《思い出す》ということ―あとがきに代えて―

 

自主決定にあらずして

たまわった

いのちの泉の重さを

みんな湛えている

             

  まえがきで紹介したように、これは島崎光正さんが最晩年の七十七歳の時、ボンで開催された二分脊椎国際シンポジウムに出席、日本代表として講演をなさった際、その席上で作って締めくくりの言葉とされたご自身の詩です。

 島崎さんのその席上での心の動きを一言で表現すれば、《思い出す》ということであったでしょう。その意味は、不幸な生い立ちに始まった希望のない人生を、必死で歩んでいるうちにいつの間にか国際シンポジウムの日本代表講演者となっていまドイツにいる、その不思議に、あの時、この時、あの人、この人、あの縁、この縁を、走馬灯のように思い出しておられる、という意味ではないのです。もちろんそういう意味も含まれますが、それ以上の意味を持った思い出すに、浸っておられたのではないでしょうか。それは、主の復活の朝、空の墓に途方に暮れる婦人たちに現れた、二人の天使が告げた意味の思い出す、あれなのです。10章「神の指の動きを思い出す」で触れたことですが、二人の天使はあの時言いました、

 

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 

あの思い出すなのです。

 イエスを捜す方向は、思い出す方向にある、外を捜しまわる方向ではなくて、内に思い出す方向にある、というこの天使の指摘は、重要なことではないでしょうか。それは、人生の究極とするところは、思い出すという方向で見えるということです。

 思い出すなどと言いますと、過ぎ去ったことを単に振り返ってみる、それだけのことと思われるかも知れません。しかし、信仰の世界では、つまり、人が人として生きる究極的な人生態度が問われる世界では、決して、そうではないのです。思い出すことこそ、生きることを考えるのに最も丁寧で、的確な方法なのです。そう言ってよいくらいの意味を、思い出すということは持っているのです。

 

 ふつうわたしたちは、まるで自分の力で、自分の考えで、自分の願いで生きてきているかのように思いがちです。けれども実際はそうではなくて、生かされて人生は始まり、その生かしてくださった神の働きがさらに続いて、わたしたちの気付かないままに教え、支え、励まし、叱り、慰め、寄り添うてくださって、今あるのです。つまり、わたしたちは生きているのではなくて、生かされ続けて生きているのです。それが生きるということの実際です。そんなことは言われなくても分かっていると思われるかも知れません。しかし、頭では分かっていても、生き方では分かっていないのではないでしょうか。生き方で分かっていないからこそ、わたしを中心に据えた自分本位な生き方をして、そのエゴに囚われた閉じた生き方の中で、人生態度は定まらず、空しく、苦しくお互いわたしたちは悩んでいるのです。

 ではわたしの人生は、生かされ続けてのものということが、生き方のレベルで心の底から分かるにはどうしたらよいのでしょう。それが思い出すということなのです。いままで生きてきた来し方を思い出すこと、そして、ずっと寄り添って生かし続けてくださっていた神の働きに気付くこと、それではないでしょうか。思い出すというのは、ただ追憶の糸をたぐるという後ろ向きなことでは決してないのです、それは、寄り添っていてくださった神の働きに気付く、そして、人生は決してわたしの働きによるものではなかったと、納得すること、まさに信仰の正道と言ってよいことなのです。なぜなら、信仰はともすれば頭の中で分かること、心の中で思うことになってしまいやすいものですが、それは本来、そういう観念や理念のようなものではなくて、生きることであり、それは生きることの中で気付かれ、確かめられた、生きるための道だからです。そういう意味で生きてきた来し方を思い出すことは、まさに道理にかなった信仰の自覚の仕方なのです。だからこそ甦りの主を捜しまわる婦人たちに、神の使いは言ったのです、「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思いだしなさい。」

 

 わたしたちは思い出す方向で、わたしを生かす働きである神にリアルに、暮らしの中でお会いできるのです。思い出すとは、来し方を思い出すことを通して、それはまた、来し方だけではなく、現在立っている生活の現場を思うことでもあるのですが、そのことを通して、《そこに働く神の指の動きに気付き》、神に対向して生きてきたのではなくて、神に包まれて生かされてきたことに思い至るまでに徹底していく、生の深みへの作業なのです。

