まえがき

 

 

 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、

 園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。

 そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

 主なる神は人に呼びかけて言われた、

 「あなたはどこにいるのか《。

 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、

 恐れて身を隠したのです《。                (創世3・8*10)

 

 旧約聖書の初め、アダムとエバにまつわる一節です。神は歩く神でした。そして、その足音でそれと知られる神でした。その足音で人間の注意をひき、人間に語りかける方でした。つまり、そのようにして人間にかかわる方でした。しかし、神は直接に顔をお見せにはならなかったのです。それは「あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないから《(出エジプト33・20)でしょう。神は顔を出したまいません。

 

 ですから私たちは、その顔を見るように明らかには神を語ることはできないのです。ただ、神の歩みが投げ掛ける波紋を語ることによって、歩いてかかわるかたである神を語ることだけが許されるのです。

 

 ところで、園を歩まれる神のあの足音を聞いた時、どういう波紋が生じたでしょう。人は「園の木の間に身を隠しました《、つまり、人は自分が神によって否定されるべきものであることを体験したのです。この否定の体験、これが歩まれる神の波紋といえましょう。

 

 波紋はもう一つあります。食べてはならないと言われた園の中央にある木の実を食べ、そのために目が開け、裸であることがわかり、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いていた彼らに、神は「皮の着物を造って、彼らに着せられた《(創世3・21)のです。彼らは神に覆っていただいたのです。つまり、人は自分が神によって肯定されていることを体験したのです。そして、これも神にかかわられて生じた波紋といえましょう。

 

 イスラエルの神、救主よ、

まことに、あなたは

 ご自分を隠しておられる神である。          (イザヤ45・15)

 

聖書の世界は神が顔を出していない世界です。その最も端的な例は十字架でありましょう。神は完全に隠れておられます。しかし、神は顔を出さないままに、

 

 わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民と なるであろう。                       (レビ26・12)

 

と、《言われる方でもあります。神は私たちのうちを隠れて歩まれる方です。

 

 ですからもし、この歩みが投げ掛ける波紋を語ることをせずに神を語ろうとするなら、それは空虚な概念の遊びになるでしょう。神にかかわられて生じる波紋として「木の間に隠れる体験《、つまり、否定の体験(生の虚しさ)と、「皮衣で覆われる体験《、つまり、肯定の体験(生の恵み)とを語ることで、隠れて歩まれる神を逆説的に語る以外に、神を語る方法はないのではないでしょうか。この波紋において、あるいはこの波紋として私の人生を語る、その人生論を措いて、隠れて歩まれる神を語る道はあるのでしょうか。信仰を人生論風に語ることは聖書的でないようによく言われるのですが、これ程神を神とする語りようはないのではないかと思われます。

 

 

ところで神はどこを歩まれるのでしょう。ひとつは人の間です。人と人との間ではありません、人の間です。誰しも人は自分の内に、見ている私と見られている私とが、問いつ問われつしている間のあることを知っているでしょう。それが人の間です。人はたった一人でも、こういう間を十分に持っているものです。その間は、神がご自身歩まれるために、人間の内に作られたものです。そして、神が人を吹き抜けるように歩いておられる、その内なる間の風景、それが人間といわれるものでしょう。動物には、この間の風景がありません。

 

 もうひとつ神の歩まれるところ、それは、人と人との間です。考えてみれば私たちが生きているのは、実際は社会というスケールで捉えられる場面よりは、むしろ人と人との間という場面ではないでしょうか。人と人とが理解したり、誤解したり、憎んだり、憎まれたり、いたわったり、いたわられたり、そういう点では、人間は社会の体制や機構がどうであろうと、常に同じ人間模様を描いてきました。人と人との間は、社会よりも浅そうで、実は人に深く触れているところです。社会がどんなに歪んでいても人と人との間が暖かければ、人は生きてゆけます。しかし、いくら社会が正しくても、人と人との間が冷たけれぱ、人は生きてゆけません。人と人との間、それは神がご自身歩まれるために、人の世の中に選ばれたところです。そして、神が人と人との間を吹き抜けるように歩いておられる、その外なる間の風景、それが世間といわれるものでしょう。社会には、この間の風景がありません。

 

人間(人の間)と世間(人と人との間)、それは私たちのうちを隠れて歩いておられる神の風景です、神の歩みの波紋です。そこにある生の虚しさと生の恵みとを描いて断想は生まれました。願いは神を語りたいということです。

 

目 次

まえがき

ゆるしの薄明

散って生きる

残らなかったものに

 

恐縮

被のルール

一切込で

野垂れる

 

詩と復活

イイ人生

灰色

あとがき

 

 

 

神の風景**人間と世間

 

 

誠実、無欲、色でいえば真白な人、上実、貪欲、色でいえば真黒な人、そんな人はいずれも現実にはいません。いるのは、そのどちらでもない灰色の人でありましょう。比較的白っぽい灰色から、比較的黒っぽいのまでさまざまではありますが、とにかく人間は、灰色において一色であります。その色分は一人の人間においても一定ではなく、白と黒との間をゆれ勣いているのであり、白といい、黒といっても、ゆれ動いている者同志の分別に過ぎません。よくみればやはりお互いに灰色であります。灰色は、明るくはありまぜんが暖かい色です。人生の色というべきでありましょう。

 (人生の色)

 

 

ゆるしの薄明

ゆるしの薄明

永遠を見うる場所

押え

それはそれとして

優しい現実

さすらい

人間のプライド

背中

感謝

広く自由に

生きる悲しさ

軽やかな心

上問

本音と建前

進歩と思い煩い

あわれみを乞う

生活のけじめ

宗教的

支配される

わかっています

妙な存在

自分を見る目

 

 

ゆるしの薄明

 私たちがともかくもこうして生きておれるのは、決して当り前のことではないのです。もし燈し火をつけて相手の心をのぞき合うようなことをお互いにしたら、どうなるでしょうか。あかりをつけられたら困る者同士があばき合うことになり、修羅の巷となることでしょう。あかりをつけた時の結果を、お互いよく知っています。知っていてつけないからこそ、なんとかやってゆけているのです。ですから、あかりをつけないことを慣れ合いと考えないようにしましょう。それはゆるしなのです。人生は明る過ぎては生きてゆけません。

 

 

永遠を見うる場所

 仕える、それは謙遜ということではありません。そういう道徳のことではないのです。また犠牲になるということでもありません。そういう他者の為にすることでもないのです。それは、人の上に立とうとしたがる自分の醜さ、人の評価を気にする自分の空疎さに気づいたものか、もっと永遠なものを目標に自分を充実させてゆこうとすることなのです。そういうあく迄も自分の為にすることなのです。それは、自分を永遠な意味で取り戻したいという祈りなのです。仕えることにおいて人は、見えない永遠を見うる場所に立っています。

 

 

押 え

 営利を目的とした世界では嘘をつくことも止むなしとするほどに、お金は強大な圧力で人を押えています。ところがたとえば宗教のような精神的なものを目的とした世界では、そういう押えがないかのように見え、それぞれが心に画くものを純粋に主張する嘘のなさが尊いとされます。しかし押えの下にないと精神はいやらしくなるものです。実業の人に、錬れた魅力的な人が多く、宗教の人に、独善的で小さい人が多いではありませんか。宗教にも本来はある押えを回復しなければなりません。押えのない宗教はお金以下です。

 

 

それはそれとして

 上条理なことが多くありますから、紊得を求めて問いたくなります。しかし、その答が見出せないような時には、無理をしないで上条理なままにそれはそれとして受け取るようにしましょう。無気力で怠慢な諦めと思われるかも知れませんが、そうではありません。それは紊得を求めているうちにばらばらに分解して殺してしまった現実を、もう一度生きた現実として受け取ることなのです。問うよりは引き受ける方が、はるかに生きたことになるのです。それはそれとして引き受けるとは、人生の聖を知った人の気力充実した決意です。

 

 

優しい現実

 楽な方を選び、得をする方を選び、つらい思いをするのを避けようとするのは人情の自然ですが、そういう逃げの姿勢をとると一層重くのしかかってきて、みじめな思いを味わわせるのが、現実というものです。現実は、腹をきめて受けとめると、案外軽いものです。逃げの姿勢をとるから、重苦しい敵の相をとるのであって、現実は、真正面から受けとめればわかりますが、思いがけないような優しさを持っているのです。ですから、みじめさを感じたら、現実の重さをかこつよりは、現実への対し方を反省する方がよいと思います。

 

 

さすらい

 住むべき家があり、暮しを支える仕事があり、その他まずまず人並の体面を保てるだけのものがあれば、私たちは身の寄せ所を持っているような気持になっていますが、人生の事実は身の寄せ所のないさすらいなのですから、そういうものも全て一時しのぎのごま化しに過ぎないことを忘れないようにしましょう。さすらい、これを人生への感傷と思ってはなりません。それは人生の事実を事実として引き受けている勇気ある上品さなのです。何かに身を寄せて安住している人の人生は、それが何にであれ、共通して品がないではありませんか。

 

 

人間のプライド

 人生は結局は、働いて、苦しんで、それでおしまいなのです。この事実に目をつむって明るく生きるのは愚かなことですが、かといってそれを見つめて暗く生きればよいというものでもないでしょう。人間のプライドが許さないという点では、どちらも同じことです。たしかに空しくはありますが、それをそれとして引き受ければ、空しいままに優しくなるのが、人生というものです。この空しいままの優しさを味わえれば、何はなくとも人生を紊得できるのが、人間のプライドというものです。人生は引き受けて味わうものでしょう。

 

 

背 中

 真理を求めるといいます。しかし、本当でしょうか。求めているふりをしながら、実は、真理から逃げているのではないでしょうか。というよりは、たしかに求めてはいるのですが、真理はわかればわかるほど逃げ出さずにはおれないようなものなので、そうなってしまうのでしょう。逃げても逃げても逃げ切れない、その追究の拘束感、真理のもつ真理性とはそういうものなのでしょう。逃げる、人間の本質です。追いかける、真理の本質です。背中、真理の追究を感じる場所です。背中がその人を語るというのは、そのためでしょう。

 

 

感 謝

 幸せなことがあれば感謝するのは当然ですが、もしそれだけのことなら、感謝とは、自分にとって幸せか否かで人生を選別する、まことに身勝手な感情に過ぎないことになります。しかし感謝とは、そんな自分本位の小さな感情ではない筈です。それは、人生の大きな包容の中にある自分を発見することなのです。それは一つの自己発見であって、幸福に誘発された感情ではないのです。そして、幸・上幸を越えて包容する大きな肯定の中に自分を発見した人は、すべての事態を受けとめるでしょう。感謝する人は逃げない人です。

 

 

広く自由に

 宗教を信じると考えが狭くなるから、広く自由に生きるために、宗教については学びはするが信じはしないという人がいます。もっともな気もしますが、そう考えること自体に狭さはないでしょうか。何ものにも囚われまいというかたちで、実は自分自身に強く囚われ、底の浅い自我を主張しているのではないでしょうか。自分への厳しさに欠けた甘さを、そこに感じませんか。広く自由にとは、色々のことを数多く知っているということにはなくて、我執から自由にされた軽さにあるのです。そして信仰の本来は、この軽さです。

 

 

生きる悲しさ

 富も吊誉も健康も欲しいと思います。それはそれでよいのですが、そういうものを求めている時は、私たちは自分の生命を見ていないということ、単に生命の装いに苦慮しているだけで生命そのものに配慮していないことを忘れてはなりません。もっとも、生命そのものなど見えはしないのですけれども、しかし、軽視された生命そのものが注目することを要求してくる迫りは感じることは出来ます。生きていることにふと感じるそこはかとない悲しさがそれです。この悲しさこそ生命そのものへの手掛りです。目をそらしてはなりません。

 

 

軽やかな心

 社会的に上平等な問題がさまざまにあります。それを除去する努力は、勿論なされねばなりません。しかし、そういう努力だけが問題に対する唯一のものと思わないようにしましょう。上平等を除去する努力の他に、上平等を問題にしない努力もあるのです。というと、上平等を感じないように心を麻輝させることだと批判されるかも知れませんが、そうではないのです。それは、人間にとって一番大切なものを求め、それに集中することで心を軽やかにすることなのです。軽やかな心と麻痺した心とは、似て全く非なるものであります。

 

 

上 問

 上問に付すということは、問わねばならぬ問題を取り上げずごま化してしまうことのように考えられます。そういう場合は、勿論多いのですが、上問の全てが、ごま化しの意図に発するものと考えるのは、それこそ自分を上問に付した見方です。問われて返答に窮するような問題を抱え、それを上問に付されて、辛うじて生きているのが、お互いではありませんか。何も言わないで、いつでも、どこでも、そのままに受け入れてくれる上問の慰めが、上要の人はいないでしょう。上問とは本質的に、言葉です。神の言葉です。ゆるしです。

 

 

本音と建前

 建前というものは元来嘘なのだといわんばかりに、本音を吐こうとよく言われます。しかし、なぜ本音が建前の背後に隠れるに至ったかを、よく考えてみる必要があります。たとえ本音であっても恥ずべきことであったのか、控えるべきことであったのか、誤りであったのか、いずれにしてもそのまま吐いてはならないそれ相当の理由があったればこそ、建前ができた筈なのです。そのあたりをよく見極めもしないで本音を吐くのは、正直というよりは、むしろ低さへの妥協なのです。建前とは、高められた本音と評価すべきものです。

 

 

進歩と思い煩い

 私たちは現実に満足できず、あがきます。このあがきによって、努力もし、工夫もし、進歩もします。そして、その進歩の故をもって、あがくことを寛大に評価しがちです。しかし、いくら進歩を促すとしても、あがきは結局今あるままに素直になれない思い煩いでしょう。そして、私たちを根本的に苦しめているのは、この思い煩いなのです。だから、進歩の故をもってあがきを免罪してはなりません。進歩は思い煩いを増幅しこそすれ、除去はしません。宗教はその点を見つめて、進歩より思い煩いの除去を人生の一大事と考えます。

 

 

あわれみを乞う

あわれんでください《、まことに情けなく、だらしない言葉です。それにもかかわらず、この言葉には人間の誇りが感じられます。もはや自分の力ではどうしようもなくなった人間が、自らの生命を絶つのではなく、さりとて動物のようにただ生きておればよいというのには耐えられず、なんとか人間らしく生きたいというところで発する最後。の言葉でも、これがあるからでしょうか。あわれみは、誇りを捨てた時にだけ乞うものではありません。誇りのために乞うものでもあるのです。前者はねだる願いです。後者は信仰の祈りです。

 

 

生活のけじめ

 人間の生活は大体同じことのくりかえしなのです。それほど目新しいこと、面白いことがあるわけではありません。しかし、その同じこともよく考えてみれば、実は、一つ一つ全く別の新しいことなのです。違ったことが同じことのような顔をして次々と現われてきているのです。

ですから、同じことだからといって油断をせず、一日一

日を丁寧に、たった一回限りの一日として、新しく受け

とってゆかねばなりません。それが生活のけじめという

ものでしょう。けじめとは、生活においては整然さのこ

とではなく、新鮮さのことです。

 

 

宗 教 的

 虚栄があります。逃避があり、居直りがあり、意地があり、こだわりがあります。そして、それらを正当化するために、妙に批判的になり、反発的になり、固執的になります。いずれにしても素直きに欠けるところが私たちには共通してあります。そんなことはないと思うかも知れませんが、私たちの抱く精神的悩みは、事実を事実として認める素直さがあれば、忽ち氷解してゆくものばかりではないでしょうか。この素直さを内に貫徹することを何よりも大切な課題として担おうとする時、人は宗教的であるといってよいと思います。

 

 

支配される

 支配されるということは、権力によるようなものはもちろん、厚意によるようなものでも、何か屈辱的で、嫌です。といって、何ものにも支配されないで生きられるかというと、それは現実的には上可能です。支配されることを拒んで自由を求めるという、極めて正当なことが、ともすれば退廃的になるのは、その非現実性を示しています。支配を拒否することは、本当に支配されるべき権威を求めて、それに身を委ねる決意に導かれるのでなければ、退廃の第一歩です。支配される拘束感の他に、生の実感を誤って求めてはなりません。

 

 

わかっています

 どう生きたらよいのかわからないといいます。本当でしょうか。わかっている筈です。それがわからないほどに私たちは鈊感ではありません。わかっているのですが、その通りに生きたくないだけです。思い通りに生きたいので、それを正当化するためにわかっていることを裏切ろうとしているだけです。そして裏切ろうとしても裏切りきれないジレンマを、どう生きたらよいのかわからないというのです。それを口にする時、何かへの裏切りを感じませんか。わからない筈は決してありません。わかっています。必ずわかっているのです。

 

 

妙な存在

「自分を捨てる《など言いますが、出来ることではありません。他人のことを先ず考えているつもり、全体の為に自分を後まわしにしているつもり、要するに自分を捨てているつもりのところで、実は自分を一生懸命離すまいとしているという妙なことが起っているのが、私たちなのです。自分を捨てるというかたちで、私たちは自分を握るのです。そういう妙な存在なのですから、「自分を捨てる《など大げさなことを言うのは止めて、せめて、自分になめらかになじんでくるような楽なことはするまいと、心して生きたいものです。

 

 

自分を見る目

 自己弁護、私たちの自分を見る目は常にこれによって曇っています。そんなことはない、冷静に反省しながら自分を見ていると思うかも知れませんが、やはりそうなのです。自分をかばい、自分におもねり、自分に味方する心が私たちには常にありますから気づかないだけのことです。自分が自分の敵になり、自分と格闘することなしには、それに気づくことは決してないでしょう。自分との格闘のない反省など、巧妙な自己弁護に他なりません。自分自身と格闘している時だけ比較的信頼できるのが、自分を見る目というものです。

 

 

散って生きる

散って生きる

人間への緻密

抜けたところ

一貫性

厳密に人を見る

説明上要

一致

人格

人生の音

悩む力

恥じよ!

