前途は暗いものがある。野性的な馬力だけで世の中が押してゆけると思ふのはもう古い。それは昔のイデオロギーである。 阿部は綺麗なクリスチャンゼントルマンである。彼の祈りは立派な詩である。いささか感傷的な彼の説教は女学生ならずとも心ひかされるのである。従って彼が葬儀に臨むや、言々切々断腸の思ひあらしめる。眼をシバタキ、声をうるませて故人を偲ぶあたり、彼の家の藝であり、彼阿部の人間昧溢るる場面である。 彼の本職は青山学院長である。彼は日本基督教聯盟常議員会長である。日本基督教青年会同盟市部委員長である。其他数へきれぬ程いろいろな団体に関係してゐる。曽つては日本メソヂスト教会伝道局長も務めた事がある。青山の中学部長の時から将来の院長を予約されてゐて、誰も不思議に思はなかったのである。順風に帆をあげ彼はクングンと頭角を現し、今日の地位を築いた。青山の院長室に常におさまってゐても彼は無言のうちに四方を眸睨する戦艦の様な感を与へる。青山を始め日本メソヂストのうちには彼の為に火の中水の中に飛び込む覚悟の者が沢山ゐるさうである。 彼はそれを知ってゐる筈だが、詳しい事はわからぬと云ふ様な顔をしてゐる。それで時々所謂乾分共が心配して騒ぐことがある。 彼は普通の牧師でもない。勿論学校の教師でもない。彼は政治家としての素養も充分備へてゐるし度胸の好い、話せば分る男である。彼は相手にしてきっと手応へのある男である。 阿部は青山の總裁として、ドッカと腰を下しているが、それは外から見た素人の観測で、イザ内側に入ってみると仲々さうはゆかぬ悩みがある。 政友会ですら總裁を選ぶ時には義理と、人情と、利権がからみ合ってあの卍巴の乱戦を続けるのだから、阿部ももっと周囲に智嚢をあつめ、腕もあり腹もあり心臓も備った人物を揃へなければならぬ。 一寸した政変に驚き慌てたりする現在の手勢では心細き限りである。人物の不足と謂ふか実にお粗末千萬である。此は草に阿部の将来を慮るのみに非ずして、青山の将来を卜するものであり、大きくは吾国基督教学校の将来のため余の憂ふる処である。 近年吾国基督教主義学校は文字通り受難時代に遭遇してゐる。西の同志社、東の立教、明治学院と何れも内に外に手傷を負はぬものはない。その原因の如何を問はず志を基督教教育に致すものの、責任は免るる事は出来ぬ。殊に兄弟うちに閲ぐに至りては外の侮りを防ぐ可きもない。 此等の乱戦のうちに独り青山のみは先づ先づ無難の航海を続け金もあつまるし、校舎の増築もするし、甲まではゆかぬが乙の上の成績をとってゐるのは蔭に阿部の力が働いてゐる事を見逃してはならぬ。日本に将来本格的な基督教大学が生れるとすれば、余は其の元締に阿部を推薦するに躊躇しない。 阿部は今でこそ日本の教会の大先輩として穏健着実の標本の如き顔をしてゐるが、若い頃は相当教界の新し屋であった。彼の思想には社会的な一面が強く影響してゐる筈だが、その筈が今頃どうなったかは余も知らぬ。ただ求むるはその筈が再び新時代の呼吸をして新しく生き返ることである。 日本の教界の行きづまりの打開に阿部の青年的情熱がよみがへらん事を切望する。徒に「ゴールドスミスのあの詩の様な」とか「私はいつまで彼の苦難の十字架を」との言葉ばかり使ってセンチメンタルな説教をするばかりでなく、あのバスの声を一番張り上げて線の太い仕事に乗り出すべき秋だと思ふ。 さうして周囲は勿論のこと、メソヂスト教会もこの受難時代とっておきの君達のホープ阿部を大きく用ひなければならぬ。 そこに阿部の将来があり、道があり日本の基督教学校も発展の望が出てくるのである。 余は最後に鶴の如き阿部の痩躯の自愛と、彼の奮闘を切望するものである。 