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4 罪人一列

 

 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。11(おこた)らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。13聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。15喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。16互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。17だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。18できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。19愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、(かわ)いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

          (ローマの信徒への手紙 12・9~21

             

 

  本日の聖書の個所には、「キリスト教的生活の規範」という小見出しが付いています。9節の「愛には偽りがあってはなりません」に始まり、21節の「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」で終わるこの段落は、確かに、福音に生かされている者に相応しい生き方を述べており、「キリスト教的生活の規範」という小見出し通りの個所です。この点、今日の個所を理解するのは容易なことで、ここを読んで何を著者パウロが言っているのか分からないという印象を持つ人はいないでしょう。しかし、理解し易いということと、この言葉に従って生きるということとは、全く別問題です。例えば、冒頭の「愛には偽りがあってはなりません」という言葉、これが分からない人はいないでしょうが、これを素通り出来る人もまたいないでしょう。省みて自分の愛が嘘のない本物だと言える人はいないでしょう。人を愛すると言いながら、結局それは、自分の好きな人、自分に都合のよい人を愛しているだけであり、いつの間にか愛が自己満足や打算に歪められたものになっていることを、否定できる人はいないでしよう。

 ですから今日の個所は、理解し易いからと言って安心して、素通りできるところではないのであり、むしろ逆に、大きな課題を与え、わたしたちの歩みを止め、愛についての深い反省を迫る個所である、と言わねばならないのです。このことを念頭に置いて、冒頭から少しずつわたしの示されましたことをお話ししたいと思います。まず9節

 

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、

 

 ここで、「悪」とか「善」とかいうのは何を指しているのでしょう。愛を偽りから守る「善」あるいは、愛を偽りにしてしまう「悪」とは、どういう善悪なのでしょう。それが一般的な意味での善悪でないことは明らかですが、ではここでいわれる愛に関係の深い善悪とは、何なのでしょう。

 最後の21節を見ますと「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」とあります。そして、この21節の言葉は、その前の1720節に記されていることを受けています。ですから、1720節に言われていることとの関連で考えますと、いま問題にしている愛に関係の深い善悪とは、復讐を巡っての善悪と思われます。どうしてかといいますと、1720節を読んでみましよう。

 

 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」

 

 こういう文脈の中で見ますと、悪」とは復讐すること、「善」とは復讐しないことを意味していると考えられます。ですから冒頭の「悪を憎み、善から離れず」とは、復讐しようという悪い心を憎み、復讐するまいとする善い心から離れず、ということであり、その時に初めて愛は偽りのない愛となる、ということを言っているのだと思います。いずれにしても、ここで「悪」とは復讐すること、「善」とは復讐しないことです。

 

ところで一体、愛ということが問題になるときはどういうときでしょう。それは人間関係がおかしくなっているときです。人間関係がおかしくないときには、愛は、真剣な意味では、問題にはなりません。そういうときは、別に愛など言わずに普通に付き合っていればよいわけで、いちいち愛、愛と言わねばならぬような人間関係はむしろおかしいのであり、特にそういうことを言わずに済めば、それが一番よいのです。パウロは、「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」(フィリピ4・8)と言っています。つまり、信仰を持とうと持つまいとそんなことに関係なしに、全て人間として良いことは良いとしなさい、と言っているのです。ですから、さしたる問題が人間関係にない場合は、良いことは良いとして普通に付き合えばよいのであって、愛がどうのこうのという必要はないのです。

 愛が問題になるのは、人間関係がおかしくなったときです。そのとき、何とかその関係を取り戻そうとして、愛の心が浮かんできます。と共にもう一つ、そのおかしくなったときにわたしたちの心にすぐ浮かんでくるのは、仕返しをしようとする心でしょう。言い返してやりたいといったささやかなものから、殺してやりたいといった恐ろしいものまで、とにかく復讐の思いが様々に浮かんでくるのではないでしょうか。そのように愛の心と復讐しようとする心とは、人間関係がおかしくなったときに、いつも連れ立って現れてくるもののように思われます。そして、その二つは心の中でいつもせめぎ合っています。そうではないでしょうか。だから、仕返しをしようとする心を悪として憎み、仕返しはするまいとする心を善としてそれから離れないようにする、そういう心の中の内なる葛藤こそが愛を偽りのないものにするわけで、ですからパウロはここで、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず」、そう言ったのです。というのも、わたしたちは本心と全く違うことで表面を装うことができるものだからです。優しい言葉を使い、表情もにこやかに、いかにも、ものの分かったような態度をとりながら、復讐の心を潜め、巧みにそれを計画、実行することもできるのが、わたしたちです。そしてそのようにできるがために、いつの間にかわたしたちの愛は、内なる葛藤を欠いた表面を繕うだけの偽りの愛になりがちなのです。パウロは人の心のその偽りを見抜いていました。彼はさらに10節に

