2部 心の健康と宗教

1  信仰について

 

目 次

信仰生活の核心

a.私の神    

 

b.自己肯定

 

c.宗教的幻影

 

教会の姿

a.     雑然とした集まり

 

b.教会の多様性

 

c.教会の中における一致―罪の自覚

 

d.教会の本質−寄り添い性

 

e.教会の弱さ―独善と排他性

 

 

信仰者の姿

a.自己を添削しつつ

 

b.病める者として

 

c.楽しく

 

d.美しく

 

e.魅力的に

 

f.人間の誇りをもって

 

御言葉のとらえ方

a.幸せと感謝

 

b.絶えず

 

c. 喜び

 

d.安定感

 

e.ゆるし

 

f.循環を生きる

 

 

信仰生活の核心

 

a 私の神

 

 どんな世界においても、何を差しおいても“先ず”なされなければならないことがある。そしてこの一番初めにあるべきこと、またくるべきことを欠いては、困ったことにその後のいかなる努力も、実を結ばないということが現実にあり得るように思われる。たとえば、私の携わっている心の世界において、人格の発展に関して次のようなことが言われている。

 

 「他人との関係にかんするもので、しかもきわめて大切なものであるために、もしそれがなかったならば、本当に自分らしい人格を発展させることができなくなってしまう、といったものがあるとすれば、それはいったいどのようなものであろうか。子供にとっては親からの優しさと愛情が不可欠であるが、これと全く同じように、大人にとってもまた、自分の仲間から、受け入れられているということが絶対に必要なのである。もしその受け入れがなかったならば、人は狂気の孤独に直面することになるであろう。他人が、自分の存在を無条件で、ありのまま受け入れてくれていることを知っていること、それは、みずから自己を受け入れることができるということに等しく、またそれゆえに、本当に自分になることができるということ、自己に固有な人格を実現することができるということに等しい」(アンソニー・ストー『精神療法と人間関係』理想社46頁)。

 

 それでは、神を信じるという信仰の世界において、まずその前提として求められる事柄は、いったい何なのであろうか。この点に関し、私は「灰色の断想」「神の風景」の中に次の二つの指摘があるように思う。その一つは、キリストの神を「私の神!」とすることであり、もう一つは、キリスト・イエスの前に、自分は良しとされているという自己肯定感である。

 第一の点については、次のように述べられてしる。

 

    「私の神!」

 神はひとりびとりの生に立ち入り、時にさばき、時に慰め、

時に励まし、時に強制するなど、働きかけて下さる方でしょう。

ところで、そのひとりびとりの生は全く違うのですから、神は

それぞれの人にとって、その人にだけ納得できるように働きか

けていて下さるといえましょう。つまり、神はひとりびとりに

とって、その人だけの神となって下さるのです。神ご自身、

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」

と、いわれました。神を「私の神!」と人が呼ぶのは、決して

独善ではありません。神のご希望であります。

                  (『神の風景』240頁)

 

 ところが、私たちは、自分自身に対する後ろめたさのためか、非常にしばしばキリストの神を「私の神!」と呼ぶことをためらいがちである。”とても私のような者のためにはキリストの神は神となってくださらないに違いない”と心のどこかで思ってしまうのである。こうして私たちは、「私の神」よりもむしろ「人々の神」を求めがちになる。けれども一般的な神を求める心の姿勢の中には、しばしば信仰の脈々とした生命を危うくしてしまうものがある。「人々の神」を神とするには、一人ひとりの生は、あまりにも個別的で複雑であるし、一般化された愛というものは平坦なもので、とうてい人を動かす力をもち得ないからである。ちなみに、親鸞は「阿弥陀の本願は、親鸞一人のためなり」と断言したという。

 この視点を聖書の中にもち出してみると、ヤコブがべエルシェバで石を枕として伏した時、彼は自分の犯した失敗のゆえに、また自分の性格的な弱さのゆえに、アブラハムの神が自分の神となってくださっていることに多少のためらいを感じていたのかもしれない。けれども、彼の心は、アブラハムの神が依然として自分の神であり続けることを知ったとき、驚きあわて、恐れおののいたのである(創世記28章)。ヤコブはどんなに喜び、命の息を吹き返したことであろうか。また彼の聖なるお方に対する思いはどんなに深められたことだろうか。

 キリストの神は私たち一人ひとりに対して、まさに自分の神になってくださる方である。しかもそれは、神のご希望ですらある。驚くべき事実である。

 

    一人に届く

 政治はできるだけ多くの人に届くように、その手を伸べるべ

きものでしょうが、それでもなお届かない深さで悲哀をかみし

めているのが人間なのです。この悲哀に届くはずのものが宗教

なのですが、現実には宗教も多くの人の救いを考え過ぎて、一

人の、その人だけの悲哀に届かない一般論に堕ちているようで

す。多くの人に届かないとしても、その無力は誇りとこそなれ、

恥では決してないのが宗教ですのに、徒に恥じて焦っている傾

向があります。宗教の生命は一人に届く暖かさであって、多く

の人に届く普遍性ではありません。

(『神の風景』79頁)

 

b 自己肯定

 

自己肯定に関しては次のような「断想」がある。

 

    先 ず

 何を措いても先ずしなくてはならないこと、それは、私はこ

れでよいのだという自己肯定です。それは、自己満足というこ

とでも、無反省な自己追究ということでもありません。私たち

を縛っているさまざまな社会的規準や道徳的価値から、自分自

身の人生を自由に解放して、大切にするということです。生き

る上での一応の目途に過ぎない人間の作った規準や価値に縛ら

れ、私たちは折角それぞれに用意されている自分の世界が、す

つかり見えなくなっています。それを見出し、それを楽しむ、

その為に先ず自分を肯定すべきなのです。

                  (『神の風景』 23頁)

 

 ところが、私たちの現実において、私たちは、良心の呵責だけでなく、多くの社会規範や道徳律に押されて、自己肯定というよりは、むしろ否定的な観点で自分をとらえてしまう。

 はたして、私たちのまわりに、私自身も含め、どれくらいの人が”自分を良し”とすることができているだろうか。むしろ、罪、罪、といわれるあまり、罪意識にさいなまれることの中にキリスト者の確認を求めようとしたり、キリスト信仰においてなすべきことは自己否定であると言われて、キリスト信仰に触れなかったなら、しなくてもよい苦しみを上乗せさせられている人も少なくないのではないだろうか。

