5 神の完全 人の完全

 43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

            (マタイによる福音書 5・4348

 

             

 

   今日の聖書の個所を読んで、誰しもこれはとても無理な話だ、こんなこと出来るはずはない、と思うのは48節でしょう。

 

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 

 神のように完全になる、言葉としては美しくはありますが、これは全く不可能なことであり、わたしには関係のないこととして、目をつぶって読まなかったことにしたい言葉です。完全、それも神の完全となっては、そのイメージも浮かびません。ましてそのようになれと言われたら、これはもうお手上げです。しかし、こういう言葉が聖書のなかにあるのです。これをどう受け止めたらよいのか、わたしなりに学んだことを、証しさせていただきます。

 

まず最初の43節、

 

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。

 

 注意しておきたいことは、ここで隣人というのは、一般的な意味での隣にいる人ということではなくて、それはアブラハムを祖先にいただくイスラエル民族を指しているということです。

 元来、イスラエルの民は砂漠の遊牧の民です。動き回っている彼らに隣人という観念はありませんでした。その彼らがパレスチナに定住するようになって、初めて地域的な(つな)がりが意味をもつようになりました。そして自衛のための相互依存の隣人関係は、従来の血族の関係に、それ以上の意味をもたせるようになりました。箴言27・10に「近い隣人は遠い兄弟にまさる」という言葉もあるくらいで、血縁関係は隣人関係としても大切にされるようになりました。そしてイスラエル民族そのものが「隣人」を指すようにもなったのです。「隣人」とは、イスラエル民族のことです。そういうことで他所から来て一緒に住んだ異邦人も、長期になりますとこの「隣人」に含められるようになったということですが、その場合も、一年以内に割礼を受け、ユダヤ教の律法を遵守する義務を守ることが条件でした。つまり「隣人」とは、あくまでも宗教共同体としてのイスラエル民族に加わった人だけを指したものだったのです。

 このことを頭に入れて考えますと、この「隣人を愛し、敵を憎め」の「敵」が、何を指すかも分かってきましょう。すなわち「敵」とは、一般に考えられる「敵」ではなくて、「隣人」であるイスラエル民族以外のものを指すのであり、つまり、「異邦人」と考えていいでしょう。

 詩篇139・2122に、こういう言葉があります。

 

主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし 激しい憎しみをもって彼らを憎み 彼らをわたしの敵とします。

 

 つまり「敵」とは、この詩人にとって「神を憎む者」なのです。彼ら白身に敵するというよりは、神に敵するものが、彼らの敵なのです。ですから、「隣人」といいましても、わたしたちの普通考えているのとは違って、いずれも神との関係において考えられていることであり、相手を愛すべき隣人とみるか、憎むべき敵とみるかは、その人が神を愛しているか、否かにかかっているのです。従いまして、「隣人を愛し、敵を憎め」とは、「イスラエル人を愛し、異邦人を憎め」と言い換えてもいいようなものであり、イスラエル民族の選民思想そのものを表していると考えてよいでしょう。

 そういう意味で、「隣人を愛し、敵を憎め」という勧めは、個人的な愛、または個人的な憎しみの勧めではなくて、民族的、宗教的な愛と憎しみの勧めなのです。いずれに致しましても「イスラエル民族は愛する、しかし、異邦人は憎む」、そういうことが、直ちに「神が愛されるものを愛し、神が憎まれるものを憎む」ことになると、彼らは確信していたのです。ということは、彼らは神という方は「ある者は愛される、しかし、ある者は憎まれる」、そういう区別をされる方である、そう確信していたということになります。

しかし、イエスは44節で言われたのです。

 

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 

 つまり、イエスは以上見てきましたような、当時のイスラエルの人々が考えていた民族的、宗教的区別をする愛、それを乗り越えた愛を、ここで求められたのです。そして、そういう区別を乗り越える愛の根拠として述べられているのが、45節なのです。

 

あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

 