 

兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

 

と言います。つまり、相手を優れた者と思う尊敬の心を、相手の中に良いものを見出していこうとする努力を、彼は愛に求めます。人間関係がうまくいっていないときは、どうしても相手に対する採点は厳しくなりがちです。そして、自分に甘くなりがちです。しかし、そうであってはならないのです。むしろ、自分に厳しく、相手に優しく、相手を優れたものと思うこと、その努力が愛が偽りになるのを防ぐ、そうパウロは言うのです。11 節に、

 

怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。

 

とあります。愛することにおいて()み疲れてはならないというのです。ぎくしゃくした人間関係は、そうは簡単に良い状態にはなりません。わだかまり、しこりが残ります。したがって、それだけに表面を繕うことで済ましてしまおうとする思いに流されがちです。そうならないように怠らず励む、愛はそういうコツコツ手を抜かない努力を避けては偽りになります。愛は、単に表面的に良好であることで満足しやすい人間関係を、神の前で恥じることのないものに手を入れて修復する、まさに霊に燃えて主に仕える人格的努力なのです。愛が偽りのないものなら、それは必ず努力という形をとることを忘れてはならないでしょう。努力のない愛は嘘です、内なる葛藤のない愛は偽りです。

 そしてその努力は、言い換えれば、12節に

 

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

 

とあるように、希望、喜び、忍耐、祈りと言い換えられるような努力です。ところでこの四つのこと、希望、喜び、忍耐、祈りは、信仰生活の要点と言ってよいことですから、愛において偽りのないように努力することは、すなわち、信仰生活の生きている姿であり、信仰生活の命の鼓動を示すこととも言えます。愛の偽りを放置していると、単に愛において偽りであるのみならず、信仰生活においても偽りとなる所以(ゆえん)がここにあります。次に、1316節を読んでみましょう。

 

 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

 

 ここには、貧しい者、旅人、迫害する者、喜ぶ人、泣く人、身分の低い人が列挙されています。いずれも交わるのに、それなりの努力を必要とする相手ばかりです。自分の思いに流されず、自分の都合を後回しにして他を思いやる努力がなければ、そういう人々との交わりは持てないでしょう。こう申しますと、否そんなことはない、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことくらいは、そう努力しなくても出来る、と思われるかも知れません。しかし、他人の喜びには妬みが入りますし、泣く人の不幸に対しては密かな優越感が入ります。必ずそういうものが入り込むのが、人の心というものでしょう。したがって、喜ぶ人、泣く人こそは、愛を偽りものにしてしまう最強の誘惑者と言ってもよい存在なのです。いずれにしてもここに列挙されている人々は皆、愛が本物かどうか、偽りでないかどうかを試すリトマス試験紙のような人々ばかりです。愛には偽りがあってはならないことを示し、愛する努力を求める人々ばかりです。

 そして最後に、17節以下に、先程お読みしました通り、愛を偽りあるものにする最大の誘惑として復讐する心が語られていました。

 以上要するに本日の個所は、「キリスト教的生活の規範」は「偽りのない愛」であり、その「偽りのない愛」は努力のいる愛であり、内なる葛藤を求める愛であることを、語っているのです。そして、その愛の努力の対象となる人間関係の最大の問題点として、パウロはここで「復讐」を、誰しもが陥りやすい仕返しを、指摘しているのです。

 

 しかし、ここまで読んできてちょっと考えてみたいと思うことがわたしにはあります。それは、仕返しをすることは言われるほどにそんなに悪いことか、ということです。皆さんはそんなことを考えられませんか。復讐は果たしてそんなに悪いことなのか。許される復讐、してもよい仕返し、そういうものはないのかということです。

