2部 心の健康と宗教 

2 心の健康と宗教について

 

 

目 次

心の健康と宗教

a.幸福願望からの解放

 

b.自然な感情の発露

 

 

様々な助け手

a.病気

 

b.不信仰

 

c.誘惑

 

d.弱さと悪

 

 

二つの誤解

a.信仰とは常時のこと

 

b.祈り

 

 

 

 

 

心の健康と宗教

 

a 幸福願望からの解放

 

 『甘えの構造』(弘文堂)で知られる土居健郎氏の本に、大変おもしろい指摘がある。それは現代という時代に、なぜ心の病気が増えるのかを論じた一節であるが、その主たる理由を土居先生は現代人の心の心性“幸福獲得戦争”に求めるのである。

 

 「戦争など災害時に心の病気がよくなり、現在のように平和時に心の病気がふえるというのはまことに皮肉な話である。だからといってもちろん戦争を歓迎するわけにはいかないし、心の病気を贅沢病といって非難するわけにもいかない。しかし、この事実から恐らく次のような考えを引き出しても間違いではなかろう。人間は不幸を直視できる時には病気にならない。不幸だが、病気ではない。ところが不幸を直視できず、何とか幸福になろうとあせると心の病気になる。であるから戦争の時のように皆が不幸で、どちらを向いても不幸だらけの時は、誰も不幸から逃れようとしないから、心の病気がへるのだろうと思われる。しかし平和の時は平和だけに、めいめいが幸福になろうと懸命になる。実に今日の時代精神は、なるべく多くの安楽を、苦痛の能うかぎりの除去を、心を高揚させる刺激を追い求めることをもってよしとしている。いきおい、個人的不幸は何とか目立たぬように片付けられねばならぬ。そして、そこに無理が生まれる。今日のような時代に、心の病気がふえるのはこのためであると考えられるのである」(『「甘え」の周辺』弘文堂、129頁)。

 

そしてまた続いて“心の健康と宗教”について次のように論じておられる。

 

 「精神分析の創始者であるフロイトが、ある時精神の健康を保つ秘訣をきかれてこう答えたという。「働くことと愛すること。」まことに簡にして要を得た答えである。全くその通りだと言いたい。もし敢えて、これに付け加えるとすれば、上述してきたことにしたがって『自らの不幸をごまかさず、それに耐えること』をつけ加えよう。なお、このことと関連して、心の健康と宗教の関係についても簡単に言及しておこう。というのは多くの人は宗教心によって、はじめて心の健康が得られると信じている。それはそれで大変結構な話だが、しかし反対に、宗教心にも拘らず、いやまさに宗教心故に、心が病んでいる場合もある。この面倒な問題に対する私の処方は次のごとくである。人間の不幸を見つめさせ、それを受け入れさせる宗教はよい。……しかし人間に、あまりにもすぐに多くの幸福を約束する宗教は危険である。危険というのは、心の病気を誘発する恐れがあるからである。もっとも、現代においては幸福を約束するのは既成宗教とは限らない。種々のイデオロギー、実に精神分析までもが、幸福獲得の手段として宣伝される。これらはすべて精神の健康にとって危険である」(同 132〜133頁)。

 

この中で私の心を引く考えは“人間は本来不幸なものではないか”という指摘であり、もう一つは“人間に自分の不幸を見つめさせている間、宗教は健全である”といわれていることである。

 前者について次のような「断想」がある。

 

   単純

 幸福でなければ生き甲斐がないかのように言います。しかし、

人生は幸福であるはずだと考えるのは一体何を根拠にしてのこ

となのでしょう。人生が本来不幸なものであったとしても、別

におかしくないではありませんか。人生は幸不幸になんの関係

もない、生きるという単純な事実だからです。この単純さに幸

福とか生き甲斐とかやたらに価値づけをしたがるのは、迷いで

あります。日々果たすべきことを精一杯果たして、それで満足

して生きている人の単純さを軽蔑してはなりません。そこには

事実に徹して人生を見た人の眼光があります。

                  (『灰色の断想』66頁)