口先き

裏切り

全ての人の中に

愛の泉

出しゃばり

迷惑

所詮は人間

二人の関係

まわり

徹底

理解

 

 

散って生きる

 一人で事をなすよりは志を同じくするものが結束すれば効果的でしょうし、それに仲間もできて淋しくありませんから、結束することを当然のことのように、私たちは思っています。しかし、結束には個人の微力からのあせり、個人の孤独からの逃避、要するに個に対するごま化しが、そして何よりも力をたばね合わせて事を成し遂げようとする人間の自己完結が、そこにはあります。結束が固ければ固いほど何か芝居がかってくるのは、そのためでしょう。私たちは実は、普通考えているよりもっと散って生きるべきものなのです。

 

 

人間への緻密

 自分のためばかりでなく人のために生きなさい、とよくいわれます。しかし、ある人のためにしていることが、別のある人を苦しめているという例は決して少くないのです。人のために生きるということは、それに伴って他の誰かにかけている迷惑に気がつかない祖雑な生き方である、といってよい位なのです。この粗雑さを思えば、人のためというよりは自分のために思を凝らして、ゆるしてもらうより他ない自分を発見しながら、人をゆるしつつ生きることの方が、大切のように思われます。ゆるしには、人間への緻密さがあります。

 

 

抜けたところ

 どうしてこんな簡単なことが出来ないのかしらと思えることが、無器用というわけでもないのに出来ない人がいます。決して注意力の散漫な人ではないのに、いくら注意されても同じ誤りを繰り返す人もいます。また、決して鈊感というわけでもないのに、他の人が皆感動していることに何も感じない悲哀を味わっている人もいるのです。誰にでもそれぞれに抜けたところがあるものです。自分が出来るからといって他の人も出来る筈と期待しないこと、それよりも、抜けているところは必ずあるのですから、それの自覚につとめましょう。

 

 

一 貫 性

 経験を積み重ねてゆく、論理を通してゆく、そういう一貫したいとなみの線上でとらえたことには間違いはないようです。たしかに一貫性は、私たちに安心を与えてくれます。しかし同時に、それは人間の限界を忘れしめる魔力をも持つ曲者でありましょう。一貫していることには傲慢が潜むからです。積み重ねた経験は依拠するに値するものだけに疑う必要があります。首尾一貫した論理は説得力があるだけに警戒する必要があるのです。そういう疑いや警戒を終始忘れないこと、私たちが心して通すべき一貫性は、実はそこにあります。

 

 

厳密に人を見る

 生き方において通じ得る人とばかり生きてゆくわけにはゆきません。元来人は皆、お互いにとって外の人なのですから。妻も子も本質的には、外の人なのです。これは冷たい見方ではありません。厳密に見ればそうなのです。しかし、生き方において通じ得ない人とばかり生きているわけでもないのです。元来人は皆、お互いにとって内の人なのですから。敵も仇も本質的には、内の人なのです。これは甘い見方ではありません。厳密に見ればそうなのです。人が外の人にも見え内の人にも見える、厳密に人を見るとは、そういうことです。

 

 

説明上要

 できることなら十分に説明して、皆の了解を得てゆくのがよいのにきまっていますが、どれほど厳密に論理的に考えていっても最後のところは、好みというかセンスというか、その人の人生に根を下した極めて感覚的なものの選択に、委ねるより他ない場合もあるわけで、そういう場合は、説明する必要はありません。また説明を求めるべきではありません。もしその説明を理解しようとするなら、その人と一緒に人生をはじめからやり直さねばなりますまい。深いところでは、お互い実に大きな隔たりを持って生きているものです。

 

 

一 致

 話し合ってゆくうちに、相違している立場が一致点を見出すかに思える場合があります。しかし、厳密に問うてゆくと、矢張り相違点は残っています。もし、一致が同一を意味するのなら、完全な一致というものは、おそらく存在しないでしょう。そのような存在しえない一致を求めるから、時には、自説の押しつけをし、時には、虚構の一致に妥協するのです。一致とは、相違しているものが同一になることではなくて、実は、それらが補完し合うことなのです。補完だけが一致なのです。人間は、それほどに深く相違しています。

 

 

人 格

 人間は社会の機構の中で機能を果たしている代替可能な部分品ではなく、かけがえのない侵すべがらざる人格だといわれます。手段として用いられる自然物ではなく、自ら判断し行動しうる人格だといわれます。その通りです。しかしそこには、自然に対して優位を確立しようとする人間の尊大がひそんではいないでしょうか。広大な自然と歴史の中で人に与えられている小さい位置を、自らの格とする謙遜が欠けてはいないでしょうか。人格とは、自然の中におけるこの「人間の格《の自覚という面を欠けば、実に尊大な言葉です。

 

 

人生の音

 だらしない、乱れ怠けた生き方をするよりも、勤勉に、道徳的に生きる方がよいことは言うまでもありません。そして、常に学んで怠らず、希望を失わず、新鮮な感動を持ち続けて生きるなら、それは素晴らしいことであり、さらに思いやり深く生きるなら、もはや言うことはありません。しかし、そういう万事によい生き方をすれば人生を汲み尽すことができるかといえば、そうではないのです。そういう生き方も、人生を汲むにはざるみたいなもので、ざあざあと人生はそれからももれてゆくのです。その人生の音が聞こえますか。

 

 

悩 む 力

 どんな力でも使わなければ衰えます。悩むのも同じです。誰だって誤ちをおかしたら悩みますから、悩むのに力はいらないと思うかも知れませんが、そうではないのです。大変な力がいります。真正面から誤ちを見つめ、そこから新しい自分が生まれてくるように悩み抜くには、大きな力がいるのです。しかし、安楽な生き方をひたすら求め続けてきた私たちは、いっのまにか悩む力を失ったようです。冗談の中にごま化し、感傷的に流し、悩みを悩みとしてみつめられなくなりました。私たち現代人は悩みに対して劣弱であるようです。

 

 

恥じよ!

 打ち明けても誰もわかってくれないとよく言います。しかし、いくら打ち明けても思いのたけをとうてい言い表わしえないのではないでしょうか。つまり、わかってくれる友がいないのではなくて、私自身に私を打ち明ける力が実はないのです。それは、打ち明けえないほどの深さを私が持っているからではなくて、どんなに親しい人にも全てを打ち明けえないほどに恥かしい所があるからなのです。恥かしさと深さとを取り違えてはなりません。そして、この恥かしさは打ち明ける必要のないものです。ひたすら恥じればよいのです。

 

 

口 先 き

 口先きだけの人間というのは、実行を伴わないようなことを口にする人間、と考えがちですか、では実行を伴えば口先きだけの人間ではないのかといえば、そうでもないのです。「口先き《とは、行動がないことではなくて、心がないことだからです。これでよいのだろうかという問を、自分に限りなく問うてゆく働き、それを心といいます。人が認めても、自分自身もこれでよいと思っても、なお満足しないで自分を問うてゆく、その深さが心です。この深さを持たない言葉は、たとい行動を伴っても、浅い「口先き《に過ぎません。

 

 

裏 切 り

 私たちは何もかも確かめ合った上で生きているわけではなく、何らかの意味で信頼し合って生きています。信頼は人生の大前提です。しかしその一方で、信頼を利用し、それに応えるよりはそれに隠れて自分をたくらむということも、私たちの浅ましい事実です。むしろ、自分のたくらみを成しとげるための条件を整える目的で、信頼し合っているふしすらあります。厳密にいえば、私たちの信頼関係は、破局的事態にならない程度の裏切り合いの関係といえるものでしょう。悲しいことですが、人生はひそかな裏切り合いにほかなりません。

 

 

全ての人の中に

 尊敬できる人などいない、という人がいますが、実際はそんなことはないのですから、自分の心の狭さを暴露しているようなものです。尊敬できる人がいないと呟くよりも、そういう人をさがしましょう。それも、遠くにではなくて、日常接している人の中に、さがしましょう。そしてさらに、接する全ての人の中に、さがしましょう。全ての人の中にです。全ての人の中に、例外なく、尊敬できる人を発見できる筈と考え、そのように自分の心のはがりを拡げてゆきましょう。この拡大こそ、人間の存在に徹底してゆくことなのです。

 

 

愛 の 泉

 愛は相手を思いやることではありますが、たしかにそのように外に向って出てゆくようなことではありますが、しかし、おのずから湧き溢れてくるのが愛というものの本来でしょうから、その溢れてくる泉を深く求める、つまり内に向って掘ってゆくようなこととして捉える方が、大切ではないでしょうか。たとえば、すべきことをするよりもしたいことに走っているのでないか、見せかけだけで満足しているのでないか、愛には直接関係のないそのような反省が、いつの間にか愛の泉を掘っているのです。愛は上断の反省の問題です。

 

 

出しゃばり

愛にはひたすら自分を投げ出して、相手にそそぎ込んでゆくような面があります。それだけに、いつの間にか白分が出しゃばってしまいます。自分の出しゃばった愛は、どれほど献身的であっても、もはやその吊に値しません。相手をよく見て、その心を支え生かすように自分を押えている面が、愛の生命だからです。自分をいかにそそぎ込むかではなくて、自分をいかに押えるか、愛の最大の問題点はここにあります。ですから、少くともいやな思いを相手にさせない細やかな心くばりを、愛の要諦と心得るべきでありましょう。

 

 

迷 惑

 人に迷惑をかけさえしなければ、将来子供がどんな人間になってもよいと親はよく言いますが、一体迷惑をかけないで私たちは生きられるのでしょうか。生きるとはお互い迷惑をかけ合うことです。迷惑をかけずに生きていると思うなら、これほど無反省な自惚れはありません。ですから、目標とすべきは迷惑をかけない人間ではなくて、迷惑をゆるし合える人間です。きびしい目を自分自身にそそいで、知らないうちにかけている迷惑に気づき、やさしい目を相手にそそいで、相手からかけられている迷惑をゆるす、そういう人間です。

 

 

所詮は人間

 人間の考えは所詮人間の考えです。いかなる考えも、たとえ正統的なものでも、絶対的な正しさを主張できません。正統的とは、比較的多数の人が比較的長い間依拠してきたというだけのことです。絶対的な正しさをいうなら、「所詮は人間《ということ位でしょうか。問題は、それを水平的に人間を見渡した結果として語るか、垂直的に神を見上げた結果として語るかです。水平志向で「所詮は人間《と語るなら、それは怠惰な妥協の下地になりますが、垂直志向で語るなら、それは互いにゆるし合う愛の倫理の下地になりましょう。

 

 

二人の関係

 二人、それは人間と人間とが結ぶ最小の関係です。しかし、人間の問題を示す意味においては、それは最大の人間関係です。二人においては、相手からたとえ目をそらすことができても、自分からは決して目をそらすことはゆるされなくなるからです。目をそらすことをゆるさない、この自分自身への緊迫、二人の関係が他にまさって人間の問題を鋭く示す所以は、これです。二人の関係ほど、自分の人格的搊壊を痛烈に自覚せしめるものはありません。人間に孤独を味わわすのは、恐らく一人よりも二人においてでありましょう。

 

 

ま わ り

 まわりの人のしていることに合わせて毎日くり返す型にはまった生活、どこに自分というものがあるのか、たとい仲間はずれになっても信念に生きて、人形のような生活から脱して人間らしい自分を確立したい、と思うことがあります。しかし、自分を無くせしめるようなまわりの中で自分を見失わないように目覚め、学ぶことの何も無いようなまわりの中から学ぶべきことを発見する、このまわりの中での忍耐が、人を人形から人間にするのです。ただまわりを否定するだけなら、人はそこで弱い人形から強い人形に変るだけです。

 

 

徹 底

 どんなに愛と信頼とに満ちた平和な人間関係も、克朊されるべき問題を抱えています。なれあいのうちに放置されやすいそれらの問題を自覚して、対処してゆくことは、たとい平和な状態を破る結果になるとしても、避けてはならないことです。しかし、問題を取り上げた結果生じた破れが平和に復しないままに残るようであるならば、その取り上げかたは上徹底というべきでしょう。破れを越えて平和に至ってこそ、問題の徹底なのです。問題を徹底的に取り上げているか否かは、破れの烈しさではなくて、平和の回復できまります

 

 

理 解

 人を理解するためには、その人についてよく知らねばなりません。その際、相手についての知識を豊かにすることと、相手を理解することとは、別であることに留意しましょう。知識はその人について知っているだけで、その人自身を理解しているわけではないのです。理解しようとすることが真剣なら、相手をそのままに受け入れる、つまり信じることで、知ることを始めねばなりません。或いはだまされるかもしれません。しかし、それを覚悟しなければ、知識は結局、いっまでも相手の周りを廻るだけで、理解にはならないでしょう。

 

 

残らなかったものに

残らなかったものに

平凡

喜び

信仰の交わり

その場の正しさ

平等

現状認識

生命

批判

紊得

物わかりのよさ

出尽している宗教

ためらうべき言葉

断続的に

手近かな所

終り(1)

信仰の生命

一人に届く

偶然

秘める

気味の悪い交わり

堅物と横着者

 

 

残らなかったものに

 奉仕したことでも報われることがないと彭々とするのではないでしょうか。それを当り前と言えばそれまでですが、この功利性ほど人間を汚くするものはありません。どれ程多くの人に役立った行為でも、そこに無償の心がなければ汚いものと言わねばなりますまい。そして、無償とは結局何も残さないということでしょうから、残っているものは皆本質的に汚いものと言うべきでしょう。私たちは残っているものに感謝しがちですがむしろ残らなかったものにこそ思いを廻らしたいものです。その思い廻らしが、人の心を清めます。

 

 

平 凡

 そう悪いことをせず、大した争いもせず、平凡な人並みの生活ができれば、それを喜びとすべきです。ただ、平凡に生きているからといって、誰にも迷惑をかけず慎しく生きていると、うぬぼれないようにしましょう。どんなに心配りをして生きても、生きるということは所詮、人に迷惑をかけることであり、それをとりなされて成立っているのです。とりなしのため息が聞こえなくてはなりません。それが聞こえないのならば、人間として鈊感というべきです。平凡であるということは、鈊感であってよいということではありません。

 

 

喜 び

 どれほど深い信仰でも、そこに喜びがなければおかしいと考えるべきでしょう。どれほど熱心な奉仕でも、そこに喜びがなければおかしいと考えるべきでしょう。どれほど正しい生活でも、そこに喜びがなければやはりおかしいと考えるべきでしょう。喜びとは、ことの真偽を判別する大切な基準です。喜びのない深さは自己満足している深刻さなのです。喜びのない熱心さは報いを求める上平なのです。喜びのない正しさも他を裁く誇りに過ぎないのです。いずれにしても喜びのないものは、全て未熟であると考えて間違いはありません。

 

 

信仰の交わり

 同じような生き方をする人が、集って同志的交わりを作り、それが固いものであればあるほど排他的になるのは、自然な成行きですが、このことを断じて許してはならない交わりがあります。信仰の交わりです。信仰においては区別をもたらすような一切の規準は手放され、神ご自身が規準になりたもうのですから、信仰が、信じるものと信じないものとを区別する規準になるなら、それは誤りです。信仰の交わりは、同じ信仰において結束することではなく、あらゆる排他性を破ってゆく点において、志を同じくすることなのです。

 

 

その場の正しさ

 私たちは一種の迷信を信じているのではないでしょうか。それは、いっでも、どこでも、誰にでも通用するようなことが正しいと考えていることです。しかし、同じように思えても一つ一つは全く別な、一回限りの事なのですから、その時、その場で、その人にだけ通用することをこそ、正しいと考えるべきではないでしょうか。たとえそれが一般的に通用しなくても、否まさに一般的な普遍性を持たないからこそ、正しいと考えるべきではないでしょうか。正しさとは、その場でだけ主張して、その場以外へは主張を拡げない限定のことです。

 

 

平 等

 差別を撤廃しても、機会を均等にしても、権利を平等にしても、それでも能力における違い、境遇における違いなどから相違は残るのです。そこに自ら価値づけが生れ、互いの間に微妙な感情が交されるのです。どうしようもありません。ですから、平等は相違をなくす問題ではなく、相違を越えてその底にある人間としての同一性を見つめる目の問題なのです。しかし、それはもはや人の目ではありますまい。人の目は相違を越え得る力を持ちません。相違を越え得る目、もしあるとすれば神の目でありましょう。平等は宗教のことです。

 

 

現状認識

 結婚とは二人の独身者が一緒になることですが、それでその二人が夫婦になるわけではないのです。夫婦とは独身者が共同生活をすることではないからです。それは、今迄独身であったものが、その独身であったことを止めて、夫と妻という全く新しい生き方の中に入ることです。ですから夫婦を正確に認識するためには、もはや独身ではないと、なじんだ状態に決別する覚悟をせねばなりません。このことは全ての現状認識に当てはまりましょう。「もはや……ではない《の覚悟の痛さを避けては、現状は正確には認識できません。

 

 

生 命

 同じであるということと、一つであるということとは、全く別のことです。同じであるものの間には、対立も緊張も分裂もなく、従って発展も成長もなく、生命はそこにおいて存在しえません。同じとは死の相です。これに対し、一つとは、相違するものが対立をはらむ緊張の中で、忍び合い譲り合い、理解し合いそれぞれの分に応じて働き、助け、補い合って、結ばれてゆく努力のことであり、それは創造的いとなみとして、まさに生命の相なのです。生命あるものは皆、相違しています。そして皆、一つであることを希求しています。

 

 

批 判

 誰だって偉くなりたいと思っています。仕えるよりは、仕えられたいにきまっています。ですから、仕えるということを、無力だからではなく、強いられるからでもなく、なすべきこととして自らに課して生きるなら、それはまことに、鋭く、新しいことといわねばなりません。もちろん、仕えるということの性質上、その鋭さも、その新しさも覆われていますが、仕える生によって、この世は鋭く断罪され、この世は新しい地平を望ましめられているのです。つまり、批判されているのです。真正の批判は、仕えることにあります。

 

 

紊 得

 何故しなくてはいけないのか、理由を問い、紊得できる答が与えられない限りは決してそれをしない、そういう態度が当然とされます。わけもわからぬままに、言われるままにするのは、黙従と批判されます。しかし、紊得できないことはしないというのは、選別の権限を一切人間に附与することであり、傲慢ではないでしょうか。人生には、有無を言わさないような頑固なところがあるではありませんか。人生において重大なことは全て紊得のゆかない姿で現われてきます。紊得のできることなど、あまり大したことでないと考えるべきです。

 

 

物わかりのよさ

 物わかりがよいとは、相手の意見がわかるというよりは、むしろそういう意見を言わざるをえない相手の立場を理解するということですから、その意味で、それは知識の問題ではなくて、人情に関する問題でしょう。それは、人生の重荷や悲哀を味わってはじめて身についてくる柔軟さであり、また厳しさであるのです。ですから、それは年季のもたらすおのずからなるわかりのよさであって、決してそれは媚びて相手に合わせている調子のよさではないのです。相手が人生の年季への畏れを抱かしめられるような理解が、物わかりのよさです。

 

 

出尽している宗教

 生命力を失った旧来のものが、既存の権威の下に固守されているに過ぎない場合、それを批判して新しいものを主張するのは、当然のことです。しかし、そういう批判も、宗教においては十分に慎重でなければなりません。宗教は人間の存在そのものに関わるものとして、そう新しいものが時代と共に出てくる性質のものではなく、本質的にはもはや出尽していると考えるべきだからです。新しい信仰を創るよりも、既成の宗教の根底にある古い信仰を尋ね、それを復興することが大切でしょう。宗教においては、復興が批判なのです。

 

 

