あとがき

 

 本書第二部は、藤木正三牧師が書かれた『灰色の断想』と『神の風景』(いずれもヨルダン社出版)の中から今の私が理解し得た範囲で、私たちの生活と信仰理解に、きっと新しい光を与えてくれるに違いないと思われる「断想」のいくつかを取り上げ、個人的な感想をつけ加えたものである。牧師と医師がどうしてこのような本をいっし上に書くことになったか、そのいきさつを語ることは本書を世に送り出す目的を明らかにすることでもあるので、そのことから述べてみたいと思う。

 

  a 本書の成り立ち

 

今回この本の出版の話がもち上がった時、それが私の十五冊目の本に当たり、かつまた私が大阪に出てちょうど十五年目という仕事上の転機を迎えていたころであったので、このことの中に神の摂理の御手を見る思いがした。よく考えてみれば藤木牧師は私にとって出会うべくして出会った人であり、また思いがけなく出会った人であった。

 それは以下の事情による。

 十五年前、私は信仰とか宗教心というものが、人間の心の健康にとってどのような働きをするのかという課題をもって大阪にやって来た。多くの経験に出会うためである。そこには、心の健康にとって信仰心は、きっとプラスに働くであろうという私自身のひそかな願い、希望的な観測があった。

 ところが実際の診療活動に携わってみると、この期待はもろくも砕かれ、私は深刻な挫折と混乱に見舞われることになった。

 このことがきっかけで、私の一番最初の本『牧会事例研究1』(聖文舎)が出されることになったが、この本は、次のような書き出しで始められている。

 

 「『わたしの羊を飼いなさい』(ヨハネ21・17)。これは、主イエスが、今日の牧会者に対して求めておられることである。『主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも、互いに足を洗い合わなければならない』(ヨハネ13・14)。このすすめは、主イエスが、今日、クリスチャンと呼ばれる人々に対して求めておられることである。

 しかし、いったい、『羊を飼う』ということ、『足を洗い合う』ということは、人間の出会いにおいて、実際に、どのような意味あいをもつのであろうか。私は、この三年間、淀川キリスト教病院の精神科診察を通して、意外にも、これらのことが、しばしばないがしろにされている事実に直面した。主イエスが、この世を歩かれたとき、『群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、彼らを深く哀れまれた』(マタイ9・36)と聖書は記しているが、今日においても、この牧会事情はさして変わらないような気がする。そして、同時に私自身も、人間が人間を理解するということ、その友となるということの困難を、身にしみて実感する。

 わかったと思うことが、なんと大きな思い上がりであったことか。よかれと思ったことが、なんと精神的な暴力であったことか。私は、もっと、人間の多様性というもの、存在の重みに謙虚である必要を感じた。こうして、私は、よりよい牧会を志すかたがたとともに、学びの機会をもつことを決意したのである。

 幸いにも関西牧会カウンセリングーセンターがその場を提供してくれた。私はそこで、超教派から成る牧師と共に、牧会事例研究を始めた。

 その一年間の学びの中から、今日の日本の牧会配慮に、いくばくかの御役に立ち得そうなものをここに集めて編集し、コメントを付したのがこの本である。

 この本は、理論や教義を提供するものではない。人間理解に対して、これまで見落とされがちだった側面にみことばの光を与え、聖書の真実性を再発見しようとするものである。

 私たちの立場は『はじめに教理』を置こうとするものではない。『初めに言があった』。と同様に『はじめに病める人があった』。そして、それを牧会者がどのように見、どのように関わっていったか、そしてそこに何か起こったかを謙虚に学ぼうとするものである。その過程から恐れずに自らの落度を見直そうとするものである。

 したがって、この本は正確には『牧会失敗研究』と呼ぶべきであろう。そして私たちの教師となってくれたのは、他ならぬここに登場する牧会の対象となったかたがたである。私たちの気づかない側面に光を与えてくれたこれらのかたがたに深く感謝するものである。

 私たちのグループがそうであるように、日本の各地で人知れずよりよい牧会をめざして苦慮しておられる同労者に少しでもお役にたつことがあれば幸いである。

 1979年クリスマス  」

                                     (7〜9頁)

 

 今思うと、私はもうすでにこの当時から、“私たちがそれを良しとする信仰や教会では聖書的なものになかなか近づけない”という点に強い問題意識をもっていたことがわかる。けれども残念なことに、私は自分が始めたこの研究会にも行き詰まり、十年を経て退くことになってしまったのである。

