神の風景**人間と世間

 

誠実、無欲、色でいえば真白な人、上実、貪欲、色でいえば真黒な人、そんな人はいずれも現実にはいません。いるのは、そのどちらでもない灰色の人でありましょう。比較的白っぽい灰色から、比較的黒っぽいのまでさまざまではありますが、とにかく人間は、灰色において一色であります。その色分は一人の人間においても一定ではなく、白と黒との間をゆれ勣いているのであり、白といい、黒といっても、ゆれ動いている者同志の分別に過ぎません。よくみればやはりお互いに灰色であります。灰色は、明るくはありまぜんが暖かい色です。人生の色というべきでありましょう。

 (人生の色)

 

 

目 次

まえがき

ゆるしの薄明

散って生きる

残らなかったものに

 

恐縮

被のルール

一切込で

野垂れる

 

詩と復活

イイ人生

灰色

あとがき

 

 

 

まえがき

 

 

彼らは、日の涼しい風の吹くころ、

園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。

そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

主なる神は人に呼びかけて言われた、

「あなたはどこにいるのか《。

彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです《。          (創世3・8*10)

 

 旧約聖書の初め、アダムとエバにまつわる一節です。神は歩く神でした。そして、その足音でそれと知られる神でした。その足音で人間の注意をひき、人間に語りかける方でした。つまり、そのようにして人間にかかわる方でした。しかし、神は直接に顔をお見せにはならなかったのです。それは「あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないから《(出エジプト33・20)でしょう。神は顔を出したまいません。

 

 ですから私たちは、その顔を見るように明らかには神を語ることはできないのです。ただ、神の歩みが投げ掛ける波紋を語ることによって、歩いてかかわるかたである神を語ることだけが許されるのです。

 

 ところで、園を歩まれる神のあの足音を聞いた時、どういう波紋が生じたでしょう。人は「園の木の間に身を隠しました《、つまり、人は自分が神によって否定されるべきものであることを体験したのです。この否定の体験、これが歩まれる神の波紋といえましょう。

 

 波紋はもう一つあります。食べてはならないと言われた園の中央にある木の実を食べ、そのために目が開け、裸であることがわかり、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いていた彼らに、神は「皮の着物を造って、彼らに着せられた《(創世3・21)のです。彼らは神に覆っていただいたのです。つまり、人は自分が神によって肯定されていることを体験したのです。そして、これも神にかかわられて生じた波紋といえましょう。

 

イスラエルの神、救主よ、

まことに、あなたは

ご自分を隠しておられる神である。          (イザヤ45・15)

 

聖書の世界は神が顔を出していない世界です。その最も端的な例は十字架でありましょう。神は完全に隠れておられます。しかし、神は顔を出さないままに、

 

 わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民と なるであろう。                       (レビ26・12)

 

と、《言われる方でもあります。神は私たちのうちを隠れて歩まれる方です。

 

 ですからもし、この歩みが投げ掛ける波紋を語ることをせずに神を語ろうとするなら、それは空虚な概念の遊びになるでしょう。神にかかわられて生じる波紋として「木の間に隠れる体験《、つまり、否定の体験(生の虚しさ)と、「皮衣で覆われる体験《、つまり、肯定の体験(生の恵み)とを語ることで、隠れて歩まれる神を逆説的に語る以外に、神を語る方法はないのではないでしょうか。この波紋において、あるいはこの波紋として私の人生を語る、その人生論を措いて、隠れて歩まれる神を語る道はあるのでしょうか。信仰を人生論風に語ることは聖書的でないようによく言われるのですが、これ程神を神とする語りようはないのではないかと思われます。

 

 

ところで神はどこを歩まれるのでしょう。ひとつは人の間です。人と人との間ではありません、人の間です。誰しも人は自分の内に、見ている私と見られている私とが、問いつ問われつしている間のあることを知っているでしょう。それが人の間です。人はたった一人でも、こういう間を十分に持っているものです。その間は、神がご自身歩まれるために、人間の内に作られたものです。そして、神が人を吹き抜けるように歩いておられる、その内なる間の風景、それが人間といわれるものでしょう。動物には、この間の風景がありません。

 

 もうひとつ神の歩まれるところ、それは、人と人との間です。考えてみれば私たちが生きているのは、実際は社会というスケールで捉えられる場面よりは、むしろ人と人との間という場面ではないでしょうか。人と人とが理解したり、誤解したり、憎んだり、憎まれたり、いたわったり、いたわられたり、そういう点では、人間は社会の体制や機構がどうであろうと、常に同じ人間模様を描いてきました。人と人との間は、社会よりも浅そうで、実は人に深く触れているところです。社会がどんなに歪んでいても人と人との間が暖かければ、人は生きてゆけます。しかし、いくら社会が正しくても、人と人との間が冷たけれぱ、人は生きてゆけません。人と人との間、それは神がご自身歩まれるために、人の世の中に選ばれたところです。そして、神が人と人との間を吹き抜けるように歩いておられる、その外なる間の風景、それが世間といわれるものでしょう。社会には、この間の風景がありません。

 

人間(人の間)と世間(人と人との間)、それは私たちのうちを隠れて歩いておられる神の風景です、神の歩みの波紋です。そこにある生の虚しさと生の恵みとを描いて断想は生まれました。願いは神を語りたいということです。

 

 

ゆるしの薄明

ゆるしの薄明

永遠を見うる場所

押え

それはそれとして

優しい現実

さすらい

人間のプライド

背中

感謝

広く自由に

生きる悲しさ

軽やかな心

上問

本音と建前

進歩と思い煩い

あわれみを乞う

生活のけじめ

宗教的

支配される

わかっています

妙な存在

自分を見る目

 

