2部 心の健康と宗教 

3 生きる姿勢について

   

 

目 次

a.信と美――勝てないものをもつこと

 

b.人を押しのける生き方――命の不完全燃焼

 

c. 使命――上ずった生き方に対する反省

 

d.人間のセンス――小さくされてゆく方向

 

e. 権威――優しさこそ権威

 

f 死――これでよしとすること

 

g.個人の歴史――自分を生きること

 

h.歪みの昇華――直さなくてもよい

 

 

 本書のまえがきの中に、宗教者は究極性に向かって生きる、という意味の言葉があるが、そうした生き方は私に「宗教者の美しさ」というものを思わしめる。

 ローマの信徒への手紙に描かれたパウロの嘆き“自分の望む善は行わず、望まない悪を行う”(7・19)、の矛盾に泣き、自分自身を問いつめて信仰を求めていた若き日の私に、ひとりの老師は「黒いけれども美しい」という雅歌の御言葉(1・5、口語訳)をもって励ましてくれたことがあるが、信仰生活とは、永遠なる方の前に思いを潜め、厳しく自己内省をもって神の御前に自分を照らす性質をもっているのだから、いつしか信仰者の姿に一種の気品が漂うのもまた自然の勢いなのかもしれない。

 

   個人として美しく

 社会的実践がすべてのように思われる現代にあって、個人の

生き方を美しく整えようとする努力は軽んじられがちです。し

かし、無関心無責任な時代に思いやり深く生き、他の犠牲の上

に繁栄を求める時代に自分を献げて奉仕に生き、他をのみ批判

するに急な時代にまず自分を冷静に省みつつ生きる、そういう

美しい生き方こそ、時代の病根を衝くものではないでしょうか

社会的実践は、こういう徳の実践によって克服されるべき醜さ

を内包していることを少なくとも自覚しているのでなければ、

真の変革の力となり得ません。

                  (『灰色の断想』 24頁)

 

a 信と美――勝てないものをもつこと

 

   勝てないものを相手に

 何かしら醜さを感じる人がいます。教養がないわけではない、

性格が悪いわけでもない、むしろ細やかな思いやり、洗練され

た言葉遣い、非の打ちようがないのに何か醜さを感じる人がい

ます。そういう人に共通しているのは、表面には出さないよう

にはしていますが、勝利者の意識をもっていることです。この

場合、勝つとは人に勝つこと、小さな勝利に酔っていることの

その浅ましさが、醜さなのでしょう。美しく生きるためには、

どうしても勝てないものを相手に生きねばなりません。信と美

とが結びつく所以の一つはここにありましょう。

                       (『神の風景』239頁)

 

 援助活動に携わっている人たちが、よく注意しなければならないことは、気づかないうちにいつのまにか、自分を高い所においてしまうことである。これはおそらく、その人自身に問題があるというよりむしろ、援助活動が本来“助ける―助けられる”という構造をもっているために、起こってくる弊害の一つなのかもしれないと私は思っている。

 けれどもこのことによって、いつのまにか援助者が鼻持ちならない人物にされてしまうとすれば、援助活動に携わる者は、目に見えない形の優越感に支配されないように絶えず目を覚ましていなければならないということになる。

 たとえば医療の現場では、医者やナースの前にもち出された素朴な質問が言下に否定されたり、言い負かされたりするということがよく起こる。この優越感の前に対等な交流は困難である。プライドを傷つけられてスゴスゴと帰った人は、二度とその人の前に現れないかもしれないし、もはや本心を打ち明けようともしないかもしれない。

 けれども幸いなことに、長い間医療に携わってみると、人は次第にこの錯誤に気づくようになる。私たちは、病気や死にも勝てないようにできているだけでなく、人は人に決して勝てない構造をもっていることが見えてくるからである。ただ人は自分のプライドを守りたい一心で、弱さを隠そうとして、相手に勝ちたがったり、勝ったつもりになっているだけのことである。

