2部 心の健康と宗教 

4 人間関係について

 

目 次

人間関係

a.生き方を認め合う

 

b.迷惑を許し合う

 

c.前科者としての自覚

 

d.心を拡げて生きる

 

結婚と家庭

a. 敬虔

 

b.破壊要因

 

c.もはや……ではない

 

d.明る過ぎないこと――ゆるし

 

e. 心配の情念

 

 

 

人間関係

 

a 生き方を認め合う

 

 人は生まれてからこのかた、死にいたるまで、人間関係の思い煩いのなかで生きている。それゆえ人の関心は多く人間関係の改善に注がれる。ある人は自分の性格に問題があると考え、いくぶんなりとも、自分の生き方を変えようとする。またある人は、二人の関係が行き詰まっているのは相手の性格によるものと考え、相手に変わることを求める。そして、これらの努力はそれぞれに必要であり、大切なことでもある。この世の事柄と同様、人間関係の領域においても、私たちが力を尽くさなければならない分があるからである。これをないがしろにすることは、怠慢の

そしりを受けることであり、結局は人をも自分をも顧みていないことにほかならないからである。にもかかわらず、こういう努力では、どうにもならない生き方のパターンというものがある。

 

  改めるよりは

人にはそれぞれ生き方のパターンのようなものが、いつしか

身についています。どんなに反省し、改めようとしても、結局

人はその入らしい生き方の外には出られません。それから自由

に生きている積りでも、根本的には少しも変らず、形を変えて

相も変らず同じパターンが生きています。その根深さは、それ

を身につけたというよりは、それにとり憑かれてしまったとい

った方が正確な位なのです。お互いそうなのですから、努力を

するのなら、自分を改めるよりはお互いのパターンを認め合う

努力をしましょう。それでよいのです。

                  (『神の風景』 125頁)

 

 この中で注目したいことは、「(どうにもならない)生き方のパターンというのは、それを身につけたというよりは、それにとり憑かれてしまったといった方が正確な位である」という指摘である。

 この「断想」について、ひとりの人が次のような感想を述べてくれたことがある。

 

 「私たちがこのことにもっと早く気づいていたら、四十年間の結婚生活もずいぶん楽だったでしょうに……。主人を亡くしたのは三年前ですが、よく考えてみれば私たちは、お互いのパターンを、認め合うよりも改めることを強要してきたように思います。あの人のこういうところがこうなればよい、ああなればよいと……。また自分に対しても、私はどうしてこうなのだろうと、自分を責めることのほうが多かったように思うのです。けれども結局は、お互いにどうにもできないところを責め合うだけで、ますます二人の関係は悪くなる一方でした。……もっと主人のよいところを認めてあげればよかったのですが……」。

 

 確かにそうである。人間関係の混乱の多くは、多くの場合、人が相手の中の変え得ないものを変え得ると思い込んで相手に変わることを要求し、また自分の中で本来変え得ないものを変えたいともがくところから発するもののように思われる。けれども、実際は相手に変わってほしいと思うところは相手も変え得ないで困っているものであることが多いものなのである。

 人間関係に要求は禁物である。人が人を変えようと思ったり、人が人を変え得ると思ったら、必ず多くの混乱や関係の疎外がやってくるからである。

 

b 迷惑を許し合う

 

人はその根本において、人に迷惑をかけずして生き得ない存在でないかと思う。

 

   迷 惑

 人に迷惑をかけさえしなければ、将来子供がどんな人間にな

ってもよいと親はよく言いますが、一体迷惑をかけないで私た

ちは生きられるのでしょうか。生きるとはお互い迷惑をかけ合

うことです。迷惑をかけずに生きていると思うなら、これほど

無反省な自惚れはありません。ですから目標とすべきは迷惑を

かけない人間ではなくて、迷惑をゆるし合える人間です。きび

しい目を自分自身にそそいで、知らないうちにかけている迷惑

に気づき、やさしい目を相手にそそいで、相手からかけられて

いる迷惑をゆるす、そういう人間です。

                   (『神の風景』54頁)

 

長い間“人に迷惑をかけない”人間になることを目標にしてきたという一人の人の話がある。

 