 診察室で困るのは、自分は罪人でもう許されないのだと言い張って、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれる」(ローマ5・20)という方向に、容易にその向きを変えない人々が少なくないということである。それはほとんど、時に妄想的といっていいほどの絶対的な確信、訂正不能性を帯びることがある。おそらく罪意識には健全なものと不健全なものとがあるのだろう。

 けれども、福音の本質はキリスト・イエスの中に“神の恵みによって今日ある自分を見い出すこと”すなわち、この「断想」の表現を借りて言えば「何を(差し)措いても先ずしなくてはならないこと、それは、私はこれでよいのだという自己肯定」ではないかということである。しかもそれは、自己満足でも、無反省な自己追究の色彩を帯びたものでもないという。

 このことは私の経験の中では、一人ひとりが自分が自分として生き得る場を保証されることのように思われる。

 先日、一人の患者さんが私に”先生と話をしていると、こんな私でも生きていていい、……人に嫌がられても時にいじめられていても、そこにいていいんですよと言われているような気がしてきます”と言われたが、おそらくそのような自己肯定感を得て、人の心は立ち直っていくのであろう。

 

C 宗教的幻影

 

 ところで、信仰とは、まず何を差しおいてもその人のありのままを肯定し、私は私でよいということを保証するものであることを確認する意味で、私は、『灰色の断想』のあとがきの一節を次に引用してみたいと思う。私はこの文章に出会って、藤木牧師という人がよく理解できたような気持ちになった。また同時に信仰というものがどんなものであるかがわかったような気がしたからである。

 話の始めに、いきなりこのような文章を引用することに多少の抵抗を覚える方々も少なくないとは思うが、個人的な事情を多く含むこの文章は、それが個人的な事柄であるためにかえって、私たちの心に強く迫るものをもっている。

 

 「私一人のための神

 万国博問題をきっかけに、日本キリスト教団が、その体質を烈しく問われ出しだのは1969年であったが、その動きの中で、「違う、違う」と、問う方に対しても問われる方に対しても、定かなかたちをとらないままに、叫ぶものが私の心にはあった。それに表現を与えようとして、断想を書き出したように思う。本音を吐こうと心定めて、書き出したように思う。定かなかたちをとらないものを、できるだけ損なわないように、そっとそのままにとり出し、かたちを与えることにつとめた結果が、これらの断想である。しかし、だからといってこれらが、その事態に対する私の信仰の主張であるというわけではない。主体をかけた信仰告白、そんなおおげさなものでも、さらさらない。強いて言えば、まあ自画像とでもいったらよいようなものであろうか。

 「違う、違う」という叫びは、以前からあった。関西学院大学の神学部に入学して間もない頃、級友の一人に罪に苦しんでいることを話した時「君の立場は律法主義的で、罪のゆるしの福音への信仰がない」と指摘され、そういうものかと思ったことがあった。また、卒業論文に対し、教授に「教会論がない」と指摘され、そういうものかと思ったこともあった。それらの指摘はいずれも正しく、キリスト教の正しい教理として、なにか権威ある客観的な規準のように迫ってきた。だから、罪を深刻に考え過ぎるのは、自意識過剰で不信仰であると思い、また、教会をキリストの体と、とにかく信じようと努めてきた。しかし、そのように思い、そのように努めれば努めるほど、一般的に正しいと認められている教理に、自分を偽って合わせているような無理が、深く心の底に残ったのである。「違う、違う」という叫びは、何に向かって、どういうふうに叫ぶべきものなのか判らぬままに、間違いなくその頃からあった。たしかに、私のように、自閉症的罪悪感を脱却し得ないのは不信仰であろうし、教会という共同体が問題にならないような信仰は、聖書的信仰ではないと、私も思う。しかし、育った境遇に基づく性格の歪みによるのだろうか、自閉的な、あるいは自虐的な内面的反省を措いては、私の信仰は空疎なのである。こういう歪みを矯正するのが、信仰の力というものかもしれない。しかし、信仰生活25年にして、なおいかんともしがたいのである。不信仰だと思う。

 やがて、こういう回復不能なまでに病的に歪んだ者を、迷える一匹の羊として、そのままに肯定してくださる方こそが、キリストの父なる神であると信じられるようになった。「私は私のままでよい」と私自身を受けとる、それが神を信じるということなのだと思った時、心の中にあった無理がなくなった。客観的正しさなどおそれる必要はなくなった。というよりは、神の前には客観的正しさなるものは、実は初めから存在しなかったのである。全き肯定をされる神のみが、普遍で唯一の客観的実在であり、人間の世界の内にあるものは、正当的信仰といえども、相対的で主観的なものにすぎない。信仰は、そのような神を信じる者である故に、人は自分の信仰に、普遍性とか客観性とか正しさとかを求める必要はない。ただその主観性と相対性をわきまえておればよいのである。その限度を自覚している限り、どういう信仰を持とうと自由である。神を信じるということは、人間の世界に「これでなくてはならぬ」というものがなく、「あれでもない、これでもない」のであり、その「あれでもない、これでもない」ものが、「あれでもよい、これでもよい」と受け入れられている、そういう世界、こだわりのない、とらわれのない広い世界を生きるということなのだ。そう思えるようになった時、久しく心の中で叫んでいた「違う、違う」が、押しつぶされるべきものではなくて、そっと取り出して、かたちを与えることが許されているものと、考えられるようになった。簡単にいえば、無理をしないで本音を吐いてよろしい、ということである。考えてみれば、何と久しい間、普遍的で客観的な宗教的正しさという幻影におびやかされていたことか。

