福音はとどいていますか

第一部 命はどこでも輝く

 

灰色の断想

誠実、無欲、色でいえば真白な人、不実、貪欲、色でいえば

真黒な人、そんな人はいずれも現実にはいまぜん。いるのは、

そのどちらでもない灰色の人でありましょう。比較的白っぽい

灰色から、比較的黒っぽいのまでさまざまではありますが、と

にかく人間は、灰色において一色であります。その色分は一人

の人間においても一定ではなく、白と黒との間をゆれ勣いてい

るのであり、白といい、黒といっても、ゆれ動いている者同志

の分別に過ぎません。よくみればやはりお互いに灰色でありま

す。灰色は、明るくはありまぜんが暖かい色です。人生の色と

いうべきでありましょう。

 

 

目 次

命なりけり

納 得

父 よ

急がずに愛

命はどこででも輝く

 

 

命なりけり

自粛

今が一番良い

聖書の読み方

律法

殺すな!

神の前

神を知る

自己主張

信仰の薄さ、厚さ

教える者から忍ぶ者へ

 

 

行為

できる限り(1)

宗教的救い

命なりけり

神の子・イエス

永遠の命(1)

宗教の書

いのちの要求

生の通常を見る

悔い改め

 

 

 

自 粛

その日、堂島川の水面は初夏の午後の陽ざしに眩しいば

かりでした。エイトを漕ぐ若者達の声は、阪大病院四階

にまで聞こえました。たしか土曜日であったと思います。

OL達のさざめきが、勤めを終えた解放感を乗せて、こ

れもよく聞こえました。母の死んだ「その日」、世間は

全く明るく、無関心に日常的でありました。何らかの自

粛をしてくれるはずと思い込んでいた世間の思いがけな

い一面に、心は衝撃で真白、粛然としました。「その日」

自粛すべきは、先ずは「その日」を迎えた本人でした。

人はひとり自粛して死ぬのです。

 

 

今が一番良い

もっと別の人生を送れると思っていたのに、たとえばこ

ういった、思い込んでいた私と実際の今の私の喰い違い

が私達を苦しめます。もしそこで「今が一番良い」と言

われたら、目が覚めるような安堵を味わうでしょう。宗

教の慰めはこの手のものです。だから宗教は、社会の矛

盾に目をつむるなどと批判されたりもするのです。信じ

ない人がそう批判するのなら甘んじましょう。確かにそ

うなのですから。しかし、信じる人がそう言うのならそ

の信仰に神の稀薄を感じます。宗教は、神の濃厚の故に

が一番良い」とを納得することと違うのですか。

 

 

聖書の読み方

言葉は本来賛成するも反対するも自由なものなのですか

ら、賛成を強いるようであるならそれはもはや言葉では

ないのですから、言葉に関していえば、賛成するか反対

するかはあまり大したことではないのです。大切なこと

は聞き流さないこと、そしてその言葉を通して相手と対

話を始めること。そういう意味では、神の言葉と信じる

なら聖書も、全面的に認めねばならぬものではなく、疑

ったり反発したりしながらも読み続ければ、それで良い

のです。そういう自由な対話の継続こそ、聖書が読む者

に求めている神との対話でしょう。

 

 

律 法

律法とは何でしょうか。法律に似ていますが、はるかに

もっと内を問うおもむきがあります。道徳にも似ていま

すが、はるかにもっと高いところを見るおもむきがあり

ます。それは、高いところを見ながら生きていることを

内に問うてゆく高度の反省、といったらよいでしょうか。

高度であるというのは、その反省が、生きていることが

生かされていることであることに思い至るまで、その内

への問いかけを止めないということです。つまり、生き

ていることが恵みであるという事実に気付くまで人間を

安心させない、それが律法です。

 

 

殺すな!

相手が先ず頭を下げたら許そう、それが筋だ、こちらに

は落度はないのだから、そう思うことはよくあります。

しかし、相手の出方をじっと待つ心には、やがて殺意と

なる芽が潜むのです。また、正しいと思ったら徹底的に

主張する、それが筋だ、途中でほこを収めるのは妥協だ、

そう思うこともよくあります。しかし、徹底を求める心

にも、やがて殺意となる芽が潜むのです。ですから、先

ずは自分の方から手を差し伸べ、そして、不徹底でも折

り合おうとするのでなければ、人はそこで、殺人を始め

ていると知らねばなりません。

 

 

神の前

人の罪だけを見ている時は、私たちはその人を裁いてい

ます。そして、その人の前に立っています。自分にも同

じ罪があると思うに至った時は、私たちは反省していま

す。そして、自分の前に立っています。人の罪より自分

の罪の方が大きいと思うに至った時は、私たちは罪その

ものを見ています。そして、神の前に立っています。そ

の際自分の罪が人のよりも小さく見えたり、同じ程度の

ものに見えている間は、まだ神の前に立ってはいないと

注意しましょう。神の前とは、自分の罪が人の罪より

ず大きく見えるところですから。

 

 

神を知る

神は隠れた所におられると言います。隠れた所とは、人

の目から隠れた心の中のことでしょうか。しかし、そこ

も人の目から隠れているだけで自分の目からは隠れてい

ません。では自分の目からも隠れた所はどこでしょう。

それは、人はどこから来てどこへ行くのか、という存在

の不思議さです。これは、誰の目にも隠れています。そ

して、そこに神がおられるのですから、その不思議さを

思いつつ、生かされてあるものらしく生きるなら、たと

い神に就て知るところが何もなくても、人は十分に神を

知っているといってよいのです。

 

 

自己主張

清いとはどういうことでしょう。邪念のないこと、呟か

ないこと、いさぎよいこと、恥かしさを知っていること、

道理を弁えていること、謙虚であること、迷いを去って

いること、遠くを見つめていること、さまざま考えられ

ますが、それらに共通していることは、自分を主張しよ

うとする思いがそこにないことです。思えば、自己主張

をするということが積極的な生き方として、不当に高く

評価され出して久しくなります。そして、清さが生きる

上での真剣な課題にならなくなって、これ又久しくなり

ます。私達は汚くなりました。

 

 

信仰の薄さ、厚さ

信仰が薄いとはどういうことなのでしょう。信じ抜けな

い忍耐のなさでしょうか。熱したり冷めたりする気まぐ

れのことでしょうか。それなら忍耐強く只管神の力を待

ち望めば、信仰が厚いということになるでしょうが、そ

うではないのです。信仰の薄さは、神に力を期待するこ

と自体にあります。そういう期待には、自分の願いの成

就のために神の力を利用しようとする思いが必ず潜むか

らです。厚い信仰は神に力を期待しません、平安を期待

します。如何なる時にも、そこに既に用意されている神

の平安を求め、それを喜ぼうとします。

 

 

教える者から忍ぶ者へ

間違っておればそれを教えてあげるのが親切ですが、そ

の場合相手の間違いに苛立ち、自分との違いに耐えられ

ず、自分の考えに相手を従わせて満足しようとする心に

走り易いものです。しかし、教えることが本当に相手の

為なら、そこで満足するのは相手であって自分であって

はならない筈ですから、自分の満足を求めるような心が

いささかでもあるなら、それはお節介だと自戒しましょ

う。お互い間違いながら生きているのです。いちいち間

違いを取り上げて教えるよりは、それを忍ぶ者となるよ

うに自分をこそ教えたいものです。

 

 

行 為

他に道が無かったわけではありません。その道を選ぶこ

ともできたのです。むしろ選びたかったのです。しかし

結局それを選ばず、この道を選んだのです。それである

のに、それは心ならずも選んだのだ、本当の私はそうい

う行為をした私とは別なのだ、など私達はよく思うので

す。しかし、これは正直ではありません。たとえその選

択が、省みて愚かな打算によるものであるとしても、そ

の場合にそういう行為をしか私以外に私はないのです。

行為は、いくら不満でも、もはや消すことはできません。

逆にそれが私だと説得してきます。

 

