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宗教の心

 

最初に一つの詩をご紹介します。2000年11月23日、81歳で亡くなった島崎光正という方の詩です。

 

自主決定にあらずして

たまわった

いのちの泉の重さを

みんな(たた)えている

 

1919年11月2日、九州大学医学部の内科医をしておられたお父さまの勤務地、福岡で島崎さんはお生まれになりました。お母さまは長崎の開業医の娘さんでした。

島崎さんは、生まれながらに二分脊椎症という病気を負っておられました。

二分脊椎症というのは、生まれた時から脊椎に異状があり、そのため歩行や排尿などに生涯不自由を負わねばならない病気です。その障がいに伴うさまざまな困難を、生まれた時から負うていく一生を過ごされることになったわけです。

しかも、お父さまは島崎さんが生まれてからちょうど一か月後に、患者さんからうつったチフスで亡くなりました。そのうえ、長野県の農家のご長男だったお父さまは旧民法では家督を継ぐ立場であったため、生後まもない島崎さんにその責任が負わされることになってしまいました。お母さまはまだ若いし、農業をすることは無理であろうと両方の親たちは話し合って、幼子であった島崎さんひとりが父の遺骨とともに、長野の父方の祖父母に引き取られたのです。

翌年の夏に、お母さまは亡き夫の墓参のために長野を訪ね、半年ぶりに生後一か月で手放した島崎さんと再会します。お母さまは滞在した数日中、島崎さんから片時も離れず、寝る時も夜通し抱いて眠ったといいます。

やがて長崎に帰る日が来ました。列車が発車する間際に、別れがたいお母さまはプラットホームに飛び降りて、長崎にいっしょに連れて帰りたいと泣き叫びました。その知らせを聞いて、お祖母さま――この方が島崎さんを立派に育ててくださったのですが――は、人力車に乗って家に戻り、島崎さんを連れてまた駅に走り、もう一度抱かせてやります。

しかし、いっしょに長崎へという願いはかなえられず、結局それが島崎さんにと

って母親との今生の別れとなるのです。というのは、お母さまは悲しみのために心を病み、長崎への帰途後、夫の勤めていた九州大学医学部精神科に入院、そのまま生涯を閉じることになったからです。

島崎さんの人生は、こうして不遇な家庭的状況の中で、次第に悪化していく足の障がい、また排泄の困難を抱えながら始まります。そして、慈しみ深く育ててくれた祖父母とも二十四、五歳の時に死別、とうとう天涯孤独で、その困難をひとりで生きるものとなられるのです。

島崎さんはそういう厳しい不自由な生活の中で、詩人としての創作活動を始められます。そして後に日本現代詩人会会員として、自叙伝『星の宿り』、詩集『故園』、『冬の旅抄』、『分水嶺』などの名作を残されました。

 

耐えがたい苦難の中で島崎さんを詩作へと駆り立てたものは、何だったのでしょう。足の変形が悪化して、学業を続けることを断念せざるを得なかった失意を埋めるためであったのでしょうか。それもありましょう。しかし、私はもう一つのことがあったと思います。それは小学校の校長先生の影響です。

島崎さんの小学校時代の校長は、手塚縫蔵という方でした。手塚先生は、クリスチャン教育者として、いわゆる教育県と言われる長野県の信州教育界を深く清冽にリードした人ですが、島崎さんはこの先生から決定的な影響を受けられたようです。

手塚校長は常に、「人間は『らしく』生きることが大事です。松は松らしく、竹は竹らしく、大人は大人らしく、子どもは子どもらしく」という教えをよくされたそうです。

その教えを島崎さんは、「私は私らしく生きればよいのだ」と受けとめ、自分の運命を呪わず、恨まず、ひがまず、ありのままの自分を大切にする生き方を求めて苦闘されました。

そして、その苦闘の中でつかんだもの、それを詩に表現していかれたのではないでしょうか。

 詩を作ること、それは島崎さんにとって生きることそのものであったのではないでしょうか。家庭的に、身体的に、無理やりに負わされてしまった運命の中で問わざるを得ない生きる意味、生きる目的、生きる価値。そして、生きるに値するとは思えないなかで、どういうふうに私は私らしく生きたらよいのか。その思索なしには生き得ない、その思索の跡を表現せずにはおられない、詩は島崎さんにとって生きることそのものであったことでしょう。

先ほどお読みした詩をもう一度お読みします。

 

自主決定にあらずして

たまわった

いのちの泉の重さを

みんな(たた)えている

 

この詩は、じつは1997年8月29日ドイツのボンで開催された「二分脊椎国際シンポジウム」で、島崎光正さんが「私の願い」と題する講演をなさったとき、その締めくくりの言葉として紹介されたご自身の詩なのです。島崎さんがシンポジウムに出席中に、その会場で作られたものだそうです。