 また、こんなこともあった。大阪に出てから、診察のかたわら、私はことあるごとにさまざまな教会の集会なり講演会で話す機会を得た。私は人が、その教団なり教派をどのように評価していても、自分自身の目と耳で確かめるまでは、いたずらに先入観でその働きを判断することを控えてきたから、その講演は、会員が十人にも満たない開拓の教会から大きな教団組織を有するものまで、かなり広い範囲の教会を行き交ったことになる。

 けれども困ったことに、こうした講演活動を続ければ続けるほど、私はますます、今の教会の実情や宣教の姿勢に疑問を感じるのであった。そしてそれは、日本の教会が、ただ単に、その歴史においても組織においても、はなはだ小さすぎるからということでは済まされない問題を含んでいるように思われた。いわばその宣教の方法や能力ではなくて、福音の本質的な理解という点において、何かしら引っかかりを覚えたのである。疲れて帰る夜汽車の中で、私は何度も、“はたして福音は正しく理解されているのだろうか”といぶかしく思い、また“イエスというお方は、聖書の時代と等しくはなはだ誤解されているのではないだろうか”という疑問を反芻(はんすう)したものであった。

 私の心はきっと、少しでも真実に近いものに触れることを願い、牧会や神学の立場から心の健康や人間理解に対して、精神医学とはまた別の視点から光を与えてくれる牧会者を求めていたのだと思う。

 こうした途上で書かれたのが『信仰による人間疎外』(いのちのことば社)という奇妙なタイトルの本である。その中で私は本来人を生かし、自由を得させるはずの信仰心や宗教、教会活動がかえって人間性をゆがめ、いびつなものにしてしまう危険性があることを指摘した。

 けれども、こうした発言や問題提起は内心大いなる不安と緊張を含むものであった。なぜなら、人はだれでも、決して自分の考えが正しいとは言い切れないであろうし、またそれは多くの人々がそれで良しとし、また正しいと思っているに違いない神概念や宗教心に一石を投じかねないものであったからである。

 一人の読者は、この本に関して次のような感想を寄せてくださった。

 「この本に盛られているような問題は実は今まで教会を去っていった人々が声なき声でもって語っていた事柄ではないでしょうか。これから私たち教会人が自分自身の問題として真剣に捕らえていかなければならないものと思います……」

 僣越な言い分でもって恐縮に感じるのだが、もしそういうふうに言うことが許されるなら、私の懸念は、宗教が宗教でなくなっていくこと、信仰が信仰でなくなっていくことに対する危惧であったように思われるが、残念ながら私はまだこの時点で因ってきたる問題の所在、また私たち信仰者の目の向けどころを適確に捕らえられていなかったような気がするのである。

 

b 藤木正三牧師のこと

 

 けれども光は思いがけない方向からやってきた。私は期せずして藤木牧師の本を手にすることになったからである。あれは確か十年ほど前、西日本のある大学の修養会で話して帰る新幹線の車中の出来事であったと思う。講演の後強い心の渇きを覚えるのが常である私は、見送りに来てくれた人から渡されたその大学の記念誌をパラパラとめくっていてハッとした。

そこには次のような「断想」が載せられていた。

 

   異なる期待

 信仰に政治的な力を期待する人がいます。道徳的な感化を期

待する大もいます。しかし、それは信仰に対する誤解でありま

しょう。信仰は一見それらの期待に応えているようで実は、究

極のところでは政治的には無力であり、道徳的には挫折であり、

社会的には幻滅でしかないのです。その点、信仰ははなはだし

く期待はずれなものなのです。というよりは、期待を裏切りな

がらもっと違った期待を持たねばならないことを教えるものな

のです。信仰者とは、この異なる期待を抱かされた人のことで

す。

                  (『灰色の断想』58頁)

 

   格好がつく

 お互い何事かを確信し、いろいろなことを主張し、行動して

はいますが、さてそれらが果たしてどれだけの妥当性を持って

いるのやら、考えてみれば心もとないことです。生きることを

止めるわけにもゆかず、間違いだらけのままにとにかく私ども

は生きているわけです。結局は何一つわかっていないのでしょ

う。しかし、一つ言える確かなことがあります。わからないな

りにも思いやり深く生きていると、人生というものはなんとか

格好がついてくるものだということです。愛がすべての間違い

をおおってくれるからでしょう。

                 (『灰色の断想』 114頁)

 