 

できる限り(1)

私達は結局できる限りのことしかできません。不満足な

ことですが、完全を自惚れるよりはましですし、しない

よりもましとせねばなりません。尤もそれを口実に怠け

ないようにしたいものです。できなかったことができる

ようになる時があるのですから、以前の程度に満足しな

いようにしましょう。逆に前にできたことができなくな

る時もありますが、無理することはないのです。「でき

る限り」はその時その時変わるものです。それは、「今」

に対する誠実であり、一日の苦労は一日だけで十分で

ある」の同義語といってよいでしょう。

 

 

宗教的救い

苦しい状態からの解放、それは確かに救いといってよい

のですが、宗教が与えようとする救いは、それではない

のです。宗教的救いは、苦しい状態をこのままで良いと

受け取れることです。従って、それは諦めに似ており、

よくそう批判されますが、違います。諦めは、その苦し

い状態に今自分の生きるべき場所を見出す目のないまま

に耐えているのに対し、その目を持って耐えているのが

宗教的救いだからです。この目のあるなしは紙一重です

が、この目の故に宗教的救いには、諦めにはないいさぎ

よさがあり、何よりも命の充実感があります。

 

 

命なりけり

神は宇宙の原理といったものではなく、私たちに生命を

与えて下さる生きたかただと言われます。しかし、表現

し得ないのが神ですから、そういう区別は実はそれ程大

切なこととは思えません。むしろ、与えられている生命

への感動こそ大切でしょう。その感動さえあれば、たと

ものとして表現しても構わないではありませんか。信

仰で問われるのは感動です。命の無明を迷い抜く情熱で

す。詩です。

 年たけて 又越ゆべしと 思ひきや

 命なりけり さやの中山          (西行)

 

 

神の子・イエス

イエスは神の子と呼ばれます。もちろん神の生んだ子と

卜う意味でも、神と人との間に生まれた子という意味で

もありません。イエスはひとりの人間です。しかし、聖

書を虚心に読む時、イエスという人が自分のうちに贈ら

れたいのちに身をあけ渡し、一切のはからいを去って、

そのいのちのままに生き、動き、在った見事さに圧倒さ

れます。イエスには、これぞいのちと思わしめるような、

曇りのない動きがありますJイエスにはいのちが透けて

見えます。神が透けて見えます、ですから神の子と呼ば

れるのです。それ以外ではありません。

 

 

永遠の命(1)

永遠の命、本当にあるのならあずかりたいものです。し

かし、あるのかないのかよくわかりません。わかってい

るのは、私のいのちは生かされているもの、だから生か

されるままに生きるのが生の本来だということだけです。

そして本来的なものは生死を越え、その意味で永遠です

から、永遠の命があるなら、その内容はこの本来性のこ

とではないかと思うのです。永遠の命とは、本来の姿で

ある時の生の落着きのことでしょう。それは永久に生き

ることではなく、異議を立てずに今を生きること、今と

の和解、存在との和解です。

 

 

宗教の書

童話は子供向きにやさしく語られた話ではありません。

それは童心で語られた話です。童心とは無邪気とか、純

真とかいった汚れない心のことではなく、生かされてい

ることに感謝している心のことです。「人も、動物も、

自然も、全て共通の命を生き合っている生かされている

もの同士」であることに気付き、その事実に委ねて落着

いている心です。そういう意味で童心は宗教の心に通じ、

宗教の書は本質的に皆童話なのです。それらは読者の心

を、生かされていることへの感謝に落ち着かせようとす

る点において共通しています。

 

 

いのちの要求

所詮は私の好みであり、判断であり、信念なのです。ど

うしても通さねばならぬものではないのです。結局はど

うでもよいこと、と心がけましょう。昨日はもう過ぎま

した。明日は果たして来るのか、生きているのは今日一

日のことなのです、一日の苦労をしっかりしよう、と心

がけましょう。人を愛することができたら、助けること

ができたら、しかし、なかなかそうはゆかないものです。

せめて目の前にいる人に常ににっこり、そう心がけまし

ょう。この三つを心がけて諦めないこと、いのちが求め

てくるのはそういうことでしょう。

 

 

生の通常を見る

病気になれば癒されることを誰しも願いますが、癒され

ない病気もありますし、癒されたところで結局は死ぬの

ですから、癒しは究極的解決とは言えません。究極的解

決は、病気や死を拒むのではなくて受容する人生態度を

確立することにしかありません。そういう態度は消極的

な諦念と見なされ勝ちですが、私達は与えられた命を受

容して生きているのですから、むしろそれは本来に目覚

めた態度と言うべきでしょう。そう考えるのが宗教であ

り、宗教的には、癒しは病気の治療ではなく、病気の中

に生の通常を見ることなのです。

 

 

悔い改め

信仰を「持つ」といいます。何と私達は持つことが好き

なのでしょう。富を持ち、名誉を持ち、地位を持ち、そ

して遂に神をも持ち、そして信仰を持つたというのです。

しかし、人間に持たれた神は、人間に捨てられる神であ

り、人間に利用される神でもありましょう。それはもは

や神ではありますまい、信仰でもありますまい。生きる

上で自明のこととされている「持つ」という構えを問い

ただすことなしには、真の信仰の世界は開かれないので

す。そして、この「持つ」を根本的に問いただすこと、

それを宗教用語で悔い改めといいます。

 

 

納 得

納得

偽善

完全な人

低い真理 高い真理

星の手落ちか?

人生への礼儀

生へのセンス

わからない者同士

天国と地獄

人の筋 神の

 

 

 

マリア

悔い改めの時

神の子

イエスの関心

生きている者の神

復活(1)

信仰と美

信仰の本来

あらねばならぬ

弱いものとして

 

 

納 得

相手を越えるということは、相手以上になるということ

ではないのです。そういう以上とか以下とかといった対

立を越えることです。つまり、相手を包み容れてしまう

こと、相手の方から言えば、包み容れられている事実に

気付いてそれに納得するより他に、出会いようがない在

り方のことです。宗教は人間を越えたものとの出会いで

すから、信仰の本質は従って、納得でなくてはなります

まい。理論的に信仰を説明できないことは別に恥ではあ

りませんが、省みて納得して味わう平安が無いならば、

信仰者は深く恥じねばなりません。

 

 

偽 善

本心ではないのに善いことをしているかのように装うこ

とを偽善といいますが、では本心をそのままに出せば良

いのかと言えば、そうでもありますまい。私達の本心は

そのまま出したら大変なことになりかねない代物です。

問題は本心を装うことにあるのではなく、本心に対する

甘さにあります。本心の中に潜む課題に気付いて、それ

と戦おうとしない甘さにあります。その甘さのある限り、

たとい装わなくとも偽善でしょう。偽善の根はこの自分

への甘さにあるのであって、装うことにはないのです。

装うこと自体は人間の作法です。

 

 

完全な人

人間にとって完全とはどういう状態なのでしょう。欠点

のないことと考えるなら、それは方向を誤っていると言

わねばなりません。人間は生かされている受身のものな

のですから、完全は受身の方向に求めるべきで、欠点の

無い方向に求めるべきではないからです。でなければ完

全は、結局神の如くになることとなり、それは神の完全

ではあっても、人の完全でなくなります。完全な人とは

欠点のない人ではありません。それは受身において徹底

する人、つまり、相手のあることを全ての場面に於て認

めて、自分を相対化できる人です。

 

 

低い真理高い真理

理屈は一番低い真理です」(八木重吉)、その通りです。

しかし、理屈を求めようとする誘惑には抗し切れないも

のがあります。何故に人は生きるのか、その理屈を求め

て求め切れず、しかもなお、徒労に終わることを承知の

上でその求めを止めようとしないものが、私達にはあり

ます。生の慟哭といったらよいでしょうか。とはいえ矢

張り、理屈は一番低い真理といわねばなりますまい、生

の名状し難さに応じるものでないからです。その名状し

難さに応じるもの、それは祈りをおいて他にありません。

祈りは一番高い真理です。

 

 

星の手落ちか?