 「私は、人に迷惑をかげる生き方はいけないことだと思って、今まで生きてきたように思います。けれども、今わかったことは迷惑をかけないで生きていける人間なんていないし、迷惑をかけ合うなかで人間同士の交わりが深まるのですから、私たちに求められている生き方は人に迷惑をかけないことではなくて、迷惑をかけて生きている自分を認め、受け入れていく生き方です。こんなことがわかったらとても楽で、生きていることが楽しくなってきました。……今、振り返ってみると、“迷惑”をかけまい、かけまいとする生き方は、結局、最後に人にものすごく大きな迷惑をかけてしまうことになるのではないかということです。……」

 

 実際そうである。人間にとって人に迷惑をかけるということは、本来的なことなのだから、この事実を押し殺し、不自然に生きると、やがて大きな代償を支払わなげればならない時がやってくる。人の歩みは、いつでも相互性の中に営まれるからである。

 

C 前科者としての自覚

 

次の指摘も、人間関係を考える上では、とても大切なことのように思われる。

 

  前科者

誰をも傷つけず、誰にも不快な思いを与えず、誰にも迷惑を

かけずに人は生きられるものでしょうか。わびる機会を逸し、

そのままになっている人、黙って心の中でわびるよりほかに術

のない人、そういう人は一人もいないと言い切れる人はおそら

くいないでしょう。思えば知らないうちにどれだけ多くの人の

心に重荷となっていることでしょう。だから、時にはふと立ち

止まって、前科者の自覚、生涯かけても償いきれない負目を負

った前科者としての自覚を新たにすることは、人が人になって

ゆく上で大切なことと思われます。

                  (『灰色の断想』31頁)

 

 だから“迷惑を許し合える”人間になることが自明の理として私たちに求められており、また、自分は、有形無形の形で人に迷惑をかけて生きているという実感、その反すうこそが人を人たらしめているということになる。

 けれども、人はいくら自分のいたらなさを嘆いても、心悩ましても、いつまでもそこにとどまっていることはできない。生きるということは前に進むことを意味するからである。

 そこで「恐縮して生きる」という発想が生まれてくる。

 

   恐 縮

 「共に生きる」とよく言われます。私たちは一人ではなくて、

多くの人と共に生きている社会的存在なのですから、正しい主

張といわねばなりません。しかし、そこには共に生きるという

積極的人生態度をとれないものを裁く、あまりにも健康な人生

観があるのではないでしょうか。そのためか主張する人の意に

反して、それは共にを否定する結果を招く主張になり易いよう

に思われます。むしろ、「恐縮して生きる」といったらどうで

しょうか。所詮は人に迷惑をかげずには生きられない私たちな

のです。恐縮こそ最低限の社会性であります。

                   (『神の風景』86頁)

 

偏屈でわがままに満ち、自己中心的で自分の正しさを主張してやまない人間関係に、もし「恐縮して生きる」という発想が少しでも生かされたら、私たちのまわりは少しは住みやすいところになることはほぼ間違いのない事実のように思われる。

 

d 心を拡げて生きる

 

   すべての人の中に

 尊敬できる人などいない、という人がいますが、実際はそん

なことはないのですから、自分の心の狭さを暴露しているよう

なものです。尊敬できる人がいないと呟くよりも、そういう人

をさがしましょう。それも、遠くにではなくて、日常接してい

る人の中に、さがしましょう。そしてさらに、接する全ての人

の中に、さがしましょう。全ての人の中にです。全ての人の中

に、例外なく、尊敬できる人を発見できる筈と考え、そのよう

に自分の心のはかりを拡げてゆきましょう。この拡大こそ、人

間の存在に徹底してゆくことなのです。

                   (『神の風景』51頁)

 

精神科の臨床に携わってよかったと思うことがいくつかある。そのうちの一つは、今ここに記されているような「自分の心のはかりを拡げる」ということである。私の鈍い感性は確かにこの仕事に携わっていくぶんなりとも磨かれ、また心の狭量さは大いに打ち砕かれてきたような気がする。