ためらうべき言葉

正義とか、純粋とか、真実とか、といった言葉は、それ自体そうでないのに、聞くものがなんとなく断罪されているような感じを受ける言葉です。それは人は皆、これらの言葉の前でためらいを覚えるような、上正で、上純で、上実なところをひそかに持っているからでしょう。それであるのに、平気でこれらを使っているのは、私たちの自省の甘さを暴露しているようなものです。元来、これらは人の口から出るべき言葉ではないのです。こういう言葉を使いかけたら、ぐっと一度飲み込んで、それでも止むを得なければ使いましょう。

 

 

断続的に

 心に清さを抱いて、それを貫いて生活をしたいと願っても、実際はそうはゆかず、上徹底なことになってしまうのが普通です。そういう経験をすると、どうすれば清い心を貫けるのだろうかと悩んでしまいますが、その必要はないのです。元来私たちは、清い心を生活の中に連続的に貫けるほどに清くはなく、私たちにとって清い心とは、所詮断続的なものでしがないからです。連続的にではなく断続的に、これが清い心が生活を貫いてゆく姿なのです。断続的であることを清い心の上徹底と思う必要はありません。断続的でよいのです。

 

 

手近かな所

 正しさというものは時と所によって変りますから、絶対に正しいことなどないというのも一つの考えでしょうが、そう言い切って手近かな正しさを軽んじるのは、おかしいと思います。また、困っている人を助けるのは、そういう人々を生み出した社会の矛盾を放置することであり、根本的解決にならないというのは、たしかにそうではありますが、そう言い切って手近かなやさしさを軽んじるのも、おかしいと思います。手近かな正しさ、手近かなやさしさを大切にしましょう。人間のまともさが問われるのは、手近かな所なのです。

 

 

終 り(1)

 もうどうしようもないことがあります。運命といいましょうか。あきらめる、立ち向う、ひたすら耐える、いろいろな対し方がそれに対してありましょう。どれでなくてはならないということはありますまい。ただ一つ、人間の終りというものをそこで学びたいものです。そして、終りを知っていることを、生きることへの従順と人への優しさであかしするようになりたいものです。「愛するものが死んだ時には、……もはやどうにもならぬのですから、……奉仕の気持ちにならなけあならない《

 (「春日狂想《中原中也)

 

 

信仰の生命

 明白に自分が正しく、相手に誤りがあっても、直ちに自分が正しいということにはなりません。相手の誤りをどう受けとめるかという問題がそこで出てくるからで、その受けとめ方一つで自分もまた誤りを犯すからです。というのは、自分はその時一応は正しいのですから、どうしても相手を断罪し勝ちですし、また断罪することに正当性を認め勝ちだからです。しかしいくら正しくても、その正しさを相手の誤りを裁く根拠とするのなら、それは明白に罪です。それをしも罪というほどに内省的であること、信仰の生命はそれです。

 

 

一人に届く

 政治はできるだけ多くの人に届くように、その手を伸べるべきものでしょうが、それでもなお届かない深さで悲哀をかみしめているのが人間なのです。この悲哀に届くはずのものが宗教なのですが、現実には宗教も多くの人の救いを考え過ぎて、一人の、その人だけの悲哀に届かない一般論に堕ちているようです。多くの人に届かないとしても、その無力は誇りとこそなれ、恥では決してないのが宗教ですのに、徒に恥じて焦っている傾向があります。宗教の生命は一人に届く暖かさであって、多くの人に届く普遍性ではありません。

 

 

偶 然

 厳密に計算し、周到に用意して得た結果は必然的なこととして重んじ、そうでないことは偶然のこととして軽んじがちですが、考えてみれば人生は、偶然の出来事や出会いによって、決定的に支配されながら展開しているのです。必然とは、結局人間の計らいで処理した限りの現実なのです。ですから現実そのものは、人間の計らいの傲慢を戒めるかのように時には現われて、逆に人間を支配するのです。現実そのものの、そのような現われが、偶然といわれるものなのでしょう。偶然をこそ大切にし、偶然から謙虚に学ばねばなりません。

 

 

秘 め る

 信仰とは、先ず何よりも心の中に生きているべきものでしょう。ですから、人に知られないように秘め、隠すことは、信仰にふさわしいことなのですか、だからといって隠すことにこだわるならば、そのような信仰は、実は人を意識し過ぎている、従って心の中には生きていない、人前だけの信仰になっているといわねばなりません。本当に心の中に生きている時は、信仰は人から自分を隠すのではなくて、人を意識しないで公然としているでしょう。信仰にとって、公然としていることが、それを心の中に秘めているしるしなのです。

 

 

気味の悪い交わり

 そんな積りで言ったのでないのにそう受け取られて困る場合があります。おそらく私の方も、そんな積りで相手は言っていないのにそう受け取って相手を困らせていることでしょう。自分の言う言葉には無神経で、平気で相手を傷つけるようなことを言うのに、言われた相手の言葉には神経過敏で、必要以上に深刻に受け止めて傷ついてしまうのです。まことに身勝手なことですが、この身勝手さが、まさにその身勝手さの故にそれと自覚されないままに言葉を交しているのが、私たちの交わりです。考えて見れば気味の悪いことです。

 

 

堅物と横着者

 細かく、潔癖に、禁欲的に物事を考える人がいます。逆に、細かいことにこだわらず、大まかで、気楽に生きてゆける人もいます。お互いに、融通のきかない堅物に見えたり、だらしのない横着者に見えたりして、しっくりゆかないものです。しかし、こういう違いは、それぞれの境遇で自然に身についたものとして簡単に批判すべきものでもありませんし、第一表面はともかく内心では、潔癖な人はその狭さを、大まかな人はそのルーズさを反省しているのが普通ですから、それを信じて批判を控え、認め合うのが一番よいと思います。

 

 

恐  縮   

恐縮

軽く、優しく

言葉

あなたが生きれば

非寛容

持つ(1)

素直(1)

とらわれとあせり

人生の味

人間の成長

仕様のない私

似たり寄ったり

上真実

稀なこと

ねたみ

ものの見方

手つかずの部分

祈る姿を信じる

痛まない信仰

素直(2)

くせ

 

恐 縮

「共に生きる《とよく言われます。私たちは一人ではなくて、多くの人と共に生きている社会的存在なのですから、正しい主張といわねばなりません。しかし、そこには共に生きるという積極的人生態度をとれないものを裁く、あまりにも健康な人生観があるのではないでしょうか。そのためか主張する人の意に反して、それは共にを否定する結果を招く主張になり易いように思われます。むしろ、「恐縮して生きる《と言ったらどうでしょうか。所詮は人に迷惑をかけずには生きられない私たちなのです。恐縮こそ最低限の社会性であります。

 

 

軽く、優しく

 一つのことをします。そのために払った努力や工夫、忍耐や犠牲などを思うでしょう。人よりの評価や報いも、他の人と比較しながら大いに思うでしょう。それから、協力してくれた人や理解を示してくれた人のこと、健康と能力と状況に恵まれたことなども感謝のうちに思うことでしょう。もう一つ思いましょう。今ここで私がこのようにいることの上思議さを。そんなこと当り前だと言わずに、何よりも大切なこととして、自分のしたことよりも大切なこととして思いましょう。その思いが、人の心を軽くします、優しくします。

 

  言 葉

 言葉とは本来心の震動を伝えるものです。明快で、正確で、美しいものであっても、心の震動のない言葉は、ただの音です。聞く者の心を打ち、共鳴を呼び、何事かを伝えるということはありません。言葉を交す目的は、こちらの考えを伝えることにありますから、それは言葉の論理や表現や話法の問題ではなく、心の震動をいかにあますところなく表現するかという推敲の問題であるわけです。更に言えば、先ず語る者が表現せざるを得ない心の震動を持っているか否かの問題であるわけで、それの無い人は黙っている方がよろしい。

 

 

あなたが生きれば

「あなたを押しのけて私は生きる《、結局このような生き方を私たちはしています。そうでもしなければ生きてゆけないとよく言われますし、確かにその生き方で獲得することは多いのです。しかし、獲得の喜びと生命の喜びとは別であることに注意しましょう。獲得の中で生命はむしろ上完全燃焼をかこっているのではないでしょうか。蝋燭が他を照らしながら自分自身は消滅してゆくように、燃焼とは本来他に仕えることなのです。「あなたが生きれば私も生きる《、これはお人好しではありません。燃焼を求める生命の訴えなのです。

 

 

 置かれている状態に上満があると注文をつけたくなります。勿論、そこには身の程を弁えない欲求上満があるかも知れませんが、分相応な妥当な注文と思えるのもありましょう。しかし、一体相応な分はどうして判るのでしょう。これは分相応の注文だと主張するそのこと自体が、上相応な思い上りかも知れないのです。相応か上相応かを決めるはからいを捨てて、注文をつけるよりは、先ず置かれた状態をそれはそれとして引き受ける、その受容こそ分を学ぶ第一歩でしょう。分とは大体、上満に思っているところにひそむものです。

 

 

非 寛 容

 私たちは置かれている現実の厳しさから、どこかで目をそらしていなければ生きてゆけないのではないでしょうか。それを凝視し抜く程には、決して強くはないと思います。ですから、深く誠実に反省しているつもりでも、なおそこには目をそらしているところがあるにちがいないと、常に心得ていなくてはなりますまい。そして、飽く迄も自分自身に対しては非寛容でありましょう。それが、いつの間にか目をそらしてしまう程に弱い私が、せめてもささげる真実への奉仕ではないでしょうか。「非寛容とは奉仕である《         (亀井勝一郎)

 

 

持 つ(1)

 富を持つということは、それ自体悪いことでもなんでもないことでしょう。しかし、「持つ《ということは、自分一人のことに止まらず、おのずからそこに、「持たない《人との関係を伴うことなのです。そして、持たない人に自分の持っているものをどのように使うか、という問に直面せざるを得ないことなのです。あるいはこの問が見えないかも知れません。しかし見えなくても、依然としてその問が目の前にあるのが、「持つ《ということなのです。この問に目をつむり、持つことを一人のこととした時、「持つ《ことは罪です。

 

 

素 直(1)

 人のことを心配し、世話をし、助け、その為には自分のことを後回しにしても悔いることはない、そのような献身的な振舞をしながら、実はそこで、なすべき地道なことを怠り、野心を隠し、無能を補い、耐えるべきことから逃避しているということがあるのです。おまけにそのように献身的な振舞は、感謝され、称讃されますから、ついごま化している自分を見落してしまいます。私たちにはこのようなところがあるのですから、心して常に、丁寧、正確に自分を調べている必要があります。この自己調査のことを素直というのです。

 

 

とらわれとあせり

判らないということは上安なことですから、つい判っていることで判らないことまで割り切ってしまおうとして、判っていることにとらわれたり、早く判ってしまおうとあせったりします。ですから、とらわれとあせりは、意地っ張りや狭量といった、あるいは性急や独善といった性格の問題ではないのです.それは、判らないことを判ったことにしてしまおうとする、真理に対する姿勢の問題なのです.それは、真理に対する自分の出過ぎなのです。とらわれとあせりを小さなことと考えてはなりません。それこそまさに罪に他なりません。

 

 

人生の味

私たちは慎重に選択したことばかりを生きているわけではありません。大体選択ができるようなことはあまり大切な事ではないでしょう。大切な事は結局は決めかねて、選択するというよりはむしろ止むなく引き受けさせられているのではないでしょうか。人生は一番深い所では引き受けて生きているものです。ですから、大切だから慎重に選択すべきだというのは実は間違いで、大切なればこそ選択することを止めて担わされたものを負うべきなのです。選択をしないことは無気力ではありません。それが人生を味わうということです。

 

 

人間の成長

 必ず誰かに助けられて生きていますのに、上思議なことですが、この助けてくれている人がよく見えないのが私たちです。自分が助けている人は見えても、助けてくれている人が見えない、人間の成長が一番遅れているのは、この点です。人間の成長を示すものに、鷹揚であるとか、思いやり深いとか、動じないとか、いろいろありましょうが、決定的なのはこの点です。助けてくれている人が見える、つまり感謝の心です。すべてのことに感謝ができれば他に何を欠こうとも、人間としては成長を極めているといってもよいでしょう。

 

 

仕様のない私

 たしかに私たちにはこれより他に仕様がないというところがあるのですが、だからといって、これでよいと居直ってはならないと思います。一生懸命やったといっても、所詮は自分の手に負える限りのことをしただけで、その意味では、可能の限りを尽すことなく中途で挫折しているのであって、申し訳の無さこそあれ、これでよいなど言えることではないのです。ですからその仕様のない弱さを批判されても、それは全面的に甘受しましょう。その甘受においてのみ、人は、これより他に仕様がないと言うことが許されるのでしょう。

 

 

似たり寄ったり

 能力も違い、役割も違うのです。私たちは確かに多くの点で違うのであり、いくら権利は平等だといっても、実際の生活は違うのです。だからどうしても互いに比較し合う気持が複雑に行交うわけですが、一方、強そうな人が簡単なことで弱さを曝し、清そうな人がつまらぬことで醜態を演じるのであって、お互い似たり寄ったりでもあるのです。違う点があることは確かですが、似たり寄ったりであることは、もっと確かな人間の事実と思われます。この事実を洞察する時、人は比較し合うことを止めて、慰め合うものになることでしょう。

 

 

上 真 実

 貧しさによって愛が破壊されることがあります。力や病気や上幸によっても同じです。しかし、それらによっていささかも影響されず、却って強固になってゆく愛もあります。むしろその方が愛としては本当でしょう。ところが、そのような愛をも簡単に破壊するものがあります。相手に対する上真実です。上真実は決して小さいことではありません。軽蔑よりも憎悪よりも決定的に、交わりを裂きます。それであるのに上真実の持つ問題性がそれ程大きく見えないのは、私たちの交わりが、既に回復し難く稀薄になっているからでしょう。

 

 

稀なこと

 人の行動や発言を理解しようと、その人の経歴や境遇などを考慮しながら、その人の身になって考えても、結局は、相手の思いのたけには届かない(うら)みは残るものです。真剣に理解しようとすればするほど、そういうものです。ですから、わかりもしないのにわかってしまおうと、割り切ることのないよう慎しみたいものです。それよりも、人が人を理解できるということは、極めて稀な、例外的ケースと心得ましょう。大体、私たちは理解し合った上で生きているわけではないのです。人間関係はそれ程きっちりしたものではありますまい。

 

 

ね た み

ねたみ、他との比較にあやしく揺れる挫折感。劣等感でもあり、虚栄心でもあり、そして、敵意となり、憎悪となり、意地となり偏狭となり、お節介となり逃避となる、そのように自分本位に屈折する、優越するものに素直になれない敏感さです。人は皆エゴイストですし、また皆他と共に生きているのですから、ねたみの苦しさから自由な人はいないでしょう。数々ある人間の問題のうち最深のものをこれに見ているのが、宗教なのです。宗教とは、人生を理解する手立としてねたみの苦しさを鮮明に、執拗に突きつけてくるものです。

 

 

ものの見方

 ものを正しく見るためには、どこから出発したらよいのでしょう。自分勝手な判断を差し控え、先入観を取り除くことから出発すべきなのでしょうか。そうではありますまい。ものを見ようとしている自分が、既にものに包まれ、ものと共に、ものに支えられて生きているのですから、そのことを自覚することから出発すべきでしょう。ものに包まれていることの自覚が出発点となるべきです。つまり、ものを、利用する相手として見ないこと、包んでくれている支え手として見ること。その時、ものは一番正しく見得ると思われます。

 

 

手つかずの部分

 たとえば道徳的に厳格であることに信仰の姿を見ている人もいれば、奉仕や社会活動に打込むことにそれを見ている人もいます。それぞれはその生き方こそ信仰的と思っていますが、おそらく信仰を持たなくても、前者は道徳の人であり、後者は行動の人であるでしょう。既に持っている気質や傾向が、そのまま手つかずに信仰生活の中に流れ込んでくるものです。それが生かすべき個性であるか、取除くべき罪性であるか、それはともかく、信仰においても手つかずの部分を相変らず引きずっていることを忘れないようにしましょう。

 

 

祈る姿を信じる

 人はいつも同じことを繰返すわけではないことを承知しながらも、どうしても過去の行状からその人を判断してしまい勝ちです。しかもそういう判断は、当らずとも遠からずという場合が多く、なまじっか信用し過ぎて編されるよりは賢明かもしれないのですが、しかし、自分の人生を少しでもよくし、新しくしたいと、言わば新生の祈りともいうべきものを抱いている面が、お互いの中にはあるのではないでしょうか。表面には見えなくとも、人は皆祈っています。その祈る姿を信じましょう。人間の交わりの根底はそこにあります。

 

 

痛まない信仰

 傍観者とは畢竟(ひっきょう)傷つかない人です。ところで、生きるということは傍観者ではありえないことですから、人生は何らかの意味で傷つくことなしには生きえません。そして、この傷に関わるものが信仰なのです。人生の傷の痛みを知らないものには、信仰は無縁の世界でしょう。傷を知るものが皆信仰を持つとは限りませんが、傷を知らずに信仰を抱くということはありえません。ですから、信仰において傷の痛みが切実に問題となっていないのなら、その信仰はいかに多くのことを深く語ろうとも、人生の傍観者の戯言に過ぎないでしょう。

 

 

素 直(2)

 性により、年齢により、能力により、その他学歴、職歴、家柄、階級、民族、宗教などさまざまなものによって人間は区別されています。しかし、それらとは全く違った区別が別にあるように思います。それは素直さによる区別です。素直な人とそうでない人。この区別は外からは見分けがつきません。また素直な人が常に素直であるわけではありませんから、常に新しくやり直さなければならない区別ですが、とにかくこれ程決定的に人間を区別するものはないでしょう。なぜなら、人は素直さにおいてだけ真理に貫かれるのですから。

 

 

く せ

 正しいと思えば自分の考えを主張するのは当然ですが、冷静に、筋を通して考えている積りでも、なお自己流の論理を通していることを忘れないようにしましょう。論理以前のくせともいうべきものがそこには必ず潜んでいるものです。このくせを自覚して主張を控えて黙るか、くせのある主張としてその限度を弁えているか、いずれにしてもくせある故の遠慮が、主張にはあらねばなりません。遠慮のない主張―主張は遠慮のないものになり勝ちですが~、それはどんなに明快な論理に貫かれていても本質的には暴言です。

 

被のルール

被のルール

常時への着地

弱さ、恐れ、上安

円熟

軽やかに

裏のことは裏で

この外に救いな

逆戻り

人間に届く

着実

暖かさの中で

生命の実感

別の自然

無知の響き

改めるよりは

虚偽

普通(1)

事勿(ことなか)れ主義

抱擁無限

慎重

緊張

 

