10 神の指の動きを思い出す

 

 婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

            (ルカによる福音書 24・1~12

 

             

 今日はイースターの聖日です。主の復活については、福音書はいずれもこれを語っていますが、日本バプテスト連盟では今月はルカ福音書を学ぶことになっているようですので、本日の聖書として、ルカ福音書24・1~12を用いることに致しました。ここを通して、わたしが学び、わたしの心に納得したところをお証しして、イースターのメッセージとさせていただこうと思っております。

 

「復活する」という小見出しのついたこの段落の、冒頭部分によれば、この日、朝早くイエスの墓に来たのは、その遺体を丁重に葬るべく香料を携えてきた婦人たちでした。この婦人たちについては、その少し前2355に、

 

イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、

 

とあり、さらに少し前の2349に、

 

イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

 

とあります。ですから彼らは、ガリラヤからずっとイエスに従い、イエスの死も葬りも終始見ていた人たちであった、ということになります。ところで一体、彼らはどういう名前の婦人たちであったのでしょう。興味のあるところですが、幸いなことにそれは、全部ではありませんが残っています。2410

 

それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。

 

 つまり、三人だけですが、その婦人たちの名前が分かるのです。このうちマグダラのマリア、彼女はルカ福音書だけでなく、どの福音書の復活の場面にも出てくる唯一の人です。ですから、イエスの復活の証人として彼女の果たした役割は、決定的に大きいと考えねばなりません。

 そこでマグダラのマリアがイエスに従い始めた最初の様子を調べてみますと、それは、81~3の「婦人たち、奉仕する」という小見出しのついた段落が伝えています。読んでみましょう。

 

すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

 

 マリアは、イエスがガリラヤを巡り弟子を召して宣教といやしの業をされた頃から、ヨハナ、スサンナ、その他の婦人たちと共に、持ち物を出し合って、奉仕しながらイエスの一行に従い始めています。

 ところで、マグダラのマリアはここで「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女」と呼ばれています。ですから彼女は何やら問題のありそうな婦人と考えられます。しかし、その素性はその前後を読んでも何も伝えられていません。彼女が再度聖書に登場するのは、いま学んでいる復活の場面だけであり、彼女自身も自分について何も語っていませんから、結局聖書が彼女について伝えているのは、ガリラヤよりイエスに従い、十字架と葬りと復活というイエスの生涯において一番大事な場面に、その証人として登場したということだけなのです。問題ありげなために、彼女についてはよく、736以下に出てくるあの「罪深い女」、涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、その足に接吻し、持って来た香油を塗ったあの「罪深い女」、あれこそがこのマグダラのマリアではないか、と言われたりします。しかしこれは違っていると思います。なぜならいま読んだところにありましたように、マグダラのマリアは、ヨハナやスサンナなどと共に、「持ち物を出し合って、イエスの一行に奉仕していた」と記されているからです。彼女はそういう奉仕の出来る、相当豊かな身分の人であったからです。「七つの悪霊につかれる」というのはどういう状態か分かりませんが、七は完全数ですから、心身ともにボロボロになるような苦しい状態に陥ってはいたのでしょうが、彼女はさげすまれるような人ではなかったのです。

 さらに一緒に名前の出ているヘロデの家令クザの妻ヨハナという婦人ですが、この人も先程見ました復活の朝、墓に香料を持って行った婦人たちの一人として名前が残っていました。彼女の夫が家令として仕えていたヘロデというのは、ガリラヤ地方の王ヘロデ・アンテパスのことですから、彼女は言わば体制側の人間ということになります。イエスのような宗教活動をする人を弾圧する側の人間です。そういう立場の身でイエスに従ったというのは、彼女もまた、安定した暮らしをしながらも、何かよほどの苦しみを負っていたということでしょう。

 もう一人のスサンナという人については何も分かりませんが、説明がなくても、ああ、あの人かと当時の読者には分かるほどの、名もあり、資産もある人であったのでしょう。

 こうしてみますと、マリアは、そしてヨハナも、スサンナも、彼らは皆、経済的にも、社会的にも恵まれていた婦人たちであったと考えて間違いないと思います。そして、そういう点では恵まれながらも、癒されない心の乾きのようなものを持っていた人々であったと思われます。言うならば、物質的には恵まれながら、何か心の空洞のようなものを抱えている現代のわたしたちの姿を重ねてみることができるような人々だったと思います。