 この点長い間人の死を看取っている人から「農業とか自然を相手に仕事をしてきた人の最期は、とても穏やかなお顔をしておられる」と言われたのを聞いて、なるほどと思ったことである。こうした人々は、自然といういつも自分の力を超えた大きな力、すなわち勝てないものを相手に生きてきたゆえに、一つの品性がその身に宿るのであろう。それゆえある仕事なり、人に関わることが、もしその人の人間性を卑しくしてしまっているとすれば、私たちは”勝ってはならない”相手に勝ってしまっているのではないかと反省してみる必要がある。

 ところで、この事情は、私たちの信仰生活にも等しく生きているように私には思われる。信仰生活とは、そもそも人間がどんなにしても勝てないもの、すなわち神を相手に生きていくということを意味するからである。それゆえ、信仰者がその働きを誇示したいという思いに捕らわれたり、その信仰をかさにきてある種の事業的野心に邁進しようとするときは、神に勝ってしまう過ちを犯しかねない危険に近づいているのでないかと思ったりする。

 ある時、一人の人から“教会で証しをする人の気がしれない”と言われて考え込んだことがある。私は一人の人の主にある証しが、それを聞く人々の信仰を鼓舞し、私たちの信仰をより現実的なものにしてくれるという点で評価したいと思っていたのだが、その人は、証しする人のもう一つのマイナスの側面、すなわち、「(あなたたちと違って)私はこんなにも恵まれているんですよ」という時折見られる鼻持ちならない優越感に強い抵抗を感じるのだと言う。

 またキリスト教主義の病院で働き始めたころ、手痛い一言をいわれてハッとしたことがある。それは、この病院は確かに良い病院だが、ほかの病院に比べて、自分たちは正しい医療をしているのだという高ぶり、あるいはひとりよがりの考え方が、チラついてたまらなく不愉快なのだということであった。

 これらは、いずれもキリスト者が、よく心しなければならない心の姿勢のように思われる。信仰者の悲劇と危険は”神に勝ってしまう“ところにあるように思われるからである。

 

b 人を押しのける生き方――命の不完全燃焼

 

 さて、私たちの現実の生活の中で、”勝つ”という生き方は、獲得するという心の姿勢として捕らえることができる。この点に関して次のような「断想」がある。

 

   あなたが生きれば

 「あなたを押しのけて私は生きる」結局このような生き方を

私たちはしています。そうでもしなければ生きてゆけないとよ

く言われますし、確かにその生き方で獲得することは多いので

す。しかし、獲得の喜びと命の喜びとは別であることに注意し

ましょう。獲得の中で命はむしろ不完全燃焼をかこっているの

ではないでしょうか。蝋燭が他を照らしながら自分自身は消滅

してゆくように、燃焼とは本来他に仕えることなのです。「あ

なたが生きれば私も生きる」、これはお人好しではありません。

燃焼を求める命の訴えなのです。

                   (『神の風景』89頁)

 

“美しさや命の充実と喜びは、勝ったり獲得していく生き方とは別のところにある”という視点はなかなか意義深いものである。

 

c 使命―上ずった生き方に対する反省

 

 人間が勝てないものをもつことの大切さを述べたついでに、使命感の弊害についても述べてみたいと思う。というのは、キリスト者の生き方の中には、この使命感を振りかざすことによって周囲にはなはだしい迷惑を及ぼしても一向にそのことに気づかず、人騒がせな巻きぞえも犠牲も正当化するだけではなしに、そうした動きになじめない者を排除、攻撃しようとする考え方さえあるように思われるからである。

 

  嫌 気

 社会のため、平和のため、正義のため、確かにそういうこと

のために人は生きるべきです。しかし、ためにためにとあまり

いわれると、怠けるわけではありませんが、いささか嫌気がさ

してくるのではないでしょうか。この嫌気を、何か利己的な怠

慢のように思いがちですが、これこそ観念の世界から私たちを

解放してくれるものなのです。愛、正義、誠実などの観念は、

動物と違って人間が持つものですが、時にはそれらに嫌気が差

すことが必要です。私たちは、そういう観念であまり上ずった

生き方をしているのではありませんか。

                  (『灰色の断想』67頁)

 