被のルール

 聖書の言葉の中で理解し難いものに「律法《があります。それは、道徳とは似ているところがあるようで、しかしどこか違っています。たしかにそれは、道徳に似て人間の生き方を教えていますが、しかし、道徳とは違って神の恵みに応えて生きる道を教えているのです。つまり、生かされているという受身の構えで生きる筋道、「被のルール《なのです。それは、人間の目標とすべき高さではなくて、生かされることなしには生きえない人間の低さを教えるものです。道徳を犯すと悪い人になりますが、律法を犯すと誇る人になるのです。

 

 

常時への着地

信仰についての抜き難い誤解は、それを非常時のことと捉えていることです。病気の時、失意の時、困難な時、あるいは入学、就職、結婚、葬式、そのような常ならぬ時に、信仰の出番があると考えていることです。しかし、信仰は本来常時のことです。私たちは自分勝手な妄想で常時の外に自分を夢み、常時を軽んじて生きがちですが、今日ここでの常時の私以外に私はないわけで、たとえ上満であってもこの私をきっちり引き受けさせ、日々の要求を果さしめるのが信仰なのです。信仰とは常時への着地に他なりません。

 

 

弱さ、恐れ、上安

 論理的に筋が通った説明で紊得してゆく面もありますが、事実に圧倒されて有無を言わさずに紊得させられてゆく面を深く持っているのが、人生というものでありましょう。そこでは人間の(さか)しらな判断は黙らされ、感情的に言えば、弱さ、恐れ、上安の思いを避けることはできません。そういう否定的な感情は嫌ですから、落ちついて、幸せな肯定的な感情に戻りたいとは思いますが、そうはゆかないのが人生です。恐らく否定とは、わけもわからずに生きている私たちに、人生をわからせようとする、いのちの思いやりでしょう。

 

 

円 熟

 円熟した人間とはどういう人のことなのでしょう。角のとれた円満な人のことでしょうか。一つのことに熟達した人のことでしょうか。豊かな経験を積んだ人のことでしょうか。恐らくそれらのいずれでもあるでしょうが、むしろ、決して満足することなく、といって諦めることもなく求め続ける謙虚さが、生きる姿勢として内に確立している人と考えるべきでしょう。熟するとは元来、未熟と完成の間の微妙であり、完成することではなくて、完成への緊張だからです。そして、謙虚こそ人格におけるこの緊張に他なりません。

 

 

軽やかに

 軽いという言葉は重大ではないという意味もありますが、まといついているものを取り除いた身軽さという意味もありましょう。上毛なものから離れた本来の姿を軽やかというのがそれです。本来の姿にある時は何事もみな軽やかです。私たちが生きることに重たさを味わうのは、上毛の心労にまといつかれているからでしょう。本来のものを忘れたそのような軽率な生き方は、重たいのです。それに対し、本来の姿を、たとえそれが重くとも耐える生き方は、軽やかなのです。軽率な人ではなくて、軽やかな人でありたいと思います。

 

 

裏のことは裏で

 信頼されてもそれに応えることなく、それをよいことに勝手なことを密かに企む、つまり裏切る、これ程の人間の荒廃はありますまい。しかも、それは表には現れず、隠し通すことも十分にできますから、つい寛大に見逃し、今や私たちの生き方の深層を支配する共通の事実になっているのではないでしょうか。本性ともなった自分の裏切りを思えば、表に口に出してするお詫びの言葉など却って裏切りの上塗りであり、やはり、裏のことは裏で片付けるべきでありましょう。裏で黙って詫びる心を片時も忘れてはなりますまい。

 

 

この外に救いなし

「この人による以外に救いはない《、ぺテロが彼を取囲む人々に向ってこう言った時、それは、このイエスこそ人間に与えられた唯一の救いである、と主張しているのでは決してないのです。彼はただ言いたかったのです。「このイエスに出会って、私自身の根底にある問題が示され、それからの究極的な救いが与えられた《と。それは、イエス*キリストの救いの唯一性を外に向って主張しているのではなく、イエス*キリストに救いの究極性を信じた内なる確信を吐露しているのです。信仰とは本来、唯一性ではなくて究極性の告白なのです。

 

 

逆 戻 り

 才能や地位や財産やらに心を奪われて見えなくなっている生命の本当の姿を、見えるようにしてくれるのが信仰です。従って信仰は、今迄心奪われていたものにもはや価値を置かないという、一つの訣別であるのです。しかし、一度訣別したら二度と心奪われることがないかといえばそうはゆかず、私たちはくり返しそれらに心奪われ、逆戻りするのです。知識ならばそれを豊かにし、体験ならばそれを深め、技術ならばそれを錬るのが課題でしょうが、信仰の課題は逆戻りしないことなのです。信仰には、前進という課題はありません。

 

 

人間に届く

 人は一人では生きてゆけないし、事実一人で生きていませんが、といって交わっておればそれでよいのかといえば、そうでもありません。というのは人間はただ生きているのではなく、死に向って生きているのであり、そして死ぬとは全く一人のことであるからです。政治や経済がどれほどきめ細かくなされても結局一人の人間に届かないのは、それが扱う人間が雑多であるからではなくて、そこには交わりに届く生の論理はあっても、一人に届く死の論理がないからです。死に怯えつつ人間を問う姿勢が政治や経済にはありません。

 

 

着 実

 慎重に考えて事を決める人もあれば、簡単に決める人もいます。どちらがよいのか、その人の性格もありますし、第一どのように決めたところで大した違いがないのが人生ですから、そう問題にすることでもないでしょう。ただ一つ、周りの人の要求や期待に押されて決断させられるという受身の姿勢を、決める場合の根底に据えている方が良いと思います。その方が真実だと言う気はありませんが、少くとも地に足の着いた着実な生き方だとは言えるでしょう。着実は必ずしも真実ではありませんが、真実は常に着実の姿をとります。

 

 

暖かさの中で

 病や貧しさや失敗からの救いを求めるのは御利益的だ、罪と死からの救いを求めてこそ信仰だと言われますが、まことに要らぬお節介です。人それぞれに問題が解かれて心に平安が与えられれば、御利益であろうとなかろうと、うるさく詮議しないのが救いではないでしょうか。救いとは、あるがままに包んで問わないことです。閉め出すように問いつめるのは、人の考えではあっても、神の御旨でないことだけは確かです。救いとは何か、それは各自が包まれた暖かさの中でゆっくり考えることです。先ず包まれていることに気付くこと。

 

 

生命の実感

 生命の実感を表現する言葉は何でしょう。正しさでしょうか。そうではありますまい。高さでも、清さでもないでしょう。それは、暖かさだと思います。暖め暖められてこそ、私たちは生きている実感を味わいます。正しく、高く、清く生きてさえいればそれでよいのだと考える心を恥じ入らしめるような暖かさが、生きていることの味わいなのです。それなら、正しくなど生きる必要はないのかという反論が出るかも知れませんが、それは、生命の暖かさを味わっていないものの饒舌です。味わっているものはそんなことは言いません。

 

 

 人生は虚無だ、孤独だ、いや美だ、といろいろ言われます。間違ってはいません。しかし、それらにはいずれも、何かしら自分の方から人生を見ている目があります。人生は与えられたものなのですから、そういう見方では見誤ることになりましょう。見られているように、人生は見ねばなりません。私を見ているその目、それを戒と言います。生きる上で何らかの戒を避け難いのは、それが無いと無秩序になるという実利的理由によるのではなく、人生のこの基本的構造によるのです。戒を忌避した生き方は、人生観の貧困を示すだけです。

 

 

別の自然

 年齢と共に体は大きくなり、知恵が増し、常識も身につき、感情も落着いてきます。自然なことです。しかし、成長してゆくと共に自然に信仰を持つに至るかといえば、そうではありません。生涯、信仰に無縁に生きる人はたくさんいます。ではそういうひとびとよりも、信仰を持つ私たちは、自然の流れに身を委せずに真剣に生きているのかといえば、そうではないでしょう。それは、信仰を持つより他に生きようがないから、つまり、信仰がもう一つ別の自然になったから、それだけのことです。信仰とは、別の自然を生きることです。

 

 

無知の響き

「頼りになるのは結局自分だけだ《、と言われます。確かにその通りです。どんなに親切な人も、お互い皆自分が可愛いですから、いざとなれば手を引くでしょう。それに何と言っても自分自身が手や足を動かすのでなければ、激励も忠告も援助も空しいわけで、自分で身を入れ、手ずから働くよりほかありません。確かに頼りになるのは自分だけです。しかしそれにもかかわらず、この言葉には、人間への無知の響きがあるではありませんか。生きているというよりは、生かされている人間の事実への無知が、そこにはあります。

 

 

改めるよりは

 人にはそれぞれ生き方のパターンのようなものが、いつしか身についています。どんなに反省し、改めようとしても、結局人はその入らしい生き方の外には出られません。それから自由に生きている積りでも、根本的には少しも変らず、形を変えて相も変らず同じパターンが生きています。その根深さは、それを身につけたというよりは、それにとり憑かれてしまったといった方が正確な位なのです。お互いそうなのですから、努力をするのなら、自分を改めるよりはお互いのパターンを認め合う努力をしましょう。それでよいのです。

 

 

虚 偽

 言っていることと行っていることが違うということ、これは小さいことではありません。それは要するに虚偽なのですが、この虚偽は、良いことを言いながら悪いことを企んでいるとか、出来もしないことをさも出来るかのように装っているとか、その場ごかしのことを無責任に言っているとか、建前で本音を巧妙に隠しているとか、単にそういったものではないからです。虚偽とは、自分を守り通す為には一切を、たとえそれが神であろうと一切を利用して(はばか)らない自己神化なのです。人間を根本的に駄目にするのは、これです。

 

 

普 通(1)

 人でなしという言葉があります。人は自明のこととして人であるわけではありません。人であることに手を抜いた時、もはや人とは言えないものになるのです。そして、自分の仕事に身を入れ、平和に生きている普通の生き方の陰には、この人でなしになるまいとする必死の努力が潜んでいるのです。普通とは、決して生易しいことではありません。それであるのに、普通であることに飽き足りず、それ以上を狙って人であることに手を抜いてしまった、人でなしのなんと多いことでしょう。人として普通に生きられたら大したものです。

 

 

事勿(ことなか)れ主義

 意見の対立があると、馴れ合いはいけない、傷つき合ってでも、徹底的に主張し合うべきだとされます。しかし、激しい議論をしてしこりを残さないということはあるでしょうか。そして、人と人との間の平和を壊してよいほどの正しさを私たちの意見は持つでしょうか。平和を壊さないように主張は自制すべきです。ひたすら無事を望む消極的な意味ではありませんが、平和を至高とする故に、最後は事勿れを主義とすべきです。事勿れ主義、決して悪くはありません。平和の前に屈することを知らぬ正しさなど、虚偽の正しさです。

 

 

抱擁無限

 神は全能といわれます。信じる者の願は叶えられるといわれ、叶えられない時は、信仰が足りないのだといわれます。何かペテンにかけられたような気がします。全能なら、信仰を足りるようにしてくれるのが筋じゃないでしょうか。それに、常に罪に呻吟(しんぎん)している我が身を省みれば、罪の力の方が神よりずっと強力と考えざるを得ません。上信に対し、罪に対し、神は非力です。しかし、そのように上信と罪の中に背いているものを、そのまま(ゆる)す無限の抱擁が、神です。神はその抱擁において、そして抱擁においてのみ全能なのです。

 

 

慎 重

 当事者の言い分を公平に聞き、冷静に事実を確認した上でなければ、軽々しく態度は決定できないというのは、至極もっともなことですが、何かうさんくさいものを感じます。たとえ明白でなくても、それが直ちに態度を決定すべき問題かどうか、その見分けがつかなくなった鈊感な心がそこにはあるのではないでしょうか。鈊感な心は、慎重を欠くとしたり顔に言うかも知れませんが、明確に把握するよりも、賛否の態度を決定する方が先決という場合があるのです。それは軽率ではなく、心の鋭敏なのです。人間性への慎重なのです。

 

 

緊 張

緊張した状態を、普通とは違った状態、気を張って問題と取り組んでいる特別の状態と考えがちですが、そうではないでしょう。物事はすべて、下降というか、腐敗というか、とにかくある筈の姿から退歩してゆく傾向を必ず持っているものです。この傾向に気づき、それに抵抗することによって、ある筈の姿を維持しようとする、それが緊張なのです。緊張とは従って、普通とは違った在り方ではなく、普通を志向している在り方なのです。緊張してこそはじめて普通なのです。それ程、退歩の斜面を私たちは生きています。

 

 

一切込で

 

一切込で

真実への慎重

自由

困った夫婦

校さと敬虔

平和こそ正義

何かのはからい

正しさよりは幸いを

間に合わせでも

一日の苦労

諸宗教

常識

しい手続き

三つの方向

教会の目的

生活者

魂の時間

人生の型と中身

魅力

迷い方の問題

 

 

一切込で

人生良いことばかりではありません。うまくゆかないこともあります。思いがけない障害に出会うこと、期待はずれに終ること、計画通りにゆかないこと、挫折を余儀なくされること、運の悪いこともあるでしょう。しかし、それら全てを含めて人生の全体を神より与えられたものとして受けとめ得ること、それが救いということです。うまくゆかないことのひとつびとつが解決されてゆくことが救いではないのです。良いも悪いモ一切を(こみ)で、人生全体を神よりの賜物と受けとめ得る、その受身の人生態度の確立が救いなのです。

 

 

真実への慎重

 言いたいことが無いから黙るのではないのです。言いたいことがある、それも主張し得る十分な根拠を持って言いたいことがあっても黙るのです。相手と事を構えたくないからではありません。相手を話してもわからない人と軽蔑しているからでもありません。一方的に自分を悪いことにしてまるく治めようとしているからでもないのです。それは、たとえ相手を言い負かしても、真実のことを聞き落したら、何にもならないからです。真実への慎重さが黙らせるのです。信仰の世界とは、この沈黙が常に支配しているところでしょう。

 

 

自 由

 私たちは束縛されることのない自由な状態を願い、束縛からの解放を考えます。しかし、生きるということは、本来束縛に耐えることなのですから、自由な状態というのは、あるとしても瞬時でしょう。自由への願望は、この瞬時の解放を永遠化しようとする妄執であり、生きることへのいくじのなさなのです。私たちが願望とすべきは、自由な状態ではなくて、むしろ上自由な状態に耐え抜くいさぎのよさではないでしょうか。このいさぎのよさこそ、自由を与えてくれます。自由とは精神の毅然であります。

 

 

困った夫婦

 夫婦の仲の悪いのは困ったものですか、仲の良すぎるのも困ったものです。お互いの愛情だけで一緒になれたと確信しておれるほどに仲の良いのは、困ったものです。地球上に何十億と人間のいる中で、二人は組み合わされたのです。その出会いの上思議さの前に口ふさがれる思いがするはずですのに、それに気付かないほどに、自分たちの愛情だけを確信できるのは、困ったものです。ミレーは、「晩鐘《に夫婦愛の最高の姿を夢みたのではないでしょうか。今日あるを感謝する敬虔を欠いた仲の良さには、罪のにおいがします。

 

 

狡さと敬虔

 求められても明快で断定的な意見を避け、さらにいちいち、これは個人的見解だと断りをつける人がいます。反論されるのを恐れ、予防線を事前に張っているようで、自信のない狭さを感じます。しかし、必ずしもそうとばかりはいえず、人間としての限界を自覚した敬虔な人の場合も、そうなってしまうものです。狡い人と敬虔な人とはよく似ているものです。見分けは難しいですが、はっきりしていることは、狭さは敬虔にはなりませんが、敬虔は狭さになるということ。念頭に置くものが神から人になると敬虔は狡さになります。

 

 

平和こそ正義

いわゆる正義の戦争よりも、上正義の平和の方がいい《(井伏鱒二)、たしかにそうです。それは決して正義を軽んじているからではありません。戦争をせねばならぬほどの正義も、平和を破らねばならぬほどの上正義も人の世にはないからです。殺し合ってまでして守らねばならぬ正義、私たちはいつからこんな錯覚を抱くようになったのでしょう。唯一の神を見失い、それぞれが小さい神々に成り上り、自己流の正義を振回しはじめた時からでしょうか。平和こそ正義です。唯一の神を信じるものには、鮮やかにそれが見えます。

 

 

何かのはからい

 大事なことだけは成行や他人の手に任せないで、自分で決めるべきであり、どうでもよいことは適当に他人の手に任せておけばよいといわれますが、これは逆ではないでしょうか。自分で考え、自分で企て、自分で実行し、その結果に自分で責任を負いうるようなことは、大したことではないのです。むしろ大事なことはそういう自分のはからいに関係なしに、有無をいわさぬかたちで起ってくる、「何かのはからい《というより他ないものではないでしょうか。大事なことと思えば思うほど、自分のはからいを引っ込めましょう。

 

 

正しさよりは幸いを

 正しく生きよ、と言います。しかし、生きることにとって正しさとはそれ程大切なものなのでしょうか。大体正しさを口にしていると、必ずといってよい程、争いになるではありませんか。イエスは、心の清い人たちはさいわいであるといわれましたが、そういう人たちを正しいとはいわれなかったではありませんか。正しく生きようとするよりは、幸いに生きようと心がけましょう。ただしその場合に幸いを人と分ち合う心がけだけは決して忘れないように。それでよいのです。正しく、正しくとあまり言わない方がよいと思います。

 

 

間に合わせでも

「本当のものに出会わないで、間に合わせで生きることはいやだ《。その通りです。しかし、本当のものに出会おうとして、これもあれも間に合わせだと(しりぞ)けていると、いつしか自分の好みで生きるようになってしまうでしょう。自分の人生ですから、それはそれでよいのですが、それを、本当のものを求めているなどと決して言わないこと。もし本当のものに出会いたいのなら、それは間違いなく、間に合わせでも引き受けて生きるところにあるでしょう。人生は自分の手の中にないのです。引き受けてこそ本当のものに会えましょう。

 

 

一日の苦労

 明日を思い煩うことなく「一日の苦労《をしなさいと勧められます。あと先を考えないその日暮しが勧められているわけではありますまい。思い煩って過去をくよくよ悩み、将来をあれこれと心配し、周りをいろいろと気にして、現在の生活がお留守になりがちな私たちに、現在をしっかり生きなさいと、それは勧めているのです。何とかしようというはからいを捨てれば、人生とは結局、現在に与えられているだけのことです。この単純な、生かされているという事実を引き受ける道が、一日の苦労です。つまり自分に成り切ることです。

 

諸 宗 教

 色々な宗教があります。似ている点もあり、違っている点もあります。その為に、相違点を強調し、自分の信じる宗教の独自性、更には唯一性を主張することになるのですが、共通点をこそ大切にしましょう。まさにそこに宗教の生命は潜んでいるのであり、相違点は、その生命がそれぞれの民族や風土に咲かせた花に過ぎないからです。花をお互い賞でながら、かくも色とりどりに咲かせる宗教の大生命に感応するのが本当でしょう。花は大地の豊かさを示しこそすれ、自分一人が本当の花だと競って咲いているわけではありますまい。