 

 中国のことわざに「事固無醜好 事に固より醜好無し 醜好貴不惑 醜好は惑わざるを貴ぶ」(もともと物それ自体には醜いも好いもない、大切なのは醜いとか好きとかのとりこにならないで物を素直にみることだの意)というものがあるが、自分の身勝手な感情でこの世の中をいたずらに好ましいものとしたり、醜いものとしたりするのが、私たち人間の愚かさであり、弱さなのだろう。それはともあれ、私は“人間が本来不幸なものであってもよいのではないか”という発想に出会って、どこか休心もし、また納得もした。というのは人が心を病むという現実に関わってきた経験からいえば、人間は決して幸福であるとは言えないし、むしろ、どうしてこうも生きることは苦しいことなんだろうと思うことのほうがはるかに多かったからである。それゆえ、人間は本来、不幸であると受け止めたほうが、むしろ幸せの実感とその発見の度合いは、増すのでぱないだろうかと考えたい気持ちになるのである。

 また第二の点“人間の不幸を見つめさせ、それを受け入れさせる宗教はよい。……しかし人間に、あまりにもすぐに多くの幸福を約束する宗教は危険である。危険というのは、心の病気を誘発する恐れがあるからである”ということに関して、私は大いに思い当たることがある。というのは、私は長い間、キリスト教病院なるところで、多くのこの種の混乱に遭遇してきだからである。同僚の一人はこのことのために、すっかりキリスト教嫌いになってしまったほどである。

 彼のことばを借りて言えば“クリスチャンという人の中には、病気というものをあまりにも甘く見て、安易に問題が解決するかのように考えたり言いふらしたりして、人を混乱に陥れることが少なくない”という。なるほど今日でも、彼の言うように、キリスト教病院に行ったら何とかしてもらえる、あそこに行ったらきっと病気が治る。“などといとも簡単に、あるいは無責任な言い方をする風潮というものは相変らず多いし、”ここ(教会)に解決がある“ ”そこ(教会)に行きさえすれば……”と言って、教会の過大宣伝をして、後に人々を大きな失望に陥れるという話も時折耳にする(それはもちろん一部のことに違いないだろうが)。けれども、こうした過度の期待を投げかけられて困るのは、治療者であり、一番傷つくのは患者さん自身である。

 宗教が安易な方向に、それやすいことについて、次のような「断想」がある。

 

   迷い方の問題

 救いだけを語る宗教は人間を侮辱しています。審きだけを語

る宗教は人間を過信しています。審きと共に救いを語る宗教は

人間を甘やかしています。信仰において神が与えようとしてい

るのは救いでも審きでもないのです。それは明晰です。安住し

ようとしている足許を崩し、迷うべき本来の私の姿を自覚せし

めてくれる、明澄なる人間への洞察です。信仰の賜物は迷いが

なくなることではなくて、正しい迷い方なのです。迷いについ

てこそ語るのが信仰です。迷いについて何も語らぬような宗教

は、宗教であっても、信仰ではありません。

                         (『神の風景』 155頁)

宗教というのは微妙なものだと私は思う。

 

b 自然な感情の発露

 

 人に人間本来の生き方を保証し、可能ならしめるのが宗教であると考えられるが、私たちの現実は必ずしもそのようなものでないと思われる。

 たとえば“喜怒哀楽”という自然な感情の発露について考えてみよう。信仰者の心の姿勢は必ずしもその表出に自由であり、かつまたそのことが積極的な意味をもっていると評価しているとは限らないようである。

 先日、あるところで講義した折、次のようなメモ書きが私のもとに届けられた。

 「このたびはほんとうにありがとうございました。この春に二人の家族を次々と失い、それが神さまの御旨と思いつつもなかなか涙が乾かず、重い心を引きずってここにやってまいりましたが、お話がしみじみと心にしみわたり、泣かないで強く生きるのではなく、泣いている自分を素直に認め、受け入れようと思いましたら、私たちの主が、ラザロのために涙を流された個所が心に浮かび、私たちの痛みや悲しみと共にあってくださる主イエスの優しさに迫られ、感謝と喜びをもって山を降りられます。ありがとうございました。……」