クリスマスを告げた星に導びかれてエルサレムに来た東

の博士たちは、「イエスはどこにおられますか」と尋ね

たと聖書は伝えています。ということは、星はイエスキ

リストの誕生のは告げたがその場所は告げなかったと

いうことです。これは星の手落ちでしょうか。そうでは

ありません。それは、人生は本質的にの問題であって

場所の問題ではないということです。「今」という

いかに生きるかで決まるのが人生だ、ということです。

星かげはそのさやけさで、見え難い「今」の大切さを見

えるようにしてくれたのです。

 

 

人生への礼儀

人生は思い通りには行かないものです。そういう場合、

自分の歩むべき道から逸れたことのように思って、仲々

それを認めたくないものです。しかし、実は思い通りに

行かないところこそ生きるべく定められていた道であっ

たのであり、予め心に画いていたことの方が勝手な思い

込みに過ぎなかった、と考えるのが人生への礼というも

のでしょう。思い通りでない場合でも呟かずに生きる、

このことを措いて他に人生に対して敬意を表する道はな

いからです。を引き受け、そのになり切る、これは

人生に対する最低の礼儀です。

 

 

生へのセンス

出来ることはしたいと思います、又してもよいと思いま

す。しかし、出来るけれどもしてはいけないことがある

のは事実で、出来るからといって手放しに何もかも許さ

れているとは、誰も思わないでしょう。では、人間を許

さないそのような限界はどこにあるのでしょう。どこに

もありません。それはただ、その限界の手前で止まるほ

うがそれを乗り越えて生きるよりも美しい、或いは折目

正しいと感じるセンスとしてあるだけです。客観的に実

在するかのように限界を捜すのは愚かです。生は美醜の

ことであり、理非のことではありません。

 

 

わからない者同士

人と人とが交わってゆく上で大切なことは何でしょう。

相手を理解すること、思い遣ること、迷惑をかけないこ

と、お節介をしないことなどみな大切です。しかし、そ

れらの前提になることがあります。人と人とは全く違う

と飲み込むことです。人と人とは理解し合えない程に違

うわからない者同士、と飲み込むことです。一種の諦め

ではあります。しかし、そう飲み込み、その違いに耐え

ることでしか、所詮人間関係は成り立たないではありま

せんか。だから、それは諦めというよりは、人間の奥行

きに対する敬意と考えてよいと思います。

 

 

天国と地獄

どうしてこうなのかと呟きたくなるような違いが、人と

人との間にはあります。比べるなと言われてもそうはゆ

かない程にそれは違うのです。不平を鳴らすのを一概に

非難することはできません。しかし、この「違う」現実

が、変わることはあっても結局は無くならないことは指

摘されるべきでしょう。人には、生かされているという

ことを措いて、「同じ」ということは無いからです。「違

う」現実の底にこの「同じ」現実を見得るなら、それが

信仰の与える恵みとしての天国です。それを見得る迄は

人は憎悪の地獄を味わうでしょう。

 

 

人の筋 神の筋

筋を通して語ることは、他の場合同様、信仰の場合にも

求められます。独善的であってはなりますまい。しかし、

筋が通っておればそれで良いわけではないのです。その

意味は、言行一致の問題、相手の立場への配慮の問題、

足らざる点への謙遜の問題などが、まだそこには残って

いるからということではなくて、人の筋より神の筋が通

っているか否か、つまり、神の筋が通って人が敗北して

いるか否か、その問題がなお残るからです。神が勝利し

人が敗北していないような、そんな信仰の言葉は、たと

い筋が通っていても、嘘です。

 

 

マリア

気が変になっていると噂されたイエスをマリアは取り押

さえようとした、と聖書は伝えています。イエスの誕生

に際して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、

この身になりますように」と言い、更に「マリアの賛

歌」をも歌ったあのマリアは、一体どこへ行ってしまっ

たのでしょう。どちらのマリアが本当なのでしょう。ど

ちらも本当なのです。信仰は迷いの所作なのですから。

それにしても、イエスを取り押さえようとしたマリアの

姿の、なんと人間の自然な性向にそのままであることで

しょう。慰められるではありませんか。

 

 

悔い改めの時

いつやっても間に合うと思っていると手後れになる場合

があるわけで、何事にも後の祭りということはあるもの

です。一方もう間に合わないと思っていると思いがけな

い道が開けて何とかなる場合もあり、後があるというこ

ともこれまた何事にも言えることです。ところが後の祭

りになることはなくしかも後があるとも言えないことが

あるのです。それは悔い改めです。悔い改めとは、どん

なに遅れても間に合いますが今しないと間に合わない、

そういうことなのです。後の祭りになることがなくしか

も後がない、つまり今、それが悔い改めの時です。

 

 

神の子

生きているということは、私の願ったことではなくて与

えられたことであり、取り去られるまでは兎に角負うて

行かねばならぬことです。従ってそれは、その意味や価

値がよく分からなくても、あだや疎かにしてはならない

と受けとめ、一日一日を大切にするより他に手のないこ

とです。そして、それだけのことなのです。それが生き

るということの実体であり、それ以外は付けたしです。

そういう洞察を与える知恵が信仰というものでしょう。

ですから、そのように単純に生きる人は、神を知らなく

ても神の子といってよいのです。

 

 

イエスの関心

「野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい」

とイエスは言われました。野の花が誰に()でられるでな

く、手入れして貰うでなく、踏みつけられるかも知れな

いままに、美しく健気に咲いているそのはかなさに、無

償で与えられて無償に生きるいのちのなまの姿を、イエ

スは見られたのでしょう。そして、それに感動していの

ちそのものに思いを凝らされたところに、イエスの宗教

性の核心があります。さまざぎな通念や欲望のしがらみ

からいのちをなまの姿に生き返らせる、イエスの関心は

この一事に注がれていると思われます。

 

 

生きている者の神

生きているということは私の意思とか、願いとかに何の

関係もなしに始まり、そして終わることです。しかも、

何故生きているのか、何のために生きているのか、いろ

いろ言われはしますが、結局は分からないのです。確か

なのは生かされているということだけ、それ以外に確か

なことは何もないのです。この人間の究極の現実に思い

凝らして生きる、それが神を信じるということの内容で

しょう。信仰とは、生かされて在るものとして鎮まるこ

とに他なりません。聖書が「神は生きている者の神であ

る」というのは、その意味です。

 

 

復 活(1)

生きることが招く思い煩い、不安、迷い、こだわり、ね

たみ、焦り、それらがいつしかおりとなって、透明でな

い、素直でないものが私たちにはあります。しかし、そ

の無明の中にも人間としてのなまのものが、再び耳傾け

られることを願って語り続けています。お前は愚かだ、

と。またささやきます。お前はそれでよいのだ、と。そ

して更に、逃げないでやれるだけやればよいのだ、と迫

ってきます。ですからこのなまのいのちのささやきに応

える時、事態はそのままにいのちはぐくまれるもう一つ

の現実が始まりましょう。復活です。

 

 

信仰と美

信仰の中心を十字架と復活に置いているキリスト教が訴

えようとしていることは何なのでしょう。自己犠牲的に

生きよと言うことでしょうか。そうではありません。そ

れは、自己犠牲の中にもなお、空しくならない自分があ

るということ、そして、その自分を問題にし続けること

に人間としての美しい生き方があるということです。

自身を重荷として負うことの美を示して、万事を自分

中心に計算づくでしか生きていないことの汚さに気付か

しめることです。「美を問題にしてこそ人間である」と

いうことを訴えるためです。

 