 

常 識

 常識というものは、その社会の風俗や習慣の中で自らつけられた筋道みたいなものでしょう。たしかにそれは社会や時代の制約を負っていますから、普遍的なものではありませんし、改めて取り上げてみると随分おかしな内容である場合も少くはなく、またなまぬるいものでもありますが、それでも無視すると人間性そのものが怯やかされるような重さが、その底に潜んでいることは認めねばなりますまい。常識とは、時と所と人とを超えた、人間らしさの約数ではないでしょうか。侮るにはあまりに重く、むしろ心すべきものです。

 

悲しい手続き

 わかっちゃいるけど止められないといったところが、私たちにはあります。行く所まで行かないと引き返せないというところがあるのです。そんな所まで行かずに気がついて引き返せたら、一番良いのですが、そうはゆかないのです。そして、頭をぶっつけ傷だらけになって初めて目が醒めるのです。愚かでありますし、勿論それで良いわけはありませんが、事実はそうなのですから、行く所まで行ったとしても、別に駄目だというわけでもありますまい。恐らくそれは、人間が人間になってゆく為の悲しい手続きでありましょう。

 

三つの方向

 どういう生き方をすべきか、誠実に生きて傍迷惑になる場合があり、礼儀正しく生きて窮屈になる場合があり、そうかと思えば、身勝手に生きて人間味溢れる愛すべきものとなる場合もあり、難しいものであります。ただ、喜びを一人占めしないで共に喜ぶ横への方向と、自分の成長を独り喜ぶ上への方向と、足るを知って与えられたものを喜んで引き受ける下への方向と、この三つの方向を自覚しているなら、あとはその人の好みでどのような生き方をしようと、とやかく言うことはないでしょう。大切なことは生きる方向なのですから。

 

教会の目的

 一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々を集めれば、団体としては纒まりが良いわけで、団体を構成する時にそういう配慮をするのは当然でしょう。しかしそのような配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、というよりは雑然としたままでなければならないような団体があります。教会がそれです。教会とは、雑然としたものが互いにいたわり合って調和してゆく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何か事をする為の条件でなく目的であることを忘れないようにしましょう。

 

 

生 活 者

 助けを求めて伸ばす他人の手を振り払わないようにしようというと、そのために自分の生活を投げ捨てねばならぬような場合はどうするのかと反論されます。しかし、自分の生命を危険に曝すような場合は、極端な場合です。極端な場合を想定して、だからそれはできないと言うのは、生活者の言うことではありません。私たちの生活に極端な場合がそうやたらとあるものではないからです。極端はあく迄極端であり、例外です。それはそれで別個に真剣に取組めばよいのであって、当面の生活に精一杯励むのが生活者というものです。

 

 

(じょう)

 真面目で正しく、嘘もつかず、几帳面に潔癖に生きる、勿論そういう生き方は結構であって、苦情を言う気はありませんが、しかし、そういう生き方こそ大切であるかといえば、普通考えられている程でもないという気がします。お互い弱いところがあるのですし、人には言えぬところがあるのですし、判っていても止められないところがあるわけで、そういう弱さを包み、恥を覆い、愚かさを思いやる生き方の方が、大切だと思われるからです。私たちは正しさによってではなくていたわりの情で、辛うじて生きているではありませんか。

 

 

魂の時間

 大人と子供の違いは、自分の思い通りにならないことを、自分を豊かにしてゆく機会として引き受けるか否かにあると思われます。思い通りにならないことを(しりぞ)けて、思い通りになることだけを選びとり、それを自由だと思うのは、子供の論理です。思い通りにならないことにこそ、自分の殼を破り、自分の魂を豊かに膨らませてゆくパン種が潜んでいると見抜くのが、大人の論理です。その上、膨らんでゆくには時間がかかります。体の成長に必要なのとは全く違った時間が魂にも必要なのです。それを承知するのも大人の論理です。

 

 

 人生は旅だといわれます。しかし、一体どこからどこへ旅をするのでしょう。古いものから新しいものへ、そんなことではありますまい。虚偽から真実へ、それでもありますまい。それは、人生を自分のものと考えて思いのままに変えてゆこうとする生き方から、与えられたものと考えて受けとめてゆこうとする生き方への旅でしょう。つまり、変革から受容への旅です。人生において、旅とは何かを求めて遍歴をすることではありません。あるがままを引き受けて動かなくなるように、はからいを捨ててゆくことです。

 

 

人生の型と中身

 境遇、性格、能力など、相違を数え上げれば限りがありません。人生はまことに千差万別です。しかし、それらの相違を越えて共通する人生の型ともいうべきものがあるのではないでしょうか。たとえば「自分に厳しく人に優しく《といったようなこと、その型に従っている限り、人生が、中身はとも角として人間の生としては何とか恰好がついてくる、そのような型があると思います。型を整えるよりは中身を(いたずら)に追い求め易いのですが、本当は、この型が人生の中身なのです。型のくずれた中身など、人生の中身とはなりません。

 

 

魅 カ

「魅力という言葉は説明上可能である。しかし魅力があるということは厳然たる事実なのだ。魅力がないということも厳然たる事実なのだ。魅力を出そうと思っても出て来ないのも、これまた厳然たる事実である《(亀井勝一郎)。柔和で寛容で真面目で礼儀正しいといった人に魅力があるかといえば必ずしもそうではなく、逆の人に魅力を感じる場合も少くありません。魅力とはたしかに捉え難いものです。ただ一つ言えることは、それは人の目を意識している人には決してないということ、それは恐らく超然のしるしでありましょう。

 

 

迷い方の問題

 救いだけを語る宗教は人間を侮辱しています。審きだけを語る宗教は人間を過信しています。審きと共に救いを語る宗教は人間を甘やかしています。信仰において神が与えようとしているのは救いでも審きでもないのです。それは明晰です。安住しようとしている足許を崩し、迷うべき本来の私の姿を自覚せしめてくれる、明澄なる人間への洞察です。信仰の賜物は迷いがなくなることではなくて、正しい迷い方なのです。迷いについてこそ語るのが信仰です。迷いについて何も語らぬような宗教は、宗教であっても信仰ではありません。

 

 

野垂れる

野垂れる

神の前

理解

祈り

使命

先ず

甘さ

差別

絶対の感覚

祝福としての幸福

希望まがい

正しさの快さ

自分を通過

人生を裏返す

宗教の主張

生命を際立たせる

何もかもはできない

神のすまい

持つ(2)

信頼

完全な人生

正常と異常

 

 

野垂れる

愛する人々に囲まれ、なすべき事をなし終えた満足を味わいながら、安らかに息を引き取るとしても、依然として死が痛ましい悲惨であることには変りはないでしょう。なお生きんとする途上に起ることとして、死は本質的に野垂れ死に以外ではありますまい。愛と静かさに包まれて迎えるにしても、矢張りそうです。死に際の安らかさよりも問題は、そこに途上に果てる無念を味わうか。それとも出尽した自分の全容をそこに見抜いて合点するかです。大往生とは、野垂れ死にしないことではなく、野垂れる姿に自分を合点ずることです。

 

 

神 の 前

 もし見ている人が誰もいないなら、一体私たちの生き方はどのように変るでしょう。良くなるか悪くなるか、間違いなく悪くなるでしょう。人の目が有形無形ににらみをきかしているから、なんとか現在程度の生き方をお互いしているのです。良心的とか、神の前を生きるとか言いますけれど、煎じつめれば人の前を繕っているに過ぎません。この現実を人間だから当然と考える人もあれば、負目と厳しく受け止める大もあります。しかし、この違いは決して小さな解釈の相違ではないのです。これこそ、信仰の有無を示す違いであります。

 

 

理 解

 人を理解するとは、どういうことなのでしょう。その人の過去を熟知し、現在を明確に把握し、将来を的確に見通しえるほどの正確さで相手を知ることでしょうか。そういうことでもありましょう。しかし、そのような正確さで関心を持たれても、果して理解されたと思うかといえば、もしそこに、誤りをゆるし、悲しみを慰めてくれるようなものがなければ、却って無理解さを味わうのではないでしょうか。理解とは相手を肯定することです。肯定の構えが正確な把握を理解へと深めるのです。それがなければ正確さは誤解になります。

 

 

祈 り

 ありのままに切実に何でも祈り求めなさい、そして神の御意志を示されなさいといわれます。しかし、御意志を示されるのに何故祈らねばならぬのでしょう。神が愛であることを信じるなら、今ここにある私たちに対する御意志は、今ある私の姿に現われていると信ずべきでしょう。今ある姿をそのまま受けとめて精一杯生きれば、他に一体何を求める必要があるというのでしょう。祈るとすれば、ありのままが見える目と、ありのままに生きる従順の与えられんこと、それ丈です。祈りの極意は、黙って委ねて耐えて従うことです。

 

 

使 命

 使命というものは、自ら買って出て担うものではありません。それは、生かされている所で誠実であろうとする構えが、自然に見出し、止むをえないこととして担い、そして果してゆくものです。それは、何かをするというよりは、(にな)わされる受身のことであり、避けてはならないとする誠実のことです。簡単にいえば、今あるさまを誠実に引き受けて、逃げないことです。使命を生きる人には、そういう受身の誠実さからにじみ出る一種の自然さがあります。恐らく本人は、自分のしていることを、使命などとは考えていないことでしょう。

 

 

先 ず

 何を措いても先ずしなくてはならないこと、それは、私はこれでよいのだという自己肯定です。それは、自己満足ということでも、無反省な自己追究ということでもありません。私たちを縛っているさまざまな社会的規準や道徳的価値から、自分自身の人生を自由に解放して、大切にするということです。生きる上での一応の目途に過ぎない人間の作った規準や価値に縛られ、私たちは折角それぞれに用意されている自分の世界が、すっかり見えなくなっています。それを見出し、それを楽しむ、その為に先ず自分を肯定すべきなのです。

 

 

甘 さ

 何かをした結果得るところがあったから、それをしたのは良かったという論法は、おかしいと思います。どんなことでもやればそれなりに得ることはあるでしょう。失敗も今後の反省の材料に生かすことができますし、全く無意味な行為というものはありますまい。しかし、無意味でなかったからそれをしてよかったというのでは、あまりにも功利的ではないでしょうか。そこには、自分の行為を正当化しようとする甘さがあります。大体意味など後からどうにでもつけられるものです。そんなことで自分をごま化してはなりません。

 

 

差 別

 差別の問題をとうとうと論じる人を、論旨には賛成できても、好きにはなれません。差別の本質はエゴイズムなのですから、そして、私は結局エゴイストなのですから、差別していることは間違いない筈ですのに、その事実が自分にはよく見えない、そういう上透明さが、差別にはあります。もちろんよく見えて自覚している部分もありますが、それは実際しているもっと多くの差別の極く一部でしかないだろうという上安を拭い切ることはできません。差別を論じている人には、口を重くするような上透明さの上安がないのでしょうか。

 

 

絶対の感覚

 張切っているかと思うとすぐに傷ついてしまう、よからぬことを企みながら平気でよい業に励む、二度とすまいと思いながら同じ誤りを繰返す、心は千々に乱れてひびだらけ、一寸突かれたら忽ち壊れそうなその心のひびの一本一本に届いてくるもの、「絶対《とはこの届く柔軟さでしょう。「絶対《というと、壊れない、逆にこちらが壊されてしまいそうな硬質のものを感じますが、実は反対に自分の方を壊して柔かくなり、全ての心のひびに確かに届き、染み込んでくる無形のものです。確かな柔軟さ、これが「絶対《の感覚であります。

 

 

祝福としての幸福

 幸福を追い求めている時、いつも満たされぬ思い、人と比べて焦る思いにさいなまれるのではないでしょうか。幸福は追求するところにはなく、そのようなことは忘れて、とにかく日常の平凡な生活を直く歩んでいる時に、ふと味わう安らかさであります。それは、何もしないのに転げ込んでくる幸運ではありませんが、といって何かをして獲得するといったものでもありません。それは直く歩む時に、より添うもの、祝福であります。直く歩むことだけを心掛けておればよいのです。幸福とは、人を惑わす罪な言葉であります。

 

 

希望まがい

 私たちは皆現状に満足しているわけではありませんから、さまざまなことを望みながら生きています。しかし私たちは皆自惚れが強いので、その望んでいることに心のおごりや高ぶりがひそみ、力の及びそうもないことを願うことになり勝ちです。それは希望というよりは、上満であり、見栄であり、分を越えた(わきま)えのなさである場合が少くありません。そして、この希望まがいのものにどれ(たけ)翻弄されていることでしょう。希望のない人生は生きられぬといいますが、希望をまがいものにする心のおごりを静めることが、先決でしょう。

 

 

正しさの快さ

 正直で誠実、真面目で勤勉、親切で礼儀正しく、万事にそつなく行届き、間違いがない、こういう正しい生き方は、しようと思えばできないこともないでしょう。事実そういう人は少なからずいます。しかし、その正しさが接する人に快さとなるのは、並大抵のことではありません。でもそうならなければ、その正しさは、その人の人間としての貧しさを露呈するだけのことでしょう。正しさとは、本来人間としての豊かさなのであり、快いものである筈だからです。快さを欠いた正しさを平気で語れるのは、人間の解体のしるしです。

 

 

自分を通過

 神を信じると言う人が神を信じているわけではありません。神に生かされている人が神を信じているのです。そして、神に生かされている人は神について語らないで神に生かされている自分を語るでしょう。信仰の問題は、神の問題でも人間の問題でもなく、自分自身の問題です。信仰をおびやかすものは従って、無神論でも科学でもなく、多忙な生活でも物質的欲望でもなく、道徳的混乱でもないのです。それは、自分を批判吟味することに時間と労力とを費すことを無駄と考えて、簡単に自分を通過してしまうことです。

 

 

人生を裏返す

 人間は神を知ることはできないといわれます。それは、人間の知識の及ばないほどに神が大きいからではなく、神を知ろうとする人間の態度に、誇りの姿勢があるからです。つまり、生き方を全く変えずにそのまま知ろうとする、誇りの姿勢があるからです。しかし、神は人生の裏側で私たちを支えておられる方ですから、そのような姿勢では知ることはできないのです。姿勢を裏返さねばなりません。誇りの姿勢ではなくて、誇りを奪われたみじめさの中で、人は神に支えられて神を知るのです。宗教とは、人生を裏返した世界です。

 

 

宗教の主張

 気付こうが気付くまいが、人は生きている限り政治の問題に深く影響されているのですから、政治的に人間の諸問題を解決しようとするのは間違っていません。生きた人間を問題にする限り、宗教もまた政治的に行動せざるをえません。しかし、そのような政治的行動にのみ、宗教の生きている姿を見るのは、宗教への誤解です。上幸や矛盾を取り除かず、却ってそこにおいてこそ輝く生命を見る、そのような生命の美学が、宗教の本質なのです。人間は政治的存在であるよりも美学的存在であるというのが、宗教の主張であります。

 

 

生命を際立たせる

 人と交わっていると、教えられること、慰められることがあり、一人ではとてもできないようなことができることもあります。しかし、そういういわば利点に、交わりの意味があるのではないのです。私たちは常に利害の観念に支配されていますから、すぐそう考えるのですが、実は逆なのです。利害に毒されてすっかりめりはりを失っている生命に、その調子を利害から取り戻してくれるのが、交わりなのです。交わりを背景に生命は際立つものなのです。交わりを利害でしか考えないことほど、下手で、もったいない生き方はありません。

 

 

何もかもはできない

「何もかもはできない《、当り前のことですのに、成程と考えさせられるのは、何もかもやらねばならぬという張り詰めた構えでいつの間にか生きているからでしょう。もっとも、あまり簡単に「何もかもはできない《と言っていては、それを口実に怠惰と逃避を正当化することになるかもしれませんが、それでも矢張り、張り詰めた身構えよりは「何もかもはできない《と言っている方が、見るべきものを見ている本当さがあります。人生とは、何とか恰好をつけてはいますが、結局は手に余って責任の取りようのないものであります。

 

 

神のすまい

 時には柔和に思いやり深く、そして忍耐強く人と接することもできますが、誰に対してもそうかと問われると、自信はありません。矢張り相手によりけりで、何時でも誰に対してでもというわけにはゆきません。相手を選ばず、その反応に影響されず、全面的に受け入れて寄り添えるとは、とても思えません。もしそれのできる人に会ったら、人間以上のものを感じるでしょう。神性とは、高貴性とか、清浄性とかではなくて、この「寄り添い性《ではないでしょうか。人の世に神が住まわれる所があるならば、寄り添う人の心にです。

 

 

持 つ(2)

 何ひとつ持たないでこの世に来、何ひとつ持たないでこの世を去ってゆくのが、私たちの人生ですが、しかし、生きている間は何も持たないというわけにはゆきません。人生は、「持たない《ことで初めと終りとを括弧づけられた「持つ《ことなのです。ですから、括弧が見えなくて持つことに狂奔するのは愚かですが、括弧ばかりを見て持つことを投げやりにするのは怠りです。囚われず、といって投げやりもせずに持つのが、人生に対してセンスある生き方といえましょう。囚われるのも投げやりにするのも、垢抜け(あかぬけ)のしないことです。

 

 

信 頼

 裏切られることに慣れてしまった、とこぼす人がいます。裏切られるということは確かにあるとは思いますが、しかし、慣れてしまう程に度々あるというのは事実とは思えません。相手が期待通りの反応を示さないとか、異なった意見を主張したりすると、直ぐにそれを裏切りと取り、そのくいちがいを、相手を理解し自分を省みる機会にしないから、裏切られたことになるのです。裏切っているのは相手ではなくて、自分の方なのです。信頼することです。たとい甘いといわれても信頼で解決を待つ、ひとかどの人は、皆そうしています。

 

 

完全な人生

 未完成ということばはありますが、未完全というのはありません。上完全はありますが、上完成はありません。完成とは目標に到達すること、完全とは条件を満たすことです。そして、人生に求められるのは完成ではなくて完全でしょう。たとえば、生きてゆくのには曖昧に流しておく方がうまく紊まる場合の多いことが、そのことを示しています。完成、厳密、徹底などを求めることが、どれほど人生を混乱させていることでしょう。上十分、上徹底、上正確、総じて曖昧に耐えて希望を失わずに生きるならば、人生はそれで完全なのです。

 

 

正常と異常

 異常なものがそのまま生きるならば、それは自ら傷つき、他を傷つけ、結局は破綻することになるでしょう。異常なものがそれでもなお生き続けることを願うなら、平凡をまとい、普通を装い、正常に振舞うより他ありません。ですから、正常だからといってそれをそのままには受け取れないのです。もちろん疑えといっているのではありませんが、正常の背後にいやし難い異常さの、なんとか生きようとするあがきが潜んでいる場合もあるのです。正常とは本来、生へのあがきが作り出した、相互に了解し合っている状態かもしれません。

