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信仰について―映画『ポー川のひかり』よ

 

イタリアの古都ボローニャの大学の図書館で衝撃的な事件が起こります。夏休みの人気のない閲覧室の広い床一面に大量の神学書が散らばり、その一冊一冊が太い釘で床に打ちつけられているのです。

映画『ポー川のひかり』の冒頭に、その場面が映った瞬間、何だこれは!と思うとともに、「信仰は知識ではない。《生かされて生きること》だ!」、そう訴えていると直感的に思いました。

 

容疑者として浮かび上がったのは、将来を嘱望されていた若い哲学教授でした。彼が姿を消したからです。

その後。彼はイタリア北部を西から東に流れるポー川をさかのぼり、岸辺に廃屋を見つけて、そこに住むことになるのですが、途中、橋の上から所持品を投げ捨てながら進みます。まるで自分の過去を捨てるかのように、不用心に捨てていきます。

彼には、犯罪を犯したという思いはありません。彼をそのような行為に駆り立てているのは、豊かで便利になったのと引き換えに心のすさんでしまった暮らしに苦しむ社会に、《信仰による希望》を示そうとする願いなのです。

ですから、彼は岸辺に廃屋を見つけると、そこを隠れ家にするのではなくて、修理して村人との交流の場にします。

最初は不審に思っていた人々も、彼の風貌がキリストに似ているところから「キリストさん」と呼んでなじんでいきます。そして、幼いころ教会に通っていた(大人になった今は通っていない、寄りつきもしない)彼らは、「放蕩息子の話」や「良き羊飼いの話」の断片を思い出しては、「キリストさん」に話しかけるのです。すると、彼もその話を全部思い出させるかのように、生き生きと話します。人々はそれを聞いて懐かしく、そして深く納得するのです。

やがて村人は、「キリストさん」に食料や必要なものを届けるようになります。そして「キリストさん」も村人のピクニックに参加して、いっしょに楽しむようになります。

「キリストさん」は、村の希望みたいな存在となります。村人は教会に通い始めるわけではありませんが、生きることに何か張りが出てきて、毎日の暮らしが安らかに、豊かに感じられるようになります。

そもそも哲学教授であった彼が、あの事件を起こして、その後すぐポー川をさかのぼって行ったのは、逃げるためではありませんでした。あの事件は彼にとって、自分が「キリストさん」になるための決意表明であり、スタートラインであり、確かに暴挙ではありましたが、逃亡する必要など全くないことでした。彼は逃げているのではありません。今や彼は《信仰を生きている》のです。

お互いを認め合う心を失って、世界中どこかで絶え間なく続いている紛争、経済的利益を追うあまり招いてしまった環境破壊、それに伴うモラルの崩壊、顧みられることもなくなった心の優しさ、安らかさ、静けさ、繊細さ、いったいこんなぎすぎすした方向に世界は流されていってよいのだろうか。人生の本当は本来どういうものなのだろうか。混迷を深めるこの病める時代に希望のしるしを求めて、映画『ポー川のひかり』は製作されたと思います。

そして、その製作意図に対する答えが《信仰の世界》であり、将来を嘱望されていた若い哲学教授は、その《信仰の世界》の体現者でした。閲覧室の事件直後に忽然として姿を消したのですから、犯人に疑われても仕方がありませんでしたが、じつは彼こそ、病める現代社会の希望であったのです。

 

その後のこの映画の展開には、じつは私のよくわからないところがあったのですが、いずれにしても彼が見つけた廃屋のあたりは、住居を構えてはならない河川敷であったらしく、そういう不法行為を摘発する河川管理の当局によって、立ち退きを命じられるという事態になります。

村の人々は「キリストさん」の住居を守ろうと立ち退き命令に抵抗するうちに、村の人々の中にも、河川敷に不法と知らずに家を建てている人が見つかり、その人たちも同様に、立ち退きを命じられるということになります。