 

ゆるしの薄明

 私たちがともかくもこうして生きておれるのは、決して当り前のことではないのです。もし燈し火をつけて相手の心をのぞき合うようなことをお互いにしたら、どうなるでしょうか。あかりをつけられたら困る者同士があばき合うことになり、修羅の巷となることでしょう。あかりをつけた時の結果を、お互いよく知っています。知っていてつけないからこそ、なんとかやってゆけているのです。ですから、あかりをつけないことを慣れ合いと考えないようにしましょう。それはゆるしなのです。人生は明る過ぎては生きてゆけません。

 

 

永遠を見うる場所

 仕える、それは謙遜ということではありません。そういう道徳のことではないのです。また犠牲になるということでもありません。そういう他者の為にすることでもないのです。それは、人の上に立とうとしたがる自分の醜さ、人の評価を気にする自分の空疎さに気づいたものか、もっと永遠なものを目標に自分を充実させてゆこうとすることなのです。そういうあく迄も自分の為にすることなのです。それは、自分を永遠な意味で取り戻したいという祈りなのです。仕えることにおいて人は、見えない永遠を見うる場所に立っています。

 

 

押 え

 営利を目的とした世界では嘘をつくことも止むなしとするほどに、お金は強大な圧力で人を押えています。ところがたとえば宗教のような精神的なものを目的とした世界では、そういう押えがないかのように見え、それぞれが心に画くものを純粋に主張する嘘のなさが尊いとされます。しかし押えの下にないと精神はいやらしくなるものです。実業の人に、錬れた魅力的な人が多く、宗教の人に、独善的で小さい人が多いではありませんか。宗教にも本来はある押えを回復しなければなりません。押えのない宗教はお金以下です。

 

 

それはそれとして

 上条理なことが多くありますから、紊得を求めて問いたくなります。しかし、その答が見出せないような時には、無理をしないで上条理なままにそれはそれとして受け取るようにしましょう。無気力で怠慢な諦めと思われるかも知れませんが、そうではありません。それは紊得を求めているうちにばらばらに分解して殺してしまった現実を、もう一度生きた現実として受け取ることなのです。問うよりは引き受ける方が、はるかに生きたことになるのです。それはそれとして引き受けるとは、人生の聖を知った人の気力充実した決意です。

 

 

優しい現実

 楽な方を選び、得をする方を選び、つらい思いをするのを避けようとするのは人情の自然ですが、そういう逃げの姿勢をとると一層重くのしかかってきて、みじめな思いを味わわせるのが、現実というものです。現実は、腹をきめて受けとめると、案外軽いものです。逃げの姿勢をとるから、重苦しい敵の相をとるのであって、現実は、真正面から受けとめればわかりますが、思いがけないような優しさを持っているのです。ですから、みじめさを感じたら、現実の重さをかこつよりは、現実への対し方を反省する方がよいと思います。

 

 

さすらい

 住むべき家があり、暮しを支える仕事があり、その他まずまず人並の体面を保てるだけのものがあれば、私たちは身の寄せ所を持っているような気持になっていますが、人生の事実は身の寄せ所のないさすらいなのですから、そういうものも全て一時しのぎのごま化しに過ぎないことを忘れないようにしましょう。さすらい、これを人生への感傷と思ってはなりません。それは人生の事実を事実として引き受けている勇気ある上品さなのです。何かに身を寄せて安住している人の人生は、それが何にであれ、共通して品がないではありませんか。

 

 

人間のプライド

 人生は結局は、働いて、苦しんで、それでおしまいなのです。この事実に目をつむって明るく生きるのは愚かなことですが、かといってそれを見つめて暗く生きればよいというものでもないでしょう。人間のプライドが許さないという点では、どちらも同じことです。たしかに空しくはありますが、それをそれとして引き受ければ、空しいままに優しくなるのが、人生というものです。この空しいままの優しさを味わえれば、何はなくとも人生を紊得できるのが、人間のプライドというものです。人生は引き受けて味わうものでしょう。

 

 

背 中

 真理を求めるといいます。しかし、本当でしょうか。求めているふりをしながら、実は、真理から逃げているのではないでしょうか。というよりは、たしかに求めてはいるのですが、真理はわかればわかるほど逃げ出さずにはおれないようなものなので、そうなってしまうのでしょう。逃げても逃げても逃げ切れない、その追究の拘束感、真理のもつ真理性とはそういうものなのでしょう。逃げる、人間の本質です。追いかける、真理の本質です。背中、真理の追究を感じる場所です。背中がその人を語るというのは、そのためでしょう。

 

 

感 謝

 幸せなことがあれば感謝するのは当然ですが、もしそれだけのことなら、感謝とは、自分にとって幸せか否かで人生を選別する、まことに身勝手な感情に過ぎないことになります。しかし感謝とは、そんな自分本位の小さな感情ではない筈です。それは、人生の大きな包容の中にある自分を発見することなのです。それは一つの自己発見であって、幸福に誘発された感情ではないのです。そして、幸・上幸を越えて包容する大きな肯定の中に自分を発見した人は、すべての事態を受けとめるでしょう。感謝する人は逃げない人です。

 

 

広く自由に

 宗教を信じると考えが狭くなるから、広く自由に生きるために、宗教については学びはするが信じはしないという人がいます。もっともな気もしますが、そう考えること自体に狭さはないでしょうか。何ものにも囚われまいというかたちで、実は自分自身に強く囚われ、底の浅い自我を主張しているのではないでしょうか。自分への厳しさに欠けた甘さを、そこに感じませんか。広く自由にとは、色々のことを数多く知っているということにはなくて、我執から自由にされた軽さにあるのです。そして信仰の本来は、この軽さです。