 先日、私は数人の病院のスタッフを連れて特別養護老人ホームを見学に行った。

 その設立者が、私にこんなことを言った。

 「私は、町に外科医院を開設していますが、ここにこのホームを開設して、こうした老人のお世話をしはじめて、初めて人の人間模様ということが見えてきました。世の中には、いくら親切を受けても、ありがとうと言えない人もたくさんいるということです。そしてそういう人は、そういう人なりに、私から見たら私たちよりもつらい生き方をしてきたのではないかと思えるのです……。六十をすぎて初めてこんなことを知るなんて恥ずかしいことですが……。」

 この人が言うには、恵まれた開業医の世界では決して見えなかった世界が、このホームにはあるという。確かに私たちの目は、自分が一歩踏み出して、その世界に触れてみないと決して理解できないようにできあがっている。

 またすべての人に例外なく尊敬できる人を発見できるはず、という点に関し、次のような文章がある。

 

「二十一年前、私か白十字ホームへ転じて特養の実態にふれはじめた当初は、毎日の勤めが嫌で嫌でたまりませんでした。前述のような『老醜』まる出しの老人の姿に、毎日いやでも接せねばならない。しかもそれは自分と無関係な赤の他人ではなく、やがて自分も『あんなに』なるかもしれない。いわば自分の将来像を、これでもか、これでもか、と連日みせつけられる思いで、ほんとうにやり切れない思いの毎日だったのです。特養は私にとって、まさに人生の暗い終着点であり、汚辱にまみれたはきだめ以外の何物でもなかったのでした。

 しかし、この二十年間に、私の考え方は一転しました。それは『価値観の変革』とでもいうべきものでしょうか。

 老人が醜く、汚なく思われるのは、この世の平均的価値観に基準をおいているからであります。『若は善、老は悪。健は善、病は悪。金は善、貧は悪。美は善、醜は悪』こうした価値観に立つかぎり、老人はこれらの悪の集大成の巨悪にほかなりません。米国における有名な『カレン裁判』では、植物人間のようになった少女カレンの人工蘇生器をはずすことによって、彼女に『尊厳死』を与えることを連邦裁判所は認めました。つまり彼女にとっては『若々しい健康美』の生こそ尊厳に値するものであって、植物人間的生には尊厳性は存在しないから、速やかに死なせることが、尊厳性を保つことになる、というのです。

 こうした価値観に従えば、特養におられる『ねたきり、たれ流し、痴呆』のご老人に尊厳のカケラも存しないということになりましょう。

 だが、私はこうした、ご老人に毎日接している間に、その醜悪と見える姿の背後に、なんとも言えぬ、美しい輝きを見る思いを抱くように変えられていったのです。

 創世記1章27節に『神はご自分にかたどって人を創造された』とあります。すなわち人間の尊厳性は『神のかたち』を宿していることにあります。そこには、美醜、健病、老若、の別はなく、ただ『人間である』というただそのことだけで、他の何物にも代え難い尊貴性が存在しているのです。若く美しい生も、老いた皺だらけの生も、天皇の生も、おむつをあてたボケ老人の生も『神のかたち』という『創造の秩序』の中におかれている人間として、全く同等であります。

 しかし今日私たちが構成する社会は、アダムの堕罪以来、『神のかたち』を失った罪人の社会であります。それは、欺隔と謀略、搾取と抑圧の罷り通る『弱肉強食』の世界であります。そのような社会では、勝ち抜いた強者が善、負けた弱者が悪、と評価されます。こうした嘗ての勝利者も敗北者も、いまは一様に決定的な敗北者となって『老醜の余生』を送っておられるのが、特養のご老人たちです。

 特養(koko)ではもはや強者の論理『弱肉強食』は通用しません。嘗て自分の足で立ち、自分の手の働きで生活を支えて来た人たちが、いまは『ねたきり』となり、他人の手で食べさせてもらい他人の手で排泄の始末をしてもらうことによって、かろうじて今日一目生きることが許される。よだれをたらしたり、手足をばたばたさせたり、やたらに泣き叫ぶ者もいる。全く赤ちゃんの世界。『幼児への退行』が特養老人の姿です。