講演は次のような言葉で始まっています。

 

「私は、このたび日本のチームの一人として車椅子に乗りながらドイツにやってまいりました、二分脊椎の障がいを負った七十七歳となる男性です。

もちろん、私は生まれた時からこの障がいを負っていました。そして、両親と早くに離別をしたためにミルクで養ってくれた祖母の話によりますと、三歳の時にようやく歩めるようになったとのことです。

七歳となり、すでに足を引きずりながら、村の小学校に入学しました。やがて市の商業学校へと進みましたものの、まもなく両足首の変形が急にあらわれましたために、通学が困難になり、中途退学をしなくてはなりませんでした。それからは、日本アルプスへの登山客の土産品である白樺に人形を刻むことを職業とするようになりました。同時に、その遅い歩みの中から詩を綴ることを覚え、今日に至っております。

今、私かもっとも関心を抱いておりますのは、日本におきましても進んだ医療技術の一つと言われている出生前診断のことです。そして、二分脊椎の障がいを負った胎児も、その段階において、こうした診断により見分けのつく時代を迎えているものと見られています。もちろん、診断以後のことは両親の判断に委ねられているにせよ、全体の流れにおいて安易な選別と処置につながることを恐れるものです。

たしかに、二分脊椎に限らず、障がいを負って生まれてきたことは、人生の途上において様々な困難をくぐらねばならないことは事実です。私は七十七年の歩みのあとを振り返ってもそう言えます。けれども、それゆえに、この世に誕生をみたことを後悔するつもりは少しもありません。それほど、神様から母の陣痛を通してさずかった命の尊厳性は、重いものと考えられます。

このような皆さんとの出会い、また日本でのわが家の庭の、朝露に濡れたバラとの出会いの喜びは、何よりもそのことを証ししています。身に、どのようなハンディを負って生まれてこようとも、人間は人間であるがゆえの存在の意味と権利は、人類の共同の責任において確保され尊重されていかねばなりません。そこに、まことの平和もあります。そのことを、こうした場所と機会において訴えたいと思います。

終わりに、この会場で綴った、いちばん新しい詩をご紹介したいと思います。」

 

こう言って読まれたのが、冒頭の詩でした。

私は、島崎さんが身体障がい者であり、塩尻アイオナ教会に属する日本基督教団の会員であり、「信徒の友」の編集に関わられた方でもあることは知っていましたが、それ以上は知りませんでした。

しかしこれを読んだとき、この詩に綴られるまでの島崎さんの苦しい心の旅路の《長さ》がさっと心をよぎって、思わず手を合わせたくなるようなものが私にはありました。

 

「自主決定にあらずして」、身体的不自由さ、生い立ちの不遇さ、泣こうが喚こうがどうにもならぬ我が身に降りかかった不条理、この自主決定にあらざるものを、怒り、嘆き、呪う孤独な迷いの中を通り抜けて、「たまわった」と島崎さんが受けとめられるに至るまでの心の旅路の長さ。

そしてさらに、そのたまわったものが、「いのちの泉の重さ」と表現されるほどに、生きとし生けるものを生かす「いのち」そのものであり、そのいのちから湧き出る「泉」のような生かす力であり、そのいのちの力に生かされている生命の尊厳の「重さ」であることに、島崎さんが気づかれるに至るまでの心の旅路の長さ。

 そしてもう一つさらに、そのいのちの泉の重さを与えられているのは、自分ひとりではなくて「みんな」であり、「みんな」が等しく命の尊厳を「(たた)えている」ものとして見えるとともに、その「みんな」の中の一人として自分も見えて、相違の彼岸に島崎さんが立つに至られるまでの心の旅路の長さ。

この短い詩を読んだときに、さっと私の心をよぎったのは、そういう(長さ》でした。

この詩は、島崎さん七十七歳の最晩年の詩です。島崎さんの一生がかかっている詩です。こういう詩に結実するまで長く続けられた島崎さんの生きることへの《思索》、それに私は手を合わせたいのです。そしてこの長い《生への思索》こそが《信仰》と言われるものの本質ではないか、と私は思いました。

 

島崎さんは二十八歳の時、洗礼を受けられたそうです。島崎さんはもちろん生きることへの思索を、その負わされた重荷のゆえに、小さい時からしておられたことでしょう。それが信仰によって、そういう人が時に陥りやすい歪みから守られて、健全に深められていき、この詩に綴られているように、人は生きているのではなくて生かされているものであるという事実に心底から開眼するまでに、つまり、人間存在そのものに届くまでに、深められていったのでしょう。