 人間が、様々な喪失に見舞われるとき、人がその悲しみをどう乗り越えるか、この悲嘆の作業を進めていくうえで障害になるものの一つに、「遷延された悲しみ」というものがある。泣くべきときに十分に泣いていなかったばっかりに、また、怒るべきとき十分に怒れなかったばっかりに、納得のいく別れができなくて立ち直りの次のステップに進めないという一つの悲劇である。

 これは、本当の和解や親密さの獲得のためには“理解されるための闘い”を通らねばならない結婚生活にも共通する事柄である。

 先日、こんなことを話してくれた人がいた。

 「私たちは、結婚してこの春で二十三年になります。けれども、つい最近までほんとうに夫婦らしい会話を交わしたことがありせんでした。私か怒れば家内を傷つけ、家内は家内で自分が辛抱しさえすればこの家は丸くおさまると考えていたからです。こうしたなかで、三人の子どもたちが次から次へと不登校状態になっていきました。今思うと、これもみな、私たち夫婦がほんとうの会話、ぶつかり合いを避けた結果だったのです。けれども先日、とうとう意を決して、“このままでは私たち夫婦も、子どもたちもだめになる。もっと正直に生きよう“と家内に話しました。家内はその時初めて、この二十年間古い家族関係のうごめく家に嫁いで”はりのむしろ“のような毎日だったこと、私か本心を言わないでいつまでも他人のように感じてきたこと、それに子育ての心配も夫婦で分かち合えなかった寂しさなど、いろいろ打ち明けてくれました。二十年して、今やっと私たちは夫婦になれたような気持ちです。……」

 ところでこの人において怒りの感情の表出を極力避けさせてきたものは“クリスチャンはいつも感謝し、喜んでいるべきだ”と考える一種の律法主義だったという。

 私はその時、人間は何と臆病な存在だろうか、また何と思い違いをしやすい存在なのだろうかと驚いてしまった。人は、自分が正直に自分の気持ちを表現したら、きっと恐れていたような事態がすぐそこに起こると考えてしまうのである。

 ところが私の経験から言えば、多くの場合、その恐れは現実のものとはならないことが多い。

 

 次のような「断想」がある。

 

   優しい現実

 楽な方を選び、得をする方を選び、つらい思いをするのを避

けようとするのは人情の自然ですが、そういう逃げの姿勢をと

ると一層重くのしかかってきて、みじめな思いを味わわせるの

が、現実というものです。現実は、腹を決めて受けとめると、

案外軽いものです。逃げの姿勢をとるから、重苦しい敵の相を

とるのであって、現実は、真正面から受けとめればわかります

が、思いがけないような優しさを持っているのです。ですから、

みじめさを感じたら、現実の重さをかこつよりは、現実への対

し方を反省する方がよいと思います。

(『神の風景』 18頁)

 

様々な助け手

 

a 病気

 

病気といういわば”望ましくない“体験に出会うと、医者も患者さんもできるだけこれを早く退けたいと一生懸命努力する。この世界にあっては、病気は即悪といっていい勢いである。ところが、長い間こうした仕事に携わっていると、そう単純には言い切れないものがあることに気づく。それは、病気という体験を通っていく人が、非常にしばしば「病気をしたこともむだではありませんでした……」とか「病気をしてほんとうによかったと思います。それによって何かとても大切なことに気づきました……」と言われることがあるからである。

 

 「最近になって、病気になって本当によかったとしみじみ思えます。まわりの人々が私を受け入れ、認め、気にかけ、協力してくださったことがわかって、自分は決して見捨てられてはいない、いや、本当は十分に愛されていたんだということがわかり、その中に身をおくことの心地よさを感じます。これからは人々を愛することも、以前より容易になるのではないかと思います。私の愛は、今までとても小さなものでしかなかったと思いますが、少しでも心を豊かにしていきたいと思います……」。