 これはなにも特養老人に限ったことではありません。人間はすべて年をとると、遅かれ早かれ、このようになるのです。万人老化即万人幼児化であります。こうなったら、もはやどんなにあがいても、嘗てのように、他人を欺いたり踏みつけたりすることはできません。私の考え方が180度転換した、というのは、このようなご老人方と毎日接していることを自覚するようになったからです。

 イエスは幼な子の上に手をおいて、『天国はこのような者の国である』と申されました。人間は神に背いて『神のかたち』を失い、社会生活において罪を重ねてきましたが、『老い』て『幼な子』にかえることにより、『天国』 への希望を与えられるのではないでしょうか。『ゆりかごから墓場まで』といわれていますが、墓場へ行くまえにもう一度『ゆりかご』を体験せしめることによって、神は私たちに『天国へはいる』準備をさせてくださっているのではないでしょうか。その意味でまさしく『老いは祝福である』と思います」

 (『医学と福音』 VOL43 No.07日本キリスト者医科連盟、5,6頁)。

 

 このように自ら手を汚し、自分なりの目でしっかりと見るべきものを見ていった先人の話しに照らしてみると、いかに私たちは狭量でその目は本来向かうべきところに向かっていないものであるかがよくわかる。

 私たちの視点は、所詮次の「断想」のレベルを越え得ないのではあるまいか。

 

   身勝手な関心

 人を見ながらまるで石ころを見ているかのように何の感慨も

抱かないということはあるのです。全く心を素通りさせてしま

うような人がいます。というよりはお互い、そういう人が殆ど

ではないでしょうか。私たちは結局、自分の関心で相手を選ん

で、そういう人だけを見ているのです。それ以外は見ていなが

ら実際は見ていません。尤もこういうことは、言われる程に悪

いことではありません。接する人をいちいち感慨をこめて見て

いたら、疲れてしまうではありませんか。ただ自分の関心の身

勝手さだけは忘れないようにしましょう。

                  (『神の風景』248頁)

 

 人が人を見ているようで、実際は見ていないという指摘はなかなか痛く、鋭いものがある。

 一時期、教会の教育講演会や牧師会で、よく心の病気の話を頼まれたことがあった。”教会にこんな人が来るがどうしたら良いのか”という相談である。ところがここ数年間、私はだんだんこのもっともらしい発想には、そもそも基本的なところで重大な見落としがあるのではないだろうかと考えるようになった。それはこうした発想をすること自体、自らの狭量さを暴露しているようなものではないかということである。すなわち、そういう捕え方をする人達は、心の病気というものは、自分とは、無縁なものであると考えたり、人間というものを深く考えないで、すまそうとするきらいがあるということである。こうした風潮を反映してか、最近、病院でも“マニュアル作り”というものが盛んになっているが、企業でも学校でも“How to”式のもの(どうしたらよいのかという対応をきこうとする発想)がはやるということの裏には、次第次第に人が自ら考えたり、工夫を凝らしたり、苦労するという側面、すなわちその人自身が秘かに自分の心を痛めるという生き方がすたれ、人間が人間を観る目が浅くなっているという事実があるのであろう。

 

 それゆえ、こうした便利さを求める時代は、人間が見えなくなりつつある危険を含むような気がする。そして、もしそれが本当であれば、これほど淋しいことはない。なぜならば人の心は尊敬できる人を見出し、それでもって支えられ励まされて生きていけるものだからである。

 

結婚と家庭

 

a 敬虔

 

   困った夫婦

 夫婦の仲の悪いのは困ったものですが、仲の良すぎるのも困

ったものです。お互いの愛情だけで一緒になれたと確信してお

れるほどに仲の良いのは、困ったものです。地球上に何十億と

人間のいる中で、二人は組み合わされたのです。その出会いの

不思議さの前に口ふさがれる思いがするはずですのに、それに

気付かないほどに、自分たちの愛情だけを確信できるのは、困

ったものです。ミレーは「晩鐘」に夫婦愛の最高の姿を夢みた

のではないでしょうか。今日あるを感謝する敬虔を欠いた仲の

良さには、罪のにおいがします。

                  (『神の風景』 137頁)

 

