誠実、無欲、色でいえば真白な人、不実、貪欲、色でいえば 真黒な人、そんな人はいずれも現実にはいません。いるのは、 そのどちらでもない灰色の人でありましょう。比較的白っぽい 灰色から、比較的黒っぽいのまでさまざまではありますが、と にかく人間は、灰色において一色であります。その色分は一人 の人間においても一定ではなく、白と黒との間をゆれ勣いてい るのであり、白といい、黒といっても、ゆれ動いている者同志 の分別に過ぎません。よくみればやはりお互いに灰色でありま す。灰色は、明るくはありませんが暖かい色です。人生の色と いうべきでありましょう。 |
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目 次 |
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ひとり |
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ゆっくり |
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面白く |
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人の心を土足でふみにじるな、といわれます。たしかに、思いや りのない表面的な批判は、お互い慎まねばなりません。しかし、も しそういう批判を受けたなら、それに抗議するよりは、それはそれ として聞いて、自分を省みる機会とするのが本当だと思います。土 足をなじることが、逆に相手を土足でふみにじることになる場合も ありますし、自己弁護になることだってあるのです。それに、土足 ででも介入されない限り、なかなか目覚めないのが、お互いではあ りませんか。それはそれとして聞く、それが人間の成熟というもの であります。 人は皆ひそかに心の中に逃れ場を持っているのではないでしょう か。逃れ場などというと人生の敗北者の弱音といわれるかもしれま せん。しかし、愛のない人生が生きられないように、逃れ場のない 人生も生きられないのです。問題は何に逃れ場を見出すかというこ と、そしてそこを、不分明な人生の流れに押し流されながらも「生」 そのものの意味を問い問われる心のたたかいの場所として、如何に 深めるかということです。人生とは、正しい逃れ場の発見と、その 逃げ方の探求であるということすらできるのではないでしょうか。 たとえ東奔西走の活躍をしても、論旨明快な論陣を張っても、至 純無私な愛に献身しても、そして、人々もそれを高く評価してくれ ても、人は常に自分に対しては全く別の評価をせねばならないよう に思います。それは、人間は根本的にはどこか取り留めのないとこ ろがあるからです。自分を取扱いかねて、みじめに破綻していると ころがあるからです。自己評価は常に、「みじめな人間」の一語に 極まるべきではないでしょうか。それを感傷的な自虐と考えてはな りません。倫理的意志に健全かつ強靫に貫かれた自己評価とはそう いうものなのであります。 生きているのがいやになるような筋の通らないことが多くありま す。矛盾、混乱、何とはなしに明白ではないのです。明白を求めた い。矛盾の中に沈黙するよりは、納得できるまで明白を求めて問い 続けたい。しかし、問い続ければいつかは必ず、何もかも明白にな ると思うのは幻想であります。問うばかりではなく、実は問われて いる面が、深く人間にはあるからです。問うても、告発しても、明 白にはならない現実の中で、人は限界を嘆くよりは、人間の構造へ の無理解に気づくべきでありましょう。人は、問うよりも問われて いるものなのであります。 たとえば自意識過剰のような性格の歪は、人も不愉快であります し、自分も苦しいものです。直せるものなら直すにこしたことはあ りませんが、運命的とも思えるほどにそれに傷つき、直し得ない人 もいます。その時、それを担い、伴う苦しみに耐えて、人生を常人 が及びもつかぬほどに深く見通す人がいます。