 さらに言い換えれば、それはいまここにあることを、神の働きの中でなるべくしてなった一つの成就と深く納得して、現在を受領することでもあります。いずれにしても、そのときの島崎さんの心の動きを一言で表現すれば、この思い出すということではなかったでしょうか。

 人生は思い出すという方向で見るものです。生きているのではなくて、生かされているのが究極の事態である人生に対して、それは、当然過ぎるほど当然な態度でしょう。

 

自主決定にあらずして

たまわった

いのちの泉の重さを

みんな湛えている

 

 ここには、思い出して的確に、丁寧に見抜いた人生が、そのままに詠まれていて、間然する所がありません。 

 

 

 現在わたしは、この詩を詠まれた時の島崎さんと同じとしです。思い出すという作業を、現在のわたしの心も、しきりにしているように思います。

 一見バラバラにみえるあのことこのことが、そうではなくて、一つの導きのうちに用意され、順序よく配置され、それぞれが呼応し、無駄一つなく用いられて、見事にまとまり、何かがわたしに成就しつつあるようにみえるのです。また、わたしがいろいろ考え、模索しつつ生きてきたつもりで、そして、随分あてが外れて、成らなかったことも多かったと思っているのに、実は歩むべき道を歩まされて来ており、成るべくして成るように生かされて現在のわたしがあることに、霧が晴れていくように合点もいくのです。そして、「自主決定にあらずしてたまわった」わたしの人生が見え、心安らぐものがあります。

 その安らぎは、成功とか、成就とか、幸福とか、そういうなんらかの意味で自分が真ん中に座っているようなことの結果とは、無縁の類いの安らかさです。それは、賜ったものが見えて、いつの間にかそれを受け取って生きてきていた、そういう手応えに感じる安らかさなのです。

 現在のわたしは、一日一日を、生かされて生きる賜物の日々としてそのままにいただき、安心の日々として思い出しつつ、生きていきたいものだと願っています。苦労は生あるかぎり絶えないでしょうけれども。

 

あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。

 (申命記8・2)

 

 

 2003年6月1日わたしは日本基督教団大阪西野田教会で、同教会中島恵美子前牧師の引退記念礼拝説教をしました。数ヵ月前に依頼があり、長年(と思っていた)の(よし)みもあり、光栄なこととお受けしたものでした。

 準備を始めてすぐに気付いたことは、半世紀近いと思っていた中島牧師との交わりは実はそう長くはなく、したがってご経歴もあまり知らず、特に語るべきことを持っていないことでした。慌てたわたしは、すでに刊行されている同教会の記念史、文集など、資料となりそうなものを送っていただきました。しかし、それらを読んでいるうちに、同牧師については全くと言ってよいほどに何も知らなかったことに改めて気付き、愕然とさせられたのです。引退記念説教などする資格はわたしにはなかったのです。

 時間的には間に合う、お詫びしてご辞退しようと思いました。しかし、指名してくださった時、わたしの承引をどういうわけかとても喜んでくださったことを思い出して、それはすべきでないと思い止まりました。いただいた資料をしっかり読んで、とにかく引退記念説教をまとめるよりほかないと準備にかかりました。しかし、どうしても作文をしているようになり、気が咎めてまとまりそうもありません。そしてふと、どうしてこんな錯覚を抱いたのであろう、よく存じあげているからと思えばこそ、お引き受けしたのに、実はそうではなかったというのは一体どういうことなのだろう、こんな作文のようなことをするより、そのことを考えてそれを語ろうと思ったのです。それなら、わたしにしか語れない言葉を準備できるかもしれない、それしかない、そう思ったので。こうしてわたしは錯覚を抱くに至る過程を、まず心を落ち着けて《思い出す》ことにしたのです。

 わたしは大阪西野田教会の近くにあった大阪千鳥橋教会に、1953年関学神学部大学院時代の牧会実習に派遣され、そのままそこが最初の任地となって、1964年まで在職しました。大阪西野田教会には中島恵美子牧師の夫である誠牧師が1956年に着任され、わたしが京都の教会に移るまでの八年間、近隣教会の同労者という関係でした。しかし、わたしは引っ込み思案な人間で、近隣の諸教会との交流もほとんどせず、誠牧師とも教区総会などでお会いすることはあっても、話を交わすことは一度もありませんでした。そういうわたしでしたが一度だけお話をしたことがありました。