 

これは、今は元気で働いている人のことばであるが、心を病むという状態を通って、この人は改めて自分の大切さに気づいたと思われる。

 病むということについて、故河野進先生の次のような印象深い詩がある。

 

病まなければ ささげ得ない祈りがある

病まなければ 信じ得ない奇跡がある

病まなければ 聞き得ない御言がある

病まなければ 近づき得ない聖所がある

病まなければ 仰ぎ得ない聖顔がある

おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得ない

(「母よ幸せにしてあげる」聖恵授産出版社)

 

 この流れの中では、病気もまた、間違いなく何か非常に大切な役割をはたしているのである。そこで様々な体験を振り返ってみると、人間というものは自分にとって“あってほしくないもの”いやむしろ”なくなってほしいもの”に助けられて生きているという事実があるのではないだろうかということに思い至る。

 次のような「断想」がある。

 

   苦悩に助けられて

 矛盾や苦悩が無くなればよいと思いますけれど、そうなると

きっと自分の限界を忘れて調子に乗るのではないでしょうか。

表面にあらわさなくとも、思い上がりを犯しそうな気がします。

矛盾や苦悩に脅かされることなしに人間としての限界を正しく

わきまえ続けられると思うのは、それ自体傲慢ではないでしょ

うか。人間はそんなに慎み深いものではありますまい。矛盾や

苦悩に助けられてかろうじて人間として目覚めているように思

います。矛盾や苦悩を犬切にしなければならないのは、人間が

人間を忘れっぽいからです。

                  (『灰色の断想』五九頁)

 

b 不信仰

 

 そこでこの発想を少し私たちの信仰生活に立ち入って考えてみたいと思う。

私はかって“健全な信仰というのは多少なりとも不信仰を含むものではないだろうか、いや不信仰があって初めて信仰は次の段階に進むのではないか”ということを述べたことがある(『信仰による人間疎外』いのちのことば社、101頁)。それは人間の心の八つの発達段階という考えを言い出したE・エリクソンの発想に触発されたことであった。すなわち「基本的信頼」 (basic trust)という概念を言い出し得たエリクソンは、乳児が「基本的信頼」の達成に失敗して芽生える「基本的不信」こそが、人間の心を次の達成段階に進ませる源泉になると主張したのである。すなわち、もし人が全き信頼を獲得してしまったら(幸いにもこの世界も、また親も不完全さを兼ね備えた存在であるから、そんなことは現実にはあり得ないが)、人はもはや次のステップに進むことができないであろうというのである。

 そこで私はこれと同様に、私たちの、信仰心が全き完成の域に達してしまったら、その人の心は神に向かって目を上げることをやめてしまうかもしれないと考えたのである。このことは私自身の二十年余に及ぶ信仰生活を振り返ってみてもよくわかることである。すなわち、神に対する素朴な疑問や不平不満、あるいはある種の不信があったからこそ、さらに踏み込んで神を探究しようとしたのではないかということである。

 

   不動の信仰

 不動の信仰とは、信じることにおいて迷いのないことなので

しょうか。そうではありません。私たちの生活は常に不条理に

揺れていますし、私たち自身も常に愚かな迷いを続けているわ

けで、信仰もその点例外であるはずはないのです。人生の営み

はすべて迷いの中にあります。ですから、迷いからの脱出を願

うのではなく、迷いこそ正常な生の姿と受けとめることこそ大

切であり、そう受けとらしめるのが信仰というものでしょう。

そして、迷いの中で不動を求めずひたすら虚心を求める、それ

が信仰の不動というものであります。

                 (『灰色の断想』 140頁)

 

信仰者は悩んでもよいし、迷ってもよいのである。いや迷いこそ人間の本来的な姿であり、信仰生活に不可欠な要点であるとすらいえる。

 

c 誘惑

 

そしてこのことは、誘惑ということについても同様に言えるもののように思われる。

 