彼は居直っているの ではないのです。歪んでいるとはいえ、たった1回きりの人生を大 切にしているのです。この人生愛において、歪は昇華して、永遠を のぞきうる窓になるのでしょうか。性格に限らず、なべて歪を直す べきものとしか見ないのは、謬見であります。 永遠、それは無限に遠いなにか手の届かないもののように思われ ますが、実際はきわめて身近かに寄り添っているものでありましょ う。それは、穴をあければどっと流れ込んでくる水のように、すぐ 傍に迫っているものでありましょう。だから、永遠に対する道は、 求めて外に進んでゆくよりは、迫られて内に退いてゆくことにある ように思われます。つまり、自分自身をこれでよいのかと問うこと、 自分に穴を堀りあけるまで烈しく内に問うこと、そこに湧いてくる 泉のようなもの、それが永遠でありましょう。 歴史の大きな流れに影響されながら生きていることは事実です。 しかしそれに影響されない、いわば個人の歴史ともいうべきもの を、一人一人が生きていることも否定できません。小さい歴史かも しれません。しかし軽視するにはあまりに重大な現実です。これに 比べれば、歴史の流れなど抽象的な観念に過ぎなくなるほどに、具 体的な現実です。個人の歴史を小さいこととしていたづらに大きな 歴史を論じるのは、永遠を見失った現代人のずるさです。永遠を見 失った時、人は個人の歴史の重大さを見失ったのです。 人にはそれぞれその人だけの歴史があります。異った才能、異っ た気質を与えられ、異った人に出会い、異った経験をつみ、その人 だけの歴史を生きています。勿論共通の点も多くありますし、それ を大切にせねばなりません。ことさら奇をてらうことは慎まねばな りません。しかしそれでも、納得のゆくものを誠実に求めて生きる ならば、それぞれの歴史から自らなる違いが出てくるでありましょ う。個性とは、この自らなる違いであります。それは誇示するもの でなく、誠実に負わねばならぬ重荷であります。 自分の愚かさに苦しみ、人の悪意に苦しむ。社会の矛盾に苦し み、宿命の重荷に苦しむ。生きるとは苦しむことです。しかしそう いう苦しみばかりでなく、正しいことを求めて苦しみ、隣人を愛し て苦しむということもあります。苦しみはできれば避けたいもので すが、この種の苦しみは、それを避けると虚無感という一層の苦し さになって戻ってきます。それはむしろ自分自身に向って課すべき 苦しみなのです。この種の苦しみを自らに課し、じっと耐えている のでなければ人間はその尊厳を失うでありましょう。 苦しいことは誰れも嫌ですから、避けたり軽くしたりします。し かし、生きている限り苦しみが続くことは否定できませんし、苦し みによって人が育てられてゆくことも事実です。だから、避けるよ りは苦しむべき苦しみを苦しむのが、人生の本筋でありましょう。 人には、他の人にはなくてその人にだけ負わされた苦しむべき苦し み、言ってみれば「個性的苦しみ」がそれぞれあるものです。求道 とは、数ある苦しみの中から、この「個性的苦しみ」を求め、そし て負おうとする「求苦」であるといえましょう。 求道というと何か高いものを目ざす努力のように考えられ、その 為にそれが苛酷で潔癖な精進になったり、一部の人にだけできる特 別なものになったりしやすいものです。求道とはおそらく高くなる ことでなく、素直になることであると思われますのに、道徳的強迫 観念に支配された方向ちがいの努力にそれが必ずなってしまうの は、求道自体が傲慢の罪を犯すことである、という悲劇的な人間の 矛盾のためでありましょう。求道は罪であると自覚する時、求道は はじめて求道になるように思われます。 自分を改めるということは、何らかの意味で痛苦を伴うもので す。神を信じるとは、神に変革を迫られることでもありますから、 痛苦を我が身に招くことでもあります。信仰は、痛苦をもってその 生けるしるしとし、またその証をたてるものです。痛苦のない信 仰、それを偶像崇拝といいます。偶像崇拝とは、単に像を拝むとい うことではなく、痛苦を避けつつ信じようとする自己執着のことで す。