 ”人のため”という発想がまわりを苦しめる理由の一つは、すべての働きは本来互恵的関係の中にあるのに、それが”自分のため”でもあることを見落としているためではないかと思う。

 たとえば、先日私はある障害児施設の修養会で話したが、ある人が次のような感想を述べてくれた。「気負いや使命感で生きていたころは自分の思いばかりで一杯で、相手のことなど考えるゆとりさえなかったことに今気づきます。病気を否定し、子供たちといっしょに生活して慰め合ったり励まし合ったりすることなど考えられなかったのです。」

 ”人のため”という使命感は、おそらく。人も生き、また自分も生きる”という中でこそその意味をもつのではないだろうか。

 使命感のとどまるべき位置について、次のような「断想」がある。

 

 使 命

使命というものは、自ら買って出て担うものではありません。

それは、生かされている所で誠実であろうとする構えが、自然

に見出し、止むをえないこととして担い、そして果してゆくも

のです。それは、何かをするというよりは、担わされる受身の

ことであり、避けてはならないとする誠実のことです。簡単に

いえば、今あるさまを誠実に引き受けて、逃げないことです。

使命を生きる人には、そういう受身の誠実さからにじみ出る一

種の自然さがあります。恐らく本人は、自分のしていることを、

使命などとは考えていないことでしょう。

                  (『神の風景』 162頁)

 

 カルカッタの酷暑、世界最悪の生活の環境の中でなぜこんな奉仕を続けるのか、こんな働きは無駄でないかというジャーナリストの質問に対して、マザーテレサの実にさわやかな一言がある。

 「あの方が私になせと仰せられたことをしているだけなのです……」

 主イエスは私たちに“しなければならないことをしただけです”(ルカ17・10)と言いなさいと勧めているが、使命感は人のためというより、むしろ自分自身の必然というところまで身を低くする必要があるのではないだろうか。

 国連事務総長であった故ハマーショルド氏が“人が使命感を探すのではない。使命が人を探している”と言ったが、使命感とは、本来そうした性質のものなのだろう。

 

d 人間のセンス――小さくされてゆく方向

 

   人間のセンス

 追い求めてゆくことによって、視野を外へ広げてゆくことに

よって、明らかになってくる真理もありますが、追いつめられ

てくることによって、視野を内に深めてゆくことによって、明

らかになってくる真理もあります。だから、切り開いてゆくよ

りも耐えることに、強くなるよりも弱くなることに、得るより

も失うことに大切な意味があるのが人生です。自分を大きくし

てゆく方向でなく小さくしてゆく方向に大切さを感じるセンス、

これは人間にしかないセンスです。大きくなることしか考えな

い時、人は動物になります。

                  (『灰色の断想』55頁)

 

 人間も四十を過ぎて、これから先、自分をどうまとめていこうかなと考えるとき、ふと心を捕える「断想」である。よく考えてみると、若いときというのは、背丈が上へ上へと伸びるように、その心は自己主張や自己拡大、自己発展に向かっているようである。けれども、ある年代に達すると、逆の方向、すなわち。切り開いてゆくよりも耐えることに” “強くなることよりも弱くなることに” “得るよりも失うことに”人間の本来的な姿があったのでなかったかと気づき始めるのである。

 おびただしい環境汚染や自然破壊のテーマが、もはや無視できないほど人々の話題に上った時、私はかつて診察室で“ひっそりと息をして生きています”と言われた人のことを印象深く思い出したが、自分が、あるいは人間があたかも何かができるように思って欲望充足に狂奔するより、ある意味で自分の、あるいは人間の運命を甘受しているように思われる、これらの人々のほうが、はるかに人間的な生き方をしているのではないかということである。

 ところで“自分を大きくしてゆく方向でなく、小さくしてゆく方向に大切さを感じるセンス”というものは、個人の生き方だけではなく、人を相手にする仕事の世界でもないがしろにできない考え方である。なぜならば、組織というものには大きくなればなるほど、見失われていくもの、疎外されていくものが多くあるからである。