 

信仰の本来

復活のイエスに出会って頂いたのに、拝しつつも疑った

弟子たち。しかし、イエスはその彼らに近づいて、世の

終わりまで共にいることを約束されました。これは何を

語っているのでしょう。それは、そういう中途半端な状

態こそ、神が共にいて下さる状態だということです。拝

しつつ疑う、これ以上に信仰深くある必要はないという

こと、この程度が信仰の本来の姿だということです。疑

うことは信仰の健やかさの印でこそあれ、不信仰の印で

はないのです。疑うことを知らない信仰には共通して独

善的な陶酔があるではありませんか。

 

 

あらねばならぬ

欠点のない人はいません。そして、容易に直らないのが

欠点です。直らないからといって、自分を責めても、人

を責めても疲れるだけです。こうあらねばならぬと自分

に注文をつけて欠点のない自分を追い求める前に、欠点

のある自分をそのままに受け入れましょう。こうあらね

ばならぬと相手に注文をつけて欠点のない相手を期待す

る前に、欠点のある相手をそのままに受け入れましょう。

あらねばならぬと構えるのは真面目かも知れませんが、

人生を勘違いしています。人生はそのまま受け入れて良

いように既にゆるされたものです。

 

 

弱いものとして

力あるもの、知恵あるもの、地位あるもの、金あるもの、

要するに強いものとして生きたいと誰しも願います。そ

れはそれで良いのですが、それだけでは「人間はどこか

ら来て、どこへ行くのか」といった人間存在の土台につ

いての問いには答えられないでしょう。もちろんその問

いに無関心に現実の幸福だけで十分、というのもひとつ

の生き方ですが、土台を欠いているといわねばなります

まい。土台を願うならば、土台なしには生き得ないもの、

つまり弱いものとして生きることを願いとしましょう。

これは熟練を要することです。

 

 

 

父 よ

真理

構えの点検

宗教の限界

もうひとつ、救いを!

悪魔に抗するために

食事と睡眠

ほめる

共に生きる

人生の事実

大いに生きる

あの時以来

 

 

 

真の平安

宗教体験

人生の懐

天のこと 地のこと

父よ

できる限り(2)

感謝と信仰

命の本来

爽快

 

 

真 理

問題に悩む私達に解決を与えてくれるのが真理であると

するなら、真理は答えであるといってもよいでしょう。

しかし、実はその反対であるのが真理なのです。真理は、

問題はないと安心している私達を揺さぶって問題の所在

を示してくれるものなのです。答えではなく、問いです。

ですから真理に対しては、答えを探し求めるような態度

は相応しくありません。迫ってくる問いに身をさらしつ

つ、自分自身の中に答えを求めてゆくような態度こそ相

応しいのです。態度を誤ると、真理は私達を変えてはく

れても、新しくはしてくれません。

 

 

構えの点検

世の中には、どうにかなることとどうにもならないこと

があります。そして、どうにもならないことにどう対

するかに、その人の人生に対する構えが表れるものです。

どうにもならないことに抵抗するか、耐えるか、避ける

か、諦めるか、要するにそれを拒み続けるのか、それと

もそれを受け容れ、引き受け、自分の生きる道をそこに

認めるのか、前者は人生を私物として固執する構えであ

り、後者は人生を預かり物として返上する構えです。ど

うにもならないことは稀ですけれども、構えの点検だけ

は日頃からしておきたいものです。

 

 

宗教の限界

どうにかなることをどうしようともしない、怠慢です。

どうにかなることをどうにかしようとする、当然です。

どうにもならないことをどうにかしようとする、無理で

す。どうにもならないことをどうにもならないとする、

諦めです。どうにもならないことにそれでも寄り添って

くれる、慰めです。そして宗教の本質はこれです。です

から、宗教には慰めはあっても、事態を改善する力は本

質的にありません。それを期待するのは宗教に対する誤

解です。宗教の救いは生活の面から見れば、十分なもの

では本来あり得ないと心得ましょう。

 

 

もうひとつ、救いを!

清い人格は人を高めます。美しい行為は人を感動させま

す。正しい態度は人を反省させます。ではそのように生

き得ない、それどころか罪深い人の一生は、一体どうい

う意味があるのでしょう。別に何もなく、ただ生き損ね

ただけですが、しかし、その彼もそのままの姿でひとつ

の大切なことを語っていることを見落してはなりません。

彼は、人間は救いを求めるべきものであることを語って

います。清さ、美しさ、正しさを求めるだけでは、人間

は十分ではないのです。そう思うのは人間の傲慢、もう

ひとつ、救いを求めてこそ、人間は人間です。

 

 

悪魔に抗するために

私達が人間として醜くなってゆくのは、そして人間関係

が歪んでゆくのは、一つには自分の身勝手さに気付いて

いないからであり、二つには自分のありのままを認めよ

うとしないからであり、三つには自分の物差しで人を(さば)

くからです。いずれも心の小さい傾きに過ぎませんが、

聖書が悪魔の働きとして描いているほどに、それらは私

達を支配し苦しめています。ですからそれに抗するため

にその逆を祈りとしましょう。「いつもにっこり笑うこ

と」「自分の醜さを恥じないこと」「人の身になって思う

こと」(真山美保「泥かぶら」)

 

 

食事と睡眠

食事や睡眠の時間を節して働きに働き、学びに学ぶ、そ

れを勤勉な生き方と考えますが果たしてそうでしょうか。

生きてゆく上で最も大切な食事と睡眠を軽んじるような

忙しさは、誤りではないでしょうか。それは健康を損な

うからとか、人間的でないからとかではなくて、そうい

う忙しさは、生きることを根こそぎ自分のものにしよう

とする傲慢だからです。ゆっくり食べ、安らかに眠るよ

うにしましょう。それは怠慢ではありません。生きるこ

とを、自分のものから自分の手の及ばないその本来の姿

に手放してゆこうとする修練なのです。

 

 

ほめる

私たちはけなすことはあっても、ほめることはあまりし

ません。もちろんほめるに値する人がいないわけではな

いのですが、その人をその人として見るよりも、先入観

で批判的に私達は見がちですので、そういうことになる

のでしょう。お互い生きる重荷にあえぐ者同士です。重

荷にひしげた姿も、その人の身になって見れば、けなす

よりも「しっかり!」と励ましたくなりましょう。それ

がほめるに通じます。ほめるとは人の価値を賛えること

ではなくて、価値に無関係にその人をその人として受け

入れてゆくこと、それは一種の無私の行です。

 

 

共に生きる

「共に生きる」とよく言われます。本来一人では生きる

ことのできない私達にとって当たり前のことですのに、

殊更のこととしてそれが言われるのは、いかに私達が差

別的にしか生きていないかを示しています。しかし。

 「共に生きる」という言い方にも一種の気負いがあり、

優者の臭いがします。むしろ、自分を劣者として「相手

から学ぶ」生き方を心掛けたいと思います。自分を劣者

にして置かないといつ優者に変わるかわからないのが私

達ですから。「共に生きる」は「相手から学ぶ」の同義

語と心得て使わないと危険な言葉です。

 

 

人生の事実

私達は人生を考えたり、理解しようとしたりしているう

ちに、人生の事実から次第に遠去かってゆくものです。

その離れてしまった事実の中で一番再確認せねばならな

いのは、いかに多くの人々に許して貰い、堪えて貰って

生きているかという優しい事実です。確かに人生は苦し

く厳しいのですが、そこにはより深い事実として受容し

てくれる優しさがあります。なかなか見えないこの事実

に思いを凝らし、それに立って生きようとするいとなみ、

それが宗教というものでしょう。宗教の本心は、人生の

事実にそのままとなることです。

 

 