ですから、痛苦に身をひたしている信仰は、たとい木、石の像 を拝もうとも、偶像崇拝というべきではありません。 その人をじっと見ていると、そこにその人がいないというか、消 えているというか、とにかくその人が破れてそこへ向うから何かが 差し込んできているような深い感じのする人がいます。思索の人、 知性の人、教養の人にそれを感じるかというと、そうでもありませ ん。むしろ愚鈍の身をいかんともし難く、迷い続けているような人 に感じることが多いのです。心の内出血を支えられて生きているよ うな人、その受身の姿勢が深さを感じさせるのでしょう。人生にお いて、受身は弱さではありません。深さであります。 お互いの問題をはだで感じとる鋭い洞察力によって連帯を築いて ゆこうとよくいわれますが、幻想ではないでしょうか。私たちは、 余人がはだで感じとることをゆるさないような深さで、それぞれ別 の世界を生きているのです。確かにはだで感じとれるような面もあ りましょう。しかし、そのような面で慰め励まし合うのが連帯な ら、連帯とは深さから目をそらさせる人間性への侮辱に他なりませ ん。連帯は、所詮は一人生きるより他ない人間共通の運命への共感 を踏まえた時に、その幻想性を免れることができるのです。 社会的実践がすべてのように思われる現代にあって、個人の生き 方を美しく整えようとする努力は軽んじられがちです。しかし、無 関心無責任な時代に思いやり深く生き、他の犠牲の上に繁栄を求め る時代に自分を献げて奉仕に生き、他をのみ批判するに急な時代に まず自分を冷静に省みつつ生きる、そういう美しい生き方こそ、時 代の病根をつくものではないでしょうか。社会的実践は、こういう 徳の実践によって克服されるべき醜さを内包していることを少なく とも自覚しているのでなければ、真に変革の力となりえません。 群衆から離れていれば、それで一人になれるわけではありませ ん。また、個性を発揮し、独自性を主張していても、誠実に自分を 追究していても、やはりそれが直ちに一人になっていることを意味 しはしません。なせなら、一人とは、自分の存在を主張することに 伴う自覚ではなく、自分の存在を否定することに伴う自覚だからで す。それは、自分を徹底的に問題にしてゆく妥協のなさに伴う自 覚、つまり罪の自覚にきわまるものに他なりません。人間をこの自 覚に導き、一人にして、そこにおいてのみ出会ってくださるのが、 神であります。 予言者はなせ世に対して鋭い洞察をなし得たのでしょう。社会や 歴史を広く学んだからではありますまい。彼の目はむしろ自分を見 ていました。自分の妄執の中に世の妄執を、身に昧ったさばきの中 に世のさばきを見ていました。彼にあっては、歴史は複雑に見えて 実は彼の生きる姿の中に単純に展開されていたのです。今日の問題 は、政治の対立や科学の進歩等による複雑さに目を奪われて、私が 生きているという単純さを見失ったところにあるのでないでしょう か。病める時代には、この単純さは洞察となり、抵抗となります。 その時は何の感銘も受けなかったことが深い感動と共に思い出さ れることがあります。全然理解できなかったことに後で成程と思い 当たることもあります。そういう経験をすると今迄の生活が恥ずか しく、あの時どうしてわからなかったのだろうと情けなくなりま す。しかし、あの時はわからなかったのです。時が必要でした。色 々な人と出会い、様々な経験をし、私自身も変る、それに応じて人 生の真理は姿をゆっくり現わしてきたのです。これからも同じこと でしょう。手間のかかることです。しかし、楽しいことでもありま す。 清い心というのは心にゆがみも曇りも全く無い状態をいうのでは ないでしょう。自分の心のきたなさに立ち止り、それをかたづけな いことには一歩も前へ進めない人、つまり自分を素通りできない人 の心でしょう。それは自分自身か何よりも問題になるのですから、 内気な、恥じらいを含んだ、申しわけなさそうな心でしょう。それ はまた、自分の心の自叙伝を一つ一つ記しておかないことには不安 でどう生きたらよいのかわからなくなってしまう人の心でもありま しょう。