 あるとき、長年障害者施設で働いていた人が私に“病院でも学校でも、とにかく大きくしたら絶対だめになります”と言われたが、確かにその通りだと思う。私たちが意識すると否とに関わらず、仕事は業務化し、事業は経営化せざるを得なくなるからである。その上困ったことには、これに伴って、一人ひとりの重さや価値は等閑視され、数や目先の業績がものを言い出す。だから、物の世界は外へ外へと拡大し大きくなっていくであろうが、人の世界は内へ内へと縮小してしかるべきなのである。

 医者として駆け出しのころ、私はひとりで百人から百二十人の病棟をもたされて閉口したが、その病棟の看護長が私によくこんなことを言った。「先生、次の改築工事の時、病棟を三つに分けて三十人から四十人ずつにしたいと思います。一人ひとりに目が届きませんからね……。」個人の疎外は、近代化、合理化の悲劇である。

 先日私は“愛は具体的には小さな関係半径にしか働かない。大きな関係圏でその効果は希薄になり、愛に代わって権力という力が登場する。だから広場に立った聖者には災いがある。聖者は愛の小径を歩む”という文章に出会って大きな衝撃を受けた。ちなみに聖書に記されたイエス・キリストの人に対する扱いはいつも個別的であったようであるし、選ばれた弟子も十二弟子と少ない人数であった。

 

e 権威――優しさこそ権威

 

 ”大きくなること”と同様、私たちの中で誤解されやすいものは”権威”ということである。人は、人を治め、組織を統率していくために強い指導力が必要と考え“権威”という方法に頼ろうとする。甘い顔を見せたら、甘く見られ、人は怠惰、怠慢に陥るに違いないというわけである。ところが、おもしろいことに、こうした方法に頼れば頼るほど冷え冷えとした人間関係が支配し、その働きの質は低下する。

 

   権 威

 権威とは一種の優しさです。人の心を暖め、やる気を起こさ

せ、何とかしてその心に届こうとする優しさの一念に触れた時、

人は安心し、感謝し、恐縮し、更に、服従せざるをえない思い

を抱くでしょう。権威とは本来そういうものです。しかし、現

実的には権威は一種の力です。安心に代って緊張が、感謝に代

って畏怖が、恐縮に代って重圧が支配している力です。寄りつ

き難い貫禄、辺りを払う威光を備えた力です。権威が優しさで

はなくて、もはや力でしかないのは、現実の人間関係が既に復

元力を失っていることを物語っています

                  (『神の風景』208頁)

 

 先日、ひとりの経営コンサルタントが、ある金融機関の会議に出席した時の印象を次のように描いていた。――社長以外の男性は貝のように黙っていた。時折、上目づかいで社長の顔色を伺うだけ。ともすれば、牽制、根回し、権力闘争に明け暮れる男性たちの会議は、こんな怖い世界になってしまう。こんなにも自分を押し殺した会議をする組織で人は生き生きと働けるのだろうか。――

 このような事態は「権威」ということばをはき違い、間違った力によって人を押え込もうという発想から生じた悲劇であろうけれども、本当のところは、人は自分が認められ、許され、恐縮してこそ上にある権威に服従し、献身的となり得るのではないだろうか。主イエスに従った弟子たちのエピソードは私たちにこのことを物語っている。

 いずれにせよ、私たち人間の生来の志向性は、“強くなること”、“大きくなること”、“偉くなること“などであることを思うにつけ、人間の本性は聖書の主張から遠く離れていることがわかる。主イエスが、”心を入れ替えて子供のようにならなければ、神の国にはいること能わず”と言われたゆえんでもあろう。

 

f 死――これでよしとすること

 

  野垂れる

 愛する人々に囲まれ、なすべき事をなし終えた満足を味わい

ながら、安らかに息を引き取るとしても、依然として死が痛ま

しい悲惨であることには変わりはないでしょう。なお生きんと

する途上に起こることとして、死は本質的に野垂れ死に以外で

はありますまい。愛と静けさに包まれて迎えるにしても、矢張

りそうです。死に際の安らかさよりも問題は、そこに途上に果

てる無念を味わうか、それとも出尽した自分の全容をそこに見

抜いて合点するかです。大往生とは、野垂れ死にしないことで

はなく、野垂れる姿に自分を合点することです。

                  (『神の風景』 158頁)