大いに生きる

 「一日の苦労はその日一日だけで十分である」、これは

其の日暮しを勧めているのではありません。感動をもっ

て生きることの勧めです。一体生の真相、死の真姿は考

えに考えても不可思議なものです。どこから来てどこへ

行くのか分からないのがいのちです。ですからそれを分

かってしまおうとせずに、その不思議に感動して生きて

こそ、いのちの本来に即していましょう。そして、一日

の苦労とは、この感動に生きることにほかなりません。

一日に成り切っていのちに燃えようとする祈りにほかな

りません。それは大いに生きるということです。

 

 

あの時以来

人生には、以後に深く影響を与えるような「あの時以

来」ともいうべきがあります。それは必ずしも劇的な

事件ではなく、小さいことの場合もあり、また必ずしも

不幸な事件ではなく、幸せである場合もあり、人や書物

との出会いであったり、災害や病であったりもしましょ

う。若い時にくるかも知れません。晩年にくるかも知れ

ません。いずれにしても、人間としての自分を取り戻す

ように迫ってくる時です。そういうは、誰にも必ずあ

ります。それに気付いて、以後を自分を噛み締めながら

生きる、その丁寧さが人間を救います。

 

 

真の平安

悩みなく、苦しみなく平安であることは誰しも望みます。

しかし、そういう苦悩のない状態は遂にこないでしょう

から、平安を望むとすれば、苦悩の外にではなくて、そ

の内にということになります。平安とは結局、苦悩の中

のことです。苦悩の中に留り続けて待つ人に、ふと与え

られる微笑のようにくるのが真の平安です。決して長く

は続かない、淡いものです。しかし、それは思い出され

ては人を再び苦悩の中に留り続けしめるだけの力を持フ

ているのです。そういう思い出し得る平安を持つのは、

信仰者の一つの特権であります。

 

 

宗教体験

宗教体験といえば、不思議で特別な体験を考えるでしょ

う。確かにそうなのですが、それが特別なのは日常性を

破るという意味においてであって、特別の人に限るとい

う意味においてではないのです。宗教は全ての人の救い

ですから、その体験は特別の才能などを必要としない全

ての人に開かれたものである筈です。それは自分という

ものを見た、正確に言えば見せられた、その自分の正体

の自覚のことです。日常性に安住する私達には痛い体験

です。そしてこの痛さにおいてそれは宗教的なのであり、

不思議さにおいてではありません。

 

 

人生の懐

いつ迄も迷っていてはらちがあきませんから、適当なと

ころで決断せねばなりません。しかし、決断することで

迷うべき問題が切り捨てられてしまうわけで、その意味

では決断というものはみな、程度の差こそあれ偽りなの

です。偽りなく生きようとすれば、人は迷い続けねばな

りますまい。しかし、それでは生き方としては不器用に

過ぎ、人間失格となりましょう。もっとも人生には、こ

の不器用さを偽りがないからというそれだけの理由で認

めて呉れる懐の深い一面があります。そしてそこが神の

眼差しの届いている所なのです。

 

 

天のこと 地のこと

宗教は人間を越えた神の世界、つまり天のことを語って

いると考え勝ちですが、実際は神に語りかけられている

人間の世界、つまり地のことを語っているのです。です

から理路整然と天のことを語る類いの言葉には注意しま

しょう。所詮それは神の働きを人間の思弁に閉じ込めた

だけのことで、魂には係わりありません。むしろしどろ

もどろに自分を語る類いの言葉に、その人の魂を揺さぶ

っている神の働きを聞き取りましょう。誤りは無いが魂

もないような天のことよりも、誤りはあるが魂のある

のことの方が、遥かに宗教的です。

 

 

父 よ

信じる者は苦悩から救われ、罪から救われると言われま

す。しかし、信じても苦悩は果てしなく続き、罪も繰り

返し犯し続けているではありませんか。信じる者に与え

られる救いとは一体何なのでしょう。それは、苦悩や罪

から解放されることではなく、あるいは、そういうもの

に耐えて立派に生き得るように強くされることでもなく、

苦悩や罪の中でそれらがどうでもよいこととなる程に、

生かされて今あるという事実がよく見え、そしてその事

実に単純になれることです。イエスが「父よ」と単純に

神を呼んだことはこのことを示します。

 

 

できる限り(2)

できもしないことをできるかのように言うのは、熱心そ

うに見えて、できる程度にそのレベルを下げていること

です。できる限りをやることこそできないことへの誠実

でしょう。できなくても焦ることなく、できる限りを心

掛けましょう。その際注意したいことは、他人のできる

限りに迷わされないこと、人は人、自分は自分、自分の

出来る限りを果たしたいものです。それと、できる限り

を口実に怠けないこと、以前できなかったことができた

り、できたことができなくなったりするものです。今の

できる限りを新鮮に果たしたいものです。

 

 

感謝と信仰

嬉しそうにしている人がいます。よかったと思います。

悲しそうにしている人がいます。同情を禁じえません。

怒っている人がいます。その気持ちよくわかります。ど

れもこれも尤もなのです。しかし、喜びにしろ悲しみに

しろ怒りにしろ、それだけでよいとはいえません。私達

は生かされて生きているのですから、人生に対する基本

的態度として感謝が求められているからです。喜びも悲

しみも怒りも、全ては感謝の念の上に立ってのことでな

くてはなりますまい。そして、感謝が人生態度の基本と

して不動であることが、信仰なのです。

 

 

命の本来

好きなことをやったらよい、後悔しないようにしたいこ

とをやったらよい、納得できることをやったらよい、こ

ういう類いのことがよく言われます。そして、そのよう

に生きてうまく行き、幸せになる人は少なからずいます。

しかし、そういう自分を立てた生き方には、与えられた

命を生かされて生きるという命の本来への配慮において、

欠けるところがあるとは言えないでしょうか。自分を立

てた生き方には、幸福はあるかも知れませんが命本来の

充実は押し並べて稀薄です。ですからそこにはどうして

も永遠が感じられません。

 

 

爽 快

言いたいことが無いわけではありません。主張し得るこ

とは十分にあるのです。でもそれを言って弁明したり、

説得したりして何になりましょう。相手を無視している

わけではないのです。我慢しているわけでも、諦めてい

るわけでもないのです。もちろん言ったって少しも構わ

ないのです。ただ言いたいことを言わずには済ませられ

ない自分の心に、否定し切れない執われを感じるから、

そのままにして置くだけの話です。そのままにして置く

ことで味わう自分を放した爽快さを生きたいからなので

す。生命はこの爽快さを願っています。

 

 

 

急がずに愛

元気を出して

死は眠りである

復活(2)

永遠の命(2)

宗教-裸の命の復権

十字架の意味

急がずに愛

神は愛である

根のある人生

神の香り

 

 

 

納得としての信仰

命を求める

不信仰

決め付けないこと

善意

教会誕生

自分を作る職人

反省

いのちの常態

決め付ける

 

元気を出して

自分なりに考えて決断して生きている積もりですが、結

局何かに操られているような展開をするのが私達の人生

ではないでしょうか。定められてしまっているような不

公平さが人生にはあります。それを神の摂理であるとか、

因縁であるとか、運命であるとかさまざまに言いますが、

どうでしょうか。言えることは、それが与えられたもの

で私には責任がないということ。だからくよくよしない

で元気を出して生きましょう。そうすれば一様に必ず輝

くのも人生です。人生は公平なのです。信仰の目には不

公平の中にこの公平が見えます。

 

 

死は眠りである

眠りはどんなに深く長くてもいずれは覚めるものですか

ら、命を究極的に限る力を持ちません。ですから「死は

眠りである」といわれる時、それは確かに、死がいずれ

は永遠の命に覚めるものであることを語っているのです

けれども、反面、命を究極的に限る力が死にはないこと

をも語っていると解すべきです。そういう究極の力は死

とは別にあること、そしてその力の前にこそ敬虔である

べきことを、それは語っているのです。単に死の恐怖を

和らげる慰めの言葉と解するには、それはあまりにも重

い意味を持っている言葉です。

 