 そういう婦人たちがイエスによって病を癒され、慰められ、生きる励ましを与えられ、つまり、人間を取り戻して、それから、イエスの一行に持ち物を出し合って奉仕しつつガリラヤから従って来て、そして、十字架を見守り、墓に葬られる有様を見、遂にこの朝、復活の証人となったのです。

考えてみると、これは意外なことではないでしょうか。と言いますのはわたしたちは普通、イエスに現れた神の愛は、貧しいもの、虐げられたもの、差別されたもの、見捨てられたもの、病めるもの、罪を犯したもの、社会の底辺にうごめくようなもの、そういう小さい人々への福音である、そう思っているのではないでしょうか。事実イエスはそういう人々の友であり給いました。しかし、そのイエスの生涯の最後まで従い、十字架の死を見届け、墓に葬られる有様をも見届け、安息日の明けるのを待って香料を持って墓に行ったのは、そういう社会の底辺にうごめくような人々ではなかったのです。逆でした。何か身も心もズタズタになるような苦しいものを抱えてはいるものの、経済的には豊かで、社会的には安定した体制側の人間であるマグダラのマリア、ヨハナ、そういう人々であったのです。

 もう一人、墓に行った婦人たちの中で名前の分かっている人が、先程読んだところにいましたヤコブの母マリアです。この人はいろいろ別の名前で聖書に登場しますので、少しややこしい問題はありますが、彼女がもしイエスの弟子となったゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの母のことであるとすれば、彼女の夫ゼベダイは、漁師といっても舟を持ち、雇い人も使っている(マルコ120)裕福な漁師でしたから、彼女もまた安定した豊かな生活をしていたと思われます。いずれにしても、イエスに最後まで従い、それを見届けたのは、みな豊かな人たちということになるのです。

 社会の底辺にうごめく貧しい人々ではなくて、言わば体制側の豊かな人々が最後の最後までイエスに従う人であったということは、イエスの十字架と復活が問題として解決しようとしたのは、人間の社会的、経済的問題というよりは、もっと普遍的な、人間存在に関わる根源の問題であったということを示しているのではないでしょうか。

 人間は。確かに社会的、経済的な問題で苦しみますが、そしてその解決によって救われる面があるのはもちろん事実で、イエスもそういう苦しみに寄り添ってくださいましたが、ではそれだけで人間は根源的に人間として救われるのかといえば、そうではなくて、それらが解決してもなお残る、それだけでは人間を取り戻せないという問題があるのです。飽食の現代日本が抱えているような、物が豊かになって却って生き甲斐が分からなくなってしまった、そういう《人間としての存在崩壊の問題》があるのです。

 現代のわたしたちは、人間として崩れていると思います。欲望の(おもむ)くままに、全てのことを自分中心に、目先の楽しみを追いながら、その場その場を(つくろ)うように、安易に生きています。立場をわきまえる節度を失い、足ることを知らずに、人の命も自分の命も軽く扱いながら、物に流され、物に埋もれた生き方をしています。そしてこれは、現代に顕著であるにしても、現代に限らない、人間存在の根源にある普遍的な問題です。そういう人間としての存在崩壊の問題が解決しなければ、人間は根源的に救われないのではないでしょうか。

 イエスは悩める人々を差別なく救われました。そして救われた多くの人々がその後に従いました。しかし、最後まで従って、その最後の最後まで見届けたのは、社会的に、経済的に苦しんでいる人々ではなかったということは、イエスの与えようとされた救いが、そういう問題よりももっと深い問題、今すこし触れた、人間としての崩れからの救い、つまり、人間を取り戻す救いであったことを示していると思うのです。

 

 では、イエスが救おうとされる人間存在の崩れの問題とはどういうものなのでしょう。それこそ、あのマリア、四つの福音書のいずれにも復活の証人として登場するマグダラのマリアを苦しめた「七つの悪霊」の問題でしょう。

 当時の人々は、病気や苦難や罪など人間を苦しめるものは、すべて悪霊の働きと考えていました。先に触れましたようにマリアは自分の持ち物を出してイエスの一行に奉仕出来た人ですから、経済的には裕福な、その点は問題のない人でした。しかし、体にか、心にかよく分かりませんが激しい苦痛を受け、人間としては完全に崩れてしまうような抑圧状態に悩まされていたようです。彼女は絶望、孤立、自暴自棄の中で、立ち直れない自己嫌悪にさいなまれていたようです。まさに「七つの悪霊」につかれている女でした。