 

 淀川キリスト教病院でホスピス・ケアが始められたころのことである。何しろ、今でこそ末期医療ということばは定着しつつあるが、当時は、新しい試みですいぶんジャーナリズムをにぎわしたものである。その折、ホスピスの入院についてひとりの人が私に次のように言われたことがある。“ホスピスにはいるにはなかなか難しいんでしょう。だって、あそこで最期を迎えるクリスチャンというのは良き死を遂げるだけの立派な信仰をもっていないとだめでしょうから……”。

 これを聞いて私はおもねず苦笑した。人間の心というものは何と厄介なことだろうかと思ったからである。そして内心”これは簡単には死ねんぞ”と思った。というのは、私は立派な死を遂げる自信なぞ、もち合わせていなかったからである。

 また看護のためのカウンセリングコースで、一人のナースのスーパーバイスに当たったときのことである。このナースの行き詰まりは、自分の受け持ちの人が良き死を遂げられなかったこと、すなわちうまく死を受容できず、多くの心残りを残して亡くなってしまったことに対して、ナースとして責任を感じるというのである。

 もちろんそれは、自分のナーシングに対してなんの問題意識や反省をもたない人よりは、はるかに良いことに違いない。が、この発題を聞いて、私か不思議に思ったことは、このナースは自分がかつて教科書で学んだキュープラー・ロスの死の受容の五段階というプロセスを受け持ちの患者かたどってくれないことに、内心ひそかないらだちと不満、はては怒りを感じていたということである。そこで私は、これではますます”人の前では死ねんぞ(?)“と思ったものである。人の最期を受け持つスタッフも、一定のゴールや、ワクをもって待ち構えているというのだから……。

 もちろん、こんなエピソードは懐かしい昔の思い出で今はそんなことはないに違いない。

けれどもよく考えてみれば、これは私たちのもつ真面目さ、熱心さの産物の一つであるし、私たちがつい陥りやすい落とし穴である。その人の死は本来その人のものであり、自由であるにもかかわらず、つい私たちはああだ、こうだとせんさくし、評価したがる存在だからである。

 しかし、見方を変えてみると否認で最期を迎える人も、それこそ受容に至って立派な(?)死を迎える人も、神の目から見たら同類項ではないだろうか。(ちなみに実際ホスピスケアに携わっている医師からお聞きしたところによれば”人はみんなとてもよいお顔をしてその最期を迎える”というから心配は無用である)。

 ともあれ、何かと理屈をつけ、優劣を競わないと気がすすまない人間の手にかかって“死”そのものまで人為的な操作の対象にされやすい私たちの傾向に対して“向こう側”から見た死の視点は大いに考えられてしかるべきことだと私は思う。

 以前、水上勉氏のエッセイを読んだことがある。確か、こんな内容の話であったと思う。氏がある地方に旅行したとき、ふとしたことから火葬場の職員と知り合いになるのだが、その人が水上氏にこんなことを言ったというのである。”わしから見れば、国会議員であろうが、地方の名土であろうが、無名の人であろうが、全く同じことである。ところが壁一つ隔てた向こう側では、炉に入れる直前までどれくらいの値で焼いてもらうか、どれくらいのお花で飾るかとか、けんけんガクガク、後目その扱いでまた親族間に亀裂が生じる……”。

 この心境もわからないわけではない。人は、自己満足のそしりを免れないとしても、不条理にすぎる死の現実に対してせめて盛大なセレモニー(儀式)をもって対抗せざるを得ないし、その人を惜しむ悲しみが大きければ大きいほど、大々的な形をしたものになっていかざるを得ないからである。

 けれども、かと言って、人の本来力の及ばない死という領域についてさえも評価を下したり、優劣を競ったり、またたまたまその人が立派な死を遂げたからといってそれを自慢話の種にしたりするのはいかがなものであろうか。死はきっとしめやかでひっそりとしたものに違いない。