だからおそらく、心の清い人はゆっくり生きると思いま す。 幸福な生活が与えられたら素直に喜べばよいと思いますが、それ で満足してしまうのは、人生の深さを思えば、怠慢であり欺瞞です らありましょう。満足することが無いからではなく、満足すること は有るけれども満足してはならない、そういう一種の抵抗感、それ は人生を見る目の深さに比例します。そして、この抵抗感を抱いて 生きる時、人は人生を遍歴するより他ありません。遍歴は、逃避を 本質とする無責任な放浪とは違うのです。それは人生の深さに対す る真面目さなのです。生きるとは、遍歴することであります。 誰をも傷つけず、誰にも不快な思いを与えず、誰にも迷惑をかけ ずに人は生きられるものでしょうか。わびる機会を逸し、そのまま になっている人、黙って心の中でわびるより他に術のない人、そう いう人は1人もいないと言い切れる人はおそらくいないでしょう。 思えば知らないうちにどれだけ多くの人の心に重荷となっているこ とでしょう。だから、時にはふと立ち止って、前科者の自覚、生涯 かけても償いきれない負目を負った前科者としての自覚を新たにす ることは、人が人になってゆく上で大切なことと思われます。 生涯に経験することは人によって様々でありますけれど、それで も或る意味で皆同じだという気がします。喜び、悲哀、希望、幻 滅、誘惑、倦怠、孤独、野心、諦念、虚栄、自己嫌悪、愛、憎悪等 これらを経験することにおいて、皆同じではないでしょうか。生き るということは、この点公平なことだと思います。変ったこと、多 種多様なことを経験したから、人生がわかるというものでもありま せん。問題は日常の経験の堀り下げ如何ということでありましょ う。生きる意味を考える材料には、お互いこと欠かないのです。 宗教であれ政治であれ、確信をもって情熱的にそれに係っている 人を見ると、なにかグロテスクな感じがします。人生は掴みどころ のない不分明なところがあるのですから、それを明確な手応えある もののように生きると、逆に滑稽で醜悪なものに自分を仕立て上げ る結果になりましょう。人生は情熱的に生きるにはあまりにも漠と して白々しいものです。それは情熱よりもむしろ義務感で耐えて生 き抜くべきもの、つとめでありましょう。美しく深い生き方は、つ とめとして生を忍受する人のものであります。 人を試みながら徐徐にその姿を現わしてくるのが、宗教的真理で ありましょう。試錬にあい、誘惑にさらされ、混迷に陥り、その中 で確信していたものが崩れたり、わからなかったものがわかってき たり、そういう手間のかかる道を通ってでなければ、それは現れて きません。だからそれに対しては明快と性急は禁物です。不明確さ に耐えて自分の問題点に気づき、緩慢さに耐えて自分を改めてゆ く、その根気のよい自己添削こそ、それに対してふさわしいので す。信仰は、自分に対するこの無限の添削でもあります。 罪を犯さない人間、そんな人間はいません。いれば、化け物で す。どっちみち罪を犯さずには生きてゆけないのです。しかし、だ からといって罪を犯すことを当前のこととするなら、それは、動物 です。これまた人間ではありません。罪を犯さない状態と罪を当前 とする状態、その中間が人間に生きるべく与えられている状態でし ょう。そして、この中間状態を不安定に耐えながらもがいて生きる ことによって、人は、化け物でも動物でもない人たるのあかしをた て得るのです。恰好のよい話ではありませんか、他に道はないであ りましょう。 不幸になるとそれだけを見つめ、幸福になるとそれだけを見つ め、良いことにしろ悪いことにしろ私たちは置かれている状況だけ を見つめてしまい易いものです。しかし、生きるということは広々 としたことでありますし、流れてゆくことでもありますから、それ は人生を狭く動かないものに限ってしまう誤りを犯すことになるで しょう。ことがどれほど重大でも、それだけをみつめてはならない のです。それは、問題から目をそらす不真面目なことではなく、こ との実体をよく見きわめるために大切なことなのです。 