 そして、こういう気持ちに導かれた時が、たまたま1969年、あの混乱した事態のはじまりの年のころであった。あの事態が、私の「違う、違う」に、かたちをとるよう促したことは事実であるが、私の「違う、違う」は、なにもあの時にはじめて出てきた叫びではないのである。それは、イエス・キリストを信じた若い日に遡ることができる叫びであった。求め、教えられ、信じている信仰に、私自身を任せ切れないのである。信仰を否定しているのではない。むしろ、真面目にそれを肯定している。しかも、自らをそれに委ね切れず、はみ出すのである。最初は、このはみ出しを逃避と思った。わがままであり、そして、誤りであると思った。しかし、やがてこのはみ出しこそ、まさにすぐれて私の問題であり、内面的に限りなく反省してゆく、そして神と出会う場所として、認容されるべき正当な権利を持つものと考えられるようになった。今や私に求められることは、はみ出さないことではなくて、はみ出しに応じて包みたもうている神の愛を、この私一人のための愛を、しっかり生きることである。「違う、違う」は、この私一人のための神の愛が、誰彼なしに与えられる愛一般に、平板化、観念化、抽象化されることへの、抵抗の叫びであった。だから、それは、他者への批判でもなければ、自分の主張でもない。それは、私一人への神の愛を、誰にも手を触れさせず、そっと大切に感謝していたい願いなのである。したがって、その叫びに促されて書いたこれらの断想が、批判や主張であるはずはないのである。それは、信仰告白といってもよいが、それほど大したものでもない。私一人へ注ぎたもう神の愛の下に、私が見て、私が画いた、私の自画像である。それだけのことである。」

                               (『灰色の断想』 191〜194頁)

 

小林秀雄氏は「知るということは万人が認め得るような客観性をもって知ることであり、信じるということは、自分が信じられるような形で個別的に信じることである」という意味のことを述べておられたと記憶するが、私自身もよく考えてみれば、「久しい間、普遍的で客観的な宗教的正しさという幻影におびやかされていた」時代が確かにあったように思う。また講演活動を通して、さまざまな教団、教派に出入りした十数年を振り返ってみると、この指摘のように、宗教的幻影を前にして無理に自分をその枠組みに合わせようとして、その人の独自性やせっかくの個性といったものが失われ、信仰がその本来の命を失ったのでないかと思われる人々もいたような気もするのである。確かに人は「外れ者」のそしりを受けることを恐れて自分自身の心の叫びを押えたり、自分を「正当性」の中に位置づけて安心したいと願うあまり、自分自身の魂をその学説なり教義に売り渡すことがあり得るように思われる。しかし私は、やがてそうした神概念は、決してその人らしい生き方を支持するものではないゆえに退けてもよいのではないかと思うに至って、この亡霊から多少なりとも脱却できたように思う。人にとっては、正統性や正しさより、自分が心底納得できる歩みのほうが大切なのではないだろうか。

 そのとき私は、私のような者のためにもキリストの神は神となってくださったことに、言い知れぬ恐縮さを思い知らされたのである。信仰は本質的に「力むこと」よりもむしろ「力を抜いて憩うこと」を主とするものではないだろうか。

 

教会の姿

 

 ところで教会の姿とは、いったいどういうものなのだろうか。日本の教会がまだまだその歴史も浅く、その規模もはなはだ小さいために聖書のレベルにも、また人々の期待にも容易に応えうる段階にはないように思うのだが、それはそれとして二つの「断想集」には、私たちの中で見落としがちな教会の本来的な姿を思い起こさせてくれるいくつかの大切な視点が指摘されているように思われる。おそらくそれは、その実現の可否は別として、教会人がいつも心の片すみに覚えておかなければならない性質のものと私は思っている。

 

a 雑然とした集まり

 

    教会の目的

 一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々

を集めれば、団体としては纏まりが良いわけで、団体を構成す

る時にそういう配慮をするのは当然でしょう。しかしそのよう

な配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、という

よりは雑然としたままでなければならないような団体がありま

す。教会がそれです。教会とは、雑然とした者が互いにいたわ

り合って調和してゆく、そのこと自体を目的とする団体なので

す。教会にあっては、調和は何か事をする為の条件ではなく目

的であることを忘れないようにしましょう。

                  (『神の風景』 148頁)

 

 この中で私の注目を引くのは、”教会というところは雑然としていなければならない。いやむしろ、雑然としたままであることを必死で守ることを心がけるべき“と言い切られていることである。

 私はこれを読んだ後、もう十年も前のことだが、牧師の研究会に参加していた折り、一人の牧師が発題した「転籍をめぐる牧会」という話を思い出した。その発題によれば、その近くの教会のやり方というものは、言ってみれば「軍団組織」だというのである。宣教の目的を達成するように、信徒は教会成長や修養会という名のプログラムに参加させられ、組織に組み入れられてゆくのだという。だからそこの信徒にとって、日曜日は一週間の中で一番シンドイ日であるという。朝から夕方まで、いろいろな委員会があって活動しなければならないからである。そこでこの発題の要点は、そうした教会の行き方になじめず、転籍を希望してくる信徒を、どのようにフォローしていくのかという話であった。

 私はこれを聞いて、何かおかしいのではないかという素朴な疑問が心に浮かんだ。確かに聖書は、「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ」(エペソ4・12、口語訳)と記しているが、それは神の御前にある広い自由の中で実現されることであって、決して一人の指導者の個人的な見解に基づいて信徒が右から左へと動かされたり、教会の「私物化」という文脈の中でなされる事柄ではないだろうと思ったからである。

 けれどもその後、私は講演活動で幾多の教会を経験してみて、こうした錯誤や誘惑、すなわち何かをするための手段としての集団化は、単に、たまたまその発題に上った教会の中だけでなく、周辺に結構多くあり、その上、人の集まりや組織に必然的につきまとう宿命、あるいは弱さでないだろうかとさえ思うようになった。というのは、教会だけでなく、学校や病院組織も、総じて人の集まりが何かを成し遂げようと、目に見える成果を期待し始めるとき、決まって“一定の能力、財力、共通した価値観をもった人々を集める”団体、すなわち企業的なまとまりといっていい性格を帯び始めるように思われるからである。それは、雑然とした者が大いにいたわり合っていくいき方ではなく、整然としてその流れや行き方にそぐわない者を排除していくいき方である。そして、それは一人ひとりが生かされる世界ではなく、一部の人だけが利益を受け、勝ち残っていく世界に変化してしまうことを意味する。

 この点で私は今、この四十代後半という年を迎えて、大変意義深く思うことが一つある。それは私か学んだ小学校生活のことである。私は両親が戦争で疎開した関係で、秋田の小さな小学校に行くことになったが、終戦後の貧しさの中で、そこには実に様々な家庭の子供がいた。父親の失職と借財によって他県から逃げるようにして転校してきた子、母規がホステスをしていて休みがちな子、二人の弟や妹の世話をしてから学校にやってくる子、商売の手伝いで学校を休んで荷車を引く子……。事情をかかえているのは子供だけでなく、教師の中にも腎臓が悪くて休職しがちな先生などがいた。あのころの学校は上級学校へ行くための一定のレベルの子を集めた集まりでは決してなかった。今思うと、私は小学校入学と同時に社会に入学していたのだと思う。