 それは当時、誠牧師が日本基督教団大阪教区の健康保険事務を担当しておられ、そのことでどうしても急にお会いする必要ができたからです。その頃、大阪西野田教会には会堂はなく、牧師館もなく、長屋の一間(ひとま)を住居兼集会室としておられました。1958年頃のことだと思います。暑いときであったのか、先生はシャツ一枚といった格好で出てこられ、十分間くらいの立ち話で用件は済みました。それだけのことであったのですが、この時の誠牧師の印象は真に強烈でした。

 わたしとほぼ同年と思いましたが、突然の来訪を受けられたにもかかわらず、実に落ち着いて、ごく自然に、気持ちよく、明るく対応され、なによりもそのお顔が善意に輝いているのに、わたしはすっかり気後(きおく)れしました。圧倒されるような思いで、この人は人間として大人、信仰者として本物と思いました。誠牧師のお生れは昭和6年3月5日だということを後で知りました。わたしは昭和2年3月5日誕生ですから、奇しくも誕生日は同じです。しかし、年は誠牧師の方が四歳下なのです。でもその時は、とてもそうとは思えませんでした。老成というと語弊がありますが、良くできた立派な方という印象が強く残りました。

 後で知ったことですが、誠牧師を回想する人は皆その誠実なご性格について語ります。例外はありません。わたしの受けた印象もそうでした、掛け値なしの誠実さを感じました。しかし、ふつう誠実な性格といえば、言動に嘘がないとか、ごまかしがないとか、真心がこもっているとか、そういうことでしょうが、わたしにとって誠牧師の誠実は、ちょっと違ったものでした。それは一言で言えば、自分を取り戻させてくれる暖かい迫力、と言ってもいいようなものであったと思います。健康保険の話をしながらも、しきりにわたしは自分の人間として未熟な、ごまかしに歪んだ姿に気付かされると共に、それで裁かれるのでなくて、むしろ何か励ましのようなものを受けて、自分に閉じ龍っているために、いつも曇っている心が晴れて、青空を仰ぐような気持ちにさせられていくのを感じていました。そういう自分を取り戻させられるような迫力に打たれながら、ああこの人は誠実な人だと思ったのが、その時の印象でした。わたしが誠牧師に感じた誠実とは、そういうものでした。四十五年ほど前の話です。健康保険についての話の内容は、皆目覚えていませんが、あの誠実の印象は、忘れ難いものとして残りました。不思議としか言いようがありませんが、そのわずか十分間が深く、強く私の心に残りました。

 誠牧師については記憶しているのはそれだけです、知っていることもそれだけです。数年してわたしは京都に移り、さらに十年ほどして1974年、誠牧師は亡くなりました。訃報は「教団新報」か何かで、だいぶ後で知ったと思います。これで大阪西野田教会との関係は一切なくなったはずでした。事実、その後何事もなかったのです。

 しかし、わたしはどういうわけか分からないのですが、誠牧師亡き後、あの教会はどうなっているのだろうと気になり、時々考えました。やがて夫人は婦人牧師で、後を継いでやっておられるということを風の便りで知ってからは、なにかの拍子に思い出しては、奥さん大変だろうな、と考えることがよくありました。結婚されたのは、誠牧師とお話をしたあの時より後ですから、わたしは恵美子牧師を見たこともなく、お名前もご家族の様子も全く知らなかったのですが、どういうわけかそう考えることがしばしばありました。