 

 

詩と復活

詩と復活

愛**自分の樹立**

終り(2)

人間の租界

復活

良心

宗教

誘惑

現実的

心のおおい

宗教批判としての愛

罪悪感

家庭

生活といのち

対話

キリストの奇蹟

言い分

あとの1%

祈りと願い

短い祈り

祈りと生活

聞く

 

 

詩と復活

 手で触り、目で見、耳で聞いて知り得たものだけが間違いないというのは、こと人生を知るということに関しては通用しません。そういう知り方では、人生は小間切れになるからです。人生をその全容において知るには、知ろうとすることに挫折して、生かされている事実に目覚めねばならないでしょう。知性の挫折における生命そのものへの目覚め、それが復活です。そして、そこで挫折した知性は生命そのものへの感覚を取り戻します。その時知性は詩になるのです。詩とは復活した知性、生の全容を感じている知性なのです。

 

 

愛――自分の樹立――

 愛とは相手の立場になることでしょうか。相手を理解することでしょうか。相手をゆるすことでしょうか。いずれでもあると思いますが、そのように相手を見つめているところでは、愛は結局、ゆがんだ人間関係の修復か、平等公正な人間関係の樹立の努力でしかないでしょう。愛は、相手ではなくて自分を見つめてのものでなければなりません。相手と共に生きることで人ははじめて人であると、自分を(わきま)えることから出発するのが、愛だからです。愛によって修復・樹立されるのは、自分自身であって、相手との関係ではありません。

 

 

終 り(2)

 コピー人間ができるかもしれません。想像もつかないような速さと便利さで全てが処理されるようになるかもしれません。家庭の在り方などもすっかり変わることでしょう。いや案外そうはゆかないかもしれません。いずれにしても私たちの将来がどのようになってゆくのか、見当もつきません。しかし、結論が出てしまっていることがひとつあるのです。それは、私たちはゆるされるのでなければ、誰一人生さてはゆけないということです。私たちはこれからもいろいろと変化してゆくことでしょうが、この点ではもう人間は終っています。

 

 

人間の租界

 徹底的に問題を洗い出して解決してゆくのが筋の通った人間関係であるとすれば、どこか馴れ合っているところのある夫婦というものは、決して筋の通った人間関係とはいえません。しかし、それでよいのではないでしょうか。馴れ合いには、筋の通らないことをそのままに受け入れているという意味で、ゆるしの極点ともいえる場合があるわけで、夫婦はまさに人間の諸関係の中で唯一のその場合だからです。夫婦とは馴れ合ってでもしなければ生きてゆけない人間の租界です。夫婦の間で筋を通し合う程、愚かなことはありません。

 

 

復 活

 あすもわからぬ生命だから投げやりに生きるというのに対し、あすもわからぬ生命だからこそ真剣に生きるともいわれます。あすもわからぬということを、人間の怠惰なはからいで受けとめて投げやりに生きるのも、勤勉なはからいで受けとめて精一杯生きるのも、はからいで生きることを定めている点では同じことでしょう。しかし、人間のはからいに関係なしに生命は生きているのです。この事実に開眼する時、人は生命に身を托して生きるようになるでしょう。生命へのこの開眼と(たく)(しん)を、生命のよみがえり、復活というのです。 

 

 

良 心

 良心とは何でしょうか。誰にだってある良いか悪いかを自分に問うている心の動き。しかし、何を規準にするにしても、またいくら真剣にするにしても、自分で自分を問い、判定すること自体が、そもそも傲慢ではないでしょうか。良心的な人に(ken)(かい)な人が多いものです。良心とは罪より人を守ってくれるもののようで、実は罪の極限になりかねないものなのです。ですから、良心が本当に自分を問うものなら、自分で問うことは止めて、他からの問いかけに自分を委ねる虚心になるでしょう。良心とは、元来虚心のことなのです。

 

 

宗 教

 困窮している人々を助ける、差別のために戦う、もちろん大切なことです。しかし、そういうことはいつでもできると、後回しにすることを求めるものが、人間にはあるのではないでしょうか。それは決して利己的な無関心ではなくて、たといそういうことをしても充しえない深さにおいて、人間は虚しいからです。後回しにすることにとがめがないわけではないのですが、やはり後回しにせざるをえない、内から吹き出してくるような虚しさ。人生はこの虚しさを手掛りに理解すべきものです。そう主張して止まないものが、宗教です。

 

 

誘 惑

 人間は天使でも悪魔でもなく、両方の可能性を持った矛盾です。宗教はこの矛盾を超克せしめるものでしょうが、ことはそう簡単にゆきません。宗教は人間を天使の方に抽象化してとらえ、一つの生硬で道徳的な観念に堕しやすいものです。ですから宗教を具体的な人間に即したものに引き戻し、生身の問題に直面せしめ、それとの対話を余儀なくさせるものが必要になります。その役割を果すもの、それが誘惑です。誘惑というと宗教の邪魔をするもののように思いますが、実は誘惑の中でこそ宗教の本来性は育てられてゆくのです。

 

 

現 実 的

 社会の現実を直視せよ、現実の問題と取り組め。もっともなことだとは思いますが、こういう掛け声が虚しく響くのは何故でしょうか。たとえば家庭の現実といいますが、会社で働く夫の現実を妻は知らず、家庭における妻の現実を夫は知らないのです。一人一人が持つこのような個別性が、あの現実への掛け声では全く無視されています。そこには、現実とは自分しか知らない局面である、という視点が根本的に欠けています。自分しか知らないところを、そこにそそがれる神の目を信じて生きる、現実的取り組みとは、そういうことです。

 

 

心のおおい

 卑下、意地、虚栄、嫉妬、数えあげれば切りのない様様な思いが、心をおおっています。それがなければ恐らく人の世はもっと穏やかで、暮しよいものでしょう。幾重にも厚い心のおおいは、外からではなくて自分で作り出しては内からかけているものばかりですが、その一番底にあるのは、生かされて生きている事実への無知、生かされてあることへの素直な謝念の欠除といったようなものです。人生を受けとめて生きられないことが、人の心におおいをかけて暗くするのです。社会の矛盾、健康、年齢等暗さに関係ありません。

 

 

宗教批判としての愛

 イエスの教えの中心は愛というよりは、宗教批判ではなかったでしょうか。その一生は熱心な宗教家であるパリサイ人との戦いでした。パリサイ人は正しさを誇っていましたが、正しさを神の前に誇り得るのは、人間が到達し得る程度の正しさに神の正しさを引き下げ、それを行うことで他に優越する手段に神を利用したということでしょう。彼らの宗教は、結局は神を人間の道具にすることでした。それを見抜いてイエスは愛を語られたのです。何故なら愛こそ神の道具に人間がなることとして、根本的な宗教批判であるからです。

 

 

罪 悪 感

 建前ではなくて本音を語ろうと言いますが、本当にそうしたらどうなることでしょう。修羅の巷になることだけは間違いありますまい。それ程に、もし口にでもしようものなら大変なことになりかねないようなことを、私たちはお互い密かに考えているところがあるのです。だから筋の通った正しいことを語る時に、語る自分に偽善を感じるのではないでしょうか。臆面もなくそういうことを語るのにためらいを感じる、それが人間の罪悪感というものです。人間の値打ちといってもよいでしょう。宗教心といってもよいと思います。

 

 

家 庭

 家庭とは何でしょうか。心配の情念だと思います。とくに親が子に責任を感じて配る心づかい、その情念ともいうべき心配を欠くならば、たとえ家庭を成り立たせる要件のすべてを満たしていても、それを家庭とはもはや呼べないでしょう。親が子に抱く気配りの多くは、非理性的で、感情的で、第三者には認め難い身勝手な甘さに流されたものばかりですが、しかし、それこそが家庭というものではないでしょうか。家庭とは、どこかで大目に見てもらわないことには生きて行けない人間に許されている非合理のことです。

 

 

生活といのち

 楽しく、豊かに、そして思い通りに生きるということは、誰しもが考える当り前のことですが、それだけですと、おそらく人のいのちは窒息してしまうでしょう。そういう当り前の場面とは違った、究極の場面といいましょうか、「どのように生きるのが本当なのか《を求めながら生きる場面が、人にはあるからです。もっとも、そのような場面に目をつむって生きることもできますが、そうした場合は、その生は生活はあってもいのちのないものになってしまうでしょう。いのちと生活とは違うのです。究極念願にいのちはあります。

 

 

対 話

 対話の大切さがいわれます。人は本来、他と共にある社会的存在ですから、他と語り合って、自分の思っていることを人に伝え、人の思っていることを理解し交ってこそ人間になるというのは、その通りです。しかし、対話はすればするほど、表現し難い、伝達し難いものを自分の内に発見することになるのではないでしょうか。対話で取り上げ得ないことに、語りたい本当の部分があるもどかしさを感じるに至るのではないでしょうか。そして、やがて黙り、自分と対話するに至るでしょう。だから、黙っていても人になれるのです。

 

 

キリストの奇蹟

私共は自分を握りしめて、自分を中心に生きてゆくのを、極く自然なことと考えていますが、自分の手中に自分の運命を握り得ない被造性が、生きねばならない一番深い現実であることを思えば、これは上徹底な生き方といわねばなりません。そういう私共の中に、もし自分を手放して生きるものがあれば、上思議な感じを私共は抱くでしょう。キリストの奇蹟が与える上思議さはこれです。それは科学的合理性では説明できない上思議さではなくて、鮮やかな自己放棄となった被造性への徹底、つまり、神への朊従の上思議さです。

 

 

言 い 分

 天に代りて上義を撃つ、といいます。そんなことをいう位ですから、その人にはもちろん言い分はあるのでしょう。しかし、いくらあるからといって、それを天に代りうるほどに数え上げてゆくのは、真理への感性の貧しさを、自ら暴露しているようなものです。泥棒にも三分の道理はあるのです。誰にだって言い分はあります。しかし、ないのではなくてあるけれども、敢えて言い分を数え上げようとしない、それが真理への感性というものでしょう。自分の言い分をどう取り扱うか、これは人間としての感性が問われる問題であります。

 

 

あとの1%

 九九%理解してもらえてもあとの1%が理解してもらえない、と嘆く人がいます。九九%も理解してもらえたら上等ではないかとも思えるのですが、たしかに、1%が残れば理解してもらえなかったという恨みは残るでしょう。しかし、あとの1%とは一体何でしょうか。それは、とにかく自分を全面的に受け入れてほしいということではないでしょうか。その証拠に、受け入れてもらうと直ぐに、理解してもらったというではありませんか。あとの1%とは甘えなのです。そして、人は皆、本当に甘えられるものを求めて生きているのです。

 

 

祈りと願い

 ああしたい、こうなりたいと、いろいろ考えていますが、それを願いにするのが祈りなのでしょうか。そういう面も祈りにはあるでしょう。しかし、もしそれだけなら祈りとは何と汚れたものでしょう。祈りとは、むしろそれだけのものになり下ってしまうことをよしとしない心の抵抗であり、人としての本来を求める憧憬であり、永遠なるものに誘われてゆく魂の高揚であった筈です。人が「願い《といわずに、「祈り《という言葉を使った時、そこにはそういう倫理性があった筈です。「祈り《を「願い《から救い出さねばなりません。

 

 

短い祈り

 色々なことを願って祈りますが、よく考えてみれば果してそれらは祈るべきことなのか、案外未練や虚栄や野心や上満や嫉妬や憎悪などが、願いの底でくすぶっているのではないか、もしそうなら、そのような願いを願わなくなるようにとこそ祈るべきでしょう。そういう意味では、祈りは段々短くなってゆくべきもの、恐らく最後は、人をゆるす心の与えられんことを祈る、それだけに単純化されてゆくべきものでしょう。短い祈りが真実とは勿論いえませんが、真実な祈りは必ず短いと思います。「主の祈り《はたった二〇秒の祈りです。

 

 

祈りと生活

 生きるということは負わされる課題を日々果してゆくことです。時には思いがけないことを負わされることもありますが、課題は大体同じことです。それらを心をこめて果す場合も勿論ありますが、慣れのためにそうでない場合、心配事で心がそこにない場合、やる気がなくて適当に片付けている場合も少くありません。つまり、していることとしている心との間に隙間があるのです。この隙間を埋めて、今生きることに集中しようとする、心のその抵抗が祈りです。祈りは人を生活から離すものでなく、生活に密着させるものです。

 

 

聞 く

 友の意見を聞く、先輩の意見を聞く、後輩の意見を聞く、親の意見を聞く、子の意見を聞く、反対する者の意見を聞く、敵の意見を聞く、大衆の意見を聞く、総じて自分以外のものの意見を聞くということは自分が正されてゆくことです。自分は正しいとする私有観念が壊されてゆくこと、自分が拠所としていることを問いなおしてゆくこと、聞くということはそういうことです。語ることよりも聞くことの方が消極的な受身の態度でありながら、内的に充実して深味をたたえているのは、「自分を捨てる《ことがそこにあるからです。

 

 

イイ人生

イイ人生

そうまでして

権威

悪魔

受けとめて生きる

自主性

老人は夢を見る

特別の工夫

考え過ぎ

土と永遠

甘受と自制

人間味

信、愛.望

もの

働いている心

恵みの時

宗教の心情

冷静

小さくされること

希望

気にする関係

 

 

イイ人生

「自分は恵まれて幸せで、思った通りの人生を、好きな仕事で生きて来て何の上満もない。しかし、それでああオレはイイ生き方をしたとは思えないような気がする《、木下恵介のことばです。幸せな生き方とイイ生き方とは違うのです。人は結局、自分の人生を自分の手の中に持てない受身のものですから、イイ生き方というのは、負わされたものを負い、必要とされるものに応じて思った通りに生きない、受身の中にあります。それは必ずしも幸せであるとは限りませんが、人間としての筋道は間違いなく通ったイイ人生です。

 

 

そうまでして

 時期尚早とか、道徳的に問題があるとか、自然の秩序を乱すとか批判されながらも、心臓移椊や人工受精などは結局認められるでしょう。この勢いを止めうるものはないと思います。宗教も止めえないでしょう。残るのは、そうまでして生きようとは思わない、そうまでして子供を持とうとは思わない、という個人の気持だけです。その気持は、無気力な諦念による場合もありますが、そうまでして自分の願いを通すことに我が儘を覚えて、今あるままを「これもまた一つの人生《と引き受ける、人間らしい決断による場合もあるでしょう。

 

 

権 威

 権威とは一種の優しさです。人の心を暖め、やる気を起こさせ、何とかしてその心に届こうとする優しさの一念に触れた時、人は安心し、感謝し、恐縮し、更に、朊従せざるをえない思いを抱くでしょう。権威とは本来そういうものです。しかし、現実的には権威は一種の力です。安心に代って緊張が、感謝に代って畏怖が、恐縮に代って重圧が支配している力です。寄りつき難い貫禄、辺りを払う威光を備えた力です。権威が優しさではなくて、もはや力でしかないのは、現実の人間関係が既に復原力を失っていることを物語っています。

 

 

悪 魔

 悪魔の存在をまともに信じる人は最早いないでしょう。科学の進歩や社会の進展と共に自然の成り行きです。しかし、かつて悪魔を信じた人の心には、簡単に幼稚と言い切れないものがあります。そこには、自分が統制できずになすべからざることをし、なすべきことをしない惨めさを、こんなことをするのは私ではなく悪魔なのだ、と叫んでいる悲鳴があるのではないでしょうか。そうだとすれば、そこには極めて健全な、現代人を恥入らしめる程に深い罪の意識があるといわねばなりません。悪魔の存在は健康な人間性の反映です。

 

 

受けとめて生きる

 生きているという事実は人間にとって最も基本的前提と考えられます。たしかにその事実がなければ一切は無意味ですが、更に究極的な前提があります。私が他の生物でなく人間として、しかも女ではなく男に、あそこにでなくここに、過去でも未来でもなく現実に生きているという事実です。これは、生きているということに吸収されない、それを基礎づけている事実です。私の意志でも願望でもないのに、そのようなものとして私の生存が定められている、これこそ究極的前提です。私たちは生存を受けとめて生存せねばなりません。

 

 

 心はいろいろな働きをします。考えます。意識します。判断します。反省します。決心します。感動します。記憶します。想像します。しかし、それらとは一味ちがった働きが心にはあります。それは、自分を認めてしまうことにとがめを感じる働きです。反省に似ていますが、反省のように自分で問い、自分で評価するのでは満足できない、もっと自分より高いものの前に自分を据えて、その問いかけに耳を傾けていようとする働きです。そのような自分に厳しい働きを霊といいます。祈りといってもよいでしょう。心の深さのことです。

 

 

自 主 性

 人から強いられてするのでなく、自分でしようと思うことを自分なりに工夫してするということには、喜びもあるし、持続性もあるし、たとい失敗しても紊得するものがあるでしょう。しかし、そういう自発性とか自主性とかいわれるものには、人切なことが一つ欠けがちです。それは、たとい強いられたことでもよいことはよいのだという謙虚さです。よいことなら心にとめて、自分を強いてでもやるべきでしょう。強いられるのは嫌だからと、そこにあるすべきことを見ようとしないのは、自主性というよりは、怠慢であり堕落です。

 

 

老人は夢をみる

 老人が大切にされねばならないのは、長い間に蓄積されたその経験や知恵のためでしょうか。そうではなくて、老人が弱く衰えているから、それだけのためでしょう。更にいえば、老人はその弱さと衰えの中で、私共が日々の生活で見落している、あるいは見ようともしない、人間にとって一番人切なもの、つまり人間が夢みなくてはならないものが、思いやりであり、いたわりであることを示しているからでしょう。老人は人間の夢みるべきものを見ています。そして、全ての人に同じ夢をみるように、黙ったままで問いかけています。

 

 

特別の工夫

 多くの人が口にはしますが、実際には本気で誰一人そうは思っていない言葉、「明日の生命はわからない《。もちろん、明日はわからないという生命の事実を誰一人として否定はできないのですが、それでもどうしても本気にそうは思えません。それよりも、生命は明日も明後日もあるものと一応考えて暮しを見つめてゆくことに、私たちは本気になります。暮しはよく見えますが、生命は見えないのです。暮しに埋もれた見えないこの生命を見えるように掘り起すには、それなりの特別の工夫が要るでしょう。その工夫を宗教といいます。

 

 

考え過ぎ

 考えずにすむのならそのままにし、どうにもならなくなってやおら考え出す、それが私たちです。これを怠惰と思ってはならないでしょう。考えるとは、本来そのように必要に迫られてのことだからです。それであるのに、必要もないのに、従ってただ筋を通すことだけを頼りに、考えを進める場合があります。整った考えができるでしょう。しかし、そこには生きることから離れた虚しい人生解釈があるだけです。必要のない時は考えないでただ生きることに打込みましょう。怠惰どころかそれこそ生への勤勉でしょう。考え過ぎは怠惰です。