 

b 教会の多様性

 

 確かに私は、これまで雑然としたままであることに耐え得ない教会の行き方のために、自分自身の信仰のあり方に疑問を抱いたり、自信を失ってしまった人々の相談を何度か受けてきた。けれども今、考えてみると、それらは聖書的発想に根拠を置くというよりも、この世的な価値観に重きを置いたために生じた錯誤であり、その多くは根拠のない自責感であり、むしろそうした一面的な価値観を盲信できなかった人、すなわち真面目に事の次第に悩んで診察室を訪れた人のほうが、より健全な感性のもち主でなかったのかと思ったりするのである。

 

 次の文章は、こうした方面に問題意識を持ち始めた頃の私か書いたものである。「私は、教会というところが、もっぱら心の病気の人のお世話をしたり人々の様々な必要に、こたえたりしなければならないところだとは思っていない(むしろ、人が人に対して無関心になっていくという現代の病理の中で、受け皿としての働きを、微力な教会が負わされることが少なくないということについて、はたしてこれでよいのだろうかと思うことが多い)が、少なくとも、さまざまな人が出入りできる広がりは持ってほしいと願っている。それがきっと教会全体の益となると思うからである。また、教会に出入りする人々も教会もさまざまな働きがあって、一つの教会がすべて満たすことはなく、それぞれの教会・教団が互いに補い合っていることも覚え、教会に対する失望を少なくしてもらいたいと思う。一つの教会や教団では、補いきれないものを、他の教会・教団が満たしていることは大いにあり得ると思うからである。

 先日、私はある小さな教会の修養会に参加したのだが、そこの教会員である一人の若い医者が私にこんなことを言った。

 『教会というところはとてもおもしろい集まりだと思います。いろんな人がいて、それぞれに受け入れ合っている……。こんな集まりは、今の社会では珍しいのではないでしょうか』」(『信仰による人間疎外』いのちのことば社、17〜18頁)。

 私かこんなことにこだわるのは、この同質化は実は、その組織や集まりの行き詰まりと発展の阻止をもたらしかねないと恐れるからである。

 

   生 命

 同じであるということと、一つであるということとは、全く

別のことです。同じであるものの間には、対立も緊張も分裂も

なく、従って発展も成長もなく、生命はそこにおいて存在しえ

ません。同じとは死の相です。これに対し、一つとは、相違す

るものが対立をはらむ緊張の中で、忍び合い譲り合い、理解し

合いそれぞれの分に応じて働き、助け、補い合って、結ばれて

ゆく努力のことであり、それは創造的いとなみとして、まさに

生命の相なのです。生命あるものは皆、相違しています。そし

て皆、一つであることを希求しています。

                   (『神の風景』69頁)

 

教会の中の同質化は社会的な画一化、管理化、独裁体制につながるものではないだろうか。「断想」の中には、こうした発想でもっと徹底したものがある。

 

     散って生きる

 一人で事をなすよりは志を同じくするものが結束すれば効果

的でしょうし、それに仲間もできて淋しくありませんから、結

束することを当然のことのように、私たちは思っています。し

かし、結束には個人の微力からのあせり、個人の孤独からの逃

避、要するに個に対するごま化しが、そして何よりも力をたば

ね合わせて事を成し遂げようとする人間の自己完結が、そこに

はあります。結束が固ければ固いほど何か芝居がかってくるの

は、そのためでしょう。私たちは実は、普通考えているよりも

っと散って生きるべきものなのです。

                   (『神の風景』38頁)

 

C 教会の中における一致−罪の自覚

 

それでは、教会の中における一致とはどのようなものであろうか。「完全な一致」などはあり得ず、「補完だけが一致」なのではあるまいか。

 

    一致

 話し合ってゆくうちに、相違している立場が一致点を見出す

かに思える場合があります。しかし、厳密に問うてゆくと、矢

張り相違点は残っています。もし、一致が同一を意味するのな

ら、完全な一致というものは、おそらく存在しないでしょう。

そのような存在し得ない一致を求めるから、時には、自説の押

しつけをし、時には、虚構の一致に妥協するのです。一致とは、

相違しているものが同一になることではなくて、実は、それら

が補完し合うことなのです。補完だけが一致なのです。人間は

それほどに深く相違しています。

                   (『神の風景』44頁)

 

それでは、その補完は何によって可能なのであろうか。

 

一体感

 人は何によって一つになるのでしょう。一つの目標を目指す

ことにおいてでしょうか。思想や信仰を同じくすることにおい

てでしょうか。そういうことで一体感を味わう人もあります。

しかし、そこには人間への誤解があるように思います。人は、

共通のものに関わることによって一つになるように見えて、実

は、共通の事実を内に自覚するまでは、一つにはなれないもの

ではないでしょうか。そして、おそらく罪をおいてほかに、そ

の共通の事実に出会い得ないでありましょう。罪において一つ

一体感に内容を与えるのはこれです。

                 (『灰色の断想』 111頁)

 

 ここで私は、人間は決して目標や目的、思想や信仰において決して一つになり得ないという指摘を改めて取り上げてみたいと思う。人は同じ思想や目的をもてば同じ方向を向いて一致協力できそうな気がするが、決してそうではない。むしろ蜜月とも思われる一定の時期を経て、やがて願いと裏腹に分裂、分派に発展しそうな気がするのである。

 このことは政治を見ても、宗教運動の歴史を見ても、また精神分析学などの学問の歴史を見ても明らかなことである。私たちはそこに一致どころかおぞましいほどの闘争の歴史を見て驚きあわててしまう。それゆえ人は人間存在の根源、すなわち人間であること、換言すれば ”罪深い我が身”という動かしがたい実感によってしか一つになり得ないのではあるまいか。

 ここに寄り添い性という教会の性格が生じる。

 

d 教会の本質−寄り添い性

 