 私は、この二つの「断想」に何か強く心に響くものを感じた。とりわけ“信仰は、はなはだ期待はずれなもので、信仰者とは、異なる期待を抱かされた人”という一節である。もしかしたら私は、信仰に社会変革の力を期待し、また道徳的に高い倫理性を期待して歩んできていたのかもしれない。しかしこの「断想」は“信仰とはそんなものではありませんよ”と呼びかけ、同時に、信仰生活に疲れ、日本の教会の実情にも幻滅を感じていたそれまでの私を“それでいいんですよ”と認めてくれているようにも思われた。今考えてみるとこの発想は、確かに私たちキリスト者が、キリスト者として世にあらんとするとき、初めから覚悟しなければならないことのように思われる。ほかならぬ私たちの主イエス・キリストが、まさにそのようなお方だったと思われるからである。このお方ほど誤解され、幻滅を味わわれた方はないであろうから。

 そして「格好がつく」という「断想」は、私か今述べたような事情も含めて、私たちが間違いだらけのままに生き、結局何一つわからないままに生きていても、思いやり深く生きていけば、それはそれで良いのだと語ってくれているように思われた。そして何よりも私にとって驚きだったのは、このように物事を見、福音を理解できる人のその視点の新鮮さであった。

 私は大阪に戻ってただちにその本を買い求め、この著者の本を全部集めてほしいと頼んだ。そして私は『神の風景』など、藤木牧師の一連の著作に触れることになったのである。

 けれども不思議なことに、藤木牧師との交わりの道はいと近きところに用意されていた。私は、これは良い本であると自分の目で確かめると、数冊買い求めて親しい人にお分けするのを常としているのだが、ちょうどそのころ『ほんとうの生き方を求めて』(ヨルダン社)という若い人向けの本を出版した時であったので、その本の始めの引用文を書いてくださった私の所属する教会のYさんに、私はそのお礼として『神の風景』を一冊差し上げた。彼女の健やかな信仰生活の発展を願ってのことである。ところが驚いたことにYさんは、「私の母は、長い間、藤木牧師の牧会する京都御幸町教会の教会員です」と言われたのである。

 

c  心の健康と福音

 

こうして私は藤木牧師をいよいよ身近に感じ、Yさんのお母さんの紹介によって、家内といっしょに、しばしばご自宅にお伺いすることになったのである。この訪問は今日に至るまで続いているが、それは多忙と喧騒に追いまくられて生きる私たちにとって、まことに心和む静かな時間であった。

 ところでこのお交わりの中で私が確認できたことは。十年来の知己”と呼ぶべき事柄であった。すなわち先に述べた私の心の引っかかり、いうなれば私の宗教や信仰に対する問題意識は、先生がもうすでに長年取り組んでおられたことであったのである。しかももっと私を驚かせたことは、藤木牧師は“自分の言葉″をもった人であったということだった。私はかねてから、出版物にしろ礼拝説教にしろ、それが木当に日本人の心に届かないのは、私たちのレベルがまだ未消化な借り物のキリスト教で動き回っているところにあるからではないかと思っていたが、藤木牧師の姿勢は、それと真っ向から対決するもののように思われた。(事実『神の風景』にせよ、『灰色の断想』にせよ、その文面にはほとんどキリスト教用語が見当たらず、藤木牧師自身のことばで説明されている)。このことは、私にはまことに衝撃的なことであった。

 ところがこの出会いにもうひとつの偶然が重なった。それは、ここ数年、私は秋にあるところでセミナーを開催しているのだが、一人の参加者が、次のような感想を述べてくれたのである。

 「わたしが今回このセミナーに参加しましたのは、昨年の秋、このセミナーに参加した主人の変わりぶりに驚いたからです……。うちの主人は公務員ですが、長い間″うつ病″に悩まされてきました。そのため本人もまた私たち家族も大変苦しんできました。この病気がなかなか治らないからです……。

 ところが、このセミナーは特に精神医学や心の病気の人々を対象としたものでなかったようですが、主人はその講義を聴いてほんとうに人が変わり、輝いて帰って参りました。それは工藤先生が″病気だからといって何も肩身の狭い思いをする必要はない。治る病気は治したらいいけど、病気が治らないからといって絶望するほど、人間は安っぽいものではないのではないか。病んでいる中にも立派な人間の生き方があり、病んだがために見えてくる世界というものもある″というようなことをおっしゃったためらしいのです。

 主人は家に帰ってきてわたしに“オイ、病気は必ずしも治らなくたっていいんだって。工藤先生は人間治らない病気を抱えていても、生きていく道があるから自信をもてとおっしゃった”と、何か新しい道でも見つけたような喜びをもって帰ってきました。わたしは、あんなに生き生きとした主人を、長い間見たことがありませんでした。その夜、私たちは遅くまでさまざまなことを話し合いました。こんな心を交わす話し合いができたことは、長い結婚生活の中でほんとうに久々なことでした。