 わたしの友人で、学問の世界でよい働きをして、社会的にも信用されていた人がいました。ところがガンで入院し、手術も無事終わり、経過もよく、個室から大部屋に移された途端に、それまでの彼からは想像出来ないような行動をする人間に、彼は変わってしまったのです。

 彼は、同室の人々の程度が低いとか、教養がないとか、いびきがうるさいとか、見舞い客が多すぎるとか(実際は彼の見舞い客が一番多かったのですが)言って、こんな連中と一緒に暮らせない、個室に戻せと騒ぎだしたのです。医師や看護師が病院の事情を説明しても一切聞き入れず、個室に戻すまでは食事をしないと宣言し、辛抱して見守っていた同室の患者たちも遂に、「出て行って(もら)おうじゃないか」と怒り出し、収拾がつかなくなりました。といって退院が認められる状態でもなく、にらみ合ったまま十日ほど経ち、ようやく抜糸がすみ、入浴の許可が出た途端、彼は「うちの風呂に入る」と言って、そのまま勝手に退院してしまったのです。退院後も、妻の言うことは聞かず、自暴自棄になって閉じこもり、医師を替えて別の病院に通い、結局は長い時間がかかってよくはなったのですが、荒れに荒れた孤立の中で長く苦しみました。元々そういう性格の人であったのかよく分かりませんが、温厚な紳士として通っていた入院前とは、別人になってしまったその人を見て、七つの悪霊につかれる、とはこういうこと

かな、と思ったことがあります。

 自分の都合だけを固守し、主張し、それを通すためには、自分の迷惑を数え上げるだけで周囲の迷惑を考えず、非はすべて相手にありという態度で自分を正当化して孤立している、その独善。他者を無視してもなお自分であろうとする、その自分に閉じた狂気としか思えない身勝手。彼は、確かに社会的には、一角(ひとかど)の人間と見なされていましたが、人間として見れば、自分に閉じこもって素直になれない、(かたくな)な存在でしかなかったと思うのです。彼はそのエゴで自分の存在を守っているつもりでしたでしょうが、反対に自分の存在を崩しているとしか思えませんでした。

 

 人間は自分を閉じた態度で生きる時、人間としては崩れるもののようです。なぜなら人はみな、生かされて生きているからです。誰ひとり自分の意思で生きることを始めた人はいません。気が付いたら生きているのです。自分の人生は自分のものと思うのはその人の勝手ですが、本来は自分のものでなく、生かされたものとして自分を受け取り、生かしてくださった方に心を開いてこそ、人間の存在は落ち着くものなのです。人間は《開いてこそ人間》なのです。しかし、人はそれぞれの足元にある、この本来の開いた生き方よりも、目先の表面的な自分の都合を追うて、自分に閉じた生き方に流され、つまり、エゴに流され、身勝手に自分を実現しようとします。そして、思い煩うのです。その思い煩いは、七つの悪霊につかれた、と表現されるにふさわしいような、何かに取りつかれたような苦しみとなります。

 マグダラのマリアの救いを求めていた苦しい状態は、想像をたくましくして考えれば、そういうものではなかったでしょうか。それは、いまも昔も、経済状態、社会状態、そういうものに関わりなしに、人間の存在自体を脅かしている問題です。わたしたちが心の底でいつも苦しんでいるのは、そして、機会があれば吹き出して、自分を失う醜態を演ぜしめるのは、そういうエゴの問題ではないでしょうか。イエスはまさにそれを問題とされたと思います。

 最後までイエスに従い、空虚な墓を見届けたのは、救われた貧しい罪人たちではなくて、救われた富める体制側の人たちであったということは、イエスの救おうどされる問題は、貧富、体制に関わりのない人間存在の根源にあるこの問題、すなわち自分を閉じて自己完結しようとするエゴの問題だ、ということを示していると思います。エゴは、生かされて生きているという、人間本来の開いた在り方を固く閉ざして、例えば、虚栄、嫉妬、劣等感などで生き方を見失わせ、人間を崩してしまうものとして、その存在に関わる根源的問題なのです。「七つの悪霊につかれる」とは、そういうエゴに苦しめられることであり、いまもわたしたち一人一人がそれからの解放を願っている、お互いの問題といえましょう。