騒ぎは大きくなり、村人の立ち退き反対運動は当局の態度を硬化させ、期限を定めた巨額の罰金が要求されるのです。それは、とうてい村人には応じられないような大金でした。

しかし、支払わなければ強制退去が執行されます。「キリストさん」もいっしよに考えましたが、どうしようもありません。

いよいよ期限が明日と迫った日、「キリストさん」は、いつも何かと「キリストさん」に気を配ってくれていた青年に相談します。

「おまえは銀行のカードを使って、金額をここ(河川管理の当局)へ送金しなさい」、そう言って、捨てないで手もとに一枚だけ残してあったカードを渡すのです。

翌朝、村人は通告されていた日を迎えて、強制執行阻止のために集まり、当局の動きを待ち構えます。しかし不思議なことに、その気配はありませんでした。通告されていた時刻になっても、何事も起こりませんでした。

彼らは拍子抜けするとともに、いったい何事が起こったのだろう。当局の今までの強硬姿勢は何だったのだろう、ただ脅すだけの嫌がらせだったのだろうか、と騒いでいるところに、あの青年が現れます。そして彼から、「キリストさん」から当局への送金を依頼されたこと、それを朝早く済ませたことを知らされるのです。

村人たちは「キリストさん」が身代わりとなって、村人の払うべき罰金を全額支払って問題を解決してくれたことを知ります。

その日の朝、何事も起こらず、いつもと変わらない平和な一日が始まったわけがわかったのです。「キリストさん」への感謝、言葉にならない感動が村人を包みました。

それにしても、「キリストさん」はどこへ行ったのだろう。青年に尋ねても、「知らない」と言うだけ、河川管理の当局のある町に行ったのかもしれない、そのうちに帰って来るだろう、いや、もう町に出て帰途についているなど、わいわい浮かれているうちに夕方になったので、村人たちは道の両側に点々とローソクを灯して待つことにします

しかし、いくら待っても彼は帰って来ません。やがてローソクは一本、一本と消え始め、村人も家に帰り始めます。そして、短くなったローソクのともしびがまばらに灯る寂しい村の道のシーンで映画は終わります。

「キリストさん」は帰って来なかった、しかし、すべてをささげて村人を救ってくれた彼の、報いを求めることなく、ひたすら注いでくれた優しさは、村人たちの心に深く染み込みました。一人一人の弱さに迷う心を奮い立たせて、病める時代を望みをもって生かしめてくれる復活の力となったことでしょう。

《物の豊かさは人を幸福にしない、優しい心の豊かさが人を幸福にする》、「キリストさん」は、新約聖書のそのメッセージを、村人から「キリストさん」と呼ばれる《生き方》で指し示したのではないでしょうか。

 

それにしても、若くして将来を嘱望された哲学教授は、この新約聖書のメッセージを告げるために、なにゆえ冒頭の衝撃的な行為(閲覧室の床一面に神学書をばらまいて、一冊残らず床に太い釘で打ちつける)をしたのでしょうか。

キリスト教の信仰は聖書を最高の権威、基準としています。

しかしそれは、そこに書かれている事柄を信仰の基準とするという意味ではなく、聖書が証ししているキリストを基準とするということであり、さらに言えば、内に働く神の生かす働きに生かされておられるキリストに倣って、《生かされて生きるという生き方をする》ことこそが信仰であるという意味なのです。

聖書に関する知識がいかに正しく、深く、豊富で、厳密であっても、自分自身が「生かされて生きているもの」でなければ、そこには信仰的知識をまとった自我はあっても、生かす働きなる神に生かされて生きている“自己”(内なるキリスト)はない、ということです。

ですから、「キリストさん」として生きるにあたって、《信仰は知識のことではない》ことの宣言として、あの哲学教授は閲覧室の衝撃的な行為に及んだのではないでしょうか。

いずれにしても信仰の核心は、「生かす働きなる神に生かされているものとして生きること」、聖書の言葉を引けば、ヨハネの福音書21章18節の「行きたくない所へ連れて行かれる」であると思われます。