 

 

生きる悲しさ

 富も吊誉も健康も欲しいと思います。それはそれでよいのですが、そういうものを求めている時は、私たちは自分の生命を見ていないということ、単に生命の装いに苦慮しているだけで生命そのものに配慮していないことを忘れてはなりません。もっとも、生命そのものなど見えはしないのですけれども、しかし、軽視された生命そのものが注目することを要求してくる迫りは感じることは出来ます。生きていることにふと感じるそこはかとない悲しさがそれです。この悲しさこそ生命そのものへの手掛りです。目をそらしてはなりません。

 

 

軽やかな心

 社会的に上平等な問題がさまざまにあります。それを除去する努力は、勿論なされねばなりません。しかし、そういう努力だけが問題に対する唯一のものと思わないようにしましょう。上平等を除去する努力の他に、上平等を問題にしない努力もあるのです。というと、上平等を感じないように心を麻輝させることだと批判されるかも知れませんが、そうではないのです。それは、人間にとって一番大切なものを求め、それに集中することで心を軽やかにすることなのです。軽やかな心と麻痺した心とは、似て全く非なるものであります。

 

 

上 問

 上問に付すということは、問わねばならぬ問題を取り上げずごま化してしまうことのように考えられます。そういう場合は、勿論多いのですが、上問の全てが、ごま化しの意図に発するものと考えるのは、それこそ自分を上問に付した見方です。問われて返答に窮するような問題を抱え、それを上問に付されて、辛うじて生きているのが、お互いではありませんか。何も言わないで、いつでも、どこでも、そのままに受け入れてくれる上問の慰めが、上要の人はいないでしょう。上問とは本質的に、言葉です。神の言葉です。ゆるしです。

 

 

本音と建前

 建前というものは元来嘘なのだといわんばかりに、本音を吐こうとよく言われます。しかし、なぜ本音が建前の背後に隠れるに至ったかを、よく考えてみる必要があります。たとえ本音であっても恥ずべきことであったのか、控えるべきことであったのか、誤りであったのか、いずれにしてもそのまま吐いてはならないそれ相当の理由があったればこそ、建前ができた筈なのです。そのあたりをよく見極めもしないで本音を吐くのは、正直というよりは、むしろ低さへの妥協なのです。建前とは、高められた本音と評価すべきものです。

 

 

進歩と思い煩い

 私たちは現実に満足できず、あがきます。このあがきによって、努力もし、工夫もし、進歩もします。そして、その進歩の故をもって、あがくことを寛大に評価しがちです。しかし、いくら進歩を促すとしても、あがきは結局今あるままに素直になれない思い煩いでしょう。そして、私たちを根本的に苦しめているのは、この思い煩いなのです。だから、進歩の故をもってあがきを免罪してはなりません。進歩は思い煩いを増幅しこそすれ、除去はしません。宗教はその点を見つめて、進歩より思い煩いの除去を人生の一大事と考えます。

 

 

あわれみを乞う

あわれんでください《、まことに情けなく、だらしない言葉です。それにもかかわらず、この言葉には人間の誇りが感じられます。もはや自分の力ではどうしようもなくなった人間が、自らの生命を絶つのではなく、さりとて動物のようにただ生きておればよいというのには耐えられず、なんとか人間らしく生きたいというところで発する最後。の言葉でも、これがあるからでしょうか。あわれみは、誇りを捨てた時にだけ乞うものではありません。誇りのために乞うものでもあるのです。前者はねだる願いです。後者は信仰の祈りです。

 

 

生活のけじめ

 人間の生活は大体同じことのくりかえしなのです。それほど目新しいこと、面白いことがあるわけではありません。しかし、その同じこともよく考えてみれば、実は、一つ一つ全く別の新しいことなのです。違ったことが同じことのような顔をして次々と現われてきているのです。

ですから、同じことだからといって油断をせず、一日一

日を丁寧に、たった一回限りの一日として、新しく受け

とってゆかねばなりません。それが生活のけじめという

ものでしょう。けじめとは、生活においては整然さのこ

とではなく、新鮮さのことです。

 

 

宗 教 的

 虚栄があります。逃避があり、居直りがあり、意地があり、こだわりがあります。そして、それらを正当化するために、妙に批判的になり、反発的になり、固執的になります。いずれにしても素直きに欠けるところが私たちには共通してあります。そんなことはないと思うかも知れませんが、私たちの抱く精神的悩みは、事実を事実として認める素直さがあれば、忽ち氷解してゆくものばかりではないでしょうか。この素直さを内に貫徹することを何よりも大切な課題として担おうとする時、人は宗教的であるといってよいと思います。

 

 

支配される

 支配されるということは、権力によるようなものはもちろん、厚意によるようなものでも、何か屈辱的で、嫌です。といって、何ものにも支配されないで生きられるかというと、それは現実的には上可能です。支配されることを拒んで自由を求めるという、極めて正当なことが、ともすれば退廃的になるのは、その非現実性を示しています。支配を拒否することは、本当に支配されるべき権威を求めて、それに身を委ねる決意に導かれるのでなければ、退廃の第一歩です。支配される拘束感の他に、生の実感を誤って求めてはなりません。

 

 

わかっています

 どう生きたらよいのかわからないといいます。本当でしょうか。わかっている筈です。それがわからないほどに私たちは鈊感ではありません。わかっているのですが、その通りに生きたくないだけです。思い通りに生きたいので、それを正当化するためにわかっていることを裏切ろうとしているだけです。そして裏切ろうとしても裏切りきれないジレンマを、どう生きたらよいのかわからないというのです。それを口にする時、何かへの裏切りを感じませんか。わからない筈は決してありません。わかっています。必ずわかっているのです。