これを読んで、人は何を想うのだろうか。私は、今日の人間関係の混乱の一端が解明されるような思いがした。すなわち、人は上にあるもの、何か恐るべきもの、言い換えれば静かに頭を垂れるものをもって初めて人間らしく生き得るものなのに、天に坐しておられる方を忘れかかっているということである。

 また、「人」という字が二人の人が支え合う形からできあがっているように、いかに幸せそうに見える夫婦でも、様々な人に支えられ、助けられて初めて生きていけるものであるのに、人間中心的な考えのはびこる世界では、その土台を永遠の御腕をもって支えているお方がおられることに仲々気づけなくなっているのでないかということである。それゆえ、人問は己れの分を忘れて、自己充足的になると、大きな錯誤と混乱に陥るに違いない。

 ”罪のにおい“とはこのことであり「お互いの愛情だけで一緒になれたと確信しておれるほどに仲の良いのには、困ったものです」という指摘はきっとそのような意味合いなのであろう。

 総じて自らを高くし、二人の間柄で十分と、その力を誇示する不遜さは、心の貧しさの現われなのだろう。この点、ミレーの「晩鐘」の情景は、人にとっても夫婦にとってもなくてはならないものが何であるかを教えているもののように私には思われる。

 

b 破壊要因

 

ところで、夫婦関係を決定的に破壊する要因が現実にはいくつかあると私は思う。その一つは夫婦がお互いの正しさを主張し、夫婦の間で筋を通し合うということであり、もう一つは“不真実”である。

 前者については次のような「断想」がある。

 

   人間の租界

 徹底的に問題を洗い出して解決してゆくのが筋の通った人間

関係であるとすれば、どこか馴れ合っているところのある夫婦

というものは、決して筋の通った人間関係とはいえません。し

かし、それでよいのではないでしょうか。馴れ合いには、筋の

通らないことをそのままに受け入れているという意味で、ゆる

しの極点ともいえる場合があるわけで、夫婦はまさに人間の諸

関係の中で唯一のその場合だからです。夫婦とは馴れ合ってで

もしなければ生きてゆけない人間の租界です。夫婦の間で筋を

通し合うほど、愚かなことはありません。

                  (『神の風景』 185頁)

 

 淀川キリスト教病院に来て診察を始めたころ、よくご夫婦の相談にのった経験をいろいろと思い起こす。当時は、私もまだ若く、結婚生活そのものの実体がよくわからなかったので、一方が自分の正しさを主張し始めると、”もっともだ”と思い、その正しさが実現したらきっとこのご夫婦はうまくいくと思ったものである。

 けれども現実は、決してそう単純ではなかったように思う。第一、人間は、いろいろ欠点を指摘されても、同じ過ちを何度も何度も繰り返す側面があるし、いくら努力しても、結局は自分というわくの外に一歩たりとも出られない側面をもっているからである。そして、筋を通すということは、必ずしもこの人間の弱さ、愚かさを覆い隠すものではないことに気づいた。

 それでは、いったいなぜ正しさを主張し合うことが関係をこわすことになるのだろうか。それは「正しさは必ずしも人間に届いていないからだ」と思う。

 

   正論と愛

 わかっていて止められないのです。浅ましいと思いながら執

着するのです。どうでもよいことに意地をはるのです。この人

間の愚かさ、弱さ。それに甘えてはなりません。しかし、道理

の通った正論でこの弱さをさばかれてはたまらないのも事実で

す。正論とは、道理は通っているが人間に届いていないせっか

ちさです。道理は通っていないが人間に届いているゆるやかさ、

それを愛と言います。道理が通っていないという理由でこれを

斥けてはなりません。人間の弱さに対する洞察において、正論

は遠く愛に及ばないのです。

                  (『灰色の断想』37頁)

 

 人間は、ゆるされて生きていくものであり、結婚生活はゆるし合いを最大の前提としているものだということがわかって、私は少しゆとりを回復した。けれども、私たちの現実は正しさが勝って愛を失い、弱さを責めて、思いやりを欠くことが多いのではないだろうか。

 また、後者の”不真実”というのは次のようなことである。

 