 忠臣蔵がそうであるように、復讐はある意味で美談です。自分の幸せを捨て、忠義のために、長い間忍耐して初志を貫徹して仇を討つのは、人の心を感動させます。親孝行のため、あるいは、友情のための復讐の話などもありますが、共通して、そこには何か義に殉じる清らかさのようなものがあります。また、最近のように何の関係もないのに事件や、事故に巻き込まれる人が多く出てきますと、許される復讐、やってもかまわない仕返し、そういうものがあるのでないか、仕返しするよりほかに納まりのつかない不条理、人の世にはそういうものがあるのでないか、わたしは正直なところ、そういう気がしないでもないのです。物騒なことを言いますが、そう思います。

 しかし、ここでは「だれに対しても悪に悪を返さず」と、復讐は無条件に禁止されています。なぜでしょう。その理由をわたしは次のように考えてみました。

 例えば、相手がわたしの心を理由もなく傷つけたとします。わたしは腹が立ちます、仕返しをしたくなります。当然です。しかし、ちょっと止まってここで考えてみましょう。第一に、相手はその気はなかったのにふとした弾みで、わたしを傷つけてしまったのかも知れません。第二に、こちらの分からぬそうせざるを得ない事情を、何か相手は抱えていたのかも知れません。第三に、相手の生い立ちや、置かれた境遇にまで遡るべき原因があったのかも知れません。第四に、案外相手は自分のしたことを反省していて、それを素直に現わせないで苦しんでいるのかも知れません。それに第五に、私の方に落ち度が全くないと果たして言い切れるのか、こちらも無意識のうちに、相手をそういう気にさせるよう追い込むものがあったのかも知れません。第六に、わたし自身の気付かない虚栄や、打算や、身勝手さが働いて、相手の心を不愉快にさせていたのかも知れません、それも長い間傷つけていたのかも知れません。例えばこのように考えただけでも、そこにはいろいろな問題があるように思われるのです。しかも、それらはいずれも厳密に考えれば考えるほど、よく分からない問題ばかりではないでしょうか。心というものは、相手の心も自分の心も、正確には掴めないものです。ですからそのことを考えたら、復讐という断固とした、人に害を加えるような行為を正当と考える程の材料を、自分にも、相手にも見出すことは出来ないと思うのです。復讐という行為が正当と認められるほどに、わたしたちは正確、的確、厳密、冷静に、人の心も自分の心も把握できないのです。そうではないでしょうか。 もしそれができるのなら、復讐は踏みにじられた正義の貫徹のために、道理の回復のために、してもよいとわたしは思います。事実ここでパウロは、復讐すること自体は決して否定してはいないのです。19節に注意しましょう。

 

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

 

 二重括弧の中の言葉は申命記(32・35)の引用ですが、ここで神は復讐すると言っておられるのですから、復讐すること自体は否定はされてはいないのです。否定されているのは、自分で復讐することです。なぜなら自分、すなわち人間は、いま申しましたように、復讐という行為をしてよいほどに、相手の心も、自分の心も厳密に、正確に、冷静に見抜く力を持たないからです。つまり、人間に復讐が禁じられているのは、それをやるだけの資格(力)がないからなのであり、それをやる資格のある者は復讐をしてもよいのです。というよりは、むしろ復讐すべきなのです。19節はそういう意味でしょう。それは復讐を禁じているのではなくて、復讐する資格が人間にはないことを言っているだけです。わたしたちが復讐をしてはいけないのは、正確に言えば、いけないからではなくて、出来ないから、資格がないからなのです。だからそれの出来る神だけに任せなさい。神の怒りに任せて人間は引っ込んでいなさい、手を引きなさい、それが19節の意味するところと思われます。

 

こうして見てまいりますと、愛を偽りのないものにする努力とは、要するに相手のことは神のお取り扱いに委ねて、自分は手を引くことと言ってよいのではないでしょうか。そして、そのような《手を引く努力》 こそ愛を偽りのないものにする努力であることを、見事に表現している御言葉が聖書の中にあるのです。それをご紹介します。

 それは、キリスト教を知らない人にもよく知られている「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という、マタイ福音書5・39にある御言葉です。そこを読んでみましょう。