 わたしは長い間、妻として夫のそばにおりながら、主人が自分ひとり悶々と苦しんでいたことを初めて知りました。もちろん主人は今でもまだ病気から解放されたというわけではありません。けれども以前と違って主人には何かある種の安心感があり、ゆとりすら感じられるのです……」。

 実は、私はそのセミナーで『神の風景』をテキストに三回の講義を進めていたのである。おそらく、この方のご主人は次の一節に心打たれたのだと思う。

 

    歪みの昇華

 たとえば自意識過剰のような性格の歪みは、人も不愉快であ

りますし、自分も苦しいものです。直せるものなら直すに越し

たことはありませんが、運命的とも思えるほどにそれに傷つき、

直し得ない人もいます。その時、それを担い、伴う苦しみに耐

えて、人生を常人が及びもつかぬほどに深く見通す人がいます。

彼は居直っているのではないのです。歪んでいるとはいえ、た

った1回きりの人生を大切にしているのです。この人生愛にお

いて、歪みは昇華して、永遠をのぞきうる窓になるのでしょう

か。性格に限らず、なべて歪みを直すべきものとしか見ないの

は、謬見であります。

                  (『灰色の断想』 14頁)

 

(私がそこで述べた解釈の概要は本書の238頁に記されている)。

 

 ともあれ、私はこうした参加者の反応を得て、私か長い間テーマとしてきたこと、すなわち福音が正しく光を放ちさえすればそれはきっと心のいやしに益するところ大であろうということにようやく希望的な感触を得たのである。

 こうして私は、診察室で耳にしてきたさまざまな相談事例を、藤木牧師の視点で復元していけば、心の病気のみならず、福音の誤解が招いた不必要な重荷に苦しむ方々に益するのではないかと思い始めたのである。

 これが、共著を思い立つたいきさつである。

 

d   二人の立場

 

 今回、『灰色の断想』と『神の風景』とを改めて読んで、私は以前、一人の若い牧師が講演会の前置きで言われたことばを思い出した。「工藤先生の書かれた本を読んでいると、普通みんながそれを重荷に感じ、またマイナスの効果しかもたないと思われていることが決してそうでなくなるのを感じます」。

 彼は私の信仰に「発想の転換」を感じたようであるが、藤木牧師にも同じようなものがある。

 その一例として次のような「断想」を取り上げてみよう。

 

   迷い方の問題

 救いだけを語る宗教は人間を侮辱しています。審きだけを語

る宗教は人間を過信しています。審きと共に救いを語る宗教は

人間を甘やかしています。信仰において神が与えようとしてい

るのは救いでも審きでもないのです。それは明晰です。安住し

ようとしている足許を崩し、迷うべき本来の私の姿を自覚せし

めてくれる、明澄なる人間への洞察です。信仰の賜物は迷いが

なくなることではなくて、正しい迷い方なのです。迷いについ

てこそ語るのが信仰です。迷いについて何も語らぬような宗教

は、宗教であっても信仰ではありません。

                  (『神の風景』 155頁)

 

 ある立場の方々には、多少抵抗のある考え方かもしれないが、一見すると、ドキリとさせられる内容のことばである。それは私たちの宗教というものに対して漠然と抱いているある種の甘い幻想、あいまいさを許さないからである。″救いだけを語る宗教は人間を侮辱している、審きだけを語る宗教は人間を過信している″と冒頭にあることばの深い意味あいはともあれ、私はこれを読んだ時、こうした発想こそ宗教を宗教として本来あるべき姿に保つものではないかと直感した。なぜならば、今考えてみると、救いだけを語る宗教の侮辱や、さばきだけを語る宗教の過信、あるいは甘えの中で、信仰は人をだめにし、同時に、人は信仰をだめにしていく側面に注目したのが、そもそも『信仰による人間疎外』(いのちのことば社)を書き始めた動機であったような気がするからである。宗教は確かにそうした危険性をもっているように思われる。

 そしてまた“信仰の賜物は迷いがなくなることではなく、正しい迷い方である”という点に関して、次のようにも述べておられる。

 

  迷 い

 信仰の陥りやすい、そして致命的な誤りは、一定の神学なり

教派なり政治的態度なりに固定した確信に、それがなってしま

うことです。つまり、一つの私事に信仰をしてしまうことです。

信仰の本来は、自己執着に基づくはからいを脱却することです

から、たしかにそれは、一面私事でよいのですが、しかし他面、

私事になってはまったく意味を失うものでもあるのです。この

矛盾した性格にふさわしい信仰の姿、それは迷うということで

す。信仰は迷いを解くことのように誤解されていますが、実は、

誠実に迷いに常住することなのです。

(『灰色の断想』 141頁)