 さて、死とは野垂れる姿に自分を合点する、すなわち人はどうあれ、そうあった自分、そうでしかあり得なかった自分をそれでよしと受け止めることとして、それでは際限なく広がる医学の進歩についてはどうであろうか。臓器の売買がなされ、人間の脳を除いて、すべての臓器はそのうち移植されるだろうなどと言われると、”はたしてこれでいいのだろうか”といぶかしく思いながら、人はどうしてもこの勢いを止めることができないでいる。

 

  そうまでして

 時期尚早とか、道徳的に問題があるとか、自然の秩序を乱す

とか批判されながらも、心臓移植や人工受精などは結局認めら

れるでしょう。この勢いを止めうるものはないと思います。宗

教も止めえないでしょう。残るのは、そうまでして生きようと

は思わない、そうまでして子供を持とうとは思わない、という

個人の気持ちだけです。その気持ちは、無気力な諦念による場

合もありますが、そうまでして自分の願いを通すことに我が儘

を覚えて、今あるままを「これもまた一つの人生」と引き受け

る、人間らしい決断による場合もあるでしょう。

                  (『神の風景』207頁)

 

 どうやら現代人の混乱の多くは「そうまでしてもする」という生き方にあり、また現代人の困難は、ひっきょうするに、前に進むことはできても、退くことができない”潔い決断”の衰弱にあるように思われる。

 

g 個人の歴史――自分を生きること

 

    個人の歴史

歴史の大きな流れに影響されながら生きていることは事実で

す。しかしそれに影響されない、いわば個人の歴史ともいうべ

きものを、一人一人が生きていることも否定できません。小さ

い歴史かもしれません。しかし軽視するにはあまりにも重大な

現実です。これに比べれば、歴史の流れなど抽象的な観念にす

ぎなくなるほどに、具体的な現実です。個人の歴史を小さいこ

ととしていたづらに大きな歴史を論じるのは、永遠を見失った

現代人のずるさです。永遠を見失った時、人は個人の歴史の重

大さを見失ったのです。

                          (『灰色の断想』 16頁)

 

 心の病気という世界に携わって、しばしば考えさせられることは”人を生かす”という視点から見て、私たちの社会のもっている器の小ささと、私たち日本人の心の狭量さということである。そこには、自分も周囲も同じであることをもって、良しとする国民性の問題が重く横たわっていて、一人ひとりの個性的な生き方に大きな制約を加えるばかりか、その人その人を尊重することも、伸ばすこともよくしないという致命的な欠点を抱えている。

 このことは、管理社会あるいは“会社人間”という文脈の中で、考えてみたらよくわかることである。たとえば組織の中で、人の評価は“忠誠度”によって計られ、体制からはずれることが、裏切り者とみなされることはよくあることである。森有正はこうした文化を同化(アシミレーション)の文化と呼んだが、このことは日本人がなかなか国際政治の舞台でも活躍できないこと、あるいは、宣教百年を経てもキリスト教が容易に人々の間に浸透しないことと決して無縁なことではないと思われるが、心の病気においても同様である。

 先日、地方に赴任して間もない牧師から”心に障害のある人々がいかに健常者思考のために気を遣い、苦しんでいるのかということに驚きあやしんでいます”という内容のお手紙をいただいたが、実際そのとおりであろう。

 病気になったことは不名誉でもないし、何ら恥ずかしいことはない。むしろ、たとえ生涯その病気を身にまとったからといってそれはそれで見守られ、生きる権利は保障されねばならないのだが“一定のコースからはずれたら最後、別の道は何も用意されていない”(ある病者のことば)のが実情なのである。多様性を認めず、多様性を尊重できない構造、これがさし当たって今の私たちの課題である。

 先日、不登校の子供さんを多く集めて長年指導してきているという人が次のように言っておられたが、全く同感である。

 「こんな個性豊かな、可能性に富んだ子供さんをどんどん学校から締め出した、学校は損をしているんじゃないかしら?」

 また先日こんなことがあった。新しい神経科のスタッフに加わった若い医者とナースを連れて入院をお願いする病院にあいさつまわりをした折り、車中、私は昨今における病気の変化に関してこんなことを言った。

