I

行きたくない所へ連れて行かれる

 

目 次

1 はじめに――“職業”と“生き方”

2 終生の主題――過剰な自意識・劣等感・虚栄心

3 「民衆の中へ」に破綻。教会へ

4 “生き方”を求めて神学部へ

5 私の説教

6 個教会にこもる

7 引退後の信仰の変化

8 おわりに 生涯一病人

 

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 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ぺテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛ずることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ぺテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」        

ヨハネの福音書21章15〜19節

 

1 はじめに―“職業”と“生き方”

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このたびはお招きいただき、ありがとうございました。

いきなり変なことを申しますが、牧師になって二十年くらいしたころ、教会のある男性―彼はクリスチャンホームに育ち、信仰生活を忠実に守っている人ですが―に言われたことがあります。

「先生のような説教をする牧師は、日本中に一人もいません。」

これは、それほど私の説教がすばらしいという意味ではなく、それほど変わっているという意味です。

 今回、講演のご依頼をいただくにあたり、「これまでの伝道者としての歩みの中から、後輩に伝えたいことを自由にお話しいただければと思っております」というご要望をいただきました。

 たいへん光栄な話であり、ありがたいお言葉ですが、私はそんな牧師ではなく、変わった牧師なのです。

 「牧師の牧師として多くの教師に慰めと励ましを与えておられます」と、この会の御案内に自分が紹介されているのを見て、仰天しました。ご依頼をいただいたのは二月でしたから、年齢、健康状態を考えても、九か月も先のお約束は控えるべきであり、お受けするお話ではないと思いました。

しかし同時に、少し心の中に別の思いがあるのも感じました。それは、こういう場では、変わった牧師の歩みもそれはそれなりに一つのメッセージを持つのではないか、ということでした。

 それで迷いましたが、与えられたこの機会を逃げてはならない、とお受けした次第です。

 きょうは、私のたどった六十年の信仰の変わった歩みをそのままお証しし、明日は実際にある教会でいたしました変わった説教を聞いていただく、そういうことでお許しをいただこうと考えております。

私は、自由メソジスト教会の信仰的伝統に立つ単立の教会で洗礼を受け、関西学院神学部に学び、同大学院在学中に牧会実習で大阪市の下町の小さい教会に派遺されました。

 先輩が「あそこは泥棒の入らない町だ」と教えてくれましたので、そんなに治安の良い町かと思って行きましたら、じつはその意味は逆で、「泥棒の住んでいる町・泥棒が出て行く町」ということでありました。たしかに昼間からぶらぶらしている人が多く、もちろんみんながみんな泥棒ではありませんが、なんとなく無頼な感じのよどんでいる町でした。

 結核専門の病院(約六十床規模)が近くにあり、そこと協力して伝道をするという態勢になっていましたので、病床伝道も仕事の半分くらいを占めていました。私は卒業後そのまま、その教会に十二年間(二十五歳から三十七歳まで)牧師として務めました。

 その後、京都市の都市部にある教会に移りました。この教会は一時期「学生教会」と呼ばれていました。日本基督教団に合同するまで日本メソジスト教会の京都中央教会であったためで、地方のメソジスト教会の青年が京都大学や同志社に入学すると、自然と出席するようになっていたからです。

会員にも京大や同志社の先生が多く、一方、女性会員も、半世紀近く前のことであるにもかかわらず、医師、家庭裁判所調停委員、大学の国文学の先生、高校の英語の先生らがおられ、さらには土地柄、お茶、お花、お琴、料理、編み物、着付けなどに至るまで、先生と呼ばれる人が多く、サラリーマンは少なく、地元のいわゆる「京都の町衆」は一人もいませんでした。大雑把な言い方をすると「先生と学生の教会」であり、大阪の教会とはあらゆる面で対称的な、そして片寄った構成の教会でした。そこで二十八年間(三十八歳から六十六歳まで)、牧師を務めました。

そして、病気(胃ガン)で六十六歳の時に引退後、単立の母教会に戻りました。そこでは教職ではなく一会員として扱ってもらって、もう五年は生きたいと思っていたものが、生かされて十三年目の今日に至っています。経歴としてはそれだけの者です。

 

 ところで、この会は教師研修会ですから、聴衆のみなさんは全員牧師でいらっしゃいます。私もそうであり、ここにいる者は全員、牧師を“職業”としています。ですから、たとえばホテルに泊まると、フロントで記名を求められます。職業欄があり、「牧師」と書きます。何回となくしてきました。

 しかし、いまだにそう書くことに私は抵抗があります。みなさまはいかがでしょう。それは、「牧師」が日本の社会では少し特殊な目で見られる仕事だからということではありません。私にとって、牧師は。職業やではなくて。”生き方”である、と思っているからです。

 世間の目には私は「牧師」でしょうが、自分自身はそのことをあまり意識しないで生きているところがあります。それは“職業”ではなくて“生き方”だけを意識しているふしが、私にはあるからなのです。

 もし私の良しとしている“生き方”がタクシーの運転手であることを求めるなら、運転手として生きてきただろうと思います。小さいころから将来何になるか、そういう“職業”のことは、全く考えたことがありませんでした。ただ「どう生きたらよいのか」、そればかりを考えていました。

 そしてたどり着いた。”生き方”が、牧師であることを求めたから、「牧師として生きてきた」、それだけの話なのです。どうしてそうなったのか、そのあたりからお話をさせていただこうと思います。

 

2 終生の主題――過剰な自意識・劣等感・虚栄心

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私は六人きょうだいの五番目に生まれましたが、長男です。つまり、私の上四人は全員女でした。父はささやかながら会社を経営していましたから、後継ぎの男子の誕生を心待ちにしていたのでしょう、私の誕生をとても喜び、六番目も男でしたが、私だけ特別扱いをして、大事にされて育ちました。

 今でもはっきり覚えているのは、夜寝るとき、川の字で父と母の間に寝かされたことです。ほかの五人のきょうだいは別室でした。かなり大きくなるまでその状態は続きました。それが当たり前のように思っていましたが、考えてみれば、おかしなことであり、姉たちからは事あるごとに、「あんたは別よ」と言われました。

 何をしても許され、わがままに、ちやほやされて育ちました。そして、今思い出しても冷や汗が出るような、恥ずかしい生き方をする人間になりました。

 大事にされるのが当たり前、神経質に周囲の目を過剰に意識し、期待どおりの扱いをされないと、不安、不満、さらに劣等感にさいなまれ、人の気を引くように立ち回り、うまくいくと調子に乗る。私にはそのような鼻持ちならぬ嫌らしいところがありました。

 妙に潔癖で、妥協できず、協調性がなく、気が弱いくせに正義感が強くて、自分を棚に上げては、人を徹底的に責めるところがありました。こつこつ努力を重ねる辛抱強さは皆目ないくせに、高望みをしては失敗し、すねてはしつこく当たり散らすといった有様で、周囲の失笑を買っていたと思います。

 こういう幼稚な姿は程度の差こそあれ、人間だれしもが持つものかもしれません。しかし、青年期にはそれを自分だけの特殊なものと感じやすいものです。甘やかされて育った私は、特にその傾向が強かったと思います。

 文芸評論家の大河内(おおこうち)(しょう)()(武蔵野女子大学本学長)が、作家丹羽(にわ)(ふみ)()を論じた文章(『追悼 丹羽文雄』鳥影社)の中で、青年たちは何か強い経験をすると、それを自分だけの特殊なものとして感じやすい、そしてそれに捕らわれてしまう、しかし、何事かに報われることなくして、本当のところ人生など掴めるわけはない、長期持続的な修羅場をくぐって粘着的に生きて、始めて終生の主題を見抜くのであって、そうでなければ人生は影絵のようなものでしかない、という意味のことを書いています。

 これは文豪と呼ばれ、文化勲章を受章した丹羽の作品を貫くものが、若い日に知った身近な家族問のおぞましい問題から生涯目を離し得なかった、彼の(人間の哀しみへの特殊性》であったことを述べているのですが、これを読んだとき、同感の念を禁じ得ないものが私にありました。たしかにそうなのです。

 自意識過剰に、劣等感に振り回されるのは青年期によくあることで、だれもが経験しています。しかし、私はどういうわけか、自意識過剰で劣等感に捕らわれているのは私ひとりだけの特殊性と思い込んでいました。六十歳半ばまで、まさか他の人も同じ悩みを持っているとは思わなかったのです。