誘惑

人間は天使でも悪魔でもなく、両方の可能性を持った矛盾で

す。宗教はこの矛盾を超克せしめるものでしょうが、ことはそ

う簡単にゆきません。宗教は人間を天使の方に抽象化してとら

え、一つの生硬で道徳的な観念に堕しやすいものです。ですか

ら宗教を具体的な人間に即したものに引き戻し、生身の問題に

直面せしめ、それとの対話を余儀なくさせるものが必要になり

ます。その役割を果すもの、それが誘惑です。誘惑というと宗

教の邪魔をするもののように思いますが、実は誘惑の中でこそ

宗教の本来性は育てられてゆくのです。

                           (『神の風景』 189頁)

 

 これらのことは、人は対極にあるもの、相反する性格をもったものを大切にしなければならないということを私たちに教えているもののように思われる。すなわち、それらを無視したり、排除するということは、生きることそれ自体を単調な浅いものにするのではないかという考えである。これは社会が小数意見を尊重したり、反対者の声に耳を傾けなければならないことと同等である。

 ともあれ、マイナスのニュアンスをもったものの中にも大切な役割があるということを評価することは大事なことのように思われる。

 

d 弱さと悪

 

 それでは弱さと悪についてはどうであろうか。たとえば弱さということについて、次のような「断想」がある。

 

   悩みの時

 悩みの時に神を求めると、逃避的とか御利益的とかいわれま

す。たしかに否定できない点もあります。しかし、悩みの時は、

順境において見落としているものを発見せしめてくれる時であ

ります。悩みを通して、自分の弱さ、愚かさが見えてきますし、

人への思いやりの目も与えられてくるものです。要するに、見

えていなかったものが見えてくる、その開眼の時でもあるので

す。悩みの時に神を求めることが、今まで確かだと思いこんで

いた自分に不確かさを発見し、さらに真の確かさである神に開

眼する、そういう場合もあるのです。逃避かどうかは、別問題

であります。

                  (『灰色の断想』四〇頁)

 

 悪の存在について、C・G・ユングの晩年の思想に次のようなものがある。

 「悪からたくさんの善が私にもたらされました。静かにし、何も抑圧せず、耳をそばだて、現実をすべて受け入れ、――物事をそうあってほしいようにでなく、そのまま受けとめ――そのようなことをすべてに行なっているうちに、並みはずれた知識が、また並みはずれた力が、私のもとにやってきました。そしてそれは、私が想像し得るようなものではありませんでした。われわれが物事を受け容れるとき、それらは何らかの形でわれわれを圧倒してしまうのだと私は思っていました。このことは全く真実ではないとわかりましたし、それを受け容れてこそ、それに対する態度もとれるのです。今や私は、永遠に交替する善も悪も、光も影も、私に来たものは何であろうと受け入れ、また、私の性質の肯定的、否定的な両面も認めて、人生を正々堂々と送るつもりです。このように、何もかもが私にとって、より生きたものになってきました。なんと私は馬鹿だったのでしょう。どれだけ私はすべてを、そうすべきだと勝手に考えた方法で進まぜようと強いてきたことでしょう。」

(A・ストー、河合訳『ユング』岩波現代選書9、130〜131頁)

 

 ちなみにユングはフロイトの「優越性」に対して「統合性」あるいは「全体性」に高い評価を見出した人物である。

 これは、心の病気という限られた領域からの経験に基づいて述べたものであるが、これらのことはこの世には案外無駄というものが少ないのかもしれないということを、私たちに思い起こさせる。「断想」には、この間の事情を次のようにまとめたものがある。

 

   一切込みで

 人生よいことばかりではありません。うまくゆかないことも

あります。思いがけない障害に出会うこと、期待はずれに終る

こと、計画通りにゆかないこと、挫折を余儀なくされること、

運の悪いこともあるでしょう。しかし、それら全てを含めて人

生の全体を神より与えられたものとして受けとめ得ること、そ

れが救いということです。うまくゆかないことのひとつひとつ

が解決されてゆくことが救いではないのです。良いも悪いも一

切を込みで、人生全体を神よりの賜物と受けとめ得る、その受

身の人生態度の確立が救いなのです。

(『神の風景』 134頁)

