野の花を思い、健気に生きる

――老いと死をめぐつて――

 

あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。

預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げまず。その人は決して報いに漏れることはありません。           

マタイの福音書10章40~42節

 

主の弟子といえば、私たちはどういう人を連想するでしょうか。

主を愛し、主に従い、主を伝え、そして正しく、優しく、忍耐強く生きる、そういう人を考えるかもしれません。しかし主は、「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、……」と言われたのです。

主はここで、いろいろ考えられる弟子の姿の中の一つとして「小さな者」を例示されたのではなくて、弟子本来の姿を生きているものとして、「小さな者」を挙げられたと思われるからです。

主は「小さな者」、それも水一杯を飲ませてやることが救いになるほどに「小さな者」を、弟子の名に値するものと考えておられます。弟子は忠実な者とか、謙遜な者とか、情け深い者とかというよりは、もちろん徳の高いに越したことはないのですが、何よりもまず「小さな者」であることが求められている者なのです。

では、「小さな者」とはどういう者なのでしょう。

子どもを祝福されたイエスのことですから、子どもを指しているとも考えられます。また、飼い主のいない羊のように弱り果てている群衆を見て深く憐れまれたイエスのことですから、社会的、経済的に、あるいは、肉体的、精神的に弱い立場に置かれている者を指しているとも考えられます。

 しかし、イエスはここで、「小さな者」を、冷たい水一杯でも飲ませてくれるのを待ち望んでいる者とされました。水一杯に救いを期待する者こそ、「小さな者」なのです。

水一杯に救いを期待するというのは、私たちにとっては想像ができても現実的にはあまり縁のない状態ですが、パレスチナの太陽の熱にあえぎながら生きねばならないユダヤの人たちには、よくわかったことと思われます。彼らは、水一杯によって生きもすれば死にもする生命のはかなさをよく知っていました。

そして、この生命のはかなさを噛み締めている者が「小さな者」なのです。「小さな者」は、子どもとか、差別された者とか、貧しい者とか、病める者とかというよりは、生命のはかなさを噛み締め、生命そのものをいとおしんでいる者にほかなりません。

考えてみれば、私たちは平素、生命の問題にあまり注意を払いながら生きていないと思います。生命よりも、いわば生命の装いである、地位や名誉や財産などに気をとられたり、幸福で安楽な暮らしを追い求めたり、世間体や社会のしきたりを気にしたり、他人と比べては出世や能力に心を悩ませたり、それらのことのために右往左往することはあっても、真に人間として生きるという肝心の生命の問題に注意深く心を働かすことはまことに少ないと思います。「なぜ着物のことで心配するのですか」(マタイ6・28)と主が嘆かれたとおりです。

それに対して、水一杯に救いを期待している「小さな者」は、まさに生命を、衣服ではなくて生命そのものをいとおしんでいるのです。

その意味では、「小さな者」は、「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」と言われた主のご警告に応えている者であると言ってよいでしょう。

野の花はだれに手入れしてもらうこともなく、そして、いつ踏みつぶされるかもしれないのに、そのはかなさの中で美しく咲いています。その生命の健気さに注意して生きているのが「小さな者」です。

主の弟子にはいろいろな生き方がありましょう。また、なすべきこともいろいろありましょう。しかし、主の弟子の真骨頂は、野の花の健気さに教えられて生きるところにあります。自分自身の生命をいとおしみ、人間として美しく咲くことを求めつつ生きる、そういうまことにささやかなことを祈りとしている「小さな者」、それが主の弟子です。

生物学者の中村桂子氏(『老いの様式』誠信書房、一九九四年)によれば、「生物学的な意味での″生きる“は、生殖細胞が受け持ち、永遠に継続してくれているのであり、個体は、それをつなげていく鎖の輪にすぎない。個体が衰え、死んでいくことは、生物の眼から見れば、生の場を次の世代に譲り渡すという積極的な意味こそあれ、特別な配慮をしなければならないようなことではないのである」。

そして、《老化》は「加齢にともなって漸進的にあらわれる生理的機能の減退で、その人にとって不都合となる変化。成熟期後に顕著になり、その結果必ず死に到達する」と定義づけられます。このとおりです。

しかし言うまでもなく、こういう説明で片づかないのが死であることは、たとえば、宗教学者岸本英夫氏が、十年間に及ぶ癌との戦いの果てに記したエッセー『わが生死観――生命飢餓状態に身をおいて』などが示すとおりです。

文学者の中村真一郎氏は、『死を考える』(編著、筑摩書房、一九八八年)の中で、この作品を「熟読を希望する」と推奨していますが、岸本氏は、近い将来の現実として自分の生存の終わりが予想される場合に生じる生命飢餓状態を、「腹の底から突きあげてくるような生命に対する執着」と述べています。単に生物学的意味の肉体としてだけではなくて、自分を意識する精神的意味の個体として生きている人間は、自分の存在が消滅することに対して決して平静であり得ない。岸本氏が述べている猛然と頭をもたげてくる生命飢餓状態、それはすべての人のものでしょう。

 