 

 さてイエスの遺体に香料を塗ろうとして来た婦人たちが見たのは、空の墓でした。イエスの遺体は見当たらないのです。途方に暮れている彼女たちに二人の天使が現れ、語りかけます。本日の聖句の24・5節後半から7節までを読んでみましょう。

 

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 

 そう言われて、婦人たちはイエスの話されたことを思い出し、主の復活を信じて墓から帰り、使徒たちに知らせます。しかし、使徒たちは婦人たちの言うことを信じず、それをたわ言のように思います。ぺトロだけは墓に行きますが、空であることを確認しただけで、驚いて家に帰ったというのです。

 ところでこの天使の言葉で、注意したいことが二つあります。

 第一は、その言葉の冒頭

 

なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。

 

という言葉です。「生きておられる方を死者の中に捜す」、これは当時の社会でよく使われていた(ことわざ)のようなものであったと言われます。わたしたち日本人が使っている諺で言えば、「木に()りて魚を求む」ということになるでしょうか。見当違いのところで物事を捜し求める、的外れの徒労をそれは言っているのです。つまり、天使はこの諺を使って、空の墓の内外を捜し回っている女たちに、それは見当違いの無駄だと言っているのです。そしてその代わりに天使が言ったのは、いまお読みしました、6節の「思い出しなさい」でした。つまり、天使は言うのです、イエスを捜しまわってもそれは無駄なこと、そんなことをするよりも「思い出しなさい」、そういうのです。イエスを捜す方向は思い出す方向、外を捜しまわる方向ではなくて、内に思い出す方向にあるというのです。

 捜すのに、二つの方向があるのです。客観的な出来事に対しては、それを確かめるべく捜す、その方向は外へ、広く求める方向です。しかし、主体的な出来事に対しては、それを自覚するべく捜す、その方向は、自分の内へ、深く求める方向です。復活のイエスを捜す方向は、後者、すなわち、自分の内へ、深くなのです。これが、天使の言葉で注意したい一番目のことです。

 ところで、ここで天使が思い出しなさいと言ったイエスの「お話しになったこと」は、ルカ福音書を調べてみますと、そのとおりにイエスが語られたところは実は見当たらないのです。7節の、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」という言葉を、イエスは実は語っておられないのです。確かにルカ福音書には三個所(922944183233)で十字架と復活を示すような言葉は断片的に語られていますが、天使が7節で引用したとおりの言葉遣いの予告は、ルカ福音書にはありません。これが、天使の言葉で注意したい二番目のことです。

 これはどういうことなのでしょう。天使は、イエスが言いもしなかった言葉を思い出せと言っているのでしょうか。そうではないと思います。天使が思い出せと言っているのは、イエスのその一言一言ではなくて、7節の言葉に要約されるような、《イエスの生涯全体》なのです。それを「思い出しなさい」と言っているのです。

 思い出してごらん、イエスの生涯全体は、ずっとおまえたちの苦しみ悲しみに寄り添って、ご自分を投げ出しておまえたちを慰め続けてくださった生涯ではなかったか、だからこそおまえたちは生きる喜びを取り戻して、持てるものを献げつつイエスに従ってきたのではないか、それを思い出してごらん。それを思うなら十字架の死はイエスの生涯の単なる終わりの事件ではなくて、またイエスの慰めの生涯とはつながりのない特別の事件でもなくて、まさにそのイエスの《ご自分を捨てて慰めて下さった生涯の極まりの事件》であり、さらに《その慰めが一人一人の生涯に徹底して、おまえたちが人間を取り戻して新しい生涯を始める基礎として、イエスがおまえたちの内に生き始められるための事件》ではないのか。天使はそういう思いを込めて、6節の

 

あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

 

と言ったのでしょう。そして7節を、イエスの生涯全体をまとめる言葉として、続けて言ったのではないか、わたしはそう思うのです。

 要するに天使が、墓の周りを捜している婦人たちに「思い出しなさい」と告げた意味は、イエスの地上の生涯は確かに終わった、しかし終わることによって、イエスの慰めの生涯はいまやあなたたち一人一人に寄り添うものとして徹底した、その意味でイエスの慰めの働きはおまえたちの内に始まった、そのことに気付きなさい、ということであると思います。

 