160号(1992年10月) 阿部義宗 (続の続) 筆者はかつて第6代院長阿部義宗を「青山学院の歴史を支えた人々」のうちに数え、更に阿部が院長在任中の1938(昭和13)年に書かれた「阿部義宗論」を、同時代史料として紹介した。ここにもうひとつの 「阿部義宗論」を紹介したい。これは1931年7月、彼が青山学院神学部長の時に、日本キリスト教青年会同盟委員長として、カナダのトロントでひらかれた世界大会に出席して副議長をつとめ、次いでアメリカ のクリーヴランドでひらかれた世界キリスト教総会に出席し、10月に帰朝して間もない頃書かれたものである。当時の彼の活躍ぶりと、そのキリスト教界における「期待の人物」ぶりを詳細に描き、“青山学院の阿部”を美事に描写している点で、一読に価す るものと思う。原文は『新興基督教』1931(昭和6)年12月号所載。筆者の八幡太郎というのはもちろん仮名で、その文体・内容から、故比屋根安定教授と推定される。比屋根教授はこの転載をもちろん快諾して下さると信ずる。 「阿部義宗論」 十月十五目横浜着の秩父丸は、阿部義宗を米国から戻した。彼は日本の基督教青年会同盟委員長として、去る七月加奈陀の万国大会に赴き、其副議長を務め、帰途米国に行き青山学院後援会組織の任務を果し、相当の業績を残し効果を挙げての帰朝だと聞く。彼は基督教界で顔のひろい流行児であるため、沢山の出迎えの人々が賑かに彼を囲んでゐたらう。彼の三度日の帰朝を歓迎し、御馳走がはりに唐辛子の入った人物批評文を差上げる。 彼は青森県弘前に生れ、日本メソヂスト教会第一代監督、青山学院第一代院長たりし本多庸一の妹の子である。明治四十五年青山学院神学部を卒へ、渡米して泥流神学校に棹さし、入浴大学に浴した。在米中、青山学院長高木壬太郎に嘱望されて、任を青山学院教会牧師に受けて渡米後三年目に帰国した。彼は留学中、基督教社会学を専攻し、帰るやユウゼニクスや基督教の家族観に関する論文を発表した。翌大正五年の夏、基督教青年会の夏季学校牧師を承り基督教と労働問題といふ講演をし、モオセの出埃及運動はストライキであると論じたので衆が吃驚した。大正五年といへば、鈴木文治の友愛会が労働総同盟になったか成らない頃である。学院教会の牧師を務めて三年、後任に現中央会堂牧師川尻正修を据ゑ、高木院長が寄宿舎教育を重んじたので舎監を務めること三年、大正十年高木院長が卒したので、中学部長に任せられ、今年春まで十年その職にあった。今春神学部長ベリーが辞任したので彼が神学部長に推された。傍ら日本メソヂスト教会の共励局長として五、六年尽力し、昨春からは伝道局長に移って、同教会の無くてはならぬ幹部となった。以上が今日までの略歴である。彼の為した功績の中最も大なるものは、震災後、病中の石坂亀治を助けて京橋の日本メソヂスト教会の復興を計り、また校友会長米山梅吉や石坂院長を助けて青山学院の復興を成就した事であらう。その間の辛苦は可なり大であったらしく、爾来彼の髪は白くなり、顔に皺がより、老眼鏡をかけるやうに成った。 彼は早くから社会学に興味を抱いたらしくヽ神学生時代からラウシェンブッシユがすべったの、ビイボディがころんだのと、寝言にまで言ってゐた。学院教会牧師たる傍ら神学部で基督教社会学を講じ、大いに社会的基督教を唱へてゐた。この点彼はソオシヤルーゴスペルを説くSCMの開拓者である。だから『開拓者』が一時社会的基督教論者の筆陣になり、理事長たる彼が手を焼いたのも、蒔いた種が生えたまでのことだ。天罰恐るべしである。彼が社会学から社会運動に人つたなら、今ごろは社民党の幹部になり、松岡駒吉ぐらいになってゐた筈だ。 彼を社会運動家たらしめなかった原因は二つある。