 そして、素直にそのまま生きればよいことがわかっていても、それができず、等身大に生ききれない自分を持て余し、頑なになったり、逃げ回ったり、その赤裸々を見続けてきました。劣等感に苦しんでいるのは私ひとりだけ、今でもそう思うのです。

 その特殊な感覚には、小さいころの過保護の経験に基づくものがあるように思います。といっても、これは育ててくれた親、特に父親に文句を言っているのではありません。余談になりますが、私が一番尊敬している人は父であり、父ほどの人物に出会ったことはないと思っています。

 私の言いたいことは、幼いころの異常な過保護の経験があったればこそ、そのお蔭で、だれしもが悩む劣等感の問題を「だれしもの問題」として一般化せず、むしろそれを手がかりに、自分の存在の根底を粘着的に求めていく《終生の主題》とすることができたのではないか、そういうことです。

 そのことに旧制高校二年の時、キェルケゴールの『死に至る病』を読んでいて、ふと思ったのです。

 『死に至る病』は正直なところ難しくて、よくわからなかったのですが、読んでいて、「こんなにぼくのことを知っている人がいる。ぼくよりぼくのことを知っている人がいる」という経験をしました。

 そして変な言い方ですが、私は自分の悩みに自信を持ちました。自分の悩みはくだらない悩みと思っていたが、そうではない、意味のあることであり、丁寧に対していこうと思ったのです。

 その悩みを悩み抜く点で、意志薄弱の私を長期持続的に支える役割を、幼い時の歪んだ経験が果たしてくれていたように思いました。つまり、その歪みのひどさのゆえに、だれしもが持つ劣等感の問題を、人間一般が持つ共通の平凡な課題に解消してしまうことを許さずに、生きていくためには取り組まざるを得ない、私に固有の、終生の主題として突きつけてくる、そしてそれと取り組むことで自己の存在の根底に届くように思索を先鋭化していく、そのように私を粘着的に支える働きをし

てくれていると思ったのです。

いずれにしても、自分のうちの一番深いところにある、逃げようとする(あるいは自分を隠し通そうとする)自己防衛の頑なな虚栄の偽りに敏感に気づき続ける、その《内なる偽り》への凝視力、そこに人間の真実があることを考えるようになったと思います。

もう一つ私の問題とすることをはっきり自覚させてくれた本に、旧制高校一年の時に出会いました。それは、文芸評論家亀井勝一郎(1907〜66年)が戦後まもなく著した『我が精神の遍歴』(『現代人の遍歴』(1948年の改題)です。

彼はキリスト教、マルキシズム、浄土真宗と遍歴した人ですが、親鸞によって宗教的開眼を与えられたものとして、戦争中の三十歳代の自分を顧みつつ、この本を書いています。その冒頭に忘れられない言葉があったのです。

亀井氏の生家は北海道のある港町の旧家であり、彼自身、祖先の築いた豊かな遺産に守られた「富める者」としての安泰・平穏に包まれた家庭に育ちました。小学校時代教会に通い、中学校に進んでも、その生活は当然のように続きました。

あるクリスマスの雪の朝、家を出ようとしたとき、電報配達の少年が入って来ました。そのころ、多くの子どもたちは小学校を卒業すると、すぐ働きに出、中学校に進むのは限られた豊かな家庭の子どもだけでした。電報を届けに来たのは彼の小学校の同級生、しかも小学校時代いっしょに教会学校でクリスマスの劇をしたことのある友人でした。

 偶然の再会でした。二人は、はにかみながらちょっと会釈をしたのですが、寒さの中につぎはぎだらけの服を着て、雪に濡れた地下足袋をはいて、ひびだらけの手に電報を持った友人は、羨望に堪えぬ面持ちで亀井の顔を見て、無邪気に言ったのです。「君はいいなあ」と。

 「君はいいなあ」 この一言、亀井氏はその時のことを、「初めて「富める者」という自覚を持ち、且つそれが苦渋であることを知ったのはたしかにこの時である」、そしてそれは、「傷痕のように残っている」と述べています。

 そして、その時かつての同級生に、とっさに答えるべき言葉は確実にあったが、自分の胸に押し殺したとも述べています。

 その言葉とは、いつもいっしょに寝て、彼を育ててくれた祖母が、いつも唱えていた念仏から受けていた基本感情、すなわち「一切は空」、それが口元まで出かかったものだった、と亀井氏は述べています。

私はこれを読んだとき、自分の心の中にも何やらもやもやと長年あったものが、これであったかと思ったのです。それは、《富める者》の罪悪感、そして虚無感でした。

私の家庭がどの程度に富めるものであったのか、私自身はよくわかりません。ただ言えることは、小学校、中学校、高等学校、大学の生活の中で友だちから、そういう目でずっと見られていたことです。

 周囲の目を通して、「富める者」であることを意識させられていました。特に高等学校の時代は戦後の混乱期で、学生生活はたいへんで、みな奨学金をもらったり、アルバイトをしたり、苦労している友だちの多いなかで、「あいつは違う」という目で見られていました。

私があのころ左翼的な学生運動に関わり、授業料値上げ反対や、校長の排斥や、かなり過激な活動をしたのは、社会主義思想に共鳴したからでも何でもなくて、ただ「あいつは違う」という周囲の目を意識して、貧しき者とともに生きるものであるということを示そうとするポーズにすぎなかったのです。友だちはそういう私の心を見抜いて、「おまえ、そんなに無理せんでええで」と言ったことがあります。

 貧乏にあこがれ、不良にあこがれたということを亀井勝一郎は言っていますが、よくわかります、私も全く同じでした。共産主義の理論体系を勉強して共鳴し、中途退学をして実践活動に入っていくクラスメートもいましたが、私にはそういう勉強を積み上げる地道さはなく、行動力もなく、あるのはただ「貧しき者の友」を演じて、周囲の目をかわそうとする見せかけ、虚栄に流される幼稚さだけでした。

 要するに、“自意識過剰の虚栄心”と“富める者の罪悪感・虚無感”、私の正体はそんなところであり、うじうじとした臆病で意志の弱い怯儒の徒でした。

 

3 「民衆の中へ」に破綻。 教会へ

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 そのころは政治的な社会主義運動とともに、福祉的な社会事業も盛んになってきていた時代でした。すでにキリスト教会が先駆的にしていた社会福祉事業が、学問としても、実践面でも大きく取り上げられるようになっていました。

 そして、大阪社会事業ボランティア協会というのが設立されました。高校三年の初めごろだったと思います。「ボランティア」という今ではすっかり馴染みになった言葉が、初めて公に使われたのは、その時でないかと思います。私はさっそく大阪府庁のその窓口に行って、登録し、引揚者の母子寮で働き出しました。

当時よく言われた、ナロードニキ(1860、70年代にロシアで活動した社会運動家の総称)の言葉「ブ・ナロード(民衆の中へ)」という一種のロマンティシズムであつたと思います。考えの浅い思いつきで、例によって虚栄に流されたものでした。

最初は学校の時間の空いている時だけでしたが、まもなく学校を休んでも活動にのめり込むようになりました。その期間は三か月ほど続きました。父は心配し、忠告し、活動に反対し、私は反発し、大ゲンカになりました。

 そのころまで、父からは会社の後継者になるようにという意味のことは一言もありませんでした。父の気持ちは、もちろん私にはわかっていましたが、私自身、全くその問題には触れたことがありませんでした。生来私は経済音痴と言ったらよいのでしょうか、お金を儲けるということが皆目意識に上らないところがありましたから、父の後を継ぐことなど考えたことは一度もなかったのです。

口論の時も父はそのことには触れず、ただ「今は学問の時であり、実践の時ではない」と言いました。私は今実践せずに、困っている引揚者たちを見過ごすことはできない、と熱に浮かされたように筋の通らぬ感情論をまくし立てました。

 手を焼いた父は旧知の牧師を紹介し、その方の意見を聞いてみろ、と勧めてくれました。父は仏教徒であり、たいへん尊敬しているお坊さんと親しくしていましたのに、何ゆえ、あのとき教会に行くよう私に勧めたのかわかりません。もしあのとき、お寺のほうを勧められたら、その後私は間違いなく僧侶になっていたと思います。とにかく牧師に会いました。

 話を聞いて、牧師は私に賛成してくれました。しかし、牧師夫人は強く反対しました。そして意外なことに、反対する牧師夫人の考えのほうに賛成するものが、私のうちにありました。私のほうで、すでにボランティア熱が冷めかかっており、活動から身を引きたくなっていたところに、そのきっかけを与えてもらった、そんな感じでした。