 婦人たちはそう言われて、素直に天使の指示に従いました。そして思い出しました、かつてイエスが、彼女たちが悲しみと苦しみに喘いでいた日々に寄り添うて支え、救い、それからずっと導き、いま、墓に至るまで従わしめてくださるほどに生き甲斐となってくださった来し方を、思い出しました。

 その時、彼女たちはいま自分たちが墓のところにいるのは、自分たちの意思で来たというよりは、イエスに心捕らえられて、導かれて来ているのであり、イエスはいま、まさにいま、寄り添うてここにいてくださることに気付いたのではないでしょうか。そして改めて、生かしてくださる力としてイエスを再確認し、そのイエスに委ねて新しく生き始めようとしたのではないでしょうか。来し方を思い出すことを通して、彼女たちは、生かす力としていま寄り添っておられるイエスに気付き、その慰めの力の自分の内に働くのを自覚したのです。彼女たちにとって、確かにイエスは、死んではいない生きている方になったと思います。それは、パウロの言葉をかりれば「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ220)という自覚を、婦人たちが持つたということです。そして、マリアたちその場にいた婦人の抱いた復活信仰の内容は、そういうものではなかったでしょうか。来し方を思い出すことは、単に過去を回想することではなくて、主に寄り添われている、現在の平安と自由に気付くことだったのです。つまり、来し方を思い出すことは、いま彼女たちのうちに生きておられるイエスに出会う道だったのです。

 

 死んだイエスはどこへ行ったのか、どのようにして、どんな体で、死んだイエスは復活したのか、などといろいろ考える求め方は、わたしたちがよくやる求め方ですけれども、そういう外に確かめるような求め方は、復活のイエスに対しては見当外れな求め方であり、徒労に終わるでしょう。そういう外への捜し方の辿(たど)り得ることは、イエスの墓は空だったという事実迄です。それ以上は辿(たど)れません。空の墓を越えてイエスに出会うには、捜すのではなくて、イエスを思い出してみることです。天使が示したように、思い出す方向に、振り返るようにイエスを内に深く求めてみること、それが大切です。

 

 ですから、七つの悪霊につかれたマグダラのマリアほどには劇的でないにしても、お互いそれぞれに自分のいまある姿を思い出してみましょう。するともちろん嬉しかったこと、良かったこともありますが、わたしの場合ですと、思い出したくもない恥ずかしいことがあります、たくさんあります、出来ることならやり直したいこともあります、思いがけない、運と言ったらよいのか、偶然と言ったらよいのか、そういうこともあります、いろいろあります。

 しかし思い出していると、それら全体が、わたしが生きてきたというよりは、生かされて生きてきたと表現する方が的確だ、と思えるように思い出されてくるのです。つまり、わたしの人生は実はわたしのものではなかった、だから自分の人生は自分のものと、閉じて生きることはエゴであり、人間としては誤った、崩れた生き方なのだと気付かされてくる、そして、むしろそういうエゴの囚われに死んで、開いて、生かしてくださっている働きに委ねて生きるのが、人間として本来だと気付くように導かれてくる、そしてさらに、そのような導きに、わたしの内に生きておられるイエスとの出会いを、自覚するように促されてくるのです。それは、復活されたイエスが、エゴに閉じた生き方の誤りを気付かせ、造り主である神に開いて生きるよう一人一人を促す力として、わたしたちが気付こうと気付くまいと関わりなく、従おうと従うまいと関わりなく、わたしの内深く導き続けておられるからであり、その導きにおいていまのわたしがあるからなのです。そして、来し方を思い出す時、その導きが認めざるを得ない事実として納得されてくるからです。

 思い出すというのは、単なる来し方の回想に止まるものではなくて、さらに人間存在の来し方としての生命の根源を、明らかに浮かび上がらせてくれるものです。言い換えれば、人間存在の来し方を《神の指の動き》と気付かせてくれるものです。そして、閉じた生き方から開いた生き方へと、導いてくれるものです。ですから、思い出すということは、生きるということの不思議に応える、わたしたちが人間として、忘れてならない知恵であり、失ってはならない被の感覚と言うべきものなのでしょう。二人の天使が、「思い出しなさい」と言った意味は大きいのです。

 考えるよりは、思い出しつつ生きましょう。その方が生かされて生きているものに相応(ふさわ)しいのです。

 

 (終)