一つは牧師的意識が熾烈であったからだ。この点伯父本多庸一の訓戒が強かったらしい。彼は米国留学中九段教会の牧師たらんことを畢生の大願としていた。実際彼は生れつき牧師の良資格を多分にもってゐる。彼は教理を固く教へ込む牧師であるまい。雄弁流るるが如き説教家でもあるまい。然し彼は統率の才があり、会員と共に泣き、共に喜ぶ良い牧会者である。中学部長として成功したのは、この牧師的心情を以て当ったからであらう。第二の原因は伯父譲りのピイスーメエカア的温情が何うしても彼を社会運動家の闘士たらしめない。これは彼の長所でもあるが、甚だ短所でもある。彼はこの性質の故に、組織の才あり、統率者たる器もあり、その関係する事業も円滑に運び、伯父の温容も現われてゐる。彼の議長ぶりが好評なのもこれがためだ。彼は容易に、否殆ど人と争わない。修養した結果争わぬのではない。天性或は趣味が争はぬらしい。それで通る場合もあれば、それでは困る場合もある。今後それでは困る場合の方が、世間一般にも彼の住む境遇にも多くなるのであるまいか。伯父譲りのピイス・メエカア的性癖のために、切開手術をすべき時にも膏薬を張り、断じて行なへば鬼神も避く場合にも、深慮が躊躇となり、躊躇が臆病となる時もあらう。彼は頼まれると断らない。或は断りきれない。彼は人情を重ずる。これが今日まで彼をして事を成就せしめたが、或は憂ふ、今後は失敗せしめるの憂なきや。予は君に勧告する。今後は腹の底から怒れ。萄くも協調する勿れ。顎ばかりでなく顔全体を赤くして怒れ。これは君の修養のためであり行詰まれる教界全体の打開策でもある。 彼は忙しくて勉強できぬと言訳しながら、実は汽車のなかで原稿を書いたり、秘密に社会学の本だけは骨折って集めてゐる。昔の研究生活に戻りたいのであらう。感心でもあるが油断のならぬ男である。彼は基督教会が今日の資本主義社会に於て行悩んでゐることをその社会学的認識からも熟知してゐる。今後の教会が何人と握手すべきかを予見もしてゐる。然しその現実的立場に余り接し過ぎ、また先天的ピイスーメエカアの素質の故に、奮然として改革の大刀を揮ひ得ないやうだ。また彼は所謂社会的基督教に就いては、早くから理論的に知ってゐても、妙に涙もろい個人的殉情家肌の彼には、古典的敬虔を重ずる個人的救済観の灯明が消えずにゐる。頭は社会的福音で、胸は個人的福音とでも評さうか。基督教青年会理事長とメソヂスト教会伝道局長とが、両頭の蛇として食ひ合はないのは、これが為めである。彼が如何に屈伸して何処へゆくか。これは面白い見物である。日本基督教は、如何にして何処へ行くか。その一縮図を彼の今後が示そう。 彼の趣味は人の面倒をみること、旅行すること、英詩人の宗教思想を窺ふこと、痔のくせに食ひしん坊であることぐらゐだ。牧会趣味(?)の彼は、よく人のために労して怠らない。彼の応接室は、人事相談部、職業紹介所、煩悶 夕引受所、消防署よろしくだ。英詩人の宗教思想研究は相当発表され、武羅宇仁愚、手尼損、茜釜酢味噌だの、十数人に及ぶ。大衆文学も好で、旅行には必ず携へて吉川英治は筋に於て優り、大仏次郎は情調に於て佳なりなぞと言ひ、批評も穿ってゐる。彼は英詩人を有難がるから、文書も美しく書きたいらしいが、後四、五年で五十歳のくせに、「想像の翼を張りて」だの「胸の扉を叩く」なぞの文飾を好んで用ゐるのは、明治末期のセンチメンタルな文学青年的病癖である。彼の弁舌は、津軽蛮地の出身だから流暢な能弁でないが、一言一句がやや重く落ちついて、若かりし日の本多監督を偲ばせるようなバス声で出るから、印象的であり荘重さもある。卓上演説は毎度させられるためか頗る慣れたもので、愛嬌もあり場合に適したセンスもある。