 

復活(2)

命は頂きものです。本来自分の思い通りに生きてよいも

のではないのです。しかしどうしても思い通りに生きた

くて、命それ自身が持っている力に気付かないままに、

思い通りにならない命を思い通りにしようと、私達は不

毛の心労に疲れています。このことに気付いて思い通り

には生きるまいと断念する時、生きるということはそこ

で頂きものとしての本来の姿に復活します。ですから、

人が生きるということはどれだけのことをしたかではな

くて、どれだけ自分の思い通りに敢えて生きなかったか

ではかられるものと心得ましょう。

 

 

永遠の命(2)

永遠の命とは、死後に与えられる将来的な命ではありま

せん。既に与えられて今私を生かしている現実的な命で

す。ただしそれは、私達が自分中心に生きているために

すっかり無視されており、私達がそういう人生態度を変

えて日々に死ぬ時にのみ、与えられてある命としての本

来に甦ってくる命なのです。従って現実的には、それは

死を経ての命となっています。命のこの実情を見抜いて

与えられてあるままにこの命を死に於て生きたのがイエ

ス・キリストでした。「私はよみがえりであり、命であ

る」とは、このことの告白です。

 

 

宗教――裸の命の復権

私達は仕事や地位や財産で、また思想や人生観や趣味な

どで自分を装うて生きています。装いなしに生きられま

せんし、装いを競い合って生きるのも、命の自然な姿で

す。しかし、その命が他方、与えられ、支えられ、そし

て今夜のうちにも取り去られるかも知れないものである

ことも事実です。そういう言わば命の裸の姿を忘れては

ならないのに、私達はこの姿に平素殆ど無頓着なのです。

それで命は、それを気付かせようと働きかけてきます。

この裸の命自体の復権を求める働きこそ、宗教といわれ

るものの本質です。

 

 

十字架の意味

十字架は、イエスが人間の救いのためにその罪を負われ

た身代わりの死と言われます。しかし、そう言い得るの

は、イエスがひとりびとりをこよなく愛して、共に在ろ

うとされた生き方の延長線上にそれが立っているからで

す。でなければ十字架はただの犠牲の死です。十字架に

おいて注目すべきは、その悲惨な死に方ではなくて、十

字架を負うに至らざるを得ないイエスの生き方でしょう。

十字架は、罪のための犠牲である故に身代わりであると

いうよりは、罪への徹底した寄り添いの故に身代わりな

のです。十字架の真意は神の寄り添いです。

 

 

急がずに愛

助けを求めている人は沢山いますが、全てに応じること

はできません。隣人を愛しなさいという戒めは、厳密に

受け取れば不可能です。といって何もしなくても良いと

いうことにはもちろんなりません。愛の手を伸べられな

い人には「ごめんなさい」とお詫びしながら、なし得る

限りの人に応分の方法で手を伸べましょう。「貧しい人

達はいつもあなた方と共にいる」とイエスは言われまし

た。愛する機会は明日にもあるということです。愛とは

そんなに思い詰めて、急いで完璧に果たさなくても良い

ものなのです。気負わずに愛し続けましょう。

 

 

神は愛である

「神は愛である」と言います。その言葉が真実なら、そ

れを言う人は神に愛されている暖かさを味わっている筈

です。しかし、その経験がないのなら、その言葉は神に

ついて思索をした、その結果を言っているだけで、実際

に神を知っていることとは無縁と言わねばなりません。

神が愛であるというのは、単に神は慈悲深いということ

を言っているのではないのです。それ以上に、神を思索

の対象にしてはいけないということ、つまり、神の超越

性を言っているのです。宗教は考えるものではなくて、

生きるものだと言っているのです。

 

 

根のある人生

受けいれ難いもの。考えの違う人、感じ方の違う人、生

き方の違う人。そして、不幸なこと、不快なこと、不運

なこと。そして、苦労が評価されずに、断片的に、未完

のうちに終わる一生。しかし、生きるとは生かされてあ

ること、受け入れ難いことを受け入れるところに人生の

本来の姿がありましょう。自分と生き方の違う人こそ私

を導いてくれる天使なのです。不幸なことこそ私を神に

一番近づけてくれる順境なのです。何も残らない生涯こ

そ人間としての私に恵まれた一生なのです。そう心得ま

しょう。そう心得る人生には根があります。

 

 

神の香り

理解されないということは淋しいことです。自分のこと

を棚に上げてでも、とにかく理解して欲しいものです。

ひとりでもよいのです、わかってくれる人がいれば。だ

から理解を得られないと私達は、相手を軽蔑したり、自

負に閉じこもったりしてしまうのです。心のバランスは、

あるいはそれでとれるかも知れませんが、依然としてそ

こには理解を求める思いがしこっていることは否めない

でしょう。無理解の中を明るく生きるということは人に

は不可能です。もしそういう人がいれば神の香りがしま

しょう。神は理解を求めません。

 

 

納得としての信仰

見ないで信じる者は幸いであるといわれるように、信仰

といえば、何か理性の沈黙を求めるような無理を感じま

す。しかし、聖書を虚心に読めば、そこに見られる信仰

植皆、理性の沈黙というよりは理性の納得ともいうべき

自由な合点ばかりです。宗教的真理は確かに超理性的で

すが、それは人間の自由な判断を損なわないものであり、

決して非理性的ではないのです。超理性的ではあっても

非理性的ではないものに対しては、人は理解はできなく

ても納得はするでしょう。信仰とはこの納得のことです。

無理のあろうはずはありません。

 

 

命を求める

私達は名誉を求め、財を求め、幸福を求め、健康を求め

て生きています。生きるということは何かを求めてのこ

とですから、それはそれでよいのですが、では果たして

自分の命は求めているかといえば、生きていることを当

然として求めてはいないのではないでしょうか。命を求

めるとは長生きを求めるという意味ではありません。生

きていることに感激し、生かされていることに感謝し、

要するに生きていることを当たり前のこととせず、その

不思議に感動することです。この感動がなければ、人間

は被造物の頭どころか、名折れです。

 

 

不信仰

信じられないということは、信仰に至るまでに克服され

るべき信仰前の状態でも、時々襲っては信仰を動揺させ

る信仰後の状態でもないのです。信じられないというこ

とは、信仰によって明らかになってくる人間の内なる現

実であって、信仰前でも信仰後でもない、言うならば信

仰中の状態です。信仰は不信仰を克服した状態であると

考え易いのですが、実は不信仰を内に包んでいる状態で

あるのです。その不信仰によって信仰は、信仰の最大の

敵である安住から自らを守っているのです。不信仰を信

仰の持つ自浄作用と心得ましょう。

 

 

決め付けないこと

私達は人を見る場合、どんなに注意していても、自分の

好みや利害や感情や考えに影響されて、自己流にその人

の像を心のうちに刻んでしまいます。そして更に、どん

なに気をつけていても、その像のような人であると相手

決め付けてしまいます。相手はまさかそういう目で見

られているとは思っていないでしょうから、結局私達は、

相手を常に裏切っているのです。裏切りは、日常的な人

間関係の実態なのです。それに気付いて、相手を決め付

ないことをせめても心掛けて生きたいものです。人間

関係はそこで救われるでしょう。

 

 

善 意

教えたり、諭したり、時にはいろいろな手を打って邪魔

をしてでも、過ちを犯すことのないように人を守ること

は、大切な配慮ではあるでしょう。しかし、その善意も

必ず受け入れられるものとは思わないようにしましょう。

人には自由があるのです。罪を犯す自由もあるのです。

受け入れてもらえなければそれまでです。それに私達の

善意にも多分に自分の考えの押し付けがあり、相手の立

場への無理解があるのです。善意は人に過ちを犯させな

いことではなくて、過ちを犯した人をなお見限らない忍

耐となってこそ本物と心得ましょう。

 