そして私は思うのですが、こういう詩の境地にまでくれば、もはやキリスト教とか仏教とか、いわゆる宗教の枠をも越えるということです。

人間がしているさまざまな営みの中で、宗教が固有のものとしているのは、生きるとはどういうことなのかという《生への思索》であったと思います。

《思索》とは、経験によらない純粋な思惟である《思弁》とは違って、行動の指針となるように物事を考える努力のことですから、それは生活に反映し、

生き方をつくり変えるように迫る力を持ちます。そういうものとして《思索》は、《思弁》が客観的・教え的な思考であるのに対して、主観的・実存的な思考です。

したがって、主観的・実存的であるのが本来的な宗教は、生きることを存在の深みにまで掘り下げようとする《生への思索》とは、別でありえないのです。

宗教は「生かされているという存在の事実」に気づき、「生かされているというセンスで生きること」を促していく《生への思索》です。それを生涯のこととして《長く》続けること、それが宗教の心でした。

ですから、もしこの《生への思索》が宗教からなくなれば、宗教は思弁的となり、教えとなり、教えとして語られ、教えとして理解され、教えとして受け入れられ、そして、そのことが、そのまま信仰を持つことそのものを意味すると誤解されるようになるでしょう。さらにその、神や救いについての教え(教会の《思弁》的イデオロギー)となった宗教は、律法的になり、党派的になり、そして、必ず人間を疎外し、人間を抑圧するものになるでしょう。

生きとし生けるものはみんな、どのような生きる軌道を与えられようとも、一つの大いなるいのちに生かされた生命であり、その根源の一つのいのちより湧き出たものとして、みんな尊い生命なのです。

島崎さんの詩にはこの生命への《思索》があります。《思弁》ではなくて《思索》があります。そして、その思索の果てにたどり着いた《思想》があります。《生かされて生きる・被の思想》があります。《この生かされて生きる》は諸宗教が目標としている境地であり、したがって島崎さんの思想は、諸宗教に通底する《宗教の思想》と言ってもよいものなのです。

人間は、生かされたものとして心ならずも負わされたものを負いながら、それを受けとめて生きるより仕方のないものです。そのことが飲み込めなくて、いろいろ注文をつけ、期待はずれに苛立ち、そのため、かえって私たちは悩みを呼び込んで生きています。そして、救いを求めています。

島崎さんの言葉を使えば、「自主決定にあらざるものを」負うて生きているのが、「いのちの泉の重さを堪えている」「みんな」の姿であり、それを受けとめて生きるのが人間の本来であるのに、私たちはそれがわからなくて、それを避けて生きようとして、かえって苦悩を呼び込み、救いを求めているのです。

ですから、救いは「自主決定にあらざるもの」を避けるところにはなくて、それを「たまわった」ものとして受けとめ、そこを生き場所として、そこで咲こうとすることにあります。

それは諦めた弱い生き方ではなくて、生かされていることへの誠実なのです。生かされているものとして覚めている、地に足の着いた生き方です。そしてそれが宗教の、また宗教のみが示し得る答えです。

島崎さんの信仰は、「自主決定にあらざるもの」を負った長い苦しい《生への思索》の旅そのものでした。そしてそれは、《宗教の思想》である《生かされて生きる・被の思想》にたどり着いています。それは、私たちが生活を委ねるに足る(ものの見方》であり、まさに《生の思想》です。

だからこそ、キリスト教の信仰に拠りながら、キリスト教の枠を越え、さらには宗教の枠を越えて、すべての人に届く生きた力を島崎さんの詩は持つのです。

 

「神は、あなたを何処へ導くのでしょうか。

 神はあなたを、今、あなたのいる場所へ導いています。今、あなたの置かれた場で、あなたは、かけがえのない存在として、目に見える世界を突き抜けて、真の現実を見、真の人間性を発揮するように導かれているのです。」

(聖心会シスター鈴木秀子『神は人を何処へ導くのか』三笠書房)

 

神は、自主決定したのではない「今、あなたのいる場所」から救い出すのではなくて、まさにそこで「かけがえのない存在」として自分が見えるように導く、そういう大いなるいのちです。ですから宗教は、どの宗教も、生かされたところを受けとめて生きる《被の思想》として通底するものなのです。

そういうものとして、宗教はそれぞれの優位性を主張するよりは、そうなりがちなのですが――キリスト教は特にそうなりがちです――、そうではなくて、《生への思索》を、長く続く生涯の課題として自らに課して生きているか否かをこそ、自らに問わねばなりません。その自問が信仰に内実を与えます。

そしてその時、宗教は宗教になるのです。