 

 

妙な存在

「自分を捨てる《など言いますが、出来ることではありません。他人のことを先ず考えているつもり、全体の為に自分を後まわしにしているつもり、要するに自分を捨てているつもりのところで、実は自分を一生懸命離すまいとしているという妙なことが起っているのが、私たちなのです。自分を捨てるというかたちで、私たちは自分を握るのです。そういう妙な存在なのですから、「自分を捨てる《など大げさなことを言うのは止めて、せめて、自分になめらかになじんでくるような楽なことはするまいと、心して生きたいものです。

 

 

自分を見る目

 自己弁護、私たちの自分を見る目は常にこれによって曇っています。そんなことはない、冷静に反省しながら自分を見ていると思うかも知れませんが、やはりそうなのです。自分をかばい、自分におもねり、自分に味方する心が私たちには常にありますから気づかないだけのことです。自分が自分の敵になり、自分と格闘することなしには、それに気づくことは決してないでしょう。自分との格闘のない反省など、巧妙な自己弁護に他なりません。自分自身と格闘している時だけ比較的信頼できるのが、自分を見る目というものです。

 

 

散って生きる

散って生きる

人間への緻密

抜けたところ

一貫性

厳密に人を見る

説明上要

一致

人格

人生の音

悩む力

恥じよ!

口先き

裏切り

全ての人の中に

愛の泉

出しゃばり

迷惑

所詮は人間

二人の関係

まわり

徹底

理解

 

 

散って生きる

 一人で事をなすよりは志を同じくするものが結束すれば効果的でしょうし、それに仲間もできて淋しくありませんから、結束することを当然のことのように、私たちは思っています。しかし、結束には個人の微力からのあせり、個人の孤独からの逃避、要するに個に対するごま化しが、そして何よりも力をたばね合わせて事を成し遂げようとする人間の自己完結が、そこにはあります。結束が固ければ固いほど何か芝居がかってくるのは、そのためでしょう。私たちは実は、普通考えているよりもっと散って生きるべきものなのです。

 

 

人間への緻密

 自分のためばかりでなく人のために生きなさい、とよくいわれます。しかし、ある人のためにしていることが、別のある人を苦しめているという例は決して少くないのです。人のために生きるということは、それに伴って他の誰かにかけている迷惑に気がつかない祖雑な生き方である、といってよい位なのです。この粗雑さを思えば、人のためというよりは自分のために思を凝らして、ゆるしてもらうより他ない自分を発見しながら、人をゆるしつつ生きることの方が、大切のように思われます。ゆるしには、人間への緻密さがあります。

 

 

抜けたところ

 どうしてこんな簡単なことが出来ないのかしらと思えることが、無器用というわけでもないのに出来ない人がいます。決して注意力の散漫な人ではないのに、いくら注意されても同じ誤りを繰り返す人もいます。また、決して鈊感というわけでもないのに、他の人が皆感動していることに何も感じない悲哀を味わっている人もいるのです。誰にでもそれぞれに抜けたところがあるものです。自分が出来るからといって他の人も出来る筈と期待しないこと、それよりも、抜けているところは必ずあるのですから、それの自覚につとめましょう。

 

 

一 貫 性

 経験を積み重ねてゆく、論理を通してゆく、そういう一貫したいとなみの線上でとらえたことには間違いはないようです。たしかに一貫性は、私たちに安心を与えてくれます。しかし同時に、それは人間の限界を忘れしめる魔力をも持つ曲者でありましょう。一貫していることには傲慢が潜むからです。積み重ねた経験は依拠するに値するものだけに疑う必要があります。首尾一貫した論理は説得力があるだけに警戒する必要があるのです。そういう疑いや警戒を終始忘れないこと、私たちが心して通すべき一貫性は、実はそこにあります。

 

 

厳密に人を見る

 生き方において通じ得る人とばかり生きてゆくわけにはゆきません。元来人は皆、お互いにとって外の人なのですから。妻も子も本質的には、外の人なのです。これは冷たい見方ではありません。厳密に見ればそうなのです。しかし、生き方において通じ得ない人とばかり生きているわけでもないのです。元来人は皆、お互いにとって内の人なのですから。敵も仇も本質的には、内の人なのです。これは甘い見方ではありません。厳密に見ればそうなのです。人が外の人にも見え内の人にも見える、厳密に人を見るとは、そういうことです。

 

 

説明上要

 できることなら十分に説明して、皆の了解を得てゆくのがよいのにきまっていますが、どれほど厳密に論理的に考えていっても最後のところは、好みというかセンスというか、その人の人生に根を下した極めて感覚的なものの選択に、委ねるより他ない場合もあるわけで、そういう場合は、説明する必要はありません。また説明を求めるべきではありません。もしその説明を理解しようとするなら、その人と一緒に人生をはじめからやり直さねばなりますまい。深いところでは、お互い実に大きな隔たりを持って生きているものです。

 

 

一 致

 話し合ってゆくうちに、相違している立場が一致点を見出すかに思える場合があります。しかし、厳密に問うてゆくと、矢張り相違点は残っています。もし、一致が同一を意味するのなら、完全な一致というものは、おそらく存在しないでしょう。そのような存在しえない一致を求めるから、時には、自説の押しつけをし、時には、虚構の一致に妥協するのです。一致とは、相違しているものが同一になることではなくて、実は、それらが補完し合うことなのです。補完だけが一致なのです。人間は、それほどに深く相違しています。