 私は夫人の意見に簡単に従い、ボランティア活動から身を引き、学校生活を再開しました。それとともに、今度は教会に熱心に通い出したのです。恥ずかしくなるような変わり身の早さですが、周囲の目を意識しながら虚栄心に振り回されている当時の私が、なんら傷つくことなく活動から身を引く絶好のチャンスがその時到来したのであり、教会は好都合の逃げ場となりました。

 それから礼拝、祈祷会はもちろん、時間を構わず教会に行き、牧師は関西学院の教師を兼ねていて週日は留守でしたので、牧師夫人を相手に、観念的な質問をくどくどとして困らせました。夫人は嫌な顔一つせず、つねに真っ正面から受けとめて、その持てる力を全部出して応対してくださいました。

 なんというずうずうしい、傍迷惑で身勝手なことをしていたのか、私の話し相手になるのが当たり前のような顔をして、夫人を独占するかのように、偉そうにしていたと思います。周囲が見えず、自分も見えず、自分ほど熱心に信仰を求めている者はいない、とうぬぼれていました。

 夫人はそういう私に、申しわけないくらい真剣に応じてくださいました。帰宅する時には、いつも何か満たされたものがありました。

 教会の方々もみな優しく、親切であり、久しぶりに、何か伸び伸びとした思いで教会に通いました。それでも、信仰など理性の自殺行為にすぎないとか、説教はつまらないとか、教会の交わりはサロン的だとか、青年特有の型どおりの批判的なてらい丸出しの態度で、生意気に通っていたと思います。

 ただその時、聖書は後にも先にもないほどに熱心に読みました。あんなに熱心に読んだのは、その後なかったと今も思います。

 そして、数か月経ったころ、私は一つの御言葉に捕らえられたのです。それはヨハネの福音書21章18節でした。

 

 「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

 

この言葉が、よみがえりのイエスに三度も「わたしを愛しますか」と問われて、ヘテロが悲しくなって答えた、「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」に対しての主のお言葉であることはわかっていましたが、まるで私自身の生き方の転換を迫ってくる言葉のように、私の行く手に立ちはだかったのです。

 特に最後の一句、「行きたくないところへ連れて行かれる」(新共同訳参照)がそう読めたのです。

そしてその時、「これだ。これしか生きる道はない」と、光を見いだしたような思いに包まれました。今もはっきり覚えていますが、「これが最後だ。この『行きたくない所へ連れて行かれる』、この生き方を何としてでも貫くことしか私の生きる道はもうない。この生き方を踏みはずしたらおしまいだ」、そう思ったのです。

別にその時、イエスを信じたわけでも、イエスの言葉だからそう信じたわけでもありませんが、ただ「行きたくない所へ連れて行かれる」の一句が、光を予想させる、間違いのない生き方を示すものとして私の生の根底を揺さぶり、そしてそれがそのまま私の根底になったのです。

 

今までお話ししてきましたように、私のそれまでの生き方は、自分で勝手に帯を締めて、行きたい所へ行くことの連続のようなものでした。自分なりに努力して、それをそのまま出して素直に生きればよいのに、その簡単なことが私にはできませんでした。

そうではなくて、周囲の目を意識しながら、実力以上に見せかけようと虚栄心に振り回されて、恥をかかないように、自分の正体をさらさないように、そして他との比較で優位であるようにと、おどおど、びくびくしている浅ましい生き方の連続でした。そこにはつねに《隠す姿勢、逃げる姿勢》があり、裏返せば、歪んだ《自己正当化》の企みがありました。私は幼いころからつねにそうでした。

過激な社会主義的学生運動に参加したのも、社会事業的な福祉ボランティア活動にのめり込んだのも、自分では気づいていませんでしたが、心の底でそういう計算をしていたのであり、何も民衆の中へ入っていったのではなくて、正体は思いのままに「行きたい所に行く」ような生き方をしていただけであったのです。

そして、それに行きづまると、原因が自分にあるのに人のせいにして、八つ当たりしていました。

「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました」、これを読んだとき、それまでの自分の生き方が全部一瞬にして、「行きたい所に行く」の一句にまとめられてしまうようなものであることに気づきました。それとともに「行きたくない所に連れて行かれる」という正反対の生き方が、何か光を予想させる新しい生き方、本当の生き方を示すものとして心を捕らえました。

そして、ここに書いてある「若い時」とは、イエス・キリストを信じていない時、「年をとる」とはイエス・キリストを信じてからの時であると解釈していました。今までは主を知らずに自分で帯を締めて自分勝手に行きたい所へ行くように、《したいことをする生き方》をしていたが、これからは主に従って、他の人に帯を締められて、行きたくない所へ連れて行かれるように、《したくないことをする生き方》をしていこう、これこそが本当の生き方なのだ、自分にはもうこの生き方しかない、そう思ったのです。

もちろん、これは全く私の自己流の解釈なのですが、その時の私を納得させるものであり、爾来(じらい)、それは迷いのたびにいつも立ち返る基本の“生き方”になりました。

考えてみれば、「行きたくない所へ連れて行かれる」、これを手がかりに私は信仰を求め始めたように思います。そして同時にこれが、その後の私がきわめて不十分ながらも願い求め、そして確かめ続けた信仰の生き方となり、この点はその時以来ぶれることがなかったと思います。そういう私にとってこの18節は前後の文脈との繋がりなど問題にする必要の全くない、これはこれでまとまった独立した御言葉の《一句》であったのです。

たしかに、これはヘテロの殉教を暗示する言葉として、イエスは語られたのでしょう。19節はそう説明しています。ペテロが縛られて、行きたくない処刑場に連れて行かれ、自分の手を伸ばして十字架につけられる、そのような将来がここで暗示されているのでしょう。

しかし、私は今までそのことを念頭に置いて18節を読んだことがありませんでした。もちろん何度もここは読んでいますけれども、19節は全然心に留まらず、心に残るのは18節ただ一句だけでした。それくらい

六十年前の私は、「行きたい所へ行く」生き方に破綻し、この一八節に光を見たのだと思います。

とにかく、18節は前後の文脈から離れて、独立した一句のようにずっと私の心の中で生きてきました。「他の人に帯を締められて、行きたくない所へ連れて行かれる」、これが人間であることの基本の″生き方“を示す主の呼びかけとして、私の人生を二分した、と今にして思います。

「人生を二分する」なんて、ちょっとオーバーな表現であり、顧みてそんな言葉を使えるほど鮮やかに生き方変わったわけでもなく、その後も相変わらず「行きたい所へ行く」生き方に流される惨めさを昧わっています。しかしそれでも、「行きたくない所へ連れて行かれる」という。”生き方”が、心のブレーキとしてその時以来、休むことなく働き続けるものとなったことも、偽りのない事実でした。

ですから、私自身としては、18節によって人生を二分された、二分していただいたと告白したいのです。

 

私が、関西学院大学神学部で指導を受けた新約聖書学の教授は、松木治三郎という牧師でした。日本新約学会の会長を久しく務められた聖書学の権威であり、その信仰から、私は決定的な影響をいただいております。みなさんには過去の人かもしれませんが、私には今なお怖い先生として生きている方です。

先生は、「聖書一句の人」ということを言い続けておられました。ただ一句でよい、激しく打たれ、自分が造り変えられ、全生涯が二分されるような「全く新しいものとして」聖書の言葉を聞いたならば、聖書の全体を知る必要はない、神学的に正しい解釈ができなくてもよい、と言われ、また、「聖書の一言一句を信じるのではない。聖書の一言一句を通してイエス・キリストを信じるのである」とも言われました。

こういうことを私が言うと、それは自分の不勉強と不信仰の言い訳になるだけですが、松木先生のような方の言葉ですから、一句にすがる私は慰められ、励まされるのです。今ここに私とともにおられるイエス・キリストが聖書の言葉を通して現れ、語りかける――それを生活と行為の中で自分が造り変えられるように聞き取ることの大切さを、先生は「聖書はただ一句でよい」と言われたのだと思います。

 

4 “生き方”を求めて神学部へ

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いずれにしても、その時以来、自分の《内なる偽り》に素直に対する感覚が目覚めたような気がします。何をするにも、まず「行きたい所へ」逃げてはいないかと自問し、逃げないように心を整え、どうしても逃げざるを得ない時はそれを正当化しないようにして、それに伴う批判や苦しみは当然のこととして受けとめる、また自分が一番悪いと心底気づくまでは、見落としているところが必ずこちらにあるに違いないと自問自答を続ける、そういう修練がその時以来始まったように思います。二十一歳の時であったと思います。そして方向転換して、神学部に編入学することにしたのです。