わかっていて止められないのです、浅ましいと思いながら執着す るのです、どうでもよいことに意地をはるのです、この人間の愚か さ、弱さ。それに甘えてはなりません。しかし、道理の通った正論 でこの弱さをさばかれてはたまらないのも事実です。正論とは、道 理は通っているが人間にとどいていないせっかちさです。道理は通 っていないが人間に届いているゆるやかさ、それを愛といいます。 道理が通っていないという理由でこれを斥けてはなりません。人間 の弱さに対する洞察において、正論は遠く愛に及ばないのです。 人をじっと見ていると、性格や才能や仕事や経歴や、そういった ものの底に、その人の弱さが透けて見えてきます。しかし、それが 単にその人の弱さとしてのみ見え、自分の弱さとして共に呻吟する 態において見えてこないならば、未だ十分に人を見ていないと考え るべきでしょう。弱さをじっと見ていると、見ている自分と見られ ている人とが次第に近づいて来て、遂には重なり、同病相憐む思い でうなづき合うに至るはずです。人を見るということが、そういう うなずき合いに極まるところに、人間の叡智があり、愛があるので す。 本当に新しいものは、古いものに対して自分の新しさを直ちに主 張はしません。むしろ既存の古いものの中に、占めるべき位置を先 づ求めようと「努力」します。そして、既存のものがこれを受け入 れないで追出そうとする時、はじめて「止むなく」新しい道を歩み 出し始めるようです。 新しさが本物であるかどうかは、それが古いものへのこの「努力」 と、新しいものへのこの「止むなさ」を備えているかどうかにかか っているのです。 悩みの時に神を求めると、逃避的とか御利益的とかいわれます。 たしかに否定できない点もあります。しかし、悩みの時は、順境に おいて見落しているものを発見せしめてくれる時であります。悩み を通して、自分の弱さ、愚かさが見えて来ますし、人への思いやり の目も与えられてくるものです。要するに、見えていなかったもの が見えてくる、その開眼の時でもあるのです。悩みの時に神を求め ることが、今まで確かだと思いこんでいた自分に不確かさを発見 し、さらに真の確かさである神に開眼する、そういう場合もあるの です。逃避かどうかは、別問題であります。 「神のない幸福ほど不幸なことはない」といった人がいます。彼 とて初めからこんなことを考えていなかったと思います。若い頃幸 福を夢み、それに向って努力し、次々と問題を克服して快哉を叫ん だこともあったでしょう。しかし、一切が空しい狂奔に過ぎなく思 えるような体験を味いました。愛する人も失いました。そして人が 目標とすべきものは何かという問に直面させられました。この短い 言葉の背後には、その問に迫られながら生きた一人の男の長い歴史 があるのです。こういう言葉は一生に一つか二つしか言えません。 「人間の言葉」というに値する言葉であります。 最も永遠に続くと思われる愛においても、最も堅固なよりどころ と思われる信仰においても、人は変わるものです。愛は無情であ り、信仰に蹟きは伴います。愛が永遠と思える時がたしかにありま す。信仰が堅固なよりどころと思える時もありましょう。しかし、 その時こそ、人間の愛と人間の信仰の限界について冷静でなくては なりません。万物が流転するのに、例外であるかのように人間を信 頼するのは、人間の傲慢でありましょう。「変わる」という醒めた 洞察は、人間への不信ではありません。それは、生き抜こうとする 決意であり、覚悟であります。 国家を論じ、社会を憂え、他者を批判するよりも前に、まず自分 自身を烈しく問題にせしめる、それが真理のもつ圧力です。人に認 められ、報われ、成功をおさめるといったあらわな結果に満足でき ず、むしろそういう結果に不安を感じ、自分一人のひそかな充実を 求めしめる、それも真理のもつ圧力でありましょう。しきりに論 じ、深く考えはするが自分をあらためようとしないものに、その不 誠実を自覚せしめ、誠実さを求める、それも真理のもつ圧力であり ましょう。