 つまり、天の父自身はそういう区別を越えてひとしく恵み給う方であるゆえに、おまえたちも、民族的、宗教的区別を越えて愛すべきであるとされるのです。

 これは当時の人々には意外なことではなかったでしょうか。先程から申しておりますように、彼らにとって隣人として同胞イスラエルを愛するのは、神がイスラエルを神の民として選んでいてくださるからであり、異邦人を敵として憎むのも神が異邦人を捨て給うていると信じているからなのです。そういう区別を神はしておられると信じていたからでした。つまり、愛するのも憎むのも、神の御心に従っているつもりでした。ところが神は意外なことに悪い者にも良い者にも、そして、正しい者にも正しくない者にも、同じような恵みを給う方であるのです。神は彼らが信じているような区別する神ではなかったのです。

 彼らは、神は良いか悪いか、また正しいか正しくないかの区別をして、それぞれに報い、また裁かれる方と信じていました。しかし神は、両者を共に受け入れ給う方であったのです。共に包み入れる方であったのです。これはどういうことなのでしょう。

 

人の世にはさまざまな区別があります。良いもの悪いもの、正しいもの正しくないものなど、いろいろあります。そして、そういう区別は必要です。そういう違いが識別、区別出来ないようでは、秩序は乱れ、困るのであり、ちゃんと違いが分かり、区別がしっかり立てられることは人が生きていくうえで大切です。

 ただそこで注意したいことは、区別というものは単に区別に終わらないで、それが直ちに人を裁いたり、軽蔑したり、非難したり、敵視したり、また逆にいえば、自分を()としたり、自慢したり、ということの原因になるということです。つまり区別は、他者批判と自己主張の根拠になるということです。そしてそれは、他者と自分を区別する垣根となり、さらに、その垣根はしだいに高く越えがたいものになり、垣根のこちらにいる自分と、垣根の向こうにいる相手とが共にやっていけないもの、受け入れがたいもの、そしてついにはエスカレートして共に天をいただけない敵となっていくということです。

 しかし、落ち着いて考えれば明々白々なことですが、垣根のこちらのわたしも、垣根の向こうの相手も、共に人間です。垣根のこちらのわたしが、いまここに命を与えられて生きているのと同じように、垣根の向こうの不倶戴天の敵と思っている相手も、同じようにいまここに命を与えられて生きているのです。共に天をいただいているのです。区別が垣根になってしまって、共に天をいただかずといきり立っても、天の方はそういう人間のいきり立つ気持ちに関わりなく、垣根の両側にある両者を、共に覆って、等しく太陽は昇り、等しく雨は降っています。どんなに垣根を高く高くそびえ立たせても、天に届いて天を区切ることは出来ません。つまり、いかなる区別も決定的な区別たり得ないのです。このいかなる区別も決定的区別たり得ないと言うこと、それが、「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言われた意味でしょう。

 イスラエルの人々は、神は正しいもの正しくないもの、良いもの良くないものの区別をされる方と思っていました。しかし、天の父なる神は、区別はされますが、区別を越えて両者を包む方でもありました。人の世に区別はありますし、必要でもあります。しかし、いかなる区別も決定的なものになり得ない、それであるのにそれを絶対的なものに仕立てあげて、争い、差別し、ついには共に天をいただけない敵に相手をしてしまう、その人間の自己中心に囚われた愚かさを、この45節は言っているのです。言わんとしていることは、区別は存在しないということではなくて、いかなる区別も決定的足り得ないということです。イスラエルの人々はこの点に思い及ばなかったようです。

 

 このことに関連してコリントの信徒への手紙一 4・3~5に注意しましょう。ここに、「……わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」というパウロの言葉があります。つまりここでパウロは言うのです、最終的な裁きをするのは主お一人である、したがって人が下す裁きで裁判されても、わたしは意に介しないし、また自分で自分自身を裁くようなこともしない、およそ人間が下す裁きというものは、人がするのも、自分かするのも全く決定的なものであり得ない、というわけです。もしそれを決定的なものにして、それで相手を断罪したり、あるいは自分自身を決めつけてしまうなら、それは人間の先走りなのです。人間が先走りしますと、小さい区別もムクムクと大きくなって、天にも届く垣根になります。そして、それで相手を切って捨てて敵にし、自分をも切って捨てて絶望を自らに招いてしまいます。ひとしく太陽は昇り、ひとしく雨は降るというイエスの言葉は、この人間の先走りを戒め給う言葉でもあるのです。