 「外来だけでやってきた経験で、はたしてそう言い切れるかどうかよくわからないけれども、一般的に心の病が軽症化し大衆化してきたような気がする……。心の病気が特別のことでなく、だれもが遭遇する一般的なものになり“市民権”を得たという点から言えばそれはそれで大変結構なことだが、ただ、今日私たちが学生時代、大学の講義や先輩から教わった、風格のある患者さん、その世界の豊かさ、大きさでもって医者を圧倒する患者さん、あるいは病気は病気としても、何か夢やロマンのある患者さんにだんだんお目にかかれなくなっていくのは寂しい気がする……」。

 すると同席していた若いナースが私に、

 「人間がだんだん、平均化して人間の創造力も独創性も平坦化して、人間そのものがおもしろくなくなってきたのかもしれませんね……」。

 と言った。本来心の病気というのは、人間の根源的な望みや憧れ、あるいはある種の夢と密接な関係があるに違いないのだが、病気の世界そのものが世知辛く、貧しくなってきているということは、人間そのものが貧しくなってきていることの現れにほかならないのではないだろうか。

 私は小著『こころの風景』(いのちのことば社)に、次のような文章を書いている。

 

 「『不適応』という言葉が使われ出してから、人は”皆とうまくいっている”ということが、あたかも正しいことであるかのように考え始めたようである。

 たとえば、職場でうまく適応できない人がいたとしよう。するとその人は、不適応のレッテルをはられ、その人自身もそのことで悩み、自分を不適格者のように考えてしまう。そして、そうした人々に、カウンセリングや心理療法を勧める人々がいる。また職場命令で受診を義務づけられて、受診させられる人もいる。そして、その時、私たちが言われることは大体いつも同じで「先生、この人どうにかなりませんか」ということである。

 『不適応』という言葉の前に、人は有形・無形な不自由さを強いられ、自分が自分であることに、ためらいを持ち始めたようにさえ思われる。しかし、本当のところ、その人をその人として受け入れ生かすことが、もっと社会全体に彩を提供し、全体の働きに益を与えるというのが聖書の主張であるのではないだろうか(Iコリソト12章)(76頁)。

 

h 歪みの昇華――直さなくてもよい

 

 自分たちと異質なもの、異なった生き方をなかなか容認できない私たちの心が、心の病気の人々に対して大きな圧力になっていることを述べたついでに”治らない”病気を抱えた人々の生き方について一言述べてみたいと思う。というのは”治ること“をもってよしとする風潮の中にあって、人々は自分の病気が治らないとガッカリし、生きていく希望がないかのような捕え方をしやすいし、病気の人々の中には、治らない病気を抱えたために、不必要な劣等感をもつ人々も少なくないと思われるからである。

 特に現代のように医療技術が飛躍的に発展してきて、どんな病気も治せるかのような風潮が行き交うと治らない病気はどこか等閑視され、悲観的な見方をされてしまう。多くの医者は、医者になる動機を、病気を治すこと(治せること)に置いているはずだから、治らない病気にいつの間にか冷淡になり、患者さんは自分のベットに留め置かれたようなことが現実に起こり得る。医者として、何らなすすべのない治らない病人の前で、無力感にさらされるため、“治らない”病人には、あまり近づこうとしないからである。

 けれども”治る”ことがそれほど大切であり”治らない”ことがそれほど悲観的なことなのであろうか。

 次のような障害者の訴えがある。

 

 「障害者と医師と、それぞれに非常に重要な社会的役割を担う時代を迎えた。私も障害者の一人として自己矛盾をかかえながら、現代の医療と福祉の関係を考えてみたい。それが未来の人間と社会のあり方に深く関わることだと思うからである。

 近代医学は著しい進歩をとげたといえる。例えば、私はポリオウィルスによって障害者になったが、今やポリオによる障害者は殆どいない。これは医学界の貢献によるもので、私も素直に喜びたい。

 しかし、障害者をあえて作り出す必要がないのと同様、不完全な人間ゆえに何らかの原因で障害者になることも自然ではないだろうか。おおらかに障害を甘受できる思想もまた、医師や患者に必要な気がしてならない。