 

二つの誤解

 

 キリスト教でよく言われる「罪」ということばは、原語では「的はずれ」という意味であるというが、人は、その生き方、考え方だけでなく、信仰のとらえ方の点でも間違いをしやすい存在であるように思われる。人間は所詮、罪の存在から免れ得ないからである。私自身の経験を踏まえて、”信仰”と”祈り”という二つのテーマについて考えてみたいと思う。

 

a 信仰とは常時のこと

 

 人は何によって自分自身がキリスト教であり得ることを確認し、何によって信仰生活の確かさを確認するのだろうか。

 

   常時への着地

 信仰についての抜き難い誤解は、それを非常時のことと捉え

ていることです。病気の時、失意の時、困難な時、あるいは入

学、就職、結婚、葬式、そのような常ならぬ時に、信仰の出番

があると考えていることです。しかし、信仰は本来常時のこと

です。私たちは自分勝手な妄想で常時の外に自分を夢み、常時

を軽んじて生きがちですが、今日ここでの常時の私以外に私は

ないわけで、たとえ不満であってもこの私をきっちり引き受け

させ、日々の要求を果さしめるのが信仰なのです。信仰とは常

時への着地に他なりません。

                  (『神の風景』 111頁)

 

 これに対して私たちは、あくまでも信仰を特別のもの、特別な時のものと考える考えが深く染みついている。「困った時の神だのみ」ということばがそれを裏づけている。だから人はその心が神、信心に向かうのは特別な問題をもった時とか、弱さをもった人というふうに相場が決まってしまうのである。そしてこの「特別」という意識が信仰者の生き方に関与する時、ともすればなかなか厄介な問題を提起することになる。キリスト者は特別な人しかなれないのではないかという誤解である。”清く、正しく、美しく……”という発想があるが、多くの人々は”私のような者はとても教会に出入りできない。まして洗礼を受けるなどということは、それこそ清水の舞台から飛び降りるほどの聖別が必要である”と考えてしまうのである。

 また一方、人間は日常的な生活の中に長くとどまっていると、常ならざるもの、すなわち非日常性に対する強いあこがれを抱くようになる。何か心を浮き浮きさせるような冒険談とかスリル、お祭り的な興奮事とか、所詮かなわぬ恋愛事である。

 これらはまれな、また非現実的な事柄であるだけに、一層、人々の心を引きつける。しかもそれらは単純な日常生活に一つの変化なり活力を与える性格を帯びているのだから、よけい私たちの心を引く。そしてこの部分が教会生活や信仰生活に必要以上に入りこむことがある。非日常性、あるいは非現実性の、日常性・現実性への混入である。この具体的な現れは、こうした方向ばかり見つめていると、何か特別な出来事や奇跡的な現象がないと、何か自分の信仰はまやかしのように思えたり、自分が生きている実感がもてないような気持ちに襲われることの中にうかがわれる。

 あるとき、長年、聖霊の賜物やいやしなどを重んじる教会に通っている人が、診察の途中で、私にこんなことを言われたことがあった。

 「いつも何かの”しるし”を求めたり、聖霊の満たしを求めてあちこちの集会に出ているうちに、今行っている教会では物足りなくていけなくなってしまいました……」。

 主イエスは「今の時代はよこしまだ。しるしを欲しがる……」と言われるが(ルカ11・29)、”しるし”を求める姿勢が信仰生活の本流となる生き方は危険であると思う。なぜならば、それは、今私たちに現実に与えられている生活や現実を軽視し、遊離する危険があるからである。しかしよく考えてみると、この地味に見える「現実」こそ、神の与えられた最大の舞台ではないかと思えてくる。

 「霊的」いうことについて次のような内容の「断想」がある。

 