 

教会誕生

イエス・キリストが誕生した時不安を抱いたヘロデ王が、

ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を。

一人残らず殺させたという話ほど私達を困惑させる話は

ありません。イエスの誕生さえなければ彼らは幸せな一

生を過ごしたかもしれないのです。しかし、この悲惨と

不条理は人生の偶発的例外ではないのです。私達は目を

そらすのですが、これこそ実は人生の実態なのです。そ

のことに醒めさせ、それに正確に生きるように呼びかけ

る生命そのものの励まし、それがイエスの誕生の意味で

す。教会誕生の意味でもあります。

 

 

自分を作る職人

同じことをしていては駄目だと言います。しかし、同じ

ことの繰り返しということは決してないのです。それが

同じに見えるのは、一つ一つの違いの微妙に気付かない

鈍感のせいです。時には目先を変えることも必要でしょ

うが、むしろ大切なことは、この微妙に気付いて細心に、

そしてこの微妙に耐えて強靭に生きること。その点同じ

ことに常に新鮮であることを要求される職人の在り方は、

生きる模範となります。彼は物を作りつつ自分を作って

います。何をするにしても自分を作る職人としての姿勢

を失わないようにしましょう。

 

 

反 省

長時間深刻にしている反省は、一見過ちを真剣に振り返

っているようで、実はそれに気付いている人達の目を気

にして、如何にかしてそれを繕おうとする自己弁護と責

任転嫁に時間を費やしているだけという場合が少なくな

いのです。自分の非は少し落ち着いて省みればすぐに分

かるものです。あとはそれを素直に認めるだけ、時間の

かかる問題ではありません。反省とは本来短時間で済む

ものです。長引くのは、非を認めるよりは、そこで自分

を正当化しようとしているからです。反省の中味は時間

に反比例するといってよいのです。

 

 

いのちの常態

気を許したり、警戒したり、ほどほどにしたり、人と接

する時の私達の心は、決して無色ではありません。つま

り、この人はこういう人だと答えを出した上で接してい

ます。その答えが正解であれば、それも良いでしょう。

しかし、人物評価の正解は、相手を全面的に受容した時

以外はないのです。それ以外は全て誤解になる程に人間

は不可解だからです。私達は答えのない状態が不安なの

ですぐに答えを欲しがるのですが、不可解さこそいのち

の常態なのです。そう心得て、常に新しく心を保ち、答

えを求めて人と接するようにしたいものです。

 

 

決め付ける

 「彼はこういう人だ」、どうしてこうも私達は人を決め

付けるのが好きなのでしょう。それが間違っているとい

うのではないのです。むしろ当たっている場合は多いし

必要な場合だってあります。それができる程に正確に相

手を読めないようでは、後れをとることも事実です。た

だ決め付けるということは、自分の心が相手のいのちか

ら離れた有り様をしていなければ、決してしないことに

気付いていたいのです。それは、自分自身のいのちから

も離れている死の相のことです。決め付けることにおい

て、私達は相手も自分も殺しています。

 

 

 

命はどこででも輝く

日常重視

軽く生きる

充実は沈黙となる

私達の死者

いのちの強制

事実と真実

一息の事実

病と罪

最後の審判

十字架

 

 

 

霊的人生態度

忍耐と品

正気

肯定による安心

これが私の人生

命はどこででも輝く

前進と満足

人間は一種類

生かされて生きる(1)

生かされて生きる(2)

 

 

日常重視

日常を超えたところに何か根本的なものを認めるのが信

仰ですから、それには日常を軽視するような傾向があり

ます。しかし信仰は、その根本的な立場から、日常の中

の見えなかった課題が見えるように開眼せしめてくれる

ものなのです。日常を軽視するどころか重視しています。

確かに日常をそれが全てであるかのように重視するのは

愚かなことですが、だからといってそれを軽視するもの

となるなら、信仰もまた愚かなものになり下がりましょ

う。信仰は日常を重視する眼に醒めを与えはしますが、

重視を否定するものではありません。

 

 

軽く生きる

こだわらず、とらわれず、軽く生きるとは、日常を軽ん

じたり、責任を好い加減にしたり、気分転換を図ったり

することではないのです。それは自分の置かれている立

場を正確に見抜いて、それに沿うて潔ぎよく生きること

として、そういう正確な洞察を与える高い視点を絶えず

求め、自分の視点では決して日常を見るまいとする断念

の反復なしには可能なことではないのです。そこでは日

常は軽視されるどころか凝視されています。軽く生きる

その軽さは、高く正確に生きようとする心にはわかる日

常が持つ本来の目方のことです。

 

 

充実は沈黙となる

黙っていては分からないというのは事実です。説明し、

弁明し、時には主張することも必要です。沈黙が良いな

ど決していえません。沈黙に隠れた誤魔化しや冷笑だっ

てあるのです。しかし、語り得ぬ思いを秘めた沈黙があ

るのも事実です。その意味するところをあとで知って、

恥じ入らざるを得ないような沈黙があるのです。沈黙を

すべて意見が無いから、反論できないからと考えるのは、

それが本当に大事なことを雄弁に語っている場合のある

ことを思えば軽卒に過ぎます。おしなべて充実は沈黙と

なることを忘れてはなりません。

 

 

私達の死者

葬りということは確かに習俗的になっていますが、本来

は残された者の死者への愛惜の情の発露ですから大切に

したいものです。しかし、葬りによって死者に敬弔の意

を表したと思うのは、残された者の思いであっても、死

者自身にとってはどうなのでしょう。考えてみれば私達

は、死者を生きている者の思い()しで(とむら)っているだけで、

そこでは死者は「私達の死者」になってはいても、「死

者自身」ではなくなっています。死者をして死者たらし

めるのが宗教でしょう。葬りを大事にはしても、あまり

に一大事にしないのが宗教的です。

 

 

いのちの強制

よく言われます、多くの友と共に生きるのは幸せだ、好

きなことができるのは幸せだ、思い通りに事が運ぶのは

幸せだ、そう言われます。その通りであると思う反面、

根の無い言葉のようにも思います。それは私達を生かし

ているいのちには、ひとりで生きるように、そして、行

きたくないところで生きるように、と強制するものがあ

るからです。いのちのこの強制に心を留めて、それに養

われて生きるのでなければ、人生はいのちの流れから離

れた、根の無いものになってしまいます。幸せもまた、

あだばなとなってしまいます。

 

 

事実と真実

一人では生きてゆけないというのは事実です。しかし、

それでもなお一人にならなくては、人は新しくはなれま

せん。いくら反省しても非は自分には全く無いという場

合があるのも事実です。しかし、それでもなお自分の非

を内に深く求め続けるのでなければ、人は新しくはなれ

ません。神について尋ねても納得のゆく答えに出会うこ

とが稀であるのも事実です。しかし、それでもなお人間

を超えるものへの畏れを生きなければ、人は新しくはな

れません。新しくなろうという祈りがないと、私達は事

実にはなれても、真実にはなれません。

 

 

一息の事実

私達は生きる意味をそれぞれに考えて生きていますが、

それはどうしてもそうでなければというものでもなく、

考えてみれば、生きる意味のよく分からないままに生き

ているのです。とは言え、生きていることが、生かされ

ていることとして感謝すべきであることも否めないので

す。何も分からずに生きる不安、いのち贈られてある感

謝、この二つの生の本質的体験を、どちらにも目をつぶ

らず、どちらにも片寄らず、一息に言い表そうとするの

が宗教です。不安と感謝が一息の事実になっているか、

信仰者はそこで問われています。

 

 