そのころまでに私は、父の後は継がないことは決めていました。さりとて何になるというものもなく、最初に申しましたように。”職業“を考えたことはありませんでした。ただどう生きたらよいのか、″生き方“だけを考えていました。

ですから、神学部に入ったのも、気づいた新しい“生き方”を確かめるためであり、牧師になるためではありませんでした。

入学試験の時に口頭試問で、「牧師になるのだね」と言われて、ああ、ここはそういう学校なのだと改めて気づく次第で、「その気はありません」と答えて、注意されました。じつは、洗礼もその時受けていなかったのです。最近はこういう受験生は珍しくもないそうですが、当時はちょっと考えられない受験生でした。

入学後、洗礼は受けました。しかし、せっかく神学部に進んだのに、神学には興味が持てませんでした。ただ文学部の教授(片山正直)が担当された宗教哲学がとても興味深いもので、いまだにその時のノートを持っています。この講義一つだけで神学部に入った意味がある、と思ったくらいでした。

神学生としてはきわめて怠惰な、哲学や文学の本を読みあさりながら相変わらず“生き方”を考え、それに悩む日々でした。

 もっとも1948年に入学した同級生の中には、敗戦で陸軍士官学校、海軍兵学校などを中退した人や、大学をすでに卒業している人たちが多く、戦後の混乱期、真面目に考える人はみな、共産主義かキリスト教に行くと言われた時代でしたから、どの学生も自由に人生を考えるという姿勢で、勝手に学んでいたと思います。中途で進路を変えて退学する人も少なくありませんでした。

そのころ入学した約三十名のうち、卒業したのは半数に満たなかったと思います。みな神学生としては、あまり良い学生ではなかったでしょう。でも、みな真剣に”生き方”を求めていたと思います。

ですから私にとっては居心地は悪くなかった、というよりは、とてもぜいたくな良い時であったのです。問題は、卒業した時に“職業”として「牧師」が待ち構えていることでした。じつは、私は牧師にはなりたくなかったのです。

もちろん、半数が中途退学するなかで踏みとどまって、牧会実習までやっているのですから、牧師になるのだなくらいは思っていました。それに実習教会での経験は厳しいものでしたが、それまでにやったことのある学生運動や社会福祉のボランテイアの経験と共通するものがあり、やりがいを十分感じるものでした。聖書に学びつつ、人々とともに生きるのは、仕事としては違和感のない、というよりはむしろ充実感のあることでした。しかし、それを“職業”として、「牧師」になるのは嫌でした。

私は引退後も教会では一会員ですが、仕事として牧師の働きは続けていますから、約五十五年間牧師として生きてきたことになります。世間からはそうみなされ、そう呼ばれ、そのとおりなのですが、一種の恥ずかしさなしに、自分が「牧師」職であることを認めることはできません。職業が牧師であることを隠しながら生きてきたと思います。どうしても「牧師」職が好きになれないのです。

牧師が、神の現臨であるイエス・キリストのミニストリーを引き継ぐものであるとすれば、「牧師」に問われるのは、その学識でも、人柄でも、手腕でも、業績でもなくて、信仰でしょう。福音が神の救いの力となるのは、ただ信仰においてのみ、その信じるという、牧師本人の主体的出来事が問われるでしょう。

つまり、だれでもが確かめ得るような客観的な事柄ではなくて、本人しか確かめ得ない主体的な事柄、それが《職業の生命》として何よりも問われる、それが「牧師」という。“職業”でしょう。

 そうだとすれば、牧師とは、何とウソ臭い職業なんだろう、人様のことはいざ知らず、私は自分自身の中身がわかっていますから、そう思わざるを得ないのです。

そこで「土の器を神は用いたもう」と信じるべきなのでしょう。信じられる方は、それはそれで良いと思います。それが本当なのですから。

しかし、私は自分のウソ臭さが、《内なる偽り》が、丸見えで情けなく恥ずかしい、そして、牧師という職業は嫌いなのです。

私はガウンを持っていませんし、着たこともありません。祝祷を(《あなたがた》一同と共にあるように」と祈ったことは一度もなく、いつも「《私たち》一同と共にあるように」と祈ります。按手式に列席しても、按手したことはありません。ガウンも祝祷も按手も、いずれも神さまの側に立っているようで恥ずかしいからです。

これは信仰の問題というよりは、個人的な感覚の問題でしょう。私の個人の歴史がもたらした、過度に自分にこだわった歪んだ人格形成による感覚の問題でしょう。それだけにどうしようもないのです。

卒業とともに、学校からは当然のように、最初の任地として西日本の教会二つと、実習していた教会とを、候補として示されました。迷っている間もなく、有無を言わせずに、です。

私は前年に母を亡くしていましたので、父の近くにいたほうがよいと思って、実習教会をそのまま初任地としました。

このとき、補教師になるか、ならないかで迷った記憶が全くないのは不思議なのですが、按手礼を受けるのは三年先だから、まだやめるチャンスがあるという余裕と、実習教会での仕事を続けていくことに充実感があったからだと思います。

しかし、三年は瞬く間に過ぎ、正教師試験に合格しました。按手式の日まで数か月あったでしょうか、この式を受けるべきか否か迷いました。迷いの記憶は今も鮮明にあります。

牧師にはなりたくない、あんな恥ずかしい、人には言えないような″職業“に就きたくない、自分には補教師というちょっと中途半端なところで十分でないのか、いろいろ考えましたが、もちろん結論は出ています。ただ行きたくないだけの話であり、その口実を探しているだけのことなのです。

 決心が着かないまま、当日の朝を迎えました。教区総会の会場に行きました。そして、まさに屠り場に引かれる羊のように式を受けました。そのあとで一人一人、按手を受けた感謝と決意を告白する段になります。もちろん他の方々はきちんと告白しておられたように思います。

しかし、私は何も言うことがないのです。それで、その時の気持ちをそのまま、「受けたくはなかったが、その決心も着かず、迷っているうちに時間切れで、按手礼を受けさせてもらった」旨を言いました。

やれやれ終わったと思いながら、昼食会に出席しました。そこで信徒会の代表の方が、按手を受けた者にお祝いと激励の言葉を述べられました。その中で「最近の若い牧師の中には虚無主義者がいる」ということを、かなり激烈に言われたのです。明らかに私を指してのことでしたが、言われても仕方がないと聞いていました。

すべてが終わり、帰ろうとしたときに、一人の先輩の牧師が近寄って来られました。叱られる!と思いました。新米の私でもよく知っている有名な先生でしたが、同志社卒のその先生は、にっこり笑って、「きみ、なかなか良いことをよく言ったね」と言われたのです。わかってくださる人がいるのかと、ホッとしました。わざわざ声をかけてくださったご親切が身に染みました。関西学院卒の先輩には、そういう人は、残念ながらいませんでした。

もちろん、按手礼に対するあの時の私の迷いに取り乱した態度が正しいなどとは毛頭思っていませんが、「迷いを締め出すような正しさ」は、信仰を似て非なる、生命なきものに倭小化していく「信仰の自殺行為」ではないかと、私は思うのです。

ピリポの誘いに、《迷いつつも》イエスに近づいて行ったナタナエルを、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には《偽りがない》」と主イエスは言われたではありませんか(ヨハネ1・47参照)。パスカルも『パンセ』で言っています。「私は呻きつつ求める人だけを認める」と。

ともあれ、そういう情けないスタートで、私は二十九歳から「牧師」を職として今日に至りました。

私が申したいことは、牧師になりたくてなったのではない、ということです。なりたくなかったからこそ、なったということです。「行きたくない所へ連れて行かれ」てなった、ということです。

「行きたくない所へ連れて行かれる」という、私に示され、そして受けとめた”生き方”、それにしたがって生きること、私が「牧師」であるとは、そういうことであるのです。

逆にいえば、「牧師」であることで、私はその”生き方”を生きているのです。外から見れば、私は牧師という職業を生きていますが、内においては、私はその”生き方”を生きているだけのことです。

私の場合、心の内の“生き方”の意識のほうが圧倒的に強いのです。先ほど″職業“よりも”生き方”を意識しているので、「職業は牧師」と書くことに抵抗があると言ったのは、そういうことでした。

 

5. 私の説教

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ところで、私が父の紹介で行った最初の教会は家庭集会みたいなところで、会堂はなく、宗教法人の認証もいまだ受けていませんでした。先述したように、牧師は関西学院の教師を主たる職業としている方で、週日は不在、牧師夫人が教会を守っておられる状態で、当時は教会としての体をなしていない有様でした。