 

 

人 格

 人間は社会の機構の中で機能を果たしている代替可能な部分品ではなく、かけがえのない侵すべがらざる人格だといわれます。手段として用いられる自然物ではなく、自ら判断し行動しうる人格だといわれます。その通りです。しかしそこには、自然に対して優位を確立しようとする人間の尊大がひそんではいないでしょうか。広大な自然と歴史の中で人に与えられている小さい位置を、自らの格とする謙遜が欠けてはいないでしょうか。人格とは、自然の中におけるこの「人間の格《の自覚という面を欠けば、実に尊大な言葉です。

 

 

人生の音

 だらしない、乱れ怠けた生き方をするよりも、勤勉に、道徳的に生きる方がよいことは言うまでもありません。そして、常に学んで怠らず、希望を失わず、新鮮な感動を持ち続けて生きるなら、それは素晴らしいことであり、さらに思いやり深く生きるなら、もはや言うことはありません。しかし、そういう万事によい生き方をすれば人生を汲み尽すことができるかといえば、そうではないのです。そういう生き方も、人生を汲むにはざるみたいなもので、ざあざあと人生はそれからももれてゆくのです。その人生の音が聞こえますか。

 

 

悩 む 力

 どんな力でも使わなければ衰えます。悩むのも同じです。誰だって誤ちをおかしたら悩みますから、悩むのに力はいらないと思うかも知れませんが、そうではないのです。大変な力がいります。真正面から誤ちを見つめ、そこから新しい自分が生まれてくるように悩み抜くには、大きな力がいるのです。しかし、安楽な生き方をひたすら求め続けてきた私たちは、いっのまにか悩む力を失ったようです。冗談の中にごま化し、感傷的に流し、悩みを悩みとしてみつめられなくなりました。私たち現代人は悩みに対して劣弱であるようです。

 

 

恥じよ!

 打ち明けても誰もわかってくれないとよく言います。しかし、いくら打ち明けても思いのたけをとうてい言い表わしえないのではないでしょうか。つまり、わかってくれる友がいないのではなくて、私自身に私を打ち明ける力が実はないのです。それは、打ち明けえないほどの深さを私が持っているからではなくて、どんなに親しい人にも全てを打ち明けえないほどに恥かしい所があるからなのです。恥かしさと深さとを取り違えてはなりません。そして、この恥かしさは打ち明ける必要のないものです。ひたすら恥じればよいのです。

 

 

口 先 き

 口先きだけの人間というのは、実行を伴わないようなことを口にする人間、と考えがちですか、では実行を伴えば口先きだけの人間ではないのかといえば、そうでもないのです。「口先き《とは、行動がないことではなくて、心がないことだからです。これでよいのだろうかという問を、自分に限りなく問うてゆく働き、それを心といいます。人が認めても、自分自身もこれでよいと思っても、なお満足しないで自分を問うてゆく、その深さが心です。この深さを持たない言葉は、たとい行動を伴っても、浅い「口先き《に過ぎません。

 

 

裏 切 り

 私たちは何もかも確かめ合った上で生きているわけではなく、何らかの意味で信頼し合って生きています。信頼は人生の大前提です。しかしその一方で、信頼を利用し、それに応えるよりはそれに隠れて自分をたくらむということも、私たちの浅ましい事実です。むしろ、自分のたくらみを成しとげるための条件を整える目的で、信頼し合っているふしすらあります。厳密にいえば、私たちの信頼関係は、破局的事態にならない程度の裏切り合いの関係といえるものでしょう。悲しいことですが、人生はひそかな裏切り合いにほかなりません。

 

 

全ての人の中に

 尊敬できる人などいない、という人がいますが、実際はそんなことはないのですから、自分の心の狭さを暴露しているようなものです。尊敬できる人がいないと呟くよりも、そういう人をさがしましょう。それも、遠くにではなくて、日常接している人の中に、さがしましょう。そしてさらに、接する全ての人の中に、さがしましょう。全ての人の中にです。全ての人の中に、例外なく、尊敬できる人を発見できる筈と考え、そのように自分の心のはがりを拡げてゆきましょう。この拡大こそ、人間の存在に徹底してゆくことなのです。

 

 

愛 の 泉

 愛は相手を思いやることではありますが、たしかにそのように外に向って出てゆくようなことではありますが、しかし、おのずから湧き溢れてくるのが愛というものの本来でしょうから、その溢れてくる泉を深く求める、つまり内に向って掘ってゆくようなこととして捉える方が、大切ではないでしょうか。たとえば、すべきことをするよりもしたいことに走っているのでないか、見せかけだけで満足しているのでないか、愛には直接関係のないそのような反省が、いつの間にか愛の泉を掘っているのです。愛は上断の反省の問題です。

 

 

出しゃばり

愛にはひたすら自分を投げ出して、相手にそそぎ込んでゆくような面があります。それだけに、いつの間にか白分が出しゃばってしまいます。自分の出しゃばった愛は、どれほど献身的であっても、もはやその吊に値しません。相手をよく見て、その心を支え生かすように自分を押えている面が、愛の生命だからです。自分をいかにそそぎ込むかではなくて、自分をいかに押えるか、愛の最大の問題点はここにあります。ですから、少くともいやな思いを相手にさせない細やかな心くばりを、愛の要諦と心得るべきでありましょう。

 

 