ただし彼が文学者がった修辞を説教に用ゐるとき、かえって稚気が出て苦笑させられる。過日の青山学院神学部長就任披露のをりの演説は、日本神学校の校長川添万寿得が正しく評価したやうに、真に誠実を感ぜしめた。誠実が彼の何よりの武器である。何を苦しんで、種子ヶ島鉄砲みたいな色の槌せた陳腐な文学的修辞を持ち出すのだ。 彼は今春から青山学院神学部長になった。中学部長として功成り名遂げての勇退である。過去十年間に、年少気鋭のクリスチャン教師十数名を入れたことは、功績の一つである。中学部主催の送別会で、一教師が、阿部部長の神学部ゆきは、行先の定まった汽車の途中通過駅に外ならない、と述べて満場は拍手喝采した。唯、果して彼がレールに乗って走るか、否か。妙に涙もろく、殉情的な彼、「人生意気二感ズ」と唱へて、情誼にほだされて忙がしかって損ばかりする彼は脱線しはせぬか。甚だ危険である。昨春日本メソヂス卜教会の臨時総会で、彼は監督選挙の次点を得たが、来春の総会でも次点者になるかも知れない。万が一当選したところで彼は勿論監督になるべきでない。彼は監督には若過ぎるし、牧会の苦労も足りないからだ。或は再び伝道局長に当選するとも、これもまた固辞して、一意専心青山学院神学部長として伝道者を養成し、傍ら基督教社会学のノオトを訂正し、読書して多少アカデミックに精進すべきである。ラスキンの社会思想に就いて講演を聞くとまだ脈はある。手遅れでない。月に一、二度しか家庭で晩飯を食べず、朝から晩まで家を外にして貨物自働車のやうにカタカタ走り廻って人生竟に如何。ねえ奥さん、然うぢゃありませんか。阿部陸奥守義宗よ。汝の御先祖、逆賊安倍宗任は、智慧は足りなかったが勇猛であった。汝の智慧は時に八幡太郎義家にも劣るまいが、勇猛さは御先祖に耻ぢねばならぬ。今後、汝は寧ろ奥州外ヶ浜の荒ゑびすの本領を発揮して勇敢に前進すべきである。何処を指しての前進か。古人曰く、道は近きにありと。行先の定まった汽車は、軌道に添うてツバメのように大急行すればいい、ナゴヤ駅を出たツバメは、ヌマズ駅まで何処にも停車せぬ。汝も亦、ヌマズ、食はずに、走れや走れ。今日は明治節で、秋空に花火の音が景気よく聞える。ポカン、ポカン。汝がデスチネーションヘの来著を待って、花火を上げようとする連中は甚だ多い。自重自愛すべしである。 207号(2004年3月) 著者紹介 【略歴】 1927年6月21日 東京浅草生まれ 1945年3月 青山学院中学部5年卒業 1952年3月 東京大学文学部西洋史学科卒業(54年同大学院修了) 1952年4月 青山学院中等部奉職(~54年3月) 1954年4月 青山学院大学奉職(~96年3月) 1991年9月 米国ガウチャー大学客員教授(1年間) 1996年4月 青山学院大学名誉教授 1996年9月 英国オックスフォード・ウェストミンスター・カレッジ客員教授(2年間) 【主な著書・論文等】 「アイルランドの民族主義」(『琉球大学歴史学叢書』1975年) “A ShortBiography of Bishop Honda Youitsu”″ (World Methodist Historical Society 1981年) 『世界キリスト教史物語』 R.H.ベイントン著、気賀健生訳、1981年、教文館 “Max Webster’s Theory of the Protestant
Ethics and tha spirit of Capitalism as applied to
the Modern History of Japan”
(Reflection upon Methodism. 1985年) 『本多庸一 信仰と生涯』2012年、青山学院 |