一方、実習教会は、医療と隣保事業を内容とする関西学院のセツルメントの伝道部門として出発した教会でしたので、創立以来教会専用の建物はもちろん、場所もなく、病院の待合室を日曜日だけ使わせてもらって礼拝をしていました。専任の牧師も創立以来おらず、関学の教授が務めた代務者は年に二回ほど来られるだけ、そういうところを、実習学生が歴代引き継いで伝道活動を続けてきていた教会でした。

ですから考えてみれば、私は一度も教会生活らしい生活を経験したことのないままに、また牧師の日常生活というものを見ることも、指導を受けることもないままに、実習し、補教師となり、正教師となってしまったわけです。

長い間、そのことの異常さに気がつかないままにいましたが、ある時ふとそのことに思い至って、愕然としたことを思い出します。

結局、聖書と式文だけを頼りに、何もかも自己流で十二年間、大阪の下町の教会で病床伝道と地域の伝道に努めました。葬式も結婚式もやり方がわからないのに、若さに任せてやってのけた感じでした。

それでも、それまで創立以来専任の牧師がいなかった教会は、活気も和やかさも感じられる、教会らしい群れになっていったように思います。セツルメントの敷地内に独立した会堂も建ちました。世間知らずの私のやる勝手なことを、教会の方々はよくぞ受け入れて、ついてきてくださったものと思います。

あるとき、私より十歳くらい年上の女性会員、病院に勤務している方でしたが、「先生の説教は、他の先生とちょっと違いますね」と声をかけ、いろいろと感想を述べられたことがありました。

新米の牧師を励まそうとのお気持ちはわかりましたが、内容はよくわかりませんでした。ただ「他の先生とちょっと違う」と言われたことは心に残り、どう違うのだろうと考えさせられました。

そんなに多くではありませんが、ほかの牧師の説教を聞く機会は、もちろんそれまでにありました。そのたびに、良いお話だなと思うのが普通でした。

その後も今日に至るまで、いろいろな先生のお話を聞く機会がありましたが、どのお話にも、私はだいたい例外なしに、なるほどと思います。自分には批判力がないのだろうかと不安になるくらいに、いつもどの説教にも感心してしまうのです。

ですから、私の説教はどこがちょっと違うのだろう、そんなに変わらないじゃないか、そう思っていました。今も自分ではそう思っています。

ところで、「行きたくない所へ連れて行かれた牧師である」という思いは、忙しく過ごしているうちに、次第に消えていく性質のものではありませんでした。それは変わりなく続き、今日にまで至る私の人生の通奏低音です。それは日々の暮らしの具体的な場面で、「おまえは行きたい所へ行こうとしているのでないか」とささやくような問いとして、絶えず浮かび上がってくる性質のものでした。

ヨハネの福音書21章18節の示す”生き方”を、もうこれを踏みはずしたら人生はおしまい、と受け取った私にとって、目を離してならないのは、折りあらば行きたい所へ行こうとする私自身です。したがって、何をしていても私自身の行動の動機を問いただす、そういう心の動きがいつもありました。はたから見れば、ずいぶん窮屈に見えることでしょう。しかし、私にとっては当然のことでした。

ですから、説教を準備するときも、御言葉が私に突き当たるように読む、つまり、正しい読み方かどうかは基本的には別問題として、とにかく私自身の《内なる偽り》が白日の下にさらされるように読む、そしてその読みを語る、それが説教でした。

それを聞かれた方々がそれぞれに共感したり、反発したり、聖書を読み直してみたり、何かが起こればそれでよし、何も起こらなければそれも仕方なし、そういうことはそちらの問題、私には関わりのないことと考えていました。つまり、説教は私にとって、聖書を読みながらの公開された独白でした。

私が自分の説教について語った文章がありますので、ちょっと読ませていただきます。

  「(わたしの説教は)わたしが自分自身の魂への憂慮において聖書を読んだ、その読みです。つまり、自分本位に曇った目のために自分自身が見えなくなっているわたしに、イエス・キリストが曇りのない目となって見せてくださったわたしの有り様とその生き方、それを私の言葉で語ったものです。語る以上、確かに人

に向かって語っているわけですが、実際は人に語るという意識はほとんどなく、イエス・キリストに向かって語ろうとしています。従って、これはもともと人に向かって語ったり、主張したりするものではなく、そのようなことが出来るほどに健康ではない、病入であるわたしの『聖書的独白』とでも言ったらよいようなものです。

 『独白』とは、相手もいないのに自分だけで物を言う『独り言』とは違います。相手はあるけれども相手と話をするのではなくて、自分の心の中に思っていることをただ相手に知らせるだけ、それが独白です。従って、独白で一番大切なのは、相手の反応ではなくて、自分の心の中に何を思うかということ、『聖書的独白』では、その思いが聖書を一番身近な相談相手にしたものであるということです。」 

(『系図のないもの』近代文芸社、8頁)

 

こういう語り方は、もちろん京都の教会でも同じでした。

そして、ここでも「先生の説教は、ほかの先生と違う」と言われたことがあります。それが、きょうお話の冒頭に申しました、ある男性からのものでした。大阪の女性の方のような好意的な意味ではなくて、厳しい批判の意味を込めたものでした。

その意味は、「先生のような説教らしくない説教は、日本中どこの教会に行ってもない」ということでした。その方には、「もっと伝道をしてください」とも言われました。私はもっともな批判と思いましたが、そういう説教しかできないので、返す言葉はなく、黙って聞くだけでした。

会衆をよく理解して聴衆に届くようにとか、聴衆とともに御言葉を聞くとか、聴衆の反応を見ながら聴衆との対話において御言葉を聞くとか、説教について言われることがあります。私には正直のところ、その意味がわかりません。どうしたらそういう共に聞く説教ができるのか、対話において御言葉を聞き、語ることができるのか、わからないのです。

考えてみれば、私は最初から「聖書的独白」を説教としてやってきました。冒頭に申しましたように、私の仕えた二つの教会は、全く性格の違うものでした。 「泥棒の入らない下町の教会」と「先生と学生の都心の教会」、「病院の待合室が礼拝堂に変わる教会」と「ヴォーリズ設計による京都市指定文化財でもある、煉瓦造りの重厚な礼拝堂の教会」、二つの教会の会衆は、今考えてみれば、牧師は相当その違いを念頭に置いて臨むのが当然であったと思います。

しかし、全くそういうことは考えたことがなく、「聖書的独白」という点では、初めから一本調子で、二つの会衆を全く同じように見て語りました。私は《人は見ないで、ただ自分をイエス・キリストに語る》、その一本調子でした。その点は、今も変わっていません。

福音は神の言葉として一つです。しかし、それが本当に生きた言葉として受け取られるとき、一人一人の悲しみ、苦しみに触れて、寄り添い、支える「私にとっての福音」となり、おのずから私的なものにならざるを得ません。それが生かす真理としての福音です。

ですから、もし御言葉を語ろうとするならば、まず「私に向き合う」ことから、それは始めなければなりません。そして、丁寧に、正直に、素直に私と向き合い続ければ、私のそのままを見せてくださっている神さまが見えて、エゴに囚われている私が見える、そのように人間はできているのです。

エレミヤは、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ・・・・・・る。」(エレミヤ17・9〜10)と言いました。

したがって、私に向き合う道は、神さまが見せてくださっている私が見えるほどに、あるいは、そういう私が見えるまでに、私的に徹して「ただ内を見続ける」ことなのです。救いとは本来、「見せられている私に素直になること」にほかならないのであり、それは私的な問題から始めて、私的な納得に落ち着く類いのことなのですから、そうなります。

私的に徹して、ただ《内なる偽り》を見る、それが“信仰の生命”と言ってよいものではないでしょうか。そして、この《内なる偽りを見続ける私を聴衆にさらす》、そのことが説教になる、説教である、そう私は思っているのです。

いずれにしてもヨハネの福音書21章18節によって“生き方”を示されている私は、自分の姿をそのまま告白して説教とする、それしかできなかったし、その点では迷いはありませんでした。

「日本中にほかにはない、説教らしくない説教」と言われて、まもなく私は、牧師には三つのタイプがあるなと思うようになりました。こういうことはほかでも言われているかどうか知りませんが、私の考えるのに、一つは職人型、一つは学者型、もう一つは芸術家型、この三つのタイプがあると思うのです。