   霊

 自然法則に合致しない精神現象を霊の働きと考え、死者との

交霊や虫の知らせのような不思議な現象があると、それを霊的

現象という人もいますが、霊の働きはそのような超自然性にあ

るのではなく、真相を顕わにする明察性にあると思われます。

時には審き、時には醒まし、時には鎮めながら、人の心の真相

を明らかにして偽りなからしめるのが、霊であります。ですか

ら、その明察に対しては、罪の自覚で応えるよりほかに、人は

霊に対する道はないのです。自分の罪に真実に泣く、これほど

霊的な現象がありましょうか。

(『灰色の断想』 109頁)

 

 聖霊体験を重んじる教会の人々に接して時々考えさせられるのは、今述べたように、通常あまり起こり得ない超自然的な現象に信仰の確かさを求めようとしたり、またその体験をどこかで誇り、優越視する傾向があるということである。しかしながら、この断想の伝えるように、本当のところ、「自分の罪に真実に泣くことほど霊的な現象はあり得ない」のである。

 実際、神の顕現に触れた時、ヨブは「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし、今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます」と言い(42・5〜6)、イザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる、わたしは汚れた唇の者」と言った(6・5)。おそらく、畏れの伴わない体験は、体験として何か本質的なものを欠いているのであろう。

 

  祈り

 

“祈り”は人間に最もふさわしい心の姿勢のように思われる。祈りは人を神に近づけるからである。人は喜びにつけ、悲しみにつけ祈り、神に語りかけてきた。信仰生活において祈りは呼吸であると言われるゆえんである。

 

   祈りと願い

 ああしたい、こうなりたいと、いろいろ考えていますが、そ

れを願いにするのが祈りなのでしょうか。そういう面も祈りに

はあるでしょう。しかし、もしそれだけなら祈りとは何と汚れ

たものでしょう。祈りとは、むしろそれだけのものになり下っ

てしまうことをよしとしない心の抵抗であり、人としての本来

を求める憧憬であり、永遠なるものに誘われてゆく魂の高揚で

あった筈です。人が「願い」といわずに、「祈り」という言葉

を使った時、そこにはそういう倫理性があった筈です。「祈り」

を「願い」から救い出さればなりません。

                  (『神の風景』200頁)

 

この断想で私をハッとさせたのは「祈りを願から救出す」という衝撃的な言葉である。「祈り」には確かに「願い」という側面がある。不条理な世界に投げ込まれ、多くの不幸に見舞われることの多い人生を生きる者にとって祈りが願いから始まって当然のことである。しかし、もしそれだけで終始するとすれば、それは恥ずべき位置に人間を置きかねない。なぜならば抜きがたいほどの自己中心性に染まった私たちの心は、「願い」の中でいつのまにか自己拡大や自己神化を計るに違いないからである。しかし「祈り」は本来、人間の目を上に向けさせ、人の頭を下に向かわしめる性質のものであったのである。

 この点、「主の祈り」は、私たちが今立っている祈りの位置というものをもう一度考えさせるものである。その祈りは、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心の天においてなされるように、地にもなされますように」というふうに、人が一歩退いて神の前にひざまずいているのである。祈りが、本来あるべき祈りの位置を失うとき、人もまた、堕落していくのであろう。

 

 それではいったい、人は何のために祈るのだろうか。おそらくそれは、問題解決や自分の願望充足のためだけではなく、もっと本質的な事柄のためであろう。

 

    祈 り

祈ったところで現実は少しも変わらないではないか、それよ

りは具体的行動を起こすことこそ祈りではないか、とよく批判

されます。しかし、これは祈りに対する誤解であります。祈り

は問題解決の手段ではなく、問題の渦中で自分が失われないよ

うに自分を守ることなのです。具体的に効果があるか否かとい

う観点だけで現実の諸問題に直線的に対応していると、人は平

板に拡散してゆくものです。この拡散に抗して、人間として自

分を守る凝縮作用が祈りであります。祈りは問題解決の手段で

はなく、実はその前提であるのです。

                 (『灰色の断想』 107頁)

 