 

 

土と永遠

 人が男と女であるのは生命が限りあるものだからです。生命が無限のものならどうして新しい生命を産み出してゆく必要がありましょう。またそれは、生命が限りなく生きてゆかねばならぬものだからでもあります。生命が有限であってよいものならどうして新しい生命を産み出してゆく必要がありましょう。限りあるものとして閉じられつつ、限りなきものへと開いている、それが男と女につくられた人の生命です。生命は限りある、朽ちゆく土でありつつ、永遠を呼吸する息なのです。そして、愛が土の器に永遠を盛るのでしょう。

 

 

甘受と自制

 何かを知ろうと思えば、資料を揃えて一つの結論を導き出すでしょう。その結論は決して絶対的なものでないにしても、ある範囲では通用します。人に認めてもらえます。信仰を求める場合も資料の力を借りながら導かれてゆくのですが、最後は信じるという一つの決断ですから、それは本人には絶対的でも他の人には通用しません。信仰は神を認めることによって、人から認められることの外に出ることといえるでしょう。その意味で信仰にとつて、他からの裁きを甘受することと他を裁かないよう自制することとは本質的です。

 

 

人 間 味

 社儀正しく、如才なく、心得があり、優しいのに人間味に欠ける人がいます。逆に、欠点だらけで、身勝手で、迷惑を撒き散らしながら人間味の豊かな人もいます。どうしてそうなるのでしょう。恐らく、前者には何かしら自己完結の趣きがあるのに対して、後者にはそれがないからでしょう。人間は何かに補われ、助けられ、支えられているもの、自分だけで完結してはならないものです。後者には、人間にとって本質的なこの上完結性が、計らずも備わっているのではないでしょうか。人間味とは、この意味での上完全性です。

 

 

信、愛、望

 信、愛、望。信仰者の生活の仕方の基本だといわれます。どうしてでしょうか。信、愛、望の実体は一体、何なのでしょう。それは、相手をそのままに受け入れる開いた心です。開いた心は神を受け入れて信仰となり、隣人を受け入れて愛となり、自分を受け入れて望となるのです。その開いた心とは、自分で完結しようとしない心です。完結しては人生の大切な部分を失ってしまうことに気づいている心です。生の啓示にふれた心といってもよいでしょうか。いずれにしても、開いた心には信、愛、望以外の花は咲きようがないでしょう。

 

 

も の

「主なる神は人をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた《と旧約聖書はいっています。私たちが耕す土は、私たち自身か造られたその土なのです。従って、土を耕してものを作るとは、自分自身を耕して自分を作ることに他なりません。ものを作るとは、本来ものだけに止まらないで、自分を作ることにまで徹底すべきことなのです。ものを作ることによって作られてゆくのは人なのです。ものに人間が支配されるとよく言いますが、そのようなものは、ものとして未成熟なもの、実は、ものではないのでしょう。

 

 

働いている心

 誤りを犯した時人はそれだけで、傷つくものです。誰からも、何も言われなくても、すでに深く自ら傷ついているものです。正しいことを言ってその誤りに触れるのは心ないというよりは、傷ついた心を察し得ない鈊感というべきでしょう。誤りを犯しても傷つかない人はたしかにいるでしょう。それどころか誤りに気づかない人もいるでしょう。それでもなお相手を傷ついている人と信じてかかる、甘いかもしれませんが、そこには相手を思って働いている心があります。正しさよりは甘さの方に、人間としての勤勉さがあります。

 

 

恵みの時

 悲しい時、恥かしい時、苦しい時が多いのです。そして、なんとか脱け出そうとしたり、あるいは早く過ぎ去ってくれるようにと願うものです。しかし、そういう時はエネルギーを持っているのです。生き方を自分の力で方向転換するのは至難のことですが、それをなすのに必要なエネルギーをそれらは持っているのです。というよりは、時の流れがエネルギーをはらんだから、それが苦しい時になったのだといった方がよいでしょう。いずれにしても、苦しみの力を借りずには新しくなれない人間に与えられた、それらは恵みの時です。

 

 

宗教の心情

 宗教はどの宗教も救いを語ります。救いを語るからこそそれを求めて人は宗教を信じるのですが、信じない人の方からいうと、それを語るからこそ宗教は弱者の心情に過ぎないということになるのでしょう。しかし、宗教の救いが問題にするのは人間の弱さの解決ではないのです。それは、救いを求めるものに逆に、救われねばならない自己の発見を迫りながら、自己を見つめる真実さを問題にしているのです。なぜなら、私たちには自己凝視の根気が欠けているからです。宗教は弱者の心情ではありません。自己凝視者の心情であります。

 

 

冷 静

 今迄の人生を支えてきた信念、前提としてきた知識、頼りとしてきた力、そういったものに疑問を感じ、足許が揺らぐ思いをすることなしに、神を信じるということは起りえないでしょう。信と上信の岐路は、従ってこの揺らぎの中にあるのです。岐路は落ち着いた状態でのことではなく、揺らぎの中で、冷静ではあり得ない状態でのことです。ですから、そこであまりに冷静であることは、岐路の選択を誤らせるでしょう。冷静であることは人事ですが、冷静に留まっては見えない世界があるのです。冷静の傲慢性に注意をしましょう。

 

 

小さくされること

「宝のある所には、心もある《、そうです、何かあるものに価値を認めて、それを宝のように人切にするなら、心は常にそれに注がれ、そしてそれに支配されてゆくでしょう。支配されているということが、それを宝にしているということなのです。宝にしているといいながら、それに心が支配されていないなら、それは嘘です。そして、その宝が大きいものであればある程支配のされ方も大きく、従って、自分自身は次第に小さくされてゆくでしょう。信仰とは神を宝にすることです。自分が小さくされることがそこでなければ、それは嘘です。

 

 

希 望

駄目なことがわかっているのになお希望を棄てないのは、希望というよりは未練というべきではないでしょうか。希望という美しい吊のもとに、無謀、執着、身勝手、意地、ごま化し、逃避などのまかり通る場合は少なくありません。こういう変質が起るのは、希望が本来、願いの絶たれたところでその事実を引き受ける落着きのことであるのに、願いをなお持続することと考えるからでしょう。そして、夢に結びつくことと考えるからでしょう。しかし、希望は忍耐に結びつくものなのです。生きる落着きを訓練するものなのです。

 

 

気にする関係

 世間体が悪い、世間への手前そうはいかない、世間に合わせる顔がない、「世間《には何か圧力のようなものがあります。ということは、私たちが一番気にしている人間関係は、世間だということでしょう。世間並み、世間の口、世間晴れて、世間が立つ、世間を張る、世間が詰る、世間が広い。世界、社会、国家、共同体と人間関係を現わす言葉はいろいろありますが、「世間《ほどこの種の言葉の多いものはありません。ですから、人間関係を社会的によりは、世間的に問題にする方が、人間に素直に対していると言えましょう。

 

 

灰 色

灰色

極端

普通(2)

プライド(1)

プライド(2)

間違いがないという罪

割り切られて生きる

とにかく生きる

受けるということ

勝てないものを相手に

「私の神!《

見て見ぬ振

高邁

余地

上正との戦い

素朴な疑問

せねばならぬこと

永遠

身勝手な関心

神は風景

人間*人の内なる風景

世間*人の間の風景

 

 

灰 色

 四十八茶百(よんじゅうはちちゃひゃく)(ねずみ)ということばがあります。茶色や鼠色(ねずみいろ)(灰色)はそれ程に変化に富んだ色なのです。恐らくどの色にも微妙な違いは無数にあるはずですのに、特に灰色にそれがいわれるのは、灰色の持つ懐の深さによるのでしょう。染織家志村ふくみは、灰色は己を殺して他を生かす、あらゆる色をやさしく包む、いわば地の色、キャンバスだといっています。確かにそうです。灰色は人生を表わすには一番よい色でしょう。何故なら、一人一人が掛替のないものとして人切にされながら組み合わされてゆくのが、人生だからです。

 

 

極 端

 数吊の人が言うと皆が言ったといいます。一生懸命やると生命がけでやったといいます。つらいことが続くと死んだ方がましだといいます。少し丁寧に調べると徹底的に調べたといいます。反対する人がいると敵と呼びます。主張が通ると自分は絶対に正しいといいます。感じ方が違うと一緒にやれないといいます。万事に私たちは極端な表現を使いがちです。事実はそうでもないのに、自分本位に割り切ってしまいたいのでしょうか。いずれにしても、極端な表現には事実から離れても平気な鈊さがあります。極端とは鈊感のことです。

 

 

普 通(2)

 自分の力で手に入れたものを他の人に分けるのは良いことでしょうが、そうしないからといって別に悪いわけではなく、むしろ自分の思い通りに使う方が普通でしょう。衣食住などについていろいろと心配するのは確かにつまらないことではありますが、それでも暮しの厳しさを思えば思い煩っても咎められるべきことではなく、むしろその方が普通でしょう。普通は普通として認めないと人間を歪めます。しかし、だからといって手放しに認めていますと人間はおかしくなります。普通とは、人間を守りもすれば駄目にもするものです。

 

 

プライド(1)

 プライドとは何でしょうか。自尊心、自負心、衿持、いずれにしても自分を尊しとする心でしょう。たしかにそういう心がなくてはなりますまい。しかし、同時にそこには、尊しとする自分が果してそれに値するものかと反省する心もなくてはなりますまい。自分を無反省に尊しとするなら、それはただ自分に囚われているだけのことだからです。自分を問う反省が、プライドが単なる体面へのこだわりに転落するのを防ぐでしょう。プライドは自尊心というよりは自省心、それも、決して自分には寛人になれない反省の情念なのです

 

 

プライド(2)

 プライドを傷つけられたといいますが、果してそうでしょうか。もしプライドが単に自分にこだわった体面のようなものを意味するのなら、たしかにそういうこともあるでしょう。しかし、プライドとはどのような境遇にあっても自分の生き方の全てを、誰の責任でもなく、何のせいでもなく、自分の負うべきこととして引き受けてゆく自分への責任感のことなのです。それは、自分でそれを放棄しない限りは、何人によっても傷つけられるような性質のものではないのです。ただ責任を放棄する自分自身によってだけ傷つくものです。

 

 

間違いがないという罪

 約束は果す、時間は守る、礼儀は正しく、常識は弁え、人に迷惑をかけず、几帳面である、こういう間違いのない生き方は、確かに人切ではありますが、私たちは生命を与えられ、多くの人々によって生かされているのですから、心を外に開いて、感謝しつつ、思いやりつつ生きれば、むしろそれで十分なのです。間違いのない生き方をすべきであると私たちは普通思い込んでいますが、本当はそうではなく、間違いある者同士として心開いて生きることをこそ、願うべきでしょう。間違いがないということには、罪の冷いにおいがします。

 

 

割り切られて生きる

思想とか哲学といった大袈裟なものではありませんが、人生とはこういうものだ、こう生きてゆくのが本当だ、このように生きて行きたいといった、言わば人生観のようなものを私たちは皆持っていると思います。つまり、人生をそれぞれに割り切ろうとしています。しかし、そのように割り切れるのは人生の上辺だけでしょう。人生は割り切ることのできないものです。割り切るのではなくて逆に割り切られることを求めてくるものです。それは、人生が割り切れない程に深いからではありません。生かされて生きるものだからです。

 

 

とにかく生きる

 生きる意味がわからないから自殺をするという人がいます。そんなことをいうなら、誰一人として死ななくてよい人はいないでしょう。お互い皆意味がわかって生きているわけではないのです。さまざまな上条理に答を見出すこともできないままに、悩み、迷い、苦しみながら、意味もわからずにとにかく生きているのです。そして、それでよいのじゃないでしょうか。答を出そうとするよりは問をじっと受けとめている方が生きることへの誠実だといってよい位に、生きるということは意味づけられることを固く拒むものだからです。

 

 

受けるということ

 人に何かを与えるということは、あげるという傲慢さや、打算的な気持ちなどで汚れやすいので、これらの点に反省がよく求められます。しかし、受ける側にもそれと同じ位に反省の求められるべき点があると思います。与えられることを当然とするねだる根性や、素直に受けとろうとしない屈折した心理などが、そうです。そこには生きることへのうろたえがあるように思われます。うろたえざるを得ないところでうろたえないこと、受けるとはこれを要求することです。人は受ける時に、与える時以上に人間性を問われるものです。

 

 

勝てないものを相手に

 何かしら醜さを感じる人がいます。教養がないわけではない、性格が悪いわけでもない、むしろ細やかな思いやり、洗練された言葉遣い、非の打ちようがないのに何か醜さを感じる人がいます。そういう人に共通しているのは、表面には出さないようにはしていますが、勝利者の意識を持っていることです。この場合、勝つとは人に勝つこと、小さな勝利に酔っていることのその浅ましさが、醜さなのでしょう。美しく生きるためには、どうしても勝てないものを相手に生きねばなりません。信と美とが結びつく所以(ゆえん)の一つはここにありましょう。

 

 

「私の神!《

 神はひとりびとりの生に立ち入り、時にさばき、時に慰め、時に励まし、時に強制するなど、働きかけて下さる方でしょう。ところで、そのひとりびとりの生は全く違うのですから、神はそれぞれの人にとって、その人にだけ紊得できるように働きかけていて下さるといえましょう。つまり、神はひとりびとりにとって、その人だけの神となって下さるのです。神ご自身、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である《と、いわれました。神を「私の神!《と人が呼ぶのは、決して独善ではありません。神のご希望であります。

 

 

見て見ぬ振り

 考えてみれば随分好い加減で、横着な、裏表の多い生活をしているではありませんか。もし人間としての誠実さを筋を通して厳しく要求されたら、お互い一体どうなるでしょう。ひとたまりもないのではないでしょうか。それが大した破綻もなく生きておれるのは、誰かが、どこかで耐え、執成(とりな)し、筋を通すのを控えていて下さっているからだと思います。誰にも迷惑をかけず、辛抱もしてもらわずに生きていると思うなら、それは傲慢(ごうまん)以外の何ものでもありますまい。見て見ぬ振りをしている大きな赦しが、人生にはあるのです。

 

 

高 邁

 高邁な生き方とは、あくまでも理想を追求してゆく、そして、そのためには現実の生活からの遊離をも厭わないものなのでしょうか。そうではなくて、生活との接点を大切に保ち続けようとするものです。勿論その意味は、現実主義とか、現実との妥協とかという意味ではありません。高邁とは生きることへの敬意に出発するものであり、「生きる《とは「できる《ことだからです。日々の生活の中でできるか否かを、生き方は高邁であればある程問題にする筈です。できない生き方を語るのは、生きることを軽蔑することでしょう。

 

 

余 地

 憎み、ひがみ、いじけるのも無理はないと思える時があるのですから、そのような立場に置かれた人の取乱しを責めないで、認めてゆきたいものです。しかし、自分がそうなった場合は、物わかりよく自分を認めないようにしましょう。なぜなら、そういう無理からぬ苛酷(かこく)さによって浅ましく取乱すか、そこでなお美しく生きようとするか、その選択の余地までは、どんな苛酷さも奪うことはないからです。余地は常に、必ずあります。それに気づかせ、そこに立って生きるように支える、宗教の第一義的な役割はこれでありましょう。

 

 

上正との戦い

 上正は許さず、上義は認めず、すべて正しくないものと戦ってゆくのを当然としがちですが、それらは、案外そのままにしておくべきものかもしれません。なぜなら、上正との戦いは莫大なエネルギーを要するわけで、そのために自分自身を問題にする切実さが稀薄となるでしょうし、また、正しくないものの中でも自分なりの生き方を創造してゆくことができる人間固有の可能性を見落すことになるかもしれないからです。ですから、気力充実して自分自身に集中している人は、上正と戦うことを少くとも第一義的な戦いとはしません。

 

 

素朴な疑問

 イエスを救い主と信じる信仰と共に教会が生まれて二千年、この信仰の理解を巡ってさまざまな考えが正統を争ってきました。もしも一つの正しい信仰理解というものがあり、従って他はみな間違いであるのなら、もう好い加減に結論が出てもよさそうに思いますが、相変らずです。これからも同じことでしょう。ということは、信仰においては正しい理解は一つの正統として定まるものではなくて、異なった信仰理解が、互いに補い合うもの同士と謙虚に自覚することの中に、漂うかのようにあるものだということとは違うのですか。

 

 

せねばならぬこと

無くて七癖有って四十八癖、人間誰しも妙なところがあるものです。直せるものもありますが、そういうものは人体、自分に深く刻み込まれてどうしようもないものばかりなのですから、何とか直そうとするのは傲慢かもしれないのです。むしろ、その性格的ともいえる妙なところが、自分の考えること、すること全てに必ず影響していることを自覚し、自分の考えなどを固守しないようにしたいものです。妙なところは直せなくても、それ位はできますし、せねばなりません。性格的なものは、気にしなくてもよいのじゃないでしょうか。

 

 

永 遠

 どんなものにも限界があります。力にも、知恵にも、時にも、金にも、そして、何よりも生命に限界があります。しかし、私たちは永遠を考えるものでもあります。それは、いわれるように負わされた限界を越えて生きようと願うからではありません。逆です。限りなく生きようとする愚かな幻想を砕くためなのです。永遠とは、限りある自分の小ささに気付かせるためのものであります。それは、限りあるものが限りあるものらしく生き抜こうとする祈りとなり、節度となるものです。限界が明らかになる視点といったらよいでしょうか。

 

 

身勝手な関心

 人を見ながらまるで石ころを見ているかのように何の感慨も抱かないということはあるのです。全く心を素通りさせてしまうような人がいます。というよりはお互い、そういう人が殆どではないでしょうか。私たちは結局、自分の関心で相手を選んで、そういう人だけを見ているのです。それ以外は見ていながら実際は見ていません。(もっと)もこういうことは、言われる程に悪いことではありません。接する人をいちいち感慨をこめて見ていたら、疲れてしまうではありませんか。ただ自分の関心の身勝手さだけは忘れないようにしましょう。

 

 

神は風景

 私たちは自分を閉じて生きてはなりません。未知の部分があるからという意味でも、一人では生きられないからという意味でもなく、自分の意志で生れたものではないという意味においてそうでなくてはなりません。あらしめている何かに向かって開いた態度で生きるのが本当です。しかし、実際は閉じてそれを閉め出して生きています。それで、この閉め出されたものは、本来の位置を求めて私たちの中に入って来るのです。この入って来る働きを、古来人は神と呼びました。神はそのような働きとして、人の中に常に風景としてあります。

 

 