 

 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

 

 この御言葉は、「復讐してはならない」という小見出しのついた段落の中にあります。ですからこの「左の頬をも向けなさい」という言葉も、その段落の中にある言葉として、普通解釈しようとされるのですが、なかなかそうは読めず、結局はそうは取られずに、卑屈な奴隷根性、無気力な敗北主義、嫌らしい偽善、そして、相手を最も傷つける当てつけ等と解釈されたりして、納得できないままにこの言葉は放置されがちなのです。

 では、これはどう読むべきなのでしょう。まず注意したいことは、ここでは「悪人に手向かつてはならない」と書いてあって、相手ははっきり「悪人」とされていることです。善人か悪人か分からないような相手に頬を打たれたのではなくて、相手ははっきりと「悪人」なのです。ですから相手のこと、あるいは、相手のしたことの善し悪しは明白で、考える必要はありません。考えるべき問題はそういう悪い相手の悪い行為に対するこちらの態度、わたしの態度、それがここでの問題です。そして、それは当然仕返し、復讐とわたしたちは考えるでしょう。相手は悪人なのですから答えはそれしかないと思います。しかし、イエスは「左の頬をも向けなさい」という答えを出されました。これはどういうことなのでしょう。

 

 私事になりますが、母は五十数年前、わたしの学生時代にガンでなくなりました。大阪の堂島にありました阪大病院に入院していましたが、当時は阪大病院でも冷房はなく、窓からの風だけが頼りであり、暑さと蚊に悩まされる、今では想像もできない入院生活を数力月送りました。氷枕や氷嚢(ひょうのう)に使う氷も、大きな氷の塊を買い求めては、(きり)で割って使う始末で、わたしはほとんど毎日、学校が終わると阪急電車で梅田に出て、そこから歩いて病院に通いました。

 ある日のことです、珍しく電車が超満員で座れないので、本のたくさん入っている重いかばんを棚に載せて立っていました。梅田が近くなりましたので、カバンを降ろして下車の準備にかかりました。その際カバンが、前に立っている人の肩にぶっつからないように、精一杯カバンを上にあげ、わたしの方に引きつけてから垂直に降ろすようにしました。しかし、なにしろ超満員でしたので、配慮したつもりでしたがカバンの底がちょっと前に立っている人の肩か背中辺りを()ったような感じがしました。それでもまあうまく降ろせたと思った瞬間に、その人がさっと私の方を振り向いて、物凄く怖い顔でにらんだのです。カバンは布製でしたので、革製みたいにきちんとコントロールができなくて、確かにすこし肩(あた)りを擦ったかも知れませんが、そんなに怒ることはないじゃないかと思うような顔をしました。わたしもむっとなりましたが、一応お詫びの目礼をし、後は双方黙ったままで何事もなく、下車しました。

 しかし、わたしは何となく不愉快で、あんなことくらいでなんだ、こちらは十分気を使っていたのに、と思いながら歩いているうちに、なにげなくカバンの底に手をやって、さっと自分の顔色が変わるのが分かるほどに驚きました。なんと布製のカバンの底から、氷を割るために用意してきた(きり)の先が、1センチほど出ているのです。よく考えてみれば、彼のワイシャツの肩の辺りがすこし破れていました。本の重みの掛かった錐の先が間違いなく彼の背中をかすめていたのです。そして、ワイシャツを破ったのです。ひょっとすると背中を傷つけ、血が出ていたのかも知れません。気は付きませんでしたが、ワイシャツの破れ具合からすると、その可能性は高い、それを思うと、にらむだけで、それ以上何も言わなかった彼の寛大さに、恥じ入りました。相手次第では、ただでは済まないことをわたしはしていたのです。怒鳴られ、殴られ、大騒動になっていたことでしょう。錐の先をしっかり何かで包んでカバッに入れるべきでした。何という不注意、その自分の不注意が見えない自分の甘さに身がすくみ、自分の身勝手

さが身に染みました。その時のカバンの色も形も、半世紀たった今もはっきり覚えています。

 