 ”問題の渦中で自分が失われないように自分を守る”ということは、”自分自身の確認”と言い換えられるであろう。すなわち祈りの中で人は何を失っていいのか、何が失われてはいけないのかという自己確認の作業に着手しているのである。それゆえ、祈りというのは、ことさら大切な内容のものである。その人の衿持あるいはその人自身のあり方に密接にかかわる事柄だからである。

 実は私はこの文章に出会った時、“やはりそうだったのか”と心のどこかで納得できるものがあった。というのは、かつて願望充足を主とした祈りを長い間続けていた頃に、“祈りというのは、はたしてこんなことでよいのだろうか”とか”こんなに身勝手なことを神さまに要求したり神さまを問いつめたりしていたら、自分が神さまに命令するようなことになってしまって、なにかおかしいのではないか”などという疑いが強く頭をもたげてきたことがあったからである。その当時、私は次のような文章を書いている。

 

 「ところで私もかつて、キリストを信じるということは、このお方が私たちに勝利と解放、成功と祝福をもたらしてくれると期待していた時代があった。期待が大きいのであるから、それがこたえられない時のイラダチと失望は大きくなるのが当然である。聖書を見ると、十字架につけられた犯罪人の一人が「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」(ルカ23・39)とイエスに悪口を言い続けたというが、私もその時期、神は自分の願いごとをかなえてくださる方と考え、「もし神がいるのであれば、私をこの困窮から救ってみよ」と神に向かって叫んでいたのであろう。ところが、こうしたたぐいの祈りは応えられなかったばかりでなく、現実は、問題の解決どころか、ますますその混乱が深まっていくようでもあった。こうして私は、「神はある種の祈りは聞き届けられるのに、ある祈りに対してはその沈黙の中に人を退けてしまうのは、いったいなぜだろう」と考えあぐねる時期をしばらく通らされたように思う。

 けれども様々な思考錯誤の後、私は、事が思いどおりに運ばないことの中に、隠れた大切な神の配慮というものに気づくようになった。それは、問題の解決や成功よりももっと意味深い事、大切な事が、この世の中にはあるのではないかということであった。このことがわかってきたとき、私は「あの祈りはこたえられなくて本当に良かった。もし私の祈りが、願いどおり神にこたえられていたら、私は大変な人間になってしまっていたであろう」と内心ホッと胸をなでおろしたものであった。実際、あの線上に営まれる信仰生活というものは人間を表面的・表層的なものにするたぐいのものであったように思う。

 こうして私は次第に、成功や失敗などということよりももっと人間には大切なものがあり、祈りがこたえられないからといって神に失望することが少なくなっていったように思う。なぜならば私たちが神を崇めるのは、神が神であるからこそであって、必ずしも人間の幸、不幸と関わりのないことがわかってきたからである。」

 (『こころの光を求めて』いのちのことば社、90〜92頁)

 

 神は、私たちのことを真に心配してくださるお方であるから、私たちが平坦化することも表面的・表層的になることも決して望んでおられないと思う。そして、今この間の消息を振り返ってみて私が思うことは、人間の心というものは、いかに神が神としてある本来の位置から引き下げようとする思いに満ちているのか、ということである。

 「虎視眈々」ということばがあるが、この罪の大きさには、驚きあきれるほどである。

 

   願い

 私たちが抱く願いには、どうしても欲や自惚れがまといつき

ますから、成就することが、かえって身を滅ぼすに至るような

場合もあるわけで、やはりそういう願いは、願いというよりは

欲であると自覚して、はっきりそういうべきであります。案外

私たちは、自己執着を願いと錯覚しているだけで、一度も、願

いというにふさわしい願いを持ったことがないのかもしれませ

ん。人が持つべき、そしておそらくその名に値する唯一の願い

は、執着から自由になることでありましょう。願いという言葉

を、もう少し慎重に使いたいものであります。

                  (『灰色の断想』80頁)

 

 祈りを欲望の充足として捕らえたために、その充足がないと、他の神々を求めて教会を去っていった人々が意外と多いのではないかと思う。まさに神の国は“狭き門、細い道”のような気がする。