要するに、真理は、外より内へと圧し続けます。 運命は非情であり、人間は弱いものであります。抵抗し耐えて も、押し流されてゆく場合があります。何人といえども、それから 自由ではありえないでありましょう。しかし、四方八方が全く暗く 閉ざされたそのような時にも、なお上に向って目をあげる自由は奪 われていません。上に向かうこの目を開きつづけること、それが志 を持つということであります。志とは、状況に支配されずに、逆に 支配しょうとする自由な魂の祈りであります。そして、教養とか知 性とかにではなく、この志にともなう人間の味わいを、面白さとい います。面白さとは、志の品位であります。 何が正しいのか判断に迷うことが多くあります。正しいものが、 いつでも明白に誰にでもわかるようにあれば、どんなにか楽であり ましょう。しかし、正しいものは、正しくないもの、正しさを否定 するもの、正しさを装うているもの、それらに混じってあるのです 。それは、正しくないものをよりわけてゆく努力を通してでしか、 見つけることができません。しかも、その努力はおそらく徒労にお わるでしょう。しかし、この努力をするより他に、その名に値する 人生はありません。正しさとは、徒労を要求するものであります。 そして、面白さとは、この徒労に生きる人の味わいであります。 「上手な絵かきは本当の絵かきでないよ。ヘタクソな絵かきこそ 本当の絵かきです。」と棟方志功は言います。上手下手と本当とは 別のようです。本当のものは、人の心をひきつけて高め、深め、広 げます。要するに、より高い世界へ招く趣があります。この趣が、 面白さというものです。面白いというのは、本当のものが出す味わ いなのです。そして、いかなる上手さも、この味わいを出すことが できません。信仰者は、本当のものを知っているものとして、上手 な生き方より面白味のある生き方を願うべきでありましょう。宗教 的なものには、面白さがあるはずであります。 何事でも本物に到達するということは、不可能なのではないでし ょうか。本物は、求めれば求めるほど退いてゆき、近づけば近づく ほど遠ざかってゆくからです。本物はそのように自分を隠しなが ら、本物と思いこんでいたものが実はにせ物であったことをさとら せてゆきます。だから信仰も、自分の信仰を本物と確信するのでは なくて、自分の信仰にたえずにせ物を見出し、それを克服してゆこ うとすること、それ以上に出てはなりません。信仰において確信と は、自分の信仰を常に疑い得る柔軟さのことであります。 世の中には、どうしても譲れないようなものと、どうでもよいよ うなものがあるといわれます。そして、生命がけでこれは守ると か、徹底的にこれに反対するとか言います。しかし、はたしてそん なに絶対的なものがあるのでしょうか。無いでしょう。むしろ、政 治であれ、思想であれ、宗教であれ、何らかの意味で絶対的権威を 主張しょうとするものがあれば、それは非真理と考えたらよいでし ょう。絶対に譲れないほどに大切なものはないということ、それこ そ主張して絶対に譲ってはならないことでありましょう。宗教性と は、この主張の別名なのであります。 「一体何のために生きているのか」私達はこういう問をよくしま す。そして、人生は無意味であるとか、何のために生きているのか わからなくなったとか、言って呟きます。しかし、人は本来、何の ためにあるのでもないのです。意味といえば、与えられた人生をた だ精一杯力をつくして生きる、つまり、端的に生きること自体にあ るだけでありましょう。それ以上に意味や目的を問わないと気がす まないのは、人の欲であります。この欲をしづめ、迷をさまして、 生きることに端的にならしめる、それが信仰というものでありま す。 信仰を持っていることは幸福なことだと思います。しかし、それ は信仰を持たない人は不幸だという意味ではないし、いわんや信仰 を持つのは正しいこと、持たないのは正しくないこと、などという 積りでもありません。もし、そういう批判なり主張なりを抱いてい るのなら、それは信仰の未熟を示すだけでありましょう。