    神の住まい

 時には柔和に思いやり深く、そして忍耐強く人と接すること

もできますが、誰に対してもそうかと問われると、自信はあり

ません。矢張り相手によりけりで、何時でも誰に対してでもと

いうわけにはゆきまぜん。相手を選ばず、その反応に影響され

ず、全面的に受け入れて寄り添えるとは、とても思えません。

もしそれのできる人に会ったら、人間以上のものを感じるでし

ょう。神性とは、高貴性とか、清浄性とかではなくて、この

「寄り添い性」ではないでしょうか。人の世に神が住まわれる

所があるならば、寄り添う人の心にです。

                  (『神の風景』 175頁)

 

e 教会の弱さ―独善と排他性

 

 ところで、”真理は一つ”と信じることはよいとして、キリストを信じる者同士の集まりである教会人がよく注意しなければならないことの一つは、自分の信じる神概念や信仰的立場を絶対視し、他のものを正しく評価しないきらいがあることではないかと思う。そしてそれが優越感や高慢さにつながるとき、一つの危険性を帯びてくるように思われる。

 次のような「断想」がある。

 

    素朴な疑問

 イエスを救い主と信じる信仰と共に教会が生まれて二千年、

この信仰の理解を巡ってさまざまな考えが正統を争ってきまし

た。もしも一つの正しい信仰理解というものがあり、従って他

はみな間違いであるのなら、もう好い加減に結論が出てもよさ

そうに思いますが、相変らずです。これからも同じことでしょ

う。ということは、信仰においては正しい理解は一つの正統と

して定まるものではなくて、異なった信仰理解が、互いに補い

合うもの同士と謙虚に自覚することの中に、漂うかのようにあ

るものだということとは違うのですか。

                  (『神の風景』245頁)

 

 この点に関して私は一つの鮮明な思い出をもっている。学生時代の強烈な求道心に動かされて動き回っていた時のことだが、一時私は、思弁的、観念的なキリスト教の教会に失望して禅寺を回っていたことがある(『心で見る世界』聖文舎)。さまざまなことを話し合った後、そこの禅僧は私に“キリスト教のようなもので人が救われるなんて妄想だよ”と言ったのである。私はその時、どうしたわけかとても不愉快な思いをして、もう決して、その方向には足を向けるまいと決心したのである(もちろん、そう決心したからといって、私はただちにキリスト教のほうに足を向けたというわけではない)。ただ、私はその時、立場の異なるものや、反対するものに対して、どういう態度を取るのかということの中に、その宗教の本質や、その人の人間的センスが、案外表れるのではないだろかと思っただけである。

 おそらく、非難や折伏をもって他を排撃し、自分の正当性を主張しようとする生き方に私はなじめなかったのだろう。主イエスは「土はひとりでに実を結ばせる」と言われたが(マルコ4・28)、本物のもつおのずから香りを放ち花を咲かせる性格に、私の本来的な親和性が大きかったのだと思う。

 信仰の交わりに関して次のような「断想」がある。

 

   信仰の交わり

 同じような生き方をする人が、集って同志的交わりを作り、

それが固いものであればあるほど排他的になるのは、自然な成

行きですが、このことを断じて許してはならない交わりがあり

ます。信仰の交わりです。信仰においては区別をもたらすよう

な一切の規準は手放され、神ご自身が規準になりたもうのです

から、信仰が、信じるものと信じないものとを区別する規準に

なるなら、それは誤りです。信仰の交わりは、同じ信仰におい

て結束することではなく、あらゆる排他性を破ってゆく点にお

いて、志を同じくすることなのです。

                   (『神の風景』65頁)

 

信仰者の姿

 

 信仰者に期待される心の姿勢というものがあるとすれば、それはいったいどのような事柄であろうか。

 

a 自己を添削しつつ

 

   無限の添削

 人を試みながら徐々にその姿を現わして来るのが、宗教的真

理でありましょう。試練にあい、誘惑にさらされ、混迷に陥り、

その中で確信していたものが崩れたり、わからなかったものが

わかってきたり、そういう手間のかかる道を通ってでなければ、

それは現われてきません。だからそれに対しては明快と性急は

禁物です。不明確さに耐えて自分の問題点に気づき、緩慢さに

耐えて自分を改めてゆく、その根気のよい自己添削こそ、それ

に対してふさわしいのです。信仰は、自分に対するこの無限の

添削でもあります。

                  (『灰色の断想』34頁)

 

 私が人の話に耳を傾けるという仕事を、おもにしてきたからなのかもしれないが、人間として非常に困るタイプの人々が確かにいる。その一つは、人の話の聞けない、あるいは聞かないタイプの人々である。この人々の致命的な欠陥は、自分の問題点に気づくとか自分を改めるということができないことである。

 診察室で、こういう人々が上の立場を占めてしまうことによる悲劇をよく聞かされることがある。何事によらず、自分の意見、やり方こそ絶対正しいとして通すのだから、下の者はその人のやり方の錯誤に付き合わせられ、後始末さえさせられる。その上そういう人ほど自分のやり方が被害者を作り出していることに気づこうともせず、ついていこうとしない人たちを、落伍者とか裏切り者とか、弱い者呼ばわりするのだから世の中不思議といえば不思議である。

 ところでローマの信徒への手紙は、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって」と記しているが(10・17)、このことはこの断想の文脈に従えば、聞くということは自分が正しいとしているよりどころを点検することにほかならない。それゆえ人のことばに耳を傾けられない信仰者というのは、そもそも信仰の基本姿勢に欠けるということになる。

 ところで、信仰の自己添削は、信仰者個人にとどまるものでなく教会にも必要なものではないかと私は思う。このことが日本の教会が今日の人々の必要から遠く離れてしまった理由と決して無縁でないように思われるからである。

 私の親しい友人の一人で、牧師をやめて大阪の下町で働き始めた人がいる。先日彼は私にこんなことを言った。「私か牧師をやめることになったのは当然のことだったと思う。実際、下町の人々の中で働き、語ってみて、あの当時の礼拝のメッセージなど、全然人々の心に届いていないことがわかってきたからです……。人が集まらなかったり、集まってきても生き生きとしなかったのは自然の勢いでした……。」

 同じような内容の「断想」がある。

 

   自分を通過

 神を信じるという人が神を信じているわけではありません。

神に生かされている人が神を信じているのです。そして、神に

生かされている人は神について語らないで、神に生かされてい

る自分を語るでしょう。信仰の問題は、神の問題でも人間の問

題でもなく、自分自身の問題です。信仰をおびやかすものは従

つて、無神論でも科学でもなく、多忙な生活でも物質的欲望で

もなく、道徳的混乱でもないのです。それは、自分を批判吟味

することに時間と労力とを費やすことを無駄と考えて、簡単に

自分を通過してしまうことです。

                  (『神の風景』 170頁)