 そして、思いがけなく1994年6月頃でしたか、その恵美子牧師から「ホーリネスの群」の教職セミナーの講師を勤めるようにご依頼をいただいたのです。わたしが大阪教区を離れてちょうど三十年、誠牧師とのあの十分間の出会いからは三十六年経っていました。確かその時、恵美子牧師は「ホーリネスの群」の教育委員長として、教職セミナーの実行責任者であり、そのお立場でのご依頼であったと思います。しかし、「ホーリネスの群」に何の縁もないわたしにすれば、どうしてそういうお役目がきたのかわけが分かりません。正直なところ、その時までわたしは、「ホーリネスの群」というものがあることすら知らなかったのです。わたしの信仰の立場から言っても、その群のセミナー、まして教職セミナーの講師なんてとんでもないと思いました。ですから即座にお断りをしようと思いました。しかし依頼してこられた相手は、ほかならぬ恵美子牧師です。時々、大変だろうなと陰ながら案じていた恵美子牧師ご本人からです。ですから、お断りするにしてもお会いしたうえでなければ申し訳ないと思いました。それでご連絡して、お断りするためにお訪ねしました。

 日記を見ますと、1994年8月18日午後三時、JR大阪環状線野田駅にお迎えいただいて、お訪ねしております。当日は初対面でありますのに、全くそういう感じはせず、二時間ほどお話をしました。わたしは折角ではあるが、「ホーリネスの群」の教職セミナー講師には全く向かないと言い、分かっていただくために、生いたちや、自分の悩みとしている点や、求めている問題や、牧師としての姿勢や、洗いざらい信仰の経歴を話しました。そして全く適任でない旨、強調しました。すると、恵美子牧師は「いま話された、そういう話をセミナーでしてください」と言われたのです。あてが外れたので、さらにわたしは自分の信仰の内面的に過ぎる片寄りや、正統的とされる信仰から逸脱している点や、伝道的でない点や、教会に対する信仰が曖昧な点や、とにかく欠点と自覚していることをいろいろ言い、堅く辞退したい旨、重ねて申しました。すると恵美子牧師は「そういう話こそ聞きたいのだ、そのままで結構です、是非やってください」とまた言われて、断ろうとすればするほど断れなくなるという変なことになり、結局、お引き受けするはめになったのです。

 こうして不安を抱きながら講師をお引き受けし、同年11月7日から9日まで東京聖書学校でご用をさせていただきました。爾来(じらい)、恵美子牧師とはお親しくなり、当時、引退して大阪教区に三十数年ぶりに戻ってきていたわたしには、知っている牧師はほとんどいなかったのですが、それを補って余りある方に、恵美子牧師はなってくださったのです。そういうわけで、ご引退記念説教のご依頼もいただいたのでした。

 

 恵美子牧師には、だいぶ昔にお会いしたような気がしていたのですが、こうして《思い出し》てみると、1994年8月18日に野田駅でお迎えいただいてお訪ねした日が最初なのです。ずっと前からお知り合いであったように思っていたのですが、どう考えてもその日が最初なのです。ということは、お知り合いになってから今日まで、厳密に数えると8年10ヵ月くらいしか経っていないのです。わたしはいままでずっと、あの誠牧師と十分間お会いした時に、恵美子牧師にもお会いしていたように考えていましたから、長いおつき合いだと思っていました。しかし、あれはご結婚以前の話ですから、それは間違いなくわたしの思い違いなのです。しかし、そういう思い違いを起こさせるほどに、あの四十五年前の十分間の誠牧師との出会いは印象的だったのです。そのことを改めて思いました。

 あの十分間の体験は、わたしの中に生き続けていたのだと思います。だからこそ誠牧師亡き後、わたしは大阪西野田教会のことを、時々思い出したり、教会を継がれた奥さんはどうしておられるのだろう、と何かの拍子に思い出し続けたり、そして、教職セミナーの講師ご依頼の際も、お断りするにしても、お電話でなくて直接お会いして、ということになってしまったり、さらにお会いした結果まるで旧知の友のような錯覚を持って話し込み、断るつもりが断れなくなり、それから引き続き親しくさせていただくことになったのではないか。そして、とうとう恵美子牧師の引退記念説教をすることにまでなってしまったのではないか。そもそもは、全てあの四十五年前の誠牧師との出会いから始まっているのです。あの時、《神の指が動いた》のでしょうか。

 