   不真実

 貧しさによって愛が破壊されることがあります。力や病気や

不幸によっても同じです。しかし、それらによっていささかも

影響されず、却って強固になってゆく愛もあります。むしろそ

の方が愛としては本当でしょう。ところが、そのような愛をも

簡単に破壊するものがあります。相手に対する不真実です。不

真実は決して小さいことではありません。軽蔑よりも憎悪より

も決定的に、交わりを裂きます。それであるのに不真実の持つ

問題性がそれ程大きく見えないのは、私たちの交わりが、既に

回復し難く稀薄になっているからでしょう。

                   (『神の風景』99頁)

 

 この中でいわれていることは、何も結婚生活に限ってのことではなく、人間関係全般について当てはまることに違いない。

 ある時、一人の人からこんなことを言われたことがある。

 「仕事がどんなにきつくても、また給料が多少安くたって、私たちはガンバリます。しかし、自分たちの言っていることが全然取り上げられず、生かされもしない環境の中で、上にいる人たちの言うことがコロコロ変わって、もうだれの言うことを信じていいかわからないという中で、もう辛抱する気持ちはありません……。きょうもガンバロウという気持ちは湧いてきません……。」

 「信・望・愛」と聖書は言うが、私はその時、その人をそこまで追い込んだ事態の深刻さに強く心を痛めた。ともあれ人は人が信じられなくなった時、何か決定的なもの――生きていく力というべきもの――を失って、もはや生きられなくなるというのは事実である。

 私自身同じような経験をしたことがある。ずいぶん高い立場にあった人であったが、ある会合の中で、前掲の「断想」が”不真実”と呼んでいるその人の本心というべきものが見えてきた時、私は“ああこの人とは、もうやっていけんわ”と何の理屈もなく思ってしまったのである。もちろん、そうであるからといって、私の外向きの態度や働きがどうこうなったというわけではない。ただ、気持ちが自分でも驚くほど恐ろしく冷めてしまったのである。

 私はその時、ふと、もしこうした気持ちが家庭生活や二人の結婚生活の中に入り込んだらいったいどういうことになるのだろうかと思って、身震いするほどの恐ろしさを感じた。それはもはや説得でも理屈でも、どうにも頑として動かない世界のように思われた。

 けれどもまたこんな経験もある。それは、私たちが大阪に出てきて間もないころ、まだ所属教会も決まらなかった当時、何くれとお世話になった牧師ご夫妻のことである。今年その牧師は惜しくも亡くなられたが、私たちが親しくおつきあいいただいたこの十余年、いやこの最後になる時まで、愛の配慮に富み、慎み深く謙遜そのものであられた。最後の数年間は半身不随と失語症に悩まされたが、その病床の看護に当たる学生や、ナースの何人かが教会に通い、受洗するに至ったというから、確かな福音の証し人であったことは間違いない。そして私はこの牧師に出会ったことによって、またこの牧師ご夫妻から多くいただいた愉快な、心暖まる楽しい思い出を思い出すことによって、まだこの世の中は信じられる気持ちがしたし、自分を偽ることのできない生き方のできる人も現実に存在することを確信できた。

 聖書の中に「彼(キリスト)は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないからである」(IIテモテ2・13、口語訳)という御言葉があるが”自分自身を偽ることができない人“というのは、たとい真実さゆえに、その人自身が多くの苦しみを覚悟しなければならないとはいえ、”地の塩”と呼ぶべき存在ではないかと私は思う。様々な人と出会い、行き交う人生という流れの中で、思い起こす毎に私たちの心を励まし、勇気づけてくれる人々というものは、このような類の人々である。

 

C もはや…ではない

 

実際踏み出した結婚生活の錯誤に、次のようなものがある。

 

   現状認識

 結婚とは二人の独身者が一緒になることですが、それでその

二人が夫婦になるわけではないのです。夫婦とは独身者が共同

生活をすることではないからです。それは、今迄独身であった

ものが、その独身であったことを止めて、夫と妻という全く新

しい生き方の中に入ることです。ですから夫婦を正確に認識す

るためには、もはや独身ではないと、なじんだ状態に決別する

覚悟をせねばなりません。このことは全ての現状認識に当ては

まりましょう。「もはや……ではない」の覚悟の痛さを避けて

は、現状は正確には認識できません。

                   (『神の風景』68頁)

 