 

b 病める者として

 

 心の病気という世界に携わって不思議に思うことが一つある。それは、”病む”という世界を通っていく人のセンスが非常に人間的になっていくのに対して、自分こそは健康であり、強いと思っている人のほうが、本来的な人間の姿から遠ざかっているということである。

 たとえば、星野富弘さんの次の詩を一つ考えてみょう。

 

ひとつの花のために

いくつの葉が

冬を越したのだろう

冬の風に磨かれた

椿の葉が 輝いている

母のように

輝いている

(『風の旅』立風書房、63頁)

 

 心を病むという経験を通った人々は、一輪の花のために多くの葉が冬を越したことに気づくところに近く位置している。これに対して、自分こそ正常で健康と思っている人々は、自分が一人で花を咲かしていると思い込みやすく、多くの葉の支えのあることなどに気づかず、そこに立ち止まろうともしない。だから心病む人々の声に耳を傾けていると、はたしていったいどちらが人間的なのか、あるいはどちらを正常と呼んだらよいのか戸惑うことがある。

 そして、これはおそらく、本来、傷ついたり、病んだりしていいところで、自分のしていることに気づけない人間の悲劇、すなわち、主イエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)という御言葉の意味するところにさかのぼることになるであろう。

 痛みと信仰の関連について、次のような内容の「断想」もある。

 

    痛まない信仰

 傍観者とは畢竟傷つかない人です。ところで、生きるという

ことは傍観者ではありえないことですから、人生は何らかの意

味で傷つくことなしには生きえません。そして、この傷に関わ

るものが信仰なのです。人生の傷の痛みを知らないものには、

信仰は無縁の世界でしょう。傷を知るものが皆信仰を持つとは

限りませんが、傷を知らずに信仰を抱くということはありえま

せん。ですから、信仰において傷の痛みが切実に問題となって

いないのなら、その信仰はいかに多くのことを深く語ろうとも、

人生の傍観者の戯言に過ぎないでしょう。

                  (『神の風景』 105頁)

 

C 楽しく

 

 けれども信仰をもって生きることは暗く辛いことばかりとは限らない。むしろ本来楽しく、またおもしろいことでもある。

 

    本 物

「上手な絵かきは本当の絵かきでないよ。ヘタクソな絵かきこ

そ本当の絵かきです」と棟方志功は言います。上手下手と本当

とは別のようです。本当のものは、人の心をひきつけて高め、

深め、広げます。要するに、より高い世界へ招く趣があります。

この趣が、面白さというものです。面白いというのは、本当の

ものが出す味わいなのです。そして、いかなる上手さも、この

味わいを出すことができません。信仰者は、本当のものを知っ

ているものとして、上手な生き方より面白味のある生き方を願

うべきでありましょう。宗教的なものには、面白さがあるはず

であります。

                  (『灰色の断想』48頁)

 

引用された棟方志功のことばは、私には次のように聞こえてくる。

 ”上手な生き方(すなわち上手な信仰)は本当の生き方(信仰)でないよ。ヘタクソな生き方(信仰)こそ本当の生き方(信仰)です。”

 おもしろいことに、この「断想」に出会う前に、私はしばしば若い人々に、”信仰生活は楽しくなくてはいかん。また人間はおもしろくなくてはいかん”と語っていた。今思うと、その楽しさやおもしろさは、人間の犯すいろいろな試行錯誤や失敗の中にも張りめぐらされている神の知恵、配慮、ユーモア、あるいは、本当のものを求めようとして歩むその過程そのものが、私たちにもたらす人生の奥深い味わいということに由来していたのでないかと思う。

 ところで、”上手な生き方は本当の生き方ではない“ということに関して、少し気がかりに思うことがある。

 ある人に大学の教職を勧められて、二、三の知人に意見を求めた折りのことである。もう二十年来大学の教授をしている人は、私に次のようなことを言った。

 「まじめな、内容のある講義をする先生ほど敬遠されて、学内にいにくくなります。学生が集まらないからです。これは私のところだけなのかもしれませんが、今の学生は本を読まない、悩みもしない、したがって学ぶという姿勢そのものが危ういのです。私は人間関係学を講義しているのですが、だいたいの学生は、新学期にはしごにかけて偵察にきます。その科目は単位が取りやすいかどうか……。」

 学生生活を適当にエンジョイし、上手に単位をそろえ、良い就職先にもぐり込もうとする生き方が、今の若い人の生き方を支配し始めたらしい。私はいささか不安になった。というのは、迷ったり悩んだり、まわり道をしたり、思い違いをする生き方の稚拙さこそ若さの特権と心得るのだが、学生がスマートになってしまったらそれこそもう先がないように思えたからである。

 ちょうどその折り、私はラジオでよくジャーナリズムに登場する一人の精神科医の話を聞いた。 ”上手な生き方”というタイトルの話である。このひとはその話の中でこう言った。

  「物事をまじめに受け止め、完全にやり遂げようなどとこだわる人ほど病気になりやすい。そんなことより、むしろ適当なところで切りあげて、世の中と上手につき合っていったらいい……。」

  一面でなるほどと思いながら、私はこの話を聞いて、また不安になった。そしてこの人は、心を病むという人々と本当につき合ったことのある人だろうか、と思った。というのは、心を病む世界を通る人々は、この上手な(?)生き方ができないで困っている人々にちがいないからである。

 たとえば、今、私のところに来ている中年の婦人は、四十年来続いている母親との確執をいまだにぬぐい切れないで悩んでいる。現実的で、”今をおもしろく、おかしく生きればよい”という母親に対して、物心ついたころ自分を捨てていった母親のやり方をどう理解したらいいのか、どう受け止めたらいいのかと、自分自身の世間的には「成功した」といわれる生き方とは別の次元で悶々と苦労しているのである。

 また、一人の青年は、父親が”そんなにいつまでもグズグズとしていないで、Aの仕事がだめだったらBの仕事をやったらいい”と容易に言い切るのに対して、世の中そんなことですむんだったら、こんなに苫しむ必要などないと、その無責任さに驚いているのである。

 そんな折り、たまたまゴッホの映画を見た一人の人は、私に。そのようにしか生きられない人がいるんですね”となかば驚き、なかば何か犬切なことを発見したかのように感想を述べてくれた。