 「死を前にして大いに生きるということが、私の新しい出発点になった。……人間は、一日一日をよく生きながら、しかも同時に、つねに死に処する心構えの用意をつづけなければならない。私は、生命をよく生きるという立場から、死は、生命に対する『別れのとき』と考えるようになった。」

 

これが氏のエッセーの結論です。

岸本氏は敬虔なキリスト教の家庭に育ちながら、「神を捨てた」と公言された方ですから、この結論にたどり着くまでの氏の思索のあとに同意しない方はキリスト者に多いかもしれないが(ちなみに私は同意しています)、「生命飢餓状態に身をおきながら、生命の肯定をその出発点とする」というその思想は「老い」が死の前奏であり、その生命飢餓感がすでに「老い」において心の奥底に深く潜んでいることを思えば、その思想はそのまま「老い」に処する道を教えるものでもあり、私の「野の花の健気さに教えられて生きること」にも通じるのでないかと考えます。

 

ところで「老い」はいつの時代でも問題でした。それは尊敬され、祝福された状態でありつつも、身体の衰えに伴う不都合は、個人にとっても、家族にとっても、社会にとってもなにがしかの問題でした。

しかし、現代文明の進展は社会構造の変化とともに、高齢者の長命化そして多数化を生み、老いの問題を個人にとっては苦痛、家族にとっては負担、社会にとっては難問に変えてしまいました。その変化は急激であり、今多くの高齢者は内心、生きる姿勢を決めかねているように思われます。

それに対して、高齢者の尊厳や使命が語られ、「老い」を前向きにとらえて生きるよう励ましがあり、趣味や社会活動や共同体的人間関係等に生きがいを見いだして、気力を充実させて、美しく、成熟した個人的生の感性を目指すなどの勧めがあります。

そのとおりですし、そうできる人はそうすればよいと思います。実際そのとおりに生き生きと働き続けている人はいますし、悠々と老後を充実させて楽しんでいる人も多いようです。しかし、そうできない人もまた多いのです。人は生きてきたように老いるのであって、「老い」の姿はきわめて多様で、無理をしてまでせねばならぬ老い方などないでしょう。

ただ「老い」は死の前奏であり、死はこの世の生の終わりですから、「老い」は「終わりの受容」を修練する時であると人生に位置づけねばなりません。それを忘れさせるような前向きの勧めには、何か「老い」から目を逸らせるような疎ましさがあります。

「老い」を前向きにとらえて生きることの大切さは言うまでもありません。しかし、それは「終わりの受容」を心得てのことであって、これに眼をつぶってのことであってはなりません。「終わりの受容」、これは「老い」を生きる人に持つことが求められる基本的な知恵なのです。

「終わりの受容」、これは諦めということではなく、「生かされて生きていることの認容」のことです。

星野富弘さんの詩に、次のようなものがあります。

 

一日は 白い紙

消えないインクで

文字を書く

あせない絵の具で

色をぬる

太く・細く

時には ふるえながら

一日に一枚

神様がめくる

白い紙に

今日という日を綴る   (『鈴の鳴る道』偕成社、1986年)

 

「生かされて生きていること」が見事に綴られた素敵な詩です。

人間の生命は、いのちの神が今生かしてくださっているから生きているのであって、別に自分の力、人間の力で生きているわけではありません。人間は、生かしてくださるいのちの力に委ね、それに従い、それに沿って、与えられた生命を生きているだけです。

もし、いのちの神が「はい、そこまで」と紙をめくることをやめられたら、それで人生は終わるのです。人間は生かされて生きているのであり、単に生きているのではありません。だから「終わりの受容」は「生かされて生きていることの認容」であり、生命へのいとおしみ、いのちへの経験でこそあれ、諦めではありません。

この「生かされて生きている」から、前半の「生かされて」が抜けて、「生きている」だけになり、その自分中心の極まりに出現した現代の経済至上の欲望社会の中で、私たちはますます「生かされて」が見えなくなっています。金と性に流されながら、生命を「生かされている生命」として、大いによく生きてはいません。つまり、生きていること自体に、生きがいを持って生きていないのです。

その点、「野の花」に学ばねばなりません。「生かされている」ことに端的となる、それが「野の花の健気さ」なのですが、それこそ終わりに直面している者の修練すべき課題でしょう。「終わりの受容」とは「生かされて生きていることの認容」であり、一日一日を、いのちの神にめくっていただいた生きるべき白い紙として、そこに今日という日をつづる健気さのことなのです。

本来生きるのに不都合なのが「老い」です。若い日には予想もしなかった不如意な事態が必ず起こります。そして、不幸は続くものらしいのです。安らかな老後は幻想と考えたほうが間違いないでしょう。

しかしこうしたことも、「生かしてくださる生命」の影であり、現実なのです。

仏教詩人榎本栄一さんの詩に、「いのち写生」というのがあります。

 

いのちはさまざまに

うごくので

私はそのかげを

画家のように

たんねんに写生します  (『難度海』樹心社、1981年)

 

野の花を思いつつ、気を取り戻しては、だれにでもなく私に与えられた老いのきよう一日を、丹念に写生し続け、健気に生き続けたいと思います。いのちの神が、白い紙をめくるその手をやめられるまで。

  (1990年、日本基督教団京都御幸町教会にて)