 私たちの結婚生活の困難は、結婚したはずなのに、いつの間にかお互い自分に都合のよい生活パターンに戻り、自分に都合のよい生活を展開しようとするところから発するのではないかと思う。“結婚したということは、もはや自分のためにばかり生きられないということを意味する”という先人の言葉がある。

 

d 明る過ぎないこと――ゆるし

 

 それでは、結婚生活の土台に据えねばならない基本姿勢といったものはどのようなものであるか。次のような「断想」がある。

 

  ゆるしの薄明

 私たちがともかくもこうして生きておれるのは、決して当り

前のことではないのです。もし燈し火をつけて相手の心をのぞ

き合うようなことをお互いにしたら、どうなるでしょうか。あ

かりをつけられたら困る者同土があばき合うことになり、修羅

の巷となることでしょう。あかりをつけた時の結果を、お互い

よく知っています。知っていてつけないからこそ、なんとかや

ってゆけているのです。ですから、あかりをつけないことを慣

れ合いと考えないようにしましょう。それはゆるしなのです。

人生は明る過ぎては生きてゆけません。

                   (『神の風景』 14頁)

 

e 心配の情念

 

   家 庭

 家庭とは何でしょうか。心配の情念だと思います。とくに親

が子に責任を感じて配る心づかい、その情念ともいうべき心配

を欠くならば、たとえ家庭を成り立たせる要件のすべてを満た

していても、それを家庭とはもはや呼べないでしょう。親が子

に抱く気配りの多くは、非理性的で、感情的で、第三者には認

め難い身勝手な廿さに流されたものばかりですが、しかし、そ

れこそが家庭というものではないでしょうか。家庭とは、どこ

かで大目に見てもらわないことには生きていけない人間に許さ

れている非合理のことです。

                  (『神の風景』 194頁)

 

家庭とはいったい何なのかという問題は徴妙で、決して一概に定義し切れないものであると私は思う。けれども、心配し合う情念の世界であり、その性格は不合理で、きわめて身勝手であることはほぼ間違いのない事実であると思う。たとえば、親として駆け出しのころの経験を振り返ってみると、日中さんざん親を心配させた子供が、夜スヤスヤと何事もなかったかのように寝入っているのを見て、自分の子供はだれが何といおうと無性に、また絶対的に可愛いという思いがムクムクと湧き上がってきて、その相反する感情が同居する不思議さに心打たれたものである。

 子供の参観日などには、また不思議な現象に見舞われる。

 たとえば、先日私は下の男の子の授業参観に行ったのだが、教室に入ると、まず我が子はどこにいるのかを見定めるまでは、まるで落ち着かないのである。ところが、おもしろいことに、このことは子供のほうでも同じらしく、どの子供もキョロキョロ、キョロキョロ後ろを見て、自分の親が来ているかどうかを見届けるまでは、黒板のほうを向けないでいるのである。私はその時、自分のこうした心の動きに、なかばあきれかえって苦笑してしまったのだが、考えてみればこの光景は、七、八年前も全く同じだったように記憶する。今でもはっきりと覚えているのは、上の子の幼稚園の運動会の日、自分の子供が走る段になると、何人かの親達がそれこそグランドに飛び出て、我が子の走る姿をビデオに撮ったり、写真に撮ったり大わらわになってしまうことであった。若い保母さんの注意など耳に届かないのである。

 けれども、この身勝手な心配の情念こそが親と子を結び、時に子供を救うのも確かである。

 思春期のつまずきを抱えた親子を扱った時のことである。舵取りのできない無力な父親と、オロオロするばかりの母親の中で、この子供をいったい、どこに一時避難させたらよいだろうかということが問題になった時があった。核家族化が進んで、どの兄弟、親族も自分たちの生活を守ることで精一杯で、だれも助け舟を出そうとしない中で、この子は私にこんなことを言った。

 「私が腹が立つのは、この間の親族会議で、なぜ父が私をかばってくれなかったかということです。おじも、おばも、それぞれに自分の家の苦しい実情を理由に、それ受験生がいるからとか、それボケた老人を抱えているからと言って、できるだけ自分の家に厄介者を入れまい、入れまいとして、家を守ろうとしているのに、私の父親には、まるでそれがないのです。それはそれでごもっとも……というふうに後ずさりするだけなのです。それを見て私は、情けないやら、悲しいやら……。」