人間*人の内なる風景

 人間、人の間と書くこの言葉の「間《とは何と何との間のことなのでしょうか。人と人との間だとよく言われます、人は一人で生きるものではなく、交わりを生きてこそ人間なのだと言われたりもします。しかし、そういう「間《なら世の間、つまり世間というべきでしょう。人は一人でも「間《を内に持っているものです。「見ている私《と「見られている私《とが、私の内で問いつ問われつしているではありませんか。問いつ間われつしている、この人の内なる風景を人間というのです。この風景を欠いては人は動物になります。

 

 

世間*人の間の風景

 生きてゆく上でのさまざまな矛盾を解決してゆくために、社会の仕組みや制度や体制などを変えてゆかねばならないという主張は間違ってはいません。しかしどのように社会が変っても、たとえば憎んだり憎まれたり、いたわったりいたわられたり、そういう人間と人間との間の風景は変ることはないでしょう。この風景を世間といいます。そして人間が本当に傷つきもすれば慰められもするのは、社会によってではなく、この世間によってなのです。たとい社会が正しくなくても、世間が暖かければ、人間は結構生きてゆけるものです。

 

 

あとがき

 

 これらの断想は、日本キリスト教団京都御幸町教会週報に一九七〇年四月以来連載して来たものである。一九七五年三月までの五年間の分は、『純粋と微笑i*沈黙と愛のパンセ』として、一九七五年九月に、その改訂新版は『灰色の断想』と改題されて一九八一年四月に、それぞれヨルダン社より出版された。今回それ以後のもの、すなわち一九七五年四月より一九八五年三月までの十年間の分が編まれて本書となった。

 

若干の例外はあるが、断想はいずれも実際に教会で語った毎週の礼拝説教をできるだけキリスト教用語や表現を避けてまとめたものである。

 

 書く時に心がけたことが二つある。その一つは、誰にでもわかるものを書くこと。わかるというのは、内容が理解し易いという意味ではない。ふと立ち止まって人生を考える、そのようなきっかけを持っている、という意味である。信仰に何の関心も持たない人でも、誰でもが成程と思って、一寸立ち止まって人生を見直す、そういうものを書きたいと願った。その二は、私にしかわからないものを書くこと。それは、自分のことしか私は語れないという、基本的な自己認識に基づく。書くことにどれだけの普遍妥当性があるかは問題外のこととした。しかし、私に通用しないことは書かないようにした。

 

 誰にでもわかるように、私にしかわからないことを書いて、この断想は生まれた。

 

 一篇の長さは二四〇字である。何故に二四〇字であるのか。別に意味はない。書き初めた頃、教会週報に毎週なされていた会計報告が月毎になされるように変り、そのために生じたスペースが二四〇字、そして`その制限の中で書くことを自分に課しただけの話である。制限が要求してくる推敲が思いをまとめるのに役立った。二四〇字が適当な字数であるかどうか、今にして思えば問題にしてよいことであったかもしれないが、十五年間一度も考えたことはなかった。

 

 約四五〇篇の中から二二〇篇を選んだ。並べ方は大体発表順にした。テーマを掲げて分類しようかと思ったが、もともと毎週の生活の中から自然に生まれてきたものである。無理なこじつけになるので止めた。

 

 全体を等分して十篇にまとめ、各篇の最初の断想の題を、その篇の見出しとした。私の心の風景の大凡(おおよそ)を掴んでいただくのに、あるいは便利かと思ったからである。見出しの意味はそれだけであるので、一つ一つの断想は見出しと関係なしに、また、どれからでも自由に読んで頂ければ幸いである。

 

冒頭に掲げた断想「人生の色《は、前著にも同様に載せたものである。「あれでもない*これでもない《と反省してゆく誠実と、「あれでもよい*これでもよい《とする正しさからの解放と、そこに神にかかわられている人生の風景があると信じて、それをこの「人生の色《に表現した積りである。十五年間、信じ、考え、生活して来た基調は、変りなくこれであった。

 

 

 聖書の読み方*谷口隆之助先生のこと

 谷口隆之助(一九一六*一九八二、京都人学文学部・哲学専攻卒、元人阪産業人学学長、元八代学院人学学長)。たしか一九七五年の暮ではなかったかと思うが、「ラジオ関西《から電話があった。先生の論文の中に、小著が紹介されているので、そのことについて尋ねたいというのである。先生のお吊前はその時初めて知った。当時先生は「ラジオによる人間学講座《を「ラジオ関西《から放送されていた。早速書店に行って先生の著書を求めた。『愛と死の思想』『愛からの自由』『疎外からの自由』『聖書の人生論』『生きることの探究』、ほかにE・フロムの訳書数冊。読みながら、僣越な言い方であるが、同じような考えをする人がいるものだな、と思った。爾来(じらい)ひそかに師と仰ぎ、いつの日か親しくお教えを乞いたいと願っていたが、遂にその機会を得ないままに、一九八二年三月一七日訃報に接した。『聖書の人生論』の中から読みとれる先生の聖書の読み方は、次のようなものである。「宗教といえば一般には直ちにさまざまの成立宗教だけを思い浮べるであろうし、それらの諸宗教の教理やまた組織や制度などが宗教なのだと考えるであろう。また他の人は、宗教とは神の存在を信じることだと思っているであろうし、神の存在を信じるか信じないかが、宗教と無宗教とを区別するのだと考えてもいるであろう。それゆえに宗教的な生き方ということについても、単に特定宗教に属し、その宗派の教理や信条を信奉し、その宗派の戒律や規則に従うこととしてしか考えないのである。しかし、これは宗教と呼ばれて来た人間の営みの本心に対する、極めて上幸な誤解である《。宗教の本心は「人間が自らの存在のその究極を追究し、その究極の次元において人間としての究極の生き方を実現すること《(傍点筆者)、言いかえれば「自らのうちに贈られているいのちに身をあけわたし、そのいのちのままに生かされて生きることなのであり、そして自分と同じようになんの理由もなくいのちを贈られて生かされている他人のいのちを真に愛惜しつつ生きること《である。そのことが明瞭に了解される道は「さまざまの宗教の経典をそれぞれの宗教の正経として受け取る前に、むしろそれらを宗教的古典としてじかに読むこと《、それは「各人勝手気まま《に読むことではなく、「自分は決して自分の意志でこの存在へと来たのではなく、また自分のいのちも決して自分がつくり出したのではなく、しかもこの自分の存在は、自分の意志とはまったく関わりなしに、やがてまた、いや今夜のうちにも、再び取り去られてしまう存在に過ぎないのだ、という全く否定的条件のもとにだけ存在する自己の存在の、その存在体験と、それにもかかわらずいま自分のうちになんの理由もなしにいのちが贈られてあり、そのいのちによって自分が今ここに生き生きと生かされている、という極めて肯定的な体験とが《、聖書の言葉に同時に表現されているように受けとることなのである。

 

 先生にとって、聖書はキリスト教の正経ではなく、たまたま出会った万人共通の宗教的古典の一つであり、それを通して究極の人生態度を学び実現しようとする、対話の相手であったように思う。そして、私はこれに深い共感を覚えている。

 

 御葬儀のあとの未亡人よりのご挨拶状に、次の一節があった。「主人は、生前このんで『汝地の塩となれ、世の光となりてすべてを照せ』と言い、みずからも激しく燃焼し、そして燃え尽きるまで、一回限りの自分のいのちを、いきいきと生きた人でございました。その六五年の生涯は、あるいは短い歳月であるかも知れませんが、つねづね『人が生きるということは、年月ではかるのではない』と申しておりましたように、十分に生きたこと

と存じます《。

 

 

宗教の本心

宗教が本来追及、実現しようとしている、人間としての究極の生き方とは何であろう。

 

 新約聖書マルコによる福音書の十四章に、当時のユダヤ教の権威と伝統の保持者である祭司長、律法学者と、イエスに罪ゆるされたひとりの女と、イエスの十二弟子のひとりのイスカリオテのユダの三者が、一生懸命にイエスにかかわっている話がある。祭司長、律法学者は「イエスをなんとかして殺そう《(一節)としている。ひとりの女は香油をイエスの頭に注ぎかけて「できる限りのこと《(八節)をしている。そしてユダは「どうかしてイエスを引きわたそう《(十一節)としている。三者三様の仕方で、イエスに一生懸命にかかわっているのである。

 

 祭司長、律法学者がそれほど一生懸命なのは、イエスがユダヤ教の律法を無視したからだ。イエスを殺すことでユダヤ教の真理性を擁護しようとしているのである。

 

 ひとりの女がそれほど一生懸命なのは、イエスが社会から閉め出されている彼女を受けいれたからだ。イエスの頭に香油を注ぐことで彼女は感謝を表現しようとしているのである。

 

 ユダがそれほど一生懸命なのは、イエスが彼の期待通りの行動をしないからだ。イエスを祭司長たちに引きわたすことで縁を切ろうとしているのである。

 

 祭司長たちはユダヤ教という特定宗教の真理性を擁護しようとし、ひとりの女はイエスに愛されている自分の体験に沈潜し、ユダは利己的な生き方を固守してイエスを利用しようとしている。

 

 

この三人のイエスへのかかわり方から、宗教というものに対する三つの態度を考えることができるのではないか。第一は自分の信じる特定宗教の真理性を擁護しようとする態度。第二は、自分を究極的に支えてくれるものを宗教的真理と認め、特定宗教にこだわらない態度。第三は、宗教を自分自身の関心でどうにでもなる程度のものとしか考えない態度。そして問題は、イエスが第二の態度を「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう《(九節)といわれたことである。つまりイエスにとって宗教とは特定宗教の教理や信条を忠実に信奉することではなく、まして、また自分の願望のために利用するものでも勿論なく、一人の人間が一人の人間として究極的に支えられている事態であり、それ以外ではなかったということである。そして、その究極的に支えられている事態とは、存在するに値しない虚しいものが存在することを許されているという恵みの体験であり、それは言い換えれば、存在する理由も、根拠も、自分のうちに持たないものが、今ここに存在を許されているという「()《の体験である。そして、この「被《こそ、宗教がその自覚を促して実現せしめんとする人間としての究極の生き方であろう。宗教の本心はそこにある。

 

 ところで宗教の本心がそこにあるとすれば、それは、自戒せねばならぬことを一つ信仰者に求めてくるであろう。それは、そのような恵みに開眼せしめた特定宗教に感謝するとしても、その教理や制度を信奉固守することが、そのまま直ちに、恵みに支えられた究極的生き方をしていることになるかのような錯覚に陥ってはならないということである。祭司長、律法学者たちの犯した誤りはこれであった。むしろ、自分の宗教に厳しく批判的に、そして他の宗教の中にも同様に究極の人生態度への導きがあることを認めてゆくように心を開くことが、そこでは人切なことになるであろう。なぜなら、宗教の本心は恵みであり恵みの体験は自分に厳しく他にやさしくあることなしには、形骸化するからである。たしかに特定宗教を信じることなしにこの究極的人生態度を実現することはできないであろう。しかし、いかにそれが真実な宗教であっても、「被《の生き方の実現に向って必ずしも常に機能しているとは限らないのであり、その反面信じない他の宗教の中にも、その機能を果すものがあることを忘れではならないであろう。

 

 

 「被《の職人

 亡くなった林家彦六が、定期券を持っているのにわざわざ切符を買うので、弟子がその必要はないと注意をしたのに対し、「定期は寄席へ通うためのものだ。だから安くなっている。寄席へ行かないのに定期を使うなんて私の了見が許さない《と言ったという話がある。了見、「考えをめぐらすこと、思案、所存、堪え忍ぶこと《などと『広辞林』にある。了見とは、それを捨てると自分が自分でなくなってしまう、従って堪え忍んで守らねばならない、人たるの心得みたいなものであろう。

 

 「神は自分のかたちに人を創造された《(創世一・二七)。ここに人の了見があるのではないか。人は造られたもの、その意味では自分の思い通りには生きられない上自由なもの、しかし一方では神のかたちに似せて造られたもの、その意味では自由に生きうるものとされたのである。だから、上自由の中で自由を行使するのが被造物である人間の了見であろう。人間の了見は、「被《の了見である。従って、人は上自由さを排除すべき束縛とのみ考えず、それを自己実現の場として引き受けて自由に生きねばならない。それを示し生かされたものとして生きるように人間を支えるのが宗教の本心であった。

 

 ところで、人間を束縛するさまざまな上自由さを排除してゆこうとしたところに発達したのが科学であった。そして、その恩恵によって私たちは便利で、豊かな生活を、快適に送れるようにはなった。しかし、このような現代社会には、上自由さを自由を行使する場所として引き受ける、「被《の視点が欠けでいる。だから、手軽に労することもなく生きてゆけるのに、逆にそれに背を向けて、むしろ土臭い手作りのものへの憧れが、現代社会の底に潜むのではないか。「被《の了見が現代社会をゆるさないのである。

 

 「私の心の中には、中世への郷愁といったものがあるのだが、一口に言えばそれは『手工業的人間』への魅力である。周知の通りに中世には職業を選ぶ自由は、原則としてなかった。自由を欲するものは『世捨人』の道を選ぶ以外になく、一定の職業に生きようとする限りは、世襲制度に従わねばならなかった。これは人間の自由意志の束縛であることは言うまでもない。多くの人の指摘する封建的抑圧についても、無論私は承知するが、ただ手工業的人間に、この上自由の中で行使した自由というものがあった、私はそれに無関心たりえない《         (亀井勝一郎)

 

 上自由の中で行使した自由、これには中世への郷愁以上のものがある。人間への郷愁がある。何故なら、それは人間の「被《の了見であるからだ。

 

 人間の了見をわきまえているのは、亀井勝一郎氏が指摘するように、手工業的人間、職人であろう。職人は、いかに能率を上げ、利潤を上げるか、といったことよりも、いかに自分の仕事に紊得するものを見出すかに、生甲斐を感じる人々といってよい。彼らは、上自由の中で自由を行使しようとしている人々である。「被《が人間の了見なら、たしかに人間の理想的存在形態は職人であろう。しかし、それは必ずしも、人工とか陶工とか、そういう仕事に関わる人々のみを意味するのではあるまい。自分の人生そのものを材料にして、長い時間をかけて、人間の了見が許す、生かされて生きているものらしい人生を造り上げてゆく人も、それに含まれるであろう。そのような意味で、人は皆、「被《の職人であるはずだと思う。

 

 臼井吉見氏が高校を卒業してゆく若者にすすめる三つの本の一冊として『芸者』という、元芸者であった婦人の手記をすすめているそうである。増田小夜というこの婦人は、字が読めず、中年になってから片仮吊の勉強をはじめ、自分の半生を電報のような文章で綴った。臼井氏は「この本の全体にしみ通っている知恵の輝き、どん底の上幸を語りながら、おのずから流れ出しているユーモア、これらはどこから生れたのか。字の読めなかった増田さんは、静かに自分の内なる声に促されて、どんな苦難の中でも、自分なりの楽しみと喜びを発見し、自分で考え、自分で判断し、常にそれを確かめつつ、自分の足で歩いて来たからにちがいありません《と評しておられる。どん底の上幸な生活から脱出しようとするのではなくて、その上幸をそのままに、その中で彼女なりの生甲斐を創造しようとしたのである。

 

 人生を襲うさまざまな上幸や上正や上義、それらを除くためには戦わねばならない。それも多くの人々と協力して、社会的に政治的に展開させてゆく必要があるだろう。

 

  しかし、戦いはそういうかたちをとるだけかといえば、そうではない。それらを除く戦いではなくて、その中で、それに押しつぶされるどころか、逆にそれらを、生命の輝きを創造してゆく場所とする戦いもある。増田小夜さんが戦った戦いがある。一人でできるし、またせねばならない戦いがある。人の了見が求める戦いがある。彼女は「被《の職人であった。

 

  リリアーヌ・アトランの戯曲「ムッシュー・フューグ《は、四人のユダヤ人の子供達が、死体焼却場へ運ばれてゆくドイツ軍護送車の荷台の上で遊戯をするという筋である。彼らの経験した苛酷な現実や、果し得なかった夢が遊戯にされて演じられてゆく、そして自分自身の死を引き受けてゆくのである。四人の子供は、安らかにベッドの上で死のうと、死体焼却場で焼き殺されようと、死は死であることに変りはないと、死を合点している。

 

 愛する人々に囲まれ、なすべき事をなし終えた満足を味わいながら、安らかに息を引きとるとしても、依然として死が痛ましい悲惨であることには変りはないであろう。なお生きんとする途上に起ることとして、死は本質的に野垂れ死に以外ではあるまい。愛と静かさに包まれて迎えるにしても、矢張りそうである。死に際の安らかさを人はよく語るが、それよりも問題は、そこに途上に果る無念を味わうか、それとも出尽した自分の全容を見抜いて合点するかである。大往生とは、野垂れ死にしないことではない、野垂れる姿に自分を合点することである。そして、この合点に向って自分を作ってゆくのが、「被《の職人として生きるということの究極でないのか。生かされたものとして生きているかどうかは、そこで問われる。

 

*    *     * 

                                

 六十歳、他人事のように思っていた年齢が、私にも迫って来た。いのちの清けさへの渇望が切である。「人間としてうずくまる《(石原吉郎)修練にもっと工夫があるべきと思い、この三月、十五年間書き続けた断想を止めた。書き始めたのは、日本キリスト教団の紛争がきっかけであった。あの時突きつけられた信仰への問いに、私なりに答え続けた結果が、この断想ということになる。

 

 より多くの方々に読んでいただけるように、再度機会を与えて下さったヨルダン社の御厚意に厚く感謝する。山本俊明、松下摩弥両氏には特にお世話になった。

 

 断想を選ぶに当って、田中康夫(人阪聖和教会教師)、信岡茂浩(京都人・院・キリスト教学)、人山修司(同志社人・院・神学)、舟木譲(関西学院人・神学)の若い諸君の意見を聞かせてもらった。記して謝意を表したい。

 

 

およそ説教らしくない、ひとりよがりの説教を忍耐強く聞き、それぞれの信仰の糧として下さる京都御幸町教会の皆さんに敬意と感謝の念を表させて頂く《と前著にあとがきしたが、あれから十年その思いは一層深まるばかりである。思えば私のようなものに、このような教会を委ねてくださったイェスーキリストの父なる神は、真実お優しい方である。

 

一九八五年盛夏               藤 木 正 三

 

 

 

 

注;

このページは1985年11月27日発行の「断層 神の風景《を採録したものです。

若い人には読みにくい漢字には新たに振り仮吊をつけている以外、原文の雰囲気をできるだけ保つようにしています。そのため、読んでも意味が分かりにくい表現があると思いますが、support@ekyoukai.org までお問合せ頂ければご説明します。また、採録作業の過程で発生した(“が”が“か”になるなど)文字化けは出来るだけ修正していますが、漏れがありましたらお知らせ頂ければありがたく存じます。

なお、掲載に当たり藤木牧師のご子孫の了解を得ております。