 ともあれ、“上手下手”と”本当の生き方“とは別のようである。

 

d 美しく

 

先日、私は四国の小さな教会で講演をしたついでに、一人の信徒伝道者を病院に訪問した。身体のあちこちに癌が転移して、もうこの地上の命も長くないと思われたが、その御顔は気品に満ちたものであった。かつて私に、”欲のない人って本当にすてきです、本当に魅力的です”と言われた牧師夫人がいたが、確かにこの世の欲から遠ざかって生きてきた信仰者の姿というものにはすがすがしいものがある。次のような「断想」がある。

 

    宗教の主張

 気付こうが気付くまいが、人は生きている限り政治の問題に

深く影響されているのですから、政治的に人間の諸問題を解決

しようとするのは間違っていません。生きた人間を問題にする

限り、宗教もまた政治的に行動せざるをえません。しかし、そ

のような政治的行動にのみ、宗教の生きている姿を見るのは、

宗教への誤解です。不幸や矛盾を取り除かず、却ってそこにお

いてこそ輝く生命を見る、そのような生命の美学が、宗教の本

質なのです。人間は政治的存在であるよりも美学的存在である

というのが、宗教の主張であります。

                  (『神の風景』 172頁)

 

宗教と美とは必然的に結び着くものなのであろう。

 

e 魅力的に

 

 信仰者の美しさについて述べたついでに、多少気が引けることであるが、信仰者の課題について、二、三、私見を述べてみたいと思う。

 十五年間、キリスト教病院で働いてずっと気がかりに思うことが一つあった。誤解を恐れずに、あえてことばに表せば、クリスチャンと呼ばれる人々の何とも言えないいやらしさである。それは一種の甘えと呼ぶべき現象であり、またある種の優越感と言ってよい事柄である。

 前者についていえば、自分はクリスチャンだからキリスト教病院なるところで優遇されて当然 と考えたり、自分は弱い立場にあるのだから助けてもらうのは当然という考えがどこかでチラついていて、少しでも不利益や不親切をこうむろうものならば、”それでもクリスチャンか、キリスト教病院か”と、たちまち相手の非を鳴らす姿勢に方向を転ずるなどのことであり、後者についていえば、信仰をもっていることを特別視し、そうでない人々をどこかで軽視する態度が見え隠れすることである。私は、このためだんだん自分がキリスト者であることに戸惑いを感じ、最後には“信仰をもつこととは、所詮「ただの人」になることではないか”と思ったりしたものであった。ところで、こうした現象はいったいどうして生じるのだろうか。次のような「断想」がある。

 

    押 え

 営利を目的とした世界では嘘をつくことも止むなしとするほ

どに、お金は強大な圧力で人を押えています。ところがたとえ

ば宗教のような精神的なものを目的とした世界では、そういう

押えがないかのように見え、それぞれが心に画くものを純粋に

主張する嘘のなさが尊いとされます。しかし押えの下にないと

精神はいやらしくなるものです。実業の人に、錬れた魅力的な

人が多く、宗教の人に、独善的で小さい人が多いではありませ

んか。宗教にも本来はある押えを回復しなければなりません。

押えのない宗教はお金以下です。

                   (『神の風景』 16頁)

 

 「押え」というのは、身のほどを知るということであり、神の前に自分がどんな者であるのかを点検し続ける心の姿勢であろう。言わば、神との間における一つの緊張関係である。ところが、精神的なものは純粋に主張すればするほど、神を味方に引きずり込んだようなものになりやすく、そのためかえって神との緊張関係を欠いた甘えが生じ、いやらしいものになるのではないだろうか。

 

f  人間の誇りをもって

 

二つの「断想集」の中で、私の意表をついて、緊張した神との関係を生きる信仰者の基本姿勢を示すものに次のようなものがあった。

 

   あわれみを乞う

  「あわれんでください」、まことに情なく、だらしない言葉

です。それにもかかわらず、この言葉には人間の誇りが感じら

れます。もはや自分の力ではどうしようもなくなった人間が、

自らの生命を絶つのではなく、さりとて動物のようにただ生き

ておればよいというのには耐えられず、なんとか人間らしく生

きたいというところで発する最後の言葉でも、これがあるから

でしょうか。あわれみは、誇りを捨てた時にだけ乞うものでは

ありません。誇りのために乞うものでもあるのです。前者はね

だる願いです。後者は信仰の祈りです。

                   (『神の風景』29頁)

 

 信仰生活の現実において、私たちはあのバルテマイのように「主よ。私をあわれんでください」とはなかなか叫べないものである。しかしこの祈りの姿勢において、信仰者は多少なりともその「いやらしさ」から守られるのではないだろうかと思う。

 

御言葉のとらえ方

 

 診察室で、様々なことを話された後に「感謝できないのは私の信仰が足りないからでしょうか」とか「祈れないのは不信仰なだめでしょうか」などと問われると、必要以上に人々の心を圧迫する聖書の読み方、説き明かされ方というものが現実にあるのではないかと考え込んでしまう。総じて、クリスチャンと呼ばれる人々の中で、感謝できない”自分を責める傾向が強いように私には思われる。

 

a 幸せと感謝

 

 ところが、よく考えてみると感謝できない心境というものは、本来あり得ないのではないだろうか。

 

   感 謝

 幸せなことがあれば感謝するのは当然ですが、もしそれだけ

のことなら、感謝とは、自分にとって幸せか否かで人生を選別

する、まことに身勝手な感情に過ぎないことになります。しか

し感謝とは、そんな自分本位の小さな感情ではない筈です。そ

れは、人生の大きな包容の中にある自分を発見することなので

す。それは一つの自己発見であって、幸福に誘発された感情で

はないのです。そして、幸・不幸を越えて包容する大きな肯定

の中に自分を発見した人は、すべての事態を受けとめるでしょ

う。感謝する人は逃げない人です。

                   (『神の風景』22頁)

 

 それゆえ、もし私たちが、感謝できないとすれば、それは案外、幸せと感謝との関係を取り違えて、幸せに対する反応を感謝と考えているところにあるのかもしれない。しかし宗教者にとって、感謝は信仰の当然の帰結なのである。なぜならば、宗教とは、人生を裏返しにした世界の発見、つまり、生かされ支えられている世界の発見だからである。