職人型というのは、職業としての牧師に迷いがなく、伝道、牧会のプロとして教会に関わることに誇りと責任をもって、きちんと処理していく、信徒の側から言うと、一番安心してついて行けるタイプです。

学者型というのは、信仰を相対的・理性的に批判し得る思考の幅を持ちながら、神学的にしっかり信仰を理解して、教会を導いていくタイプ。信徒の側から言うと、勉強させられながらついて行くタイプです。この二つのタイプは両立します。

芸術家型というのは、信仰に迷いがあり、牧師であることにも迷いがあり、それを告白する場として教会を生きているタイプ。信徒の側から言うと、信じるというよりは、生きることを考えさせられて、生かされている存在としての自分に深まっていくことを促されるタイプです。

こういう三つに分けることにご批判はもちろんあるでしょうが、私はそのように一応考えて、自分を三番目と思うようになりました。そう考えて、「ほかの先生とは違う」と言われることを受けとめているわけです。

しかし、私自身は、先ほどから申していますように、説教が「他の先生とは違う」とは全く思っていないのであって、そのあたりはどう考えたらよいのか。それに、信仰にも、牧師であることにも全く迷いのない人など、そもそもいるのだろうかと思うと、こういう分け方自体おかしいのか、自分でもよくわからないのです。

 

6 個教会にこもる

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とにかく大阪の教会と京都の教会とにおいて、説教の点では、私において変わることは何一つありませんでした。しかし、著しく違ったことが私の中で一つありました。

大阪の教会にいたころは、教区の青年部の委員に選ばれ、大学生担当でした。私は何かせねばならぬと、教区内の大学生の名簿を作り、代表数名と委員会をこしらえて、教区レベルの集会を企画、実行したりしました。さらに、それを全国レベルに拡大して、全国教会学生連合、略称「全教学連」を組織しました。

当時、左翼的な学生運動が盛んな時であり、「全学連」の名前が響きわたっていましたから、その向こうをはって「全教学連」でキリスト教信仰に立つ学生運動をすべきだと思ったのです。

思えばあのころは、そんなことができるくらい大学生が教会に出席していたのです。自分では使命感に燃えていましたが、これも考えの浅い、虚栄に酔った、自己満足的なものであったのでしょう。私が委員をやめるとともに、「全教学連」も自然消滅してしまいました。空しさと恥ずかしさだけが残りました。そういうこともあって、京都教区に移ってからは、教区の活動にはいっさい関わらないで、教会だけにこもるようになりました。

私の悪いくせが出たのです。「もう牧師はやめたい」、しかし、それを私の“生き方”が許さないとすれば、牧師であり続けるために、ハードルを少し下げて、教区との関わりのほうは勘弁してもらおう、はたから見れば何とも身勝手な屁理屈ですが、切羽詰まった私はそう考えて、教会にこもってその危機を切り抜けようとしたのです。とにかく教区の集会に出席せず、与えられた役職も辞退して、その結果、多大の迷惑と心配を周りにかけたと思います。

 あるとき、すぐ隣の教会の牧師がわざわざ来て、「京都は同志社出身が多いから、やりにくいだろうが、教区に出て来てください」と言われて、とんでもない誤解を招いてしまったと、ひたすらお詫びしたことがあります。恥ずかしく、我ながら情けない、今思い出しても、身が縮む思いです。

教区総会は職務上出席しましたが、それも第一日目の午前中だけでした。教区の御用をしたのは、私の記憶では、教区元旦礼拝の説教者に指名されてお受けしたことくらい。その代わりと言ってはずるいのですが、会員には、教区の催す集会に出席するように勧め、伝道師や教育主事にも外へ出ることを勧めました。

教区の交わりが大切であることを考えてはいたのです。そんな私が教会を辞任するときに、教区の多くの先生方が集まって送別会をしてくださったのには、本当に恐縮し、教区の寛大な扱いに感謝したことでした。

いずれにしても、京都の生活は初めから、「牧師をやめたい」という思いとの闘いでありました。

 

京都の教会からは、最初任期五年という条件で招聘されました。

「先生に第一にやっていただきたいことは、会堂問題です」と言われましたので、私は、説教と、家庭訪問と、老朽化著しい会堂の修理維持の三つを主眼に、「行きたくない所に連れて行かれる」“生き方”に導かれて、まさに教会にこもるように励みました。

そして、五年目に辞表を出して、これで牧師はやめようと思いました。しかし、受理されませんでした。

「独白的な説教しかできないような者は、この伝統ある教会にふさわしくない」とか、「私の信仰は皆さんのとは違う」とか、いろいろ言ったと思いますが、どうしても認めてもらえず、「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ」と思い直して、辞表を撤回、もう一期務めさせていただきました。

そして、辞表を十年目に再度出しました。今度こそと思いましたが、やはり受理されませんでした。

もう私という人間とその信仰は、教会の方々にわかっているはずですが、逆に「自分の言葉を持った本当の牧師だ」などと言われて、押し問答になり、やむなく撤回、その代わり任期については条件を付けないことにしていただきました。

「行きたくない所に連れて行かれる」内なる戦いは、私の心の中でやむことはありませんでしたから、それからは毎年のように辞表を出し続け、そのたびに認められず、結局、病気になってやむを得ないと認めていただけるまで、二十八年間在職しました。辞表を出した回数は十五回くらい、終わりの数年は任期二年にしてもらいましたから、それくらいになったと思います。

我ながら本当におかしな、非常識な務め方を、よくぞしたものだと思います。はたから見れば、いったいあの教会は何をしているのだろうと不審に思われたことでしょう。しかし、私はきわめて真剣にギリギリの思いで辞表を出し続けていました。そして、教会の方も真剣に毎年対応してくださったと思います。

辞表というものは、一度出したら引き込めないものだ、と注意する先輩がいましたが、私の辞表はそういう一般論で扱ってもらっては困る、という妙な自負がありました。

私は「牧師」という職業をやめたいのであって、「その教会」をやめたいのではありません。最初のうちは、他所から招聘が来ているのですか?とよく聞かれました。当然の質問だと思いましたが、回を重ねるうちにわかってもらえるようになったと思います。でも、認めてはもらえませんでした。

今にして思えば、京都の教会はよくぞ辞表を突き返してくださったと思います。もし受理されていたら、私はその後“生き方”を踏みはずした人生を、何とか取り繕いながら生きたことでしょう。そら恐ろしい気持ちがします。

口はばったいことを申しますが、二つの教会での四十年間、牧師としては私なりに一生懸命務めました。行きたくない所だからといって、嫌々やる気のないような務め方はしませんでした。やる以上は非力ながら精一杯、悔いなくやりました。しかし、牧師でありたいと思ったことはただの一度もなかったのです。

大阪でも京都でも心の中にあったのはヨハネの福音書21章18節だけ、恥ずかしいほどに潔くない態度で、この御言葉に従いました。この四十年間の心の様を言い表すなら、「屠り場に引かれる羊のごとし」、あるいは、「どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ」

であったのです。

 

1969年5月の京都教区総会は、いわゆる「万博問題」で紛糾、流会して、教団紛争が始まりました。私が京都に行って四年目の出来事です。

平素、教区の集会に出席をしたことのない私にはめずらしく、問題提起の青年たちが主宰した教団批判、牧師批判の集会や、この件で教区の催す集会に出席し、それぞれで発言したのを覚えています。

内に問題を抱えている私はたいして言うことはなかったのですが、双方の主張に共感できる面と、同意できない面とがそれぞれにあることを感じつつ、思うところを率直に申しました。青年たちからは、手ひどく批判されました。政治問題に関わらない伝統型の牧師とみなされたようでしたが、中身は全く伝統型でない生き方をしていた私は、深い違和感を覚え、「私は私、私の信仰を正直に告白していこう」という覚悟みたいなものが、その時できたのを覚えています。

そして、毎週の説教要旨を「断想」としてまとめ、それを教会週報に載せることを始めました。1970年4月の週報からその連載が始まりました。

「断想」というのは、私の場合、前の週の礼拝説教要旨を240字にまとめたものです。できるだけキリスト教用語や表現を避けて、信仰に何の関心も持たない人でも、ちょっと立ち止まって人生を見直すきっかけになるように、まとめたものです。

それを1993年3月退職するまで、途中三年半ほど休みましたが、正味約二十年書き続けました。それをまとめた第一断想集『灰色の断想』のあとがきに、書き始めた時の私の気持ちを述べていますので、少し長くて恐縮ですが、読ませていただきます。

 