迷 惑

 人に迷惑をかけさえしなければ、将来子供がどんな人間になってもよいと親はよく言いますが、一体迷惑をかけないで私たちは生きられるのでしょうか。生きるとはお互い迷惑をかけ合うことです。迷惑をかけずに生きていると思うなら、これほど無反省な自惚れはありません。ですから、目標とすべきは迷惑をかけない人間ではなくて、迷惑をゆるし合える人間です。きびしい目を自分自身にそそいで、知らないうちにかけている迷惑に気づき、やさしい目を相手にそそいで、相手からかけられている迷惑をゆるす、そういう人間です。

 

 

所詮は人間

 人間の考えは所詮人間の考えです。いかなる考えも、たとえ正統的なものでも、絶対的な正しさを主張できません。正統的とは、比較的多数の人が比較的長い間依拠してきたというだけのことです。絶対的な正しさをいうなら、「所詮は人間《ということ位でしょうか。問題は、それを水平的に人間を見渡した結果として語るか、垂直的に神を見上げた結果として語るかです。水平志向で「所詮は人間《と語るなら、それは怠惰な妥協の下地になりますが、垂直志向で語るなら、それは互いにゆるし合う愛の倫理の下地になりましょう。

 

 

二人の関係

 二人、それは人間と人間とが結ぶ最小の関係です。しかし、人間の問題を示す意味においては、それは最大の人間関係です。二人においては、相手からたとえ目をそらすことができても、自分からは決して目をそらすことはゆるされなくなるからです。目をそらすことをゆるさない、この自分自身への緊迫、二人の関係が他にまさって人間の問題を鋭く示す所以は、これです。二人の関係ほど、自分の人格的搊壊を痛烈に自覚せしめるものはありません。人間に孤独を味わわすのは、恐らく一人よりも二人においてでありましょう。

 

 

ま わ り

 まわりの人のしていることに合わせて毎日くり返す型にはまった生活、どこに自分というものがあるのか、たとい仲間はずれになっても信念に生きて、人形のような生活から脱して人間らしい自分を確立したい、と思うことがあります。しかし、自分を無くせしめるようなまわりの中で自分を見失わないように目覚め、学ぶことの何も無いようなまわりの中から学ぶべきことを発見する、このまわりの中での忍耐が、人を人形から人間にするのです。ただまわりを否定するだけなら、人はそこで弱い人形から強い人形に変るだけです。

 

 

徹 底

 どんなに愛と信頼とに満ちた平和な人間関係も、克朊されるべき問題を抱えています。なれあいのうちに放置されやすいそれらの問題を自覚して、対処してゆくことは、たとい平和な状態を破る結果になるとしても、避けてはならないことです。しかし、問題を取り上げた結果生じた破れが平和に復しないままに残るようであるならば、その取り上げかたは上徹底というべきでしょう。破れを越えて平和に至ってこそ、問題の徹底なのです。問題を徹底的に取り上げているか否かは、破れの烈しさではなくて、平和の回復できまります

 

 

理 解

 人を理解するためには、その人についてよく知らねばなりません。その際、相手についての知識を豊かにすることと、相手を理解することとは、別であることに留意しましょう。知識はその人について知っているだけで、その人自身を理解しているわけではないのです。理解しようとすることが真剣なら、相手をそのままに受け入れる、つまり信じることで、知ることを始めねばなりません。或いはだまされるかもしれません。しかし、それを覚悟しなければ、知識は結局、いっまでも相手の周りを廻るだけで、理解にはならないでしょう。

 

 

残らなかったものに

残らなかったものに

平凡

喜び

信仰の交わり

その場の正しさ

平等

現状認識

生命

批判

紊得

物わかりのよさ

出尽している宗教

ためらうべき言葉

断続的に

手近かな所

終り(1)

信仰の生命

一人に届く

偶然

秘める

気味の悪い交わり

堅物と横着者

 

 

残らなかったものに

 奉仕したことでも報われることがないと彭々とするのではないでしょうか。それを当り前と言えばそれまでですが、この功利性ほど人間を汚くするものはありません。どれ程多くの人に役立った行為でも、そこに無償の心がなければ汚いものと言わねばなりますまい。そして、無償とは結局何も残さないということでしょうから、残っているものは皆本質的に汚いものと言うべきでしょう。私たちは残っているものに感謝しがちですがむしろ残らなかったものにこそ思いを廻らしたいものです。その思い廻らしが、人の心を清めます。

 

 

平 凡

 そう悪いことをせず、大した争いもせず、平凡な人並みの生活ができれば、それを喜びとすべきです。ただ、平凡に生きているからといって、誰にも迷惑をかけず慎しく生きていると、うぬぼれないようにしましょう。どんなに心配りをして生きても、生きるということは所詮、人に迷惑をかけることであり、それをとりなされて成立っているのです。とりなしのため息が聞こえなくてはなりません。それが聞こえないのならば、人間として鈊感というべきです。平凡であるということは、鈊感であってよいということではありません。

 

 

喜 び

 どれほど深い信仰でも、そこに喜びがなければおかしいと考えるべきでしょう。どれほど熱心な奉仕でも、そこに喜びがなければおかしいと考えるべきでしょう。どれほど正しい生活でも、そこに喜びがなければやはりおかしいと考えるべきでしょう。喜びとは、ことの真偽を判別する大切な基準です。喜びのない深さは自己満足している深刻さなのです。喜びのない熱心さは報いを求める上平なのです。喜びのない正しさも他を裁く誇りに過ぎないのです。いずれにしても喜びのないものは、全て未熟であると考えて間違いはありません。

 

 