 

 これもまた、私には、人々が信仰や宗教に懐疑的、警戒的になる要因の一つを説明してくれるような気がする。人は、宗教によって硬直化され、人間が人間として生きることを危うくされる倒面か確かにあるのではないかと私は思う。そして、こうした信仰者の姿が実は人を教会から遠ざけ、信仰に対する誤解を生んでいるに違いないと思うのだが、困ったことに、自分が正統なキリスト者だと思っている熱心な信徒や教職者など、自分がつまずきの石になっていることに気づいていないことが少なくないように思われる。この点、信仰に伴う硬直化、絶対化の恐れを直感的に見抜く、未信者の素朴な感覚は非常に健全なものであると私は思う。

 ともあれこうした発想は私に“迷う”とか“悩む”とか、一見、信仰生活の妨げとなるように見える事柄は、実はその信仰生活を深め、実りあるものにするために、大変に大切なものであることを明らかにしてくれたのである。

 ところで、こうした発想は信仰生活のみならず、私たちの現実の生活にも関連のあることである。

 精神科領域で人を理解する方法の一つに、人の話を聞いて“あまり早く、また簡単に人がわかってしまってはいけない”という内容のものがある(土居健郎著『面接としての方法』医学書院)。精神医学とは、すぐれて人が人を理解することを求める学問であるが、援助者が人の話を聞いて、あまりにも早くその人のことをわかってしまったつもりになってしまっては、それ以上話は深まらない、すなわち、その人を決して理解できないというのである。実際そうである。わかったつもりになってしまっては、そこを素通りして先に進んでしまうからである。このことを防ぐためには、どうしてもこの人の話はこの辺がよくわからない、のみこめないと“不思議に思う“換言すれば”わからない“という感覚を養うことが、臨床家にとってきわめて大切である、というのがその本の骨子である。そこで私が申し上げたいことは、この発想は私たち人間が、多少なりとも神というお方を親しく、また身近に知っていくために、大切な方法の一つではないかということである。私たちキリスト者が、神を信じているといいながら多くの見落としをしてしまうのは、わかったつもりになって、信仰生活を歩んでいるからであろう。このことは、時に神に対して真摯な不信仰や疑い、反抗を経験した人のほうが、はるかに信仰的であり得るという逆説的な事実の中にも認められることである(『人を知り人を生かす』いのちのことば社、99〜101頁)。

 これらのことは次のように表現されている。

 

  無限の添削

人を試みながら徐々にその姿を現わしてくるのが、宗教的真

理でありましょう。試練にあい、誘惑にさらされ、混迷に陥り、

その中で確信していたものが崩れたり、わからなかったものが

わかってきたり、そういう手間のかかる道を通ってでなければ、

それは現われてきません。だからそれに対しては明快と性急は

禁物です。不明確さに耐えて自分の問題点に気づき、緩慢さに

耐えて自分を改めてゆく、その根気のよい自己添削こそ、それ

に対してふさわしいのです。信仰は、自分に対するこの無限の

添削でもあります。

                  (『灰色の断想』34頁)

 

 まことに神を知るのに、また人を知るのに。明快と性急″ほど恐ろしいものはない。

 以上、「迷い」ということについて例をあげたが、このようなわけで私は、信仰においても、人生においても二十年も先輩である藤木牧師の着想の中に多くの共通点を見出したのである。そして本書が生まれた。この“牧師と医師の祈り”が、いくぶんでも読者の心を自由にし、信仰生活を色彩豊かなもの、またおもしろいものとし、ひいては私たちの主イエス・キリストというお方に対する想いを深めることができれば幸いである。

 聖書の中に大変印象深い一つのことばがある。

「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)

 

1991年12月

工藤信夫

 

 

工藤信夫氏のプロフィール;

 

1945年秋田県に生まれる。弘前大学、大阪大学において精神医学を学ぶ。1980〜81年、南メソジスト大学、米べイラー大学医学部に留学。1977年より淀川キリスト教病院に勤務。同病院精神科医長を経て、1992年よりルーテル神学大学福祉学科教授。同大学「人間成長とカウンセリング研究所」所員。医学博士。

著書に「人を知り人を生かす」、「魂のカルテ」、「より良い人間関係をめざして」、「こころの風景」、「信仰による人間疎外」、「こころの光を求めて」、「牧会事例研究」1〜4、「援助の心理学」、「女性の四季」、「心で見る世界」、「医療の心」、「援助者とカウンセリング」、「ほんとうの生き方を求めて」

訳書;クラインベル「ゆたかな結婚生活をめざして」