 間もなく半世紀前のことになろうとしているあの十分間の出会いを、わたしは《思い出し》ています。あの時シャツ一枚の誠牧師は、まさか立ち話している相手の男が、将来自分の妻となる人の、牧師引退記念礼拝の説教をすることになる男であるとは、思いもかけられなかったでしょう。わたしもそんなことは、もちろん想像もできないことでした。人生の不思議を思って、つくづく生きるということは、わたしの手の中にあるものではない、全てはわたしを生かし続けてくださっている神の働きによるものと、わたしはいま深く《思い出し》ています。

 引退記念礼拝の当日、わたしは「思い出して見よ、主の恵み」と題して、説教をしました。

 

 

 それにしても中島誠牧師とは如何なる方であったのでしょう。わたしはあの十分間以外全く知らないのです。しかし、大阪西野田教会が出版した「故中島誠牧師記念文集 死に勝ちて」を読んだ時、こういう方であったのかと、あの十分間の印象に、われながら納得するものがありました。

 

 中島誠牧師は東京聖書学校を1956年卒業後、会堂はなく信徒も四散して荒廃していた戦後の大阪西野田教会に、その復興のために遣わされ、一軒の家に数家族が住んでいる古びた長屋の一部屋を借りて、伝道を始められました。しかし、その部屋は居住者全員がトイレへの通路としてとおって行く、部屋とも言えないところでした。その六畳の部屋が、最初の教会の集会室であり、牧師の書斎兼寝室となったのです。したがって、礼拝中に部屋を通って行く人があり、他の部屋では親子喧嘩、夫婦喧嘩があるといった有様で、出席者の中にはあまりの騒々しさに帰る人もいましたが、その状態を受け入れ、励まれました。極貧に耐え、誠実、柔和、静かに事にあたり、品性を高く持して謙虚に、常に明るく笑顔を絶やさず、ユーモアにも富み、その輝く顔は接する人の心を捕らえました。町内の人々は皆、信仰は別として尊敬し、好意を持ったそうです。しかし、教会再建の道は厳しく、見兼ねて転任を勧める人もありましたが、その話にも動かず、熱心忠実に専心伝道、教会復興に努められました。

 やがて二度の移転を経て、会堂、牧師館を持つに至り、集う人も多くなってきました。問題を抱えている人がいると、四人の子供のいる狭い牧師館に預かって、面倒をみるということもしばしばで、それは最後のご入院中まで続きました。生来病弱な恵美子牧師が弱音を吐くと、「ご奉仕のためには死ね」と、温厚な平素からは考えられないような厳しい言葉で、主の委託に応えるよう求められたそうです。二人は福音の戦いの無二の戦友であったと、恵美子牧師は述懐しておられます。そういう献身的な伝道活動によって、五人の献身者を出すに至る霊性豊かな教会が再建されていったのです。

 牧会活動の(かたわ)ら、大阪教区の教務もしておられましたが、いわゆる万博問題の嵐の中で、その教区主事の仕事は激務となり、過労のため1970年肝硬変で入院するに至られました。入退院を繰り返される中にも、端然として明るく教会員を励まし、説教者としての務めも最後まで果たされました。

 1974年10月5日、激痛の中で「楽しかったね」を夫人への最後の言葉として、四十三歳で召されました。医学に役立てて欲しいというご意志によりなされた解剖によれば、多量の腹水のため肺もその他の臓器も押し潰されていました。医師は「これは全く精神力と責任感だけで生きてきた人です。こんな極限の肉体でいながら最後まで笑顔と感謝を絶やさなかったとは、かって見たことのない患者さんです。心から敬意を表します」と言ったそうです。その臨終の感動を恵美子牧師は、

 地上の生命(せい)終わりし夫(つま)は凛然と若武者の如し神の作品

と詠まれています。

 中島誠とは、こういう牧師だったのです。折角お近くに八年間同労者としていたのに、このような方と交わる機会を閉じていた、自らの愚かさを思うと共に、健康保険のことでよくぞお訪ねしたものだと、ふと働いたあのときの《神の指の動きを思い出し》、十分間の出会いを改めて感謝したことでした。

 

 

  追記

 出版をお引き受けくださったダビデ社に心から御礼を申し上げます。同社の古家克務氏には種々お世話になりました。ご協力くださったいのちのことば社にも、記して感謝の微意を表します。

 

 (終)