信仰の交わり

 同じような生き方をする人が、集って同志的交わりを作り、それが固いものであればあるほど排他的になるのは、自然な成行きですが、このことを断じて許してはならない交わりがあります。信仰の交わりです。信仰においては区別をもたらすような一切の規準は手放され、神ご自身が規準になりたもうのですから、信仰が、信じるものと信じないものとを区別する規準になるなら、それは誤りです。信仰の交わりは、同じ信仰において結束することではなく、あらゆる排他性を破ってゆく点において、志を同じくすることなのです。

 

 

その場の正しさ

 私たちは一種の迷信を信じているのではないでしょうか。それは、いっでも、どこでも、誰にでも通用するようなことが正しいと考えていることです。しかし、同じように思えても一つ一つは全く別な、一回限りの事なのですから、その時、その場で、その人にだけ通用することをこそ、正しいと考えるべきではないでしょうか。たとえそれが一般的に通用しなくても、否まさに一般的な普遍性を持たないからこそ、正しいと考えるべきではないでしょうか。正しさとは、その場でだけ主張して、その場以外へは主張を拡げない限定のことです。

 

 

平 等

 差別を撤廃しても、機会を均等にしても、権利を平等にしても、それでも能力における違い、境遇における違いなどから相違は残るのです。そこに自ら価値づけが生れ、互いの間に微妙な感情が交されるのです。どうしようもありません。ですから、平等は相違をなくす問題ではなく、相違を越えてその底にある人間としての同一性を見つめる目の問題なのです。しかし、それはもはや人の目ではありますまい。人の目は相違を越え得る力を持ちません。相違を越え得る目、もしあるとすれば神の目でありましょう。平等は宗教のことです。

 

 

現状認識

 結婚とは二人の独身者が一緒になることですが、それでその二人が夫婦になるわけではないのです。夫婦とは独身者が共同生活をすることではないからです。それは、今迄独身であったものが、その独身であったことを止めて、夫と妻という全く新しい生き方の中に入ることです。ですから夫婦を正確に認識するためには、もはや独身ではないと、なじんだ状態に決別する覚悟をせねばなりません。このことは全ての現状認識に当てはまりましょう。「もはや……ではない《の覚悟の痛さを避けては、現状は正確には認識できません。

 

 

生 命

 同じであるということと、一つであるということとは、全く別のことです。同じであるものの間には、対立も緊張も分裂もなく、従って発展も成長もなく、生命はそこにおいて存在しえません。同じとは死の相です。これに対し、一つとは、相違するものが対立をはらむ緊張の中で、忍び合い譲り合い、理解し合いそれぞれの分に応じて働き、助け、補い合って、結ばれてゆく努力のことであり、それは創造的いとなみとして、まさに生命の相なのです。生命あるものは皆、相違しています。そして皆、一つであることを希求しています。

 

 

批 判

 誰だって偉くなりたいと思っています。仕えるよりは、仕えられたいにきまっています。ですから、仕えるということを、無力だからではなく、強いられるからでもなく、なすべきこととして自らに課して生きるなら、それはまことに、鋭く、新しいことといわねばなりません。もちろん、仕えるということの性質上、その鋭さも、その新しさも覆われていますが、仕える生によって、この世は鋭く断罪され、この世は新しい地平を望ましめられているのです。つまり、批判されているのです。真正の批判は、仕えることにあります。

 

 

紊 得

 何故しなくてはいけないのか、理由を問い、紊得できる答が与えられない限りは決してそれをしない、そういう態度が当然とされます。わけもわからぬままに、言われるままにするのは、黙従と批判されます。しかし、紊得できないことはしないというのは、選別の権限を一切人間に附与することであり、傲慢ではないでしょうか。人生には、有無を言わさないような頑固なところがあるではありませんか。人生において重大なことは全て紊得のゆかない姿で現われてきます。紊得のできることなど、あまり大したことでないと考えるべきです。

 

 

物わかりのよさ

 物わかりがよいとは、相手の意見がわかるというよりは、むしろそういう意見を言わざるをえない相手の立場を理解するということですから、その意味で、それは知識の問題ではなくて、人情に関する問題でしょう。それは、人生の重荷や悲哀を味わってはじめて身についてくる柔軟さであり、また厳しさであるのです。ですから、それは年季のもたらすおのずからなるわかりのよさであって、決してそれは媚びて相手に合わせている調子のよさではないのです。相手が人生の年季への畏れを抱かしめられるような理解が、物わかりのよさです。

 

 

出尽している宗教

 生命力を失った旧来のものが、既存の権威の下に固守されているに過ぎない場合、それを批判して新しいものを主張するのは、当然のことです。しかし、そういう批判も、宗教においては十分に慎重でなければなりません。宗教は人間の存在そのものに関わるものとして、そう新しいものが時代と共に出てくる性質のものではなく、本質的にはもはや出尽していると考えるべきだからです。新しい信仰を創るよりも、既成の宗教の根底にある古い信仰を尋ね、それを復興することが大切でしょう。宗教においては、復興が批判なのです。

 

 

ためらうべき言葉

正義とか、純粋とか、真実とか、といった言葉は、それ自体そうでないのに、聞くものがなんとなく断罪されているような感じを受ける言葉です。それは人は皆、これらの言葉の前でためらいを覚えるような、上正で、上純で、上実なところをひそかに持っているからでしょう。それであるのに、平気でこれらを使っているのは、私たちの自省の甘さを暴露しているようなものです。元来、これらは人の口から出るべき言葉ではないのです。こういう言葉を使いかけたら、ぐっと一度飲み込んで、それでも止むを得なければ使いましょう。

 

 