 

b 絶えず

 

 また、信仰者の心を悩ます御言葉は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Iテサロニケ5・16〜18)という類いのものであろう。

 「いつも」「絶えず」「どんなことにも」この三つの勧めが心の負担になってしまうのである。そんなことができるか、という疑問が出てくるからである。しかしそれは、「いつも」とか「絶えず」を連続性のことと理解するからであろう。だから次のような視点で物事を見るのも私は意味があると思う。

 

    断続的に

 心に清さを抱いて、それを貫いて生活をしたいと願っても、

実際はそうはゆかず、不徹底なことになってしまうのが普通で

す。そういう経験をすると、どうすれば清い心を貫けるのだろ

うかと悩んでしまいますが、その必要はないのです。元来私た

ちは、清い心を生活の中に連続的に貫けるほどに清くはなく、

私たちにとって清い心とは、所詮断続的なものでしかないから

です。連続的にではなく断続的に、これが清い心が生活を貫い

てゆく姿なのです。断続的であることを清い心の不徹底と思う

必要はありません。断続的でよいのです。

                   (『神の風景』75頁)

 

つまり、「いつも」「絶えず」は持続性の問題であって連続性の問題ではないのである。断続的になってもとにかく持続することが「いつも」そして「絶えず」なのである。

 

C 喜び

 

 それでは、喜びについてはどのようなものであろうか。「喜び」は信仰の本来を点検するものなのである。

 

    喜 び

 どれほど深い信仰でも、そこに喜びがなければおかしいと考

えるべきでしょう。どれほど熱心な奉仕でも、そこに喜びがな

ければおかしいと考えるべきでしょう。どれほど正しい生活で

も、そこに喜びがなければやはりおかしいと考えるべきでしょ

う。喜びとは、ことの真偽を判別する大切な基準です。喜びの

ない深さは自己満足している深刻さなのです。喜びのない熱心

さは報いを求める不平なのです。喜びのない正しさも他を裁く

誇りに過ぎないのです。いずれにしても喜びのないものは、全

て未熟であると考えて間違いはありません。

(『神の風景』六四頁)

 

d 安定感

 

また、安定感については次のような「断想」がある。

 

   信仰の喜び

 信仰は喜びをたしかに与えてくれはしますが、しかし、それ

は喜びのためのものではないのです。何のためかと言えば、人

生の根底にある問題を明らかにするためと言えましょうか。信

仰は人の醜さを明らかにし、それから目をそらさせないように

拘東することをもって第一義とするものなのです。そういう意

味で信仰は、喜びよりは苦しさを与えるものであり、そしてま

さにその苦しさにおいて、人生の根底に触れている故の安定感

を与えるものであるのです。信仰の与える喜びというものは、

結局この安定感の別名にほかなりません。

                 (『灰色の断想』 一三四頁)

 

 これらの断想に触発されて、私自身の若い日の信仰生活を振り返ってみて初めて気がつくことなのであるが、奇妙なほどの明るさ、おめでたいほどの軽さの中にある信仰生活を送っていた時のことである。教会の中ではよく祈りがなされ、賛美がなされ、人々の顔は神を信じる幸いに輝いているように見えたが、妙に私の心は、不安になることがあった。心の底で”信仰って果してこんなものなのだろうか”という、漠とした思いがよぎり、何か上すべりの感を免れなかったからである。

 今考えると、この奇妙な明るさは、私がまだこれらの「断想」が伝える「安定感」の由来に触れていなかったからではなかったのかと思われてくる。すなわち、生の苦しさが理解できないために生の根底にもまだ触れず、礼拝において神を見上げることはできても自分を見つめることがよくわかっていなかったのであろう。

 

e ゆるし

 

 また当時は、祈る時に、“敵を愛する”とか“人をゆるす”、あるいは“自分を捨てる”などということを案外平気で口走っていたと思う。しかし、実際その後社会の中で様々な経験が与えられ、長い信仰生活を振り返ってみると、そうした祈りの中には、結構滑稽な気負いというものが入り込んでいて、現実の世界は、私の場合、もっと緩やかなものではなかったかと、次第に気づき始めるようになった。

 それゆえ、次のように言われると、なるほどと思ってしまうのである。

 

   お互いさま

 敵を愛することは最高の美徳のようにいわれますが、よく考

えてみると、敵など現実の生活の中にはいないのではないでし

ょうか。誰が敵か、具体的に考えてみましょう。嫌いな人はい

ます。腹の立つ人、不愉快な人もいます。しかし、敵というお

そろしい言葉で呼ぶべき人は、そうやたらといるものではあり

ません。敵を愛するという美徳を、滑稽な気負いにしてしまう

位に、現実というものはお互いさまなものです。仮想の敵に備

えるよりは、お互いあまり変わりはないのですから、ゆるしゆ

るされて生きて行く方が、足が地についています。

                 (『灰色の断想』 一六九頁)

 

f  循環を生きる

 

 二つの「断想集」を一貫して貫いているものは、自分を見つめることが、即、神を深く知ることという関連性の中で捕らえられている信仰者の姿である。実際イエスは、神を愛することは、隣人を愛することであるという形で、神と人との関係が、表裏一体の間柄にあることを示された (マルコ12章)。だからひと事でいえば、伝道者が、その家庭を顧みず、信徒が身近にある隣人を顧みないことなど、本来あり得ないはずである。にもかかわらずこうした現実が決して少なくないと私は思う。“言う”ことと“する”ことの違い、“理想”と“現実”の違いの難しさであり、これが人間の現実だからである。おそらく問題はこの大いなる矛盾の中にあってその人がどれだけそのことを自覚し、そのことに心を痛めていくのかということであろう。

 信仰者の生き方について次のような勧めがある。

 

   具体的に生きる

 神を求めれば求めるほど自分を顧みずにはおれなくなり、自

分を顧みればみるほど神を求めずにはおれなくなる。神を愛し

ようとすればするほど隣人を愛することが課題となり、隣人を

愛しようとすればするほど神への愛が問われてくる。神と共に

生きようと願えば願うほど日常生活が重大になり、日常生活を

大切にしようとすればするほど神と共に生きることを願わずに

はおれなくなる。具体的な人生とは、この循環を生きることで

ありましょう。片方を切り捨てた神のない生活も、生活のない

信仰も、共に抽象的であります。

                 (『灰色の断想』 112頁)