 “なりふりかまわずに……”ということばがあるが、”だれが何と言ってもこの子は可愛い、何か何でもこの子は守る……”、こうした動物的ともいえるほどの情念が、親子の中にあると私は思う。そしてそれこそが、子供の心を奮い立たせるのである。

 もう十年ほど前のころであるが、私は『女性の四季』という本を書いた。今読み返してみると、まことにたどたどしい文章の運びであるが、それでも多くの読者が一様に共感を示してくれた一つのエピソードがその中にある。内容において同じ性質のものを含むことが今はよく理解できる。

 

私が小学校三年生の時のことです。当時、父は郷土史の研究のために小さな町にとどまり、母はさきほど述べたような事情で都会に出て働き、私たち三人を学校にやってくれていました。いわば別居の形をとっていたのです。父は後にその方面でりっぱな業績を残しました。

 それは遠足の日の朝のことでした。遠足は子どもにとって楽しいものの一つですが、その日、私は学校に行くことができずにいました。というのは、お弁当がないからです。当時、母は商いをしていたので、行き先で売れ行きがよければ、そこに二三日泊まって仕事をしたり、もっと郡部の山村に入っていったりして、帰ってこないことがしばしばありました。そうした時、家の米びつは底をついてしまいます。すると、おばあちゃんが決まって近所の家へ行って「あずき」とか「もち米」を借りてくるのです。「お米がない」と言うのがつらいので、おもちを作るためとかいう口実で借りてくるわけです。

 さて私は登校時間が迫ってくるものの持っていくものがなくて困っていました。学級委員長の私がいかなければ、皆が困ってしまいます。「みんな待っているだろうなあ、けど、弁当がないし、どうしよう、どうしよう」。ふだんだったら、間に合わせにジャガイモのおつゆを作ってそれをすくって持っていったりしたのですが、そうもいきません。

 「もう時間がない、休もう」と思った時、玄関にばたばたと足音がきこえ、母がころがるようにかけ込んできました。そして手早く、パンやら、お菓子やらを袋につめ、水筒を用意してくれました。ところが途中で母は、ゆで卵がないことに気づきました。昔は今のように、ガスも、コンロもありません。ストーブをたくにも、消しずみを使って細かい木片、杉の葉なとから火を起こしていたのです。とてもその時間のない事を見て取った母は、ストーブの中に少し火種が残っているのを見ると、驚いたことに、なま卵をポンとその中に投げ込んだのです。母はきっと、その火種で卵をあたためたら、ゆで卵と同じようになると思ったのでしょう。もちろん、それは無理なことでした。

 当時の私は、このことのもつ意味がよくわかりませんでした。しかし、いざ私か父親になった時、母がどんなに大きなことを私のためにしてくれたかが理解できるようになりました。私の心に「不合理をもいとわない母の熱情」が記憶されていたのです。そのため、その場面を今でも鮮明に思い起こすことができます。母はきっと、この子が弁当を開いた時、恥ずかしい思いをさせたくない」という一念から、直感的にそうしたのでしょう。そのことが私の心を感動でふるわせるのです。何事も便利に、合理的にと考えやすい今日の親ごさんには、このことの意味合いは、もしかしたらピンとこないかもしれません。さしずめ、「もうこれだけ持っていきなさい」とか「お金をあげるから好きなものを買いなさい」というところできりあげてしまうでしょう。

 しかし、そうした中では、ほんとうの親子のきずなは、築けないのではないでしょうか。

                      (『女性の四季』聖文舎、139〜140頁)

 

精神医学の世界で、万能感、全能感ということばがある。自分がこの世の中心にあり、自分は親から特別に、また絶対的に愛されていると確信する特殊な感覚のことである。相対的な世界でしかあり得ないこの世の現実においては、そんな理屈が通るはずもなく、もしそれにとどまり続ければ、早晩病的な世界に陥ってしまうに違いないのだが、私は、親子とか夫婦の間は、多くの危険を孕むこの絶対性の世界において支えられるものだと思う。