「真実幸 福な人は口数が少なく、あまり笑わない。いわば、彼は心に幸福を 抱きしめている」といった人がいますが、信仰は抱きしめる幸福を 与えるものであります。それは、主張とならず批判ともならず、た だ端的に幸福なのであります。 「いかに生くべきか」、考えれば考えるほど果しない問題です が、自分の得手を生かしながら、人と仲良く生きることができたな らば、この問に答えたことになるのではないでしょうか。もちろ ん、得手を生かすとは、得手勝手という意味ではなく、なんらかの 意味で、人のお役に立ちたいという配慮がそこに必要でありましょ うし、仲良く生きることにも、親しいものだけにならずに、全ての 人に開かれた同病相憐む配慮が必要でありましょうが、そういう配 慮がある限り、どのように生きようと、それはそれでよいのが、人 生であります。人生には幅があります。 報われること認められること、気になりますがそれらにとらわれ ていてはよくありません。世離れした生き方が大切です。勿論日常 の生活に工夫と努力を積み重ね、その責任を果たす為に世に没頭す る生き方は大切です。離れる方向と没頭する方向、この二つに引き 裂かれる痛みに耐えるところに、生きることの味わいがあります。 高踏的な独善に陥るのも、あるいは逆に現実的な満足に陥るのも、 一つの方向だけをとった、痛みの省略です。人間の幅というもの は、引き裂かれるこの痛みが刻み込んでくれるものであります。 追い求めてゆくことによって、視野を外へ広げてゆくことによっ て、明らかになってくる真理もありますが、追いつめられてくるこ とによって、視野を内に深めてゆくことによって、明らかになって くる真理もあります。だから、切開いてゆくよりも耐えることに、 強くなるよりも弱くなることに、得るよりも失うことに大切な意味 があるのが人生です。自分を大きくしてゆく方向でなく小さくして ゆく方向に大切さを感じるセンス、これは人間にしかないセンスで す。大きくなることしか考えない時、人は動物になります。 すぐに終ってしまうようなことには、どうも力を入れる気にはな りませんし、誰も見てくれないような時には、つまらないと思いま す。たしかにその通りですが、そういうことを度外視して、与えら れた生命を精一杯生かすことに満足する生き方もあります。深山の 花が、すぐに散る短い生命であるにかかわらず、また見る人もいな いのにかかわらず、一人咲く姿がそうであります。そこには、充実 した満足があります。結果や評価を軽視してはなりませんが、精一 杯生きること自体にそれ以上の満足を味いつつ生きる、人間が自然 に帰るとはそういうことであります。 たまさかの人とのふれあいに、何気ない日常の出来事に、ふと人 情の美しさに感動し、人の世のあわれに感動することがあります。 山道を一人歩いて天地自然に没入する感動を味わい、月を仰いで空 々寂々の澄みきった感動を味わうこともあります。生きるというこ とは感動に満ちたことです。ただその感動は、その時その時に味わ わなければ消え去る微妙なものですから、微妙を感じる美の心が大 切です。この美的感受性を養うのは信の心です。美は信によって発 見され、信は美によって深められるのです。 信仰に政治的な力を期待する人がいます。道徳的な感化を期待す る人もいます。しかし、それは信仰に対する誤解でありましょう。 信仰は一見それらの期待に応えているようで実は、究極のところで は政治的には無力であり、道徳的には挫折であり、社会的には幻滅 でしかないのです。その点信仰は甚だしく期待はずれなものなので す。というよりは、期待を裏切りながらもっと違った期待を持たね ばならないことを教えるものなのです。信仰者とは、この異なる期 待を抱かされた人のことです。 矛盾や苦悩が無くなればよいと思いますけれど、そうなるときっ と自分の限界を忘れて調子に乗るのではないでしょうか。表面にあ らわさなくとも、思い上りを犯しそうな気がします。矛盾や苦悩に 脅かされることなしに人間としての限界を正しく弁え続けられると 思うのは、それ自体傲慢でないでしょうか。