わたしたちは自分に甘いものです。自惚(うぬぼ)れが強いものです。いつも自分の方が正しいと思い込んで、相手には厳しいのがわたしたちの現実です。この自分の甘さにわたしたちは《余程のこと》がない限り気が付きません。わたしが錐でうっかり人を傷つけてしまったような、たとえばそのようなとんでもない余程のことがなければ、深く自分を省みることなど、わたしたちはしません、決してしません。断じてしません。わたしたち人間はそれほど善良ではないのです。そして、今問題にしている「悪人に右の頬を打たれる」ということも、まさにその余程のこと、甘い自分に気付かせるきっかけとなる余程のこと、として受け取るべきだ、とここは語っているとわたしは考えます。

 相手は悪人ですから、この場合は相手のしたことの善悪は確かに考える必要はありません。それは悪に決まっています。しかし、相手が悪人であるということは、即、わたしは善人であるということを意味しません。自分のことは考えなくてもよいということにはなりません。むしろ、悪人に右の頬を打たれるという不可解なひどいことを、甘い自分に気付かせる余程のことと受け止めて、そのひどい仕打ちに反応して起こる自分の心の中のさまざまな動き、それらを通して図らずも見えてくる自分自身、自分の正体、それはたとい相手が悪人でも、それとは関係なしに、やはり自分の問題として取りあげねばなりません。「悪人に右の頬を打たれる」という思いがけないことを通して、気付かせられた自分の問題、それをこそ問題にせよということ、それがここで言われているのだとわたしは考えるのです。この段落の主題は「復讐をしてはならない」です。そして、その主題で読むと、「左の頬をも向けなさい」の意味することは、そういうことになるのではないでしょうか。

 繰り返しますが、大体わたしたちは、重い病気にかかるとか、愛するものを亡くすとか、事業に失敗するとか、信頼していた人に裏切られるとか、なにかそういう余程のことに直面しない限り、自分自身を赤裸々に直視し、その(みにく)さに心の底から恥じ入るということのできないものです。常に自分に甘く、自惚れ、寛大に自分を許しているものです。そのために、自分の正体を知らないものです。その正体に気付くために、自惚れの強いわたしたちには、何か余程のことが必要なのです。「悪人に右の頬を打たれる」とは、まさにそういうわたしたちへの余程のことではないでしょうか。わたしはそう考えるのです。

 相手は悪人なのですから、その行為が不当なことは初めから明らかなのですが、だからといってすぐに仕返しを考えるのではなくて、逆に、果たして仕返しをする資格があるのかどうか省み、自分も打たれて(しか)るべきものとして左の頬を向ける、そう思い至るまでに深く、厳しく自分に立ち返るチャンスとして、相手のその不当なひどい行為を受け止める、それがここで求められていることではないでしょうか。そしてそれが、相手を神のお取り扱いに委ねて自分は《手を引く努力》、愛を偽りのないものにする努力ではないでしょうか。

 もし、それが単に我慢をして仕返しをしないことなら、表面的には敵を赦して愛しているように見えても、内面的には、それは憎しみが燃えたぎり続けている偽りの愛であり、憎しみの連鎖反応が、そこでは深く潜行して始まっているといえます。左の頬を向けるのは、我慢ではないのです。無抵抗でもないのです。それは、仕返しをする資格は自分にはない、と無法にも自分を打つ相手を神のお取り扱いに委ねて手を引くと共に、自分自身をも、仕返しをする資格のないものとして、神のお取り扱いに委ねる、そういう《罪人同士として、相手と共に神の前に立つ》ということ、そういうことなのです。そして、そこにこそ偽りのない愛があるのではないでしょうか。

 

 わたしは最近、しきりにそういうふうに示されています。左の頬を向けるとは、実際に左の頬を向けることではなくて、わたしの右頬を打った悪人と一緒に、罪人同士として、共に主の赦しの前に立つことであり、その罪人の列に加わることであり、これこそ偽りのない愛の努力そのもの、とわたしは思っています。

 わたしたちは《罪人一列》です。罪人の列外に出られる人、そういう人は一人もいません。人はみな罪人として、主の赦しをいただいて並んでおります。例外はありません。そして、このことが本当に納得された時、初めてわたしたちは、偽りのない愛への道のスタートラインに立ったのであり、平和への道を歩み始めることができるのではないでしょうか。

 

 (終)