病と罪

病を罪の結果のようにいう人がいます。病を人生の本道

からそれた脇道の状態と考えるからでしょう。しかし、

もしそうなら病身の人は生涯脇道しか歩めないことにな

ります。そうではないのです。病は単純に病です。病に

おいても人は人生の本道を変わりなく歩んでいます。そ

れが脇道に見えるのは、健康であることに囚われている

からです。それこそ罪です。病自体は罪でも何でもあり

ません。生まれつきの盲人を指して「誰の罪でもない、

神の業が現れる為である」とイエスが言われたのは、そ

の意味です。病も本道だということです。

 

 

最後の審判

短い物差しで人生を測れば、善く生きている時もあれば、

そうでない時もありましょう。だからといってそういう

ことで一喜一憂するのではなくて、長い物差しで測って、

善く生きられなくてももう一度やり直し、必要ならばし

ばらく休んでもう一度やり直し、それでも無理ならば諦

めて別のことをやってみるといった具合に、とにかく自

分のペースで善く生きようとし続ける、その継続こそ大

切なのが人生でしょう。人生で問われるのは結局この

続の一事であるということ、それを語っているのが、

「最後の審判」の思想であります。

 

 

十字架

エスは私達の罪の為に身代りとなって十字架につかれ

た犠牲である、といわれます。しかし、身代わりといい、

犠牲といい、完全に克服し切れていない相手に対するわ

だかまりを感じさせる言葉ではないでしょうか。美しく

ない言葉です。私達は好きな人となら共にいます。役に

立つ人とも共にいます。しかし、敵意を抱く人、裏切る

ような人とは共にいません。もしそれでも共にいるのな

ら、それは犠牲というよりも抱擁でしょう。十字架は、

神が人間にされた「それでも共に」です。痛ましくはあ

りますが、抱擁の美しさがあります。

 

 

霊的人生態度

苦しい状態は誰だって抜け出したいと願いますが、果た

してどうしても抜け出さなくてはならない状態なのでし

ょうか。苦しさの無いことだけを願っていると、決して

身に付かないことが人生にはあります。忍耐です。人生

は結局忍耐なのですから、苦しさを避けてばかりいると、

生き損ねることになりましょう。苦しさは、別に求める

必要はありませんが、もし来たら、そして必ず来るので

すから、その時は抜け出すよりは、受けとめるようにす

ることです。それが人生の要求に応えることであり、霊

的といってよい人生態度です。

 

 

忍耐と(ひん)

忍耐、これなしには何事も成し遂げられません。しかし、

たとえ事をなすという目的がなくても、生きること自体

は忍耐なのです。屈辱に耐え、試練に耐え、苦痛に耐え、

責任に耐え、愛すべく耐え、諦めて耐え、運命に耐える、

とにかく生きることは耐えることです。忍耐は生きるこ

との(ひん)です・忍耐を避けている生は下品ですI与えられ

た生を耐えて生きているものはすべて、動物にしても、

植物にしても、それなりに品があるのに、人間にそれが

ないのはその為です。人間は被造物の中で最も忍耐する

ことの少ない、下品な存在でしょう。

 

 

正 気

正気とはどういう状態でしょう。問題に振回されること

なく、悩みに乱されることなく、感情に流されることな

く、観念に上擦ることもない、醒めた精神状態でしょう

か。しかし、そのように醒めて生きるとしても、生かさ

れているものらしく生きようとする被造物としての醒め

がそこになければ、矢張りそれも正気とは言えますまい。

正気とは醒めた精神状態というよりは、醒めた人生態度

なのです。命与えられていまここに在る事実に、醒めて

生きる人生態度なのです。気造物の自覚なのです。人間

は神ではないということなのです。

 

 

肯定による安心

宗教は何を与えようとするものなのでしょう。柔和で寛

容な人格や、厳しく誠実な反省でしょうか。正義を求め

る行動や、献身的な奉仕でしょうか。暮らしは低く思い

は高い生活態度でしょうか。そういうこともありましょ

う。しかし、宗教が本当に与えようとしているものは安

心なのです。ただしそれは、金とか健康といった安心を

支える材料を与えるという意味ではなく、そういう材料

のあるなしに関係の無い、人生の最深層からの肯定にこ

そ安心はあることに気付かせるという意味です。人生は

どんなに悲惨であっても肯定されています。

 

 

これが私の人生

才能、境遇、出会い、運その他を、有無を言わさずに負

わされて、私達は生きています。努力の大切さは言うま

でもありませんが、人生にはどう仕様もない面が始めか

らあるのです。責任を負わねばならない部分はもちろん

ありますが、負いようのない部分が決定的に大きいのが

人生です。人生にあまり深刻に責任を感じないこと、そ

れは、負う必要のない責任まで追い込もうとする傲慢で

すから。とにかく生き抜くこと、そして「これが私の人

生」、と肯定すること、それが人生への謙虚です。自分

の人生を否定的に見るのは自惚れでしょう。

 

 

命はどこででも輝く

能力の可能性を求めて新しい機会を探すことは意味のあ

ることですが、その機会に恵まれず不完全燃焼をかこち

つつ生きるとしても、必ずしもそれは不幸ではないこと

も弁えておきましょう。誠実に生きれば、どんなところ

でも輝くのが命だからです。能力が発揮できるというこ

とと、命が輝くということとは全く別です。得意におい

()せる命もあれば、失意において輝く命もあるのです。

能力の発揮と命の輝きの区別がつかないままに、徒らに

可能性を追い回すことは、命の空洞化を招きましょう。

人間としては不幸なことです。

 

 

前進と満足

満足することは停滞、後退を意味するとされ、絶えず前

進してゆくのが人生だとされます。しかし、人生はそん

なに前進してゆくべきものなのでしょうか。前進のみを

考える人には生きるという意識は濃厚ですが、生かされ

るという意識は稀薄です。だからでしょうか、そういう

人に比べると、満足している人には、怠惰のにおいはす

るものの救いに近い印象を受けます。イエスの周りには

凡そ前進には縁のない人々が集まって、生かされる恵に

満足していました。前進は心掛けるべきですが、そこに

救いはないことだけは心得ておきましょう。

 

 

人間は一種類

信仰に関して言えば、世の中には「信じる人」と「信じ

ない人」の二種類の人がいるように思われますが、事実

ではありません。全く信じ切っている人もいませんし、

全く信じることのない人もいないからです。いるのは。

 「信じる私」と「信じられない私」が葛藤している一種

類の人だけです。「信じる私」と「信じられない私」の

いずれがどのような形で優位を占めるかで、もちろん

様々な色合いはありますが、人はこの内なる葛藤を苦し

む点において一種類です。この葛藤こそいかなる相違を

も越える普遍的な人間の現実なのですから。

 

 

生かされて生きる(1)

生かされて生きると言います。私達は自分の意志で生ま

れてきたわけではないのですから、確かにそうです。し

かし、果たしてその通りに生きているかと言えば、自分

の力に頼り、自分の願いに流され、自分の意のままにな

らないことをかこちながら生きています。生かされてい

るものらしくは生きていません。それであるのになお生

きているのは、赦されているからです。生かされて生き

ることの実際は、赦されて生きることなのです。「生か

される」が「赦される」の同義語と気付いた時、生かさ

れて生きる歩みは実際に始まります。

 

 

生かされて生きる(2)

生かされて生きると言います。私達は自分の意思で生ま

れてきたわけではないのですから、確かにそうです。し

かし、果たしてその通りに生きているかと言えば、自分

の力に頼り、自分の願いに流され、自分の意のままにな

らないことをかこちながら生きています。そして、その

まま終わるでしょう。生かされるという受身が成就する

のは、死の時を待たねばなりません。死こそ死なされる

こととして、受身そのものだからです。「生かされる」

が「終わりを待つ」の同義語と気付いた時、生かされて

生きる歩みは、終わりへの祈りとなります。