「万国博問題をきっかけに、日本キリスト教団がその体質を烈しく問われ出したのは1969年であったが、その動きの中で、『違う、違う』と、問う方に対しても問われる方に対しても、定かなかたちをとらないままに、叫ぶものが私の心にはあった。それに表現を与えようとして、断想を書き出したように思う。本音を吐こうと心定めて、書き出したように思う。定かなかたちをとらないものを、できるだけ損わないように、そっとそのままに取り出し、かたちを与えることにつとめた結果が、これらの断想である。しかし、だからといってこれらが、その事態に対する私の信仰の主張であるというわけではない。主体をかけた信仰告白、そんなおおげさなものでも、さらさらない。強いて言えば、まあ自画像とでもいつたらよいようなものであろうか。

『違う、違う』という叫びは、以前からあった。関西学院大学の神学部に入学して間もない頃、級友の一人に罪に苦しんでいることを話した時、『君の立場は律法主義的で、罪のゆるしの福音への信仰がない』と指摘され、そういうものかと思ったことがあった。また、卒業論文に対し、教授に『教会論がない』と指摘され、そういうものかと思ったこともあった。それらの指摘はいずれも正しく、キリスト教の正しい教理として、なにか権威ある客観的な基準のように追って来た。だから、罪を深刻に考え過ぎるのは、自意識過剰で不信仰であると思い、また、教会をキリストの体と、とにかく信じようと努めて来た。しかし、そのように思い、そのように努めれば努めるほど、一般的に正しいと認められている教

理に、自分を偽って合わせているような無理が、深く心の底に残ったのである。『違う、違う』という叫びは、何に向かって、どういうふうに叫ぶべきものなのか判らぬまま間違いなくその頃からあった。たしかに私のように、自閉症的罪悪感を脱却し得ないのは不信仰であろうし、教会という共同体が問題にならないような信仰は、聖書的信仰でないと、私も思う。しかし、育った環境に基づく性格の歪みによるのだろうか、自閉的な、あるいは自虐的な内面的反省を措いては、私の信仰は空疎なのである。こういう歪みを矯正するのが、信仰の力というものかもしれない。しかし、信仰生活二五年にして、なおいかんともしがたいのである。不信仰だと思う。

やがて、こういう回復不能なまでに病的に歪んだ者を、迷える一匹の羊として、そのままに肯定してくださる方こそが、キリストの父なる神であると信じられるようになった。『私は私のままでよい』と私自身を受けとる、それが神を信じるということだと思った時、心の中にあった無理が無くなった。客観的正しさなど恐れる必要はなくなった。というよりは、神の前には客観的正しさなるものは、実は初めから存在しなかったのである。全き肯定をされる神のみが、普遍で唯一の客観的実在であり、人間の世界の内にあるものは、正統的信仰といえども、相対的で主観的なものに過ぎない。信仰は、そのような神を信じるものである故に、人は自分の信仰に、普遍性とか客観性とか正しさとかを求める必要はない。ただその主観性と相対性をわきまえておればよいのである。その限度を自覚している限り、どういう信仰を持とうと自由である。神を信じるということは、人間の世界に『これでなくてはならぬ』というものがなく、『あれでもない、これでもない』のであり、その『あれでもない、これでもない』ものが、『あれでもよい、これでもよい』と受け入れられている、そういう世界、こだわりのない、とらわれのない広い世界を生きるということなのだ、そう思えるようになった時、久しく心の中で叫んでいた『違う、違う』が、押しつぶされるべきものではなくて、そっと取り出して、かたちを与えることが許されているものと、考えられるようになった。簡単にいえば、無理をしないで本音を吐いてよろしい、ということで

ある。考えてみれば、何と久しい間、普遍的で客観的な宗教的正しさという幻影におびやかされていたことか。

そして、こういう気持ちに導かれた時が、たまたま1969年、あの混乱した事態の始まりの年の頃であった。あの事態が、私の『違う、違う』にかたちをとるよう促したことは事実であるが、私の『違う、違う』は、何もあの時にはじめて出て来た叫びではないのである。それは、イエス・キリストを信じた若い日に遡ることができる叫びであった。求め、教えられ、信じている信仰に、私自身を任せ切れないのである。信仰を否定しているのではない。むしろ、真面目にそれを肯定している。しかも、自らをそれに委せ切れず、はみ出すのである。最初はこのはみ出しを逃避と思った。わがままであり、そして、誤りであると思った。しかし、やがてこのはみ出しこそ、まさにすぐれて私の問題であり、内面的に限りなく反省してゆく、そして、神と出会う場所として、認容されるべき正当な権利を持つものと考えられるようになった。今や私に求められることは、はみ出さないことではなくて、はみ出しに応じて包みたもうている神の愛を、この私一人のための愛を、しっかり生きることである。『違う、違う』はこの私一人のための神の愛が、誰彼なしに与えられる愛一般に平板化、観念化、抽象化されることへの抵抗の叫びであった。だから、それは、他者への批判でもなければ、自分の主張でもない。それは、私一人への神の愛を、誰にも手を触れさせず、そっと大切に感謝していたい願いなのである。したがって、その叫びに促されて書いたこれらの断想が、批判や主張であるはずはないのである。それは、信仰告白といってもよいが、それほど大したものでもない。私一人へ注ぎ給う神の愛の下に、私が見て、私が画いた、私の自画像である。それだけのことである。」

 

今この三十年以上前に書いたものを読んで、幸いなことに、全く違和感がないのは、私の内にヨハネの福音書21章18節が生きて、「《内なる偽り》に素直に対し続けるよう」導いていただいたお蔭と、感謝のほかない思いでいます。

『灰色の断想』 『神の風景』 『命はどこでも輝く』(精神科医の工藤信夫氏の解説「心の健康と宗教」と合本されて『福音はとどいていますか』)の三つの断想集を収めた470編の断想の内容を要約することは無理ですので、二つだけ挙げて、その内容をご想像いただくことにします。

 

   正論と愛

正論とは、道理は通っているが人間にはとどいていないせ

っかちさです。道理は通っていないが人間には届いている

ゆるやかさ、それを愛と言います。道理が通っていないと

いう理由でこれを斥けてはなりません。人間の弱さに対す

る洞察において、正論は遠く愛に及ばないのです。

 

   聞く

友の意見を聞く、先輩の意見を聞く、後輩の意見を聞く、

親の意見を聞く、子の意見を聞く、反対する者の意見を聞

く、敵の意見を聞く、大衆の意見を聞く、総じて自分以外

のものの意見を聞くということは自分が正されてゆくこと

です。自分は正しいとする私有観念が壊されてゆくこと、

自分が拠所としていることを問いなおしてゆくこと、聞く

というこきはそういうことです。語るよりも聞くことの方

が消極的な受け身の態度でありながら、内的に充実して深

みをたたえているのは、「自分を捨てる」ことがそこにあ

るからです。

 

こんな調子のものですが、三十年前、恐る恐る出版し、案の定「藤木牧師の本は読んではならない」と某牧師が言っています、という噂が私の耳にも入ってきました。やっぱりかと失望したものが、版を重ねて今日なお読者を得ていることは、望外というよりは私には不思議でならないことです。

奈良女子大の清水氾(ひろむ)教授が、第二集の『神の風景』を評して、「『神の風景』の考え方の中心は『しかし』にある。たとえば、第二章『散って生きる』にまとめられた二十二の断想のうち、半数以上の十四が『しかし』を文中に持っている。藤木牧師の断想は、まず、世間の常識や既成概念が良しとする生き方、考え方を挙げ、『しかし』と立ち止まり、ある場合は常識を逆転し、ある場合は考え方を深め、ある場合は生き方に挑戦する。イエスの教えの多くが逆説であること、またパウロの回心も『しかし』による(Iコリント15・20)ことを考えると、藤木牧師の文章文格は聖書によると言えよう。……日本のプロテスタントのキリスト教界は、この百年余聖書に感動してきた。しかし、その感動はハレルヤ、アーメンと《教会用語》で雲散霧消し、日本の大気に何の痕跡も残していない。この断想はこの意味で教会と世間の懸け橋となろう」と言ってくださったのですが、もし少しでもそういう意味を持っているとすれば、ありかたいことです。

初版倒れと思っていたのが、版を重ねて読者に恵まれているのは、精神科の工藤信夫医師の理解・協力の賜物であると思っています。彼との不思議な出会いにも、上よりの働きがあったことを思わざるを得ません。

1993年3月、胃ガンで三度目の手術を受けるため入院、ちなみに入院先のベッドの上で最後の断想を欠きました。その入院中に教会を退職させていただきました。同時に引退もしました。そして、母教会に戻りました。もう五年ほど生かしていただきたいなと思っていましたが、十三年目になります。