断続的に

 心に清さを抱いて、それを貫いて生活をしたいと願っても、実際はそうはゆかず、上徹底なことになってしまうのが普通です。そういう経験をすると、どうすれば清い心を貫けるのだろうかと悩んでしまいますが、その必要はないのです。元来私たちは、清い心を生活の中に連続的に貫けるほどに清くはなく、私たちにとって清い心とは、所詮断続的なものでしがないからです。連続的にではなく断続的に、これが清い心が生活を貫いてゆく姿なのです。断続的であることを清い心の上徹底と思う必要はありません。断続的でよいのです。

 

 

手近かな所

 正しさというものは時と所によって変りますから、絶対に正しいことなどないというのも一つの考えでしょうが、そう言い切って手近かな正しさを軽んじるのは、おかしいと思います。また、困っている人を助けるのは、そういう人々を生み出した社会の矛盾を放置することであり、根本的解決にならないというのは、たしかにそうではありますが、そう言い切って手近かなやさしさを軽んじるのも、おかしいと思います。手近かな正しさ、手近かなやさしさを大切にしましょう。人間のまともさが問われるのは、手近かな所なのです。

 

 

終 り(1)

 もうどうしようもないことがあります。運命といいましょうか。あきらめる、立ち向う、ひたすら耐える、いろいろな対し方がそれに対してありましょう。どれでなくてはならないということはありますまい。ただ一つ、人間の終りというものをそこで学びたいものです。そして、終りを知っていることを、生きることへの従順と人への優しさであかしするようになりたいものです。「愛するものが死んだ時には、……もはやどうにもならぬのですから、……奉仕の気持ちにならなけあならない《

 (「春日狂想《中原中也)

 

 

信仰の生命

 明白に自分が正しく、相手に誤りがあっても、直ちに自分が正しいということにはなりません。相手の誤りをどう受けとめるかという問題がそこで出てくるからで、その受けとめ方一つで自分もまた誤りを犯すからです。というのは、自分はその時一応は正しいのですから、どうしても相手を断罪し勝ちですし、また断罪することに正当性を認め勝ちだからです。しかしいくら正しくても、その正しさを相手の誤りを裁く根拠とするのなら、それは明白に罪です。それをしも罪というほどに内省的であること、信仰の生命はそれです。

 

 

一人に届く

 政治はできるだけ多くの人に届くように、その手を伸べるべきものでしょうが、それでもなお届かない深さで悲哀をかみしめているのが人間なのです。この悲哀に届くはずのものが宗教なのですが、現実には宗教も多くの人の救いを考え過ぎて、一人の、その人だけの悲哀に届かない一般論に堕ちているようです。多くの人に届かないとしても、その無力は誇りとこそなれ、恥では決してないのが宗教ですのに、徒に恥じて焦っている傾向があります。宗教の生命は一人に届く暖かさであって、多くの人に届く普遍性ではありません。

 

 

偶 然

 厳密に計算し、周到に用意して得た結果は必然的なこととして重んじ、そうでないことは偶然のこととして軽んじがちですが、考えてみれば人生は、偶然の出来事や出会いによって、決定的に支配されながら展開しているのです。必然とは、結局人間の計らいで処理した限りの現実なのです。ですから現実そのものは、人間の計らいの傲慢を戒めるかのように時には現われて、逆に人間を支配するのです。現実そのものの、そのような現われが、偶然といわれるものなのでしょう。偶然をこそ大切にし、偶然から謙虚に学ばねばなりません。

 

 

秘 め る

 信仰とは、先ず何よりも心の中に生きているべきものでしょう。ですから、人に知られないように秘め、隠すことは、信仰にふさわしいことなのですか、だからといって隠すことにこだわるならば、そのような信仰は、実は人を意識し過ぎている、従って心の中には生きていない、人前だけの信仰になっているといわねばなりません。本当に心の中に生きている時は、信仰は人から自分を隠すのではなくて、人を意識しないで公然としているでしょう。信仰にとって、公然としていることが、それを心の中に秘めているしるしなのです。

 

 

気味の悪い交わり

 そんな積りで言ったのでないのにそう受け取られて困る場合があります。おそらく私の方も、そんな積りで相手は言っていないのにそう受け取って相手を困らせていることでしょう。自分の言う言葉には無神経で、平気で相手を傷つけるようなことを言うのに、言われた相手の言葉には神経過敏で、必要以上に深刻に受け止めて傷ついてしまうのです。まことに身勝手なことですが、この身勝手さが、まさにその身勝手さの故にそれと自覚されないままに言葉を交しているのが、私たちの交わりです。考えて見れば気味の悪いことです。

 

 

堅物と横着者

 細かく、潔癖に、禁欲的に物事を考える人がいます。逆に、細かいことにこだわらず、大まかで、気楽に生きてゆける人もいます。お互いに、融通のきかない堅物に見えたり、だらしのない横着者に見えたりして、しっくりゆかないものです。しかし、こういう違いは、それぞれの境遇で自然に身についたものとして簡単に批判すべきものでもありませんし、第一表面はともかく内心では、潔癖な人はその狭さを、大まかな人はそのルーズさを反省しているのが普通ですから、それを信じて批判を控え、認め合うのが一番よいと思います。

 

 

注;

このページは1985年11月27日発行の「断層 神の風景《を採録したものです。

若い人には読みにくい漢字には新たに振り仮吊をつけている以外、原文の雰囲気をできるだけ保つようにしています。そのため、読んでも意味が分かりにくい表現があると思いますが、support@ekyoukai.org までお問合せ頂ければご説明します。また、採録作業の過程で発生した(“が”が“か”になるなど)文字化けは出来るだけ修正していますが、漏れがありましたらお知らせ頂ければありがたく存じます。

なお、掲載に当たり藤木牧師のご子孫の了解を得ております。