 私は中学二年の秋、アキレス腱を延長する手術を受けた。効き足の左脚がつま先立っていたから踵をつけ、一本足で立つ時の負担を軽くするためだった。確かに立っている時は楽になったが、以後も松葉杖と交互に踏み出す左脚はつま先立っていて、実感は、地面を蹴るバネが弱くなったなという手術結果だった。それから三十数年経った今も、私の場合、手術が必要だったのかどうか、素人ゆえにわからない。これは過去のことだと思っている。

 

 ところがアキレス腱手術の直後、担当の整形外科医は「骨盤からはずれている左脚の手術もしたい。今ならできる」と言った。背が高くなり、歩き方がスマートになるとの理由だったが、手術にはあと一年の入院が必要という。私は戦争で小学入学が三年遅れていた。手術に一年かけると同級生とは四歳違いになってしまう。それに高校受験も控えていた。その旨を告げ、『カッコ悪い歩き方でもいいです』と手術を泣いて断った。だが、医師は『今の一年ぐらいは、すぐ取り戻せる』と、すごい見幕で私を叱った。おそらく私の将来の宰福を願ってのことだったのであろう。しかし、中学生の時期における友人関係と学校生活を奪われる恐怖心が勝り、私は断り続けた。この体験は三十数年後の今、断ってほんとに良かったと思う。以後の私の育ってきた過程における友人との出来事を思い出すにつけ、その感慨は深い。

 なぜ『障害』を治したり、軽減することに医師はこだわるのだろうか。『障害』と『病気』を見極める必要があると思う。『障害』は、その人に与えられた特質、個性あるいは癖と考えた方がいいように思う。そして、こうした特質を持つ人が現実の社会で生きにくくされている原因を社会環境(構造と人間関係)に視点を向け、患者の生活丸ごとを診察する社会的役割を医師に望みたい。『できる限り健常者に近づくように治してほしい』と訴える患者たちに、ありのままで生き抜く意味の大切さをアドバイスし、励ます医師であってほしい。そのことが、科学技術に頼る医療より、はるかに現実性のある医療であり、未来につながる福祉になろう。科学技術に血道をあげることも、障害を治したいという欲求も、医師と患者のエゴが多分に含まれているように思う。エゴを撲滅することが、真の医療であり、真の福祉であろう」(「医療と福祉」〔キリスト教医科連盟大阪部会編〕)。

 

「障害」の受け取り方に関して、次の「断想」は光を与えてくれる。

 

   歪みの昇華

 たとえば自意識過剰のような性格の歪みは、人も不愉快であ

りますし、自分も苦しいものです。直せるものなら直すに越し

たことはありませんが、運命的とも思えるほどにそれに傷つき、

直し得ない人もいます。その時、それを担い、伴う苦しみに耐

えて、人生を常人が及びもつかぬほどに深く見通す人がいます。

彼は居直っているのではないのです。歪んでいるとはいえ、た

ったI回きりの人生を大切にしているのです。この人生愛にお

いて、歪みは昇華して、永遠をのぞきうる窓になるのでしょう

か。性格に限らず、なべて歪みを直すべきものとしか見ないの

は、謬見であります。

                  (『灰色の断想』 一四頁)

 

 おそらく“治らない”病気に見舞われた人は「治癒」という人の世界ではなく、生の本質に向かって歩むのであろう。そして、この時生き方の相は逆転するのではないかと私は思う。すなわち”治らない“という限界を背負って生きる人は、その心が人間を超えたもの、”永遠をのぞく窓“に向かっているために、より神を身近に感じ得るのではないかと思う。病気を”治る―治らない“で見たり、自分の性格を”治す―治せない”などという視点からだけ見る人の生か、どことなく浅薄で表層的な感じを与えるのはきっとそのためであろう。

 先日、一人の人が私にこう言った。「また”うつ“がやってきそうです。嫌なことですけれども、私からこの肉体のトゲが取り去られていたら、私はとうの昔にイエス様から離れていたに違いありません」。