人間はそんなに慎み深 いものではありますまい。矛盾や苦悩に助けられてかろうじて人間 として目ざめているように思います。矛盾や苦悩を大切にしなけれ ばならないのは、人間が人間を忘れっぽいからです。 目標を設定し、それを成就するために計画をたて、それに従って 努力する、それはそれで堅実で真面目な生き方でありましょう。し かし、心を満たすものではないと思います。なぜなら、人間は理想 を求めて止まないものであり、その理想は目標というかたちに設定 され得ない生の炎だからであります。目標達成、計画遂行といった 堅実さに満足するのは、目標と理想とを取り違えた低俗でありま す。理想とは、内に絶えず燃えて、外に目標とは遂になり得ない一 つの混沌であります。それは、追うものではなく追いかけてくるも のであります。 人間関係で一番大事なことは、その交わりがいかに親密であるか ということではなくて、そこには一人ものけものがないということ ではないでしょうか。人との関係は、一人といえども切れるもので はありません。切ったつもりでも残っているものであります。「切 れた関係」という新しい関係が、残るものであります。それは、関 係を切ったものに対するさばきとして、しつように重く残るもので あります。そして、一人を欠いたその交わりの虚偽と感傷を告発し て止みません。社会とは、この告発の声であります。 自分を正確に表現しようと思ってもなかなかできるものではあり ません。努力すればするほど実際の自分から離れ、時には正反対に 受け取られる悩みを味う場合が多くあります。また人を正しく理解 することも難しいことで、まず不可能でありましょう。表現におい ても、理解においても限りあることを、お互い知らねばなりませ ん。人間の交わりというものは、所詮そういう限界の中での不透明 なものでしかありません。とするなら、表現よりは自分を清めるこ とに努め、理解よりは相手を待つことに努めるべきでありましょ う。交わりの要諦は「自分を清めて人を待つ」であります。 著者の紹介 田 中 陸 男 著者の藤木正三先生には、青年時代のある時期、社会主義的運動に加わり、貧民街で活動された経験がある。しかし、結局、キリスト教の信仰に行きつかれたのである。思想的にはキェルケゴールの影響を受けておられる。この断想では、キリスト教的臭さを極力排しながら、人生についての智慧が淡々と語られている。断想は、「ひとり」 「ゆっくり」「面白く」に大別してある。実はこの三つの言葉は、先生の生き方を端的に示しているのである。「ひとり」には、常に自己の前に死をおいて、生を考える思索の姿が込められていると私は想像する。「ゆっくり」には、その思索に基づいて、時流に惑わされない足どりが、「面白く」には、醒めた心を持って、人生を味わいつつ生きる余裕が示されていると想像する。人は謙虚ささえも誇ろうとする。先生には、こういう虚偽が、自分の中にも、他人の中にも、見え過ぎてどうにもならない。これが青年時代の先生を、社会主義的運動から引き離した原因でもある。先生は現在、孤独な寝たきり老人の世話を、自発的にしておられる。口先だけで立派なことをいう、われわれへのきびしい警告である。 (教会役員・京都大学小児科) 京都御幸町教会では、他のキリスト教の教会と同じように、毎日曜日に、週報という簡単な印刷物が出されます。その毎号に掲載された断想を編集したものが本書です。それぞれの断想は、その都度、読者に親しんで読まれたものばかりです。ですからこれを読み捨てにするのは惜しいという声が、いつしか、読者の中から起こりました。それが、この本を作る動機となったのです。著者の藤木正三先生は、「未熟な文章である」を理由に、最初は、この計画に難色を示されました。このように、自分には非常にきびしいお人柄の先生ですが、われわれの熱心なすすめで、最後には、納得して下さり、このような小冊子ができた次第です。 (教会役員会) 注; このページでは1972年教会発行の初版本「灰色の断層」の雰囲気を保つよう努めました。なお、掲載に当たり藤木牧師のご子孫の了解を得ております。 |