その間、各地の教会でお話をする機会を与えていただいたりして、二つの教会にこもっていた現役時代には全く想像もしなかったような多くの出会いを経験し、それまでのあまりにも狭く、片寄った生き方をしてきたことを恥じております。

 

7 引退後の信仰の変化

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引退してからの十三年間に、私の内に大きな変化がありました。それは「行きたくない所へ連れて行かれる」生き方を何とか貫いて、「嫌いな牧師」を曲がりなりにも“職業”として生き抜いた、という充実感と解放感、そして引退後もこの“生き方“を貫き通したいと覚悟を新しくしているなかで気づいたことでした。決定的なことに気づいたのです。

「行きたくない所へ連れて行かれる」は、約六十年になる私の信仰生活を貫いている願いです。それは一見禁欲的で、重苦しい道徳的なものに見えます。よくそのように見られ、いろいろな評価を受けました。

しかし、先に述べましたように、人生を二分するような光をその生き方に見ていた私には、間違っていない、という安心感みたいなものがつねにありました。現実的には、それは自分を坑夫のように掘り下げ、逃げているところはないかと自己点検を絶えずする。それが自分への厳しさになり、底なしのような感じもありましたが、この道は歩き続けて悔いはないというものがありました。

ただその歩みを、主体的に内を見つめる私の、「こちらから」の努力としていたために、はたして「向こうに」、つまり神にこれは届いている道であろうか、という拭いきれない不安があったのは事実でした。それがここ数年くらい前から、「向こうに」届いていることを実感するようになったのです。前ぶれもなく、ふとそうなりました。

考えてみれば、これは入信の時にすでに気づいているべきことです。ヨハネの音書21章18節に光を見いだした入信の時に、その新しい光の道は、復活のイエス・キリストの言葉によって示されたのですから、気づいているべきことでした。

しかし、劣等感との闘いに動機づけられていた私の内向きに屈折していた求道は、そこでもその自分に囚われた姿勢を拭い切れず、信仰が「こちらから」の主体的な努力としてしか納得できなかったのでしょう。私のような生活歴を生きた者には、「向こうから」の逆主体的な働きを納得するには、六十年近い「こちらから」の、迷いに満ちた「行きたくない所へ連れて行かれる」主体的努力が必要であったのでしょう。

今はこの一見自己に囚われたような「こちらから」の生き方が、「向こうから」の恵みに生かされた逆主体的な生き方として、感謝して受け取れるようになっています。引退後の充実感と解放感がもたらした心の余裕が、当然気づいているべきことに気づかせてくれたのでしょうか。

それまでは、私の信仰には、主体的に厳しく内を見つめるという形で、どこか自分かが“主”になっている、その意味で主我的なところがありました。つまり、どこか神が“従”の立場になっているところがありました。そこに「向こうに届いていない」、「神に届いていない」という不安があったのです。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Iヨハネ4・10)。こういう神が“主”自分が“従”というところが稀薄であったと思います。

ところがここ数年、神が“主”、私が“従”の「生かされて生きている」という生き方こそが、じつは「行きたくない所へ連れて行かれる生き方」にほかならないのであり、両者はいわば同義語、シノニムのような、置き換えられる関係にある生き方と思うようになりました。

私はいつのまにか、「行きたくない所へ連れて行かれる」という意識がなくなって、代わりに「生かされて生きている」という意識が強く全面に出てきていることに、最近気がつきました。今までほどに、「行きたくない所へ連れて行かれる」という言葉も使わなくなっています。代わりに「生かされて生きている」をよく使います。

そして、今までそうリアルには思わなかった、「初めに神が天と地を創造した」、この御言葉がよく心に浮かぶようにもなりました。

要するに神が主、人は従の、逆主体的になっている自分に気づいたのです。そして、これが引退後に経験した、特にここ数年の顕著な信仰の変化なのです。もちろん、それまでも「生かされて生きている」ということは、思いもし、語りもしていました。しかし、今にして思えば、それは観念的な軽い言葉でした。理屈でした。今は私の現在の姿を的確に射貫いた、私自身納得を覚える、根底的な言葉になっています。

「生かされて生きる」、しみじみそう思います。「行きたくない所へ連れて行かれる」という、六十年間私の杖であった言葉も影が薄くなるほど、そう思っています。いつのまにかそうなっています。

そして、改めて考えさせられるのは、若い日にヨハネの福音書21章18節が、前後の文脈とは全く関係なしに、新しい“生き方”を示すものとして、人生を二分するほどに俯に落ちた、その不思議です。

どうして、ああいうことが起こったのであろう。それは、それまでの私があまりにも自分勝手に生きて、生きづまっていたので、「行きたくない所へ連れて行かれる」という正反対の方向に光を見たのだ、その時そう思い、今まで私はそう思ってきました。

心理的にはそういう説明はできると思います。しかし、それだけではなかった、あれは私を生かしてくださった命の働きが、生かされたものとしての本来から逸れていく私をそのままに放置せず、その生かす働きを全うしようとして、私の人生に《介入》してくれたからだ、なればこそヨハネの福音書21章18節は私の人生を二分したのだ、そう今は思えるのです。

最近私は祈るとき、「父よ、命よ、生かしたもう御働きよ」と呼びかけるようになっています。イエス・キリストの父なる神さまは、ありとしあるものをあらしめ、生きとし生けるものを生かしめる根底的ないのちのお働きであります。「生かされて生きている」、私は今そのことを信じるというよりは、《感じ》ています。そして平安を覚えつつ、生かしたもう御働きに委ねていきたいと願っています。

 

8.おわりに―  生涯一病人

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長々とお話ししましたが、以上が私の迷いつつたどった信仰の歩みです。自分を持て余し、私とは何者かを思索し続けて、それ以外に関心を持てなかった変わり者、《生涯一病人》としてしか生き得なかったことを恥ずかしく思いますが、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」(マルコ2・17)の恵みを、ありがたく昧わっています。

また、そのような変わった牧師のひとりよがりの説教を忍耐強く聞き、それぞれの信仰の糧としてくださった、大阪の教会、京都の教会に感謝しております。

この二つの教会以外では、私は決して受け入れていただけなかったと思います。私の牧師としでの生活はなかったと思っています。この二つの教会を選んで、委ねてくださったイエス・キリストの父なる神は、なんと「生かしてくださる方」かと思っております。

 

最後に一言、旧制高校三年のころ、荒れる私に手を焼いた父が、意見を聞いてみろと紹介したのが、父が信じる浄土真宗の僧侶ではなくて、教会の牧師であったことについてですが――父の考えを聞いたことはありませんが――、もし僧侶を紹介されていたら、私は間違いなく仏教を信じただろうと思います。あの時の私の精神が、あとから思えば宗教を求める状況であったからです。

京都の教会にいたころは、毎年八月、知恩院の暁天講座に毎朝通ったり、高野山の夏期大学にも何回か参加したりしました。私には仏教にひかれるものがあり、その信仰に敬意を失ったことはありません。

ただどういうわけか父が紹介してくれて開かれたキリスト教の 信仰の道を、それは確かにたまたま与えられたものなのですが、たった一回切りの人生に起こったたまたまは、私にとっては永遠の意味を持った絶対的なものであり、そう受けとめるのが「生かされて生きる者」の本来でしょうから、これからもこの道を迷いつつも歩んで、《本来的な人生態度》を生きていきたいと思っています。

ここで《本来的人生態度》というのは、「生かされて生きる者」としての人間が、自分自身の人生を自分を中心にしないように生きていこうとすること、すなわち、「行きたくない所へ連れて行かれる」《生き方》そのことであり、それを追求する営みこそが諸宗教に共通する宗教の根本的意図と私は考えています。

開いた心で他宗教の信仰を尊敬しつつ、イエス・キリストこの道一筋に連なって行く者でありたいと、私は願っています。

父は一度だけ私の説教を聞いてくれたことがあります。父はその直後に「声の調子は良かった」と一言だけ言いました。何と言ってよいのか言いようがなかったのでしょう。

しかし、その後しばらくしてから、建築家である父は、「私は家を建てるから、おまえは人を建てなさい」と言ってくれました。不肖の長男を受け入れるのに、長い長い心の旅を、父はしていたのだと思い、申しわけなく思ったことでした。

以上です。ご静聴ありがとうございました。

(2006年11月20、21日、福井県芦原温泉 ゆ楽で)