 確かに人の世には区別があります。そして、それに基づく差別、対立、憎しみ、軽蔑などがあります。しかし落ち着いて考えれば、そういう区別の中で、人間を決定的に区別出来るほどのものは一つもありません。それであるのにちょっとした区別を大きな垣根に仕立てあげ、向こうにいる人は許せない、嫌いだ、合わない、一緒にやれない、敵だと断定してしまうのは人間の自己中心の先走りです。そこでは人間がでしゃばっていて、神は不在です。いくら口で神と言い、信仰と言っても、そういう垣根を築いている心には神はおられません。ですから4647節の言葉が続くのです。

 

自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。

 

 自分を愛してくれる者、また兄弟と呼び得るような親密な者、要するに自分にとって都合のよい者だけに好意を示すということ、そんなことなら異邦人や徴税人、つまり、神不在の人間でもできることだ、と言われるのです。神が心の中に生きておられるのなら、人間が先走りして、さまざまな区別を、さながら天を限るかのような決定的なものに仕立てあげて、人間を差別するようなことはあり得ない、と言われるのです。垣根の向こうにいるのは、こちらにいる人と同じ人間です。共に命与えられ、生かされている人間同士です。それであるのにそれを決定的に引き裂くような垣根に仕立てあげるのは、人間の先走り、神不在以外のなにものでもありません。

 

 確かにイスラエル民族は、多くの民の中から特別に選ばれ、神から託された使命を果たすべき特選の民ではありました。神の民と、その点では言ってもよかったでしょう。しかし、だからといって神は他の民族を敵とし、イスラエル民族だけを隣人とするような区別を、垣根を、そのとき意図されたわけではないのです。そう考えたのは、イスラエル民族が勝手に先走りをして考えたことです。「隣人を愛し、敵を憎め」、これは彼らの選民思想、あるいは、選民信仰そのものを表すと先に申しましたが、こういう思想なり信仰は、まさに彼らの先走り、神不在の結果にほかなりません。神ご自身はそんなことをいささかも考えてはおられず、イスラエル民族であろうが、異邦人であろうが、ひとしく太陽を昇らせ、雨を降らせておられるのです。

 神を信じるとは、先程のパウロの言葉を借りれば、「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけない」と自らを制限することです。人間の区別、判断に、一切、決定的な意味を持たせないことです。人のなすことは、全て相対的と心得ることです。そして、そのように心得ることこそ、天の父の完全に呼応する人間の完全ではないでしょうか。

 人間の完全とは、罪を犯さない、欠点のない、円満な人間になることではなくて、人間の相対性を(わきま)えて、飽くまでもそこに止まり、低く引き下げるべき自分を、常に見失わないことなのです。

 わたしは以上のように考えを導かれながら、特に問題にしている48節を読んでみました。

 

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 

 天の父の完全とは、完全無欠とか、全能とか、永遠とか、聖であるとかいったことではないのです。そうではなくて様々な区別の全てを乗り越えられるほどに、包み込むことにおいて徹底しておられるということです。天の父の完全とは、包容無限ということなのです。その包容の外に落ちるものは一つもないということです。

 したがいまして、その神の完全に応じるように求められる人間の完全とは、人間もまた、神のように全てを包み容れられる心の広いものになれということではなくて、そういうことでは全くなくて、いま申しましたように、神は全てを包まれるのですから、その神の包みの中に包まれてある者と常に自覚して、人間の立てるあらゆる区別に決定的な意味を持たせるような先走りをしないこと、それらをあくまでも相対的なものに止めること、そして人たるの限度、言い換えれば、自らの不完全さを自覚し続けることなのです。それが人間の完全というものではないでしょうか。

 もちろんその意味は、人間は所詮人間なのだから、不完全でも構わないという意味ではありません。それは、不完全でしかあり得ない、それが人間というものなのだという、限りあるものとしての人間の自覚の問題なのです。

 人間のする区別は、どんなに間違いのない、普遍性のあると思える区別も、所詮は、各自の育った様々な境遇のなかで身についたものに色付けられたものでしかないと相対化して、決して絶対的なものへと先走りさせないこと、そして様々な区別の中にあっても、我も、人も、共に命与えられて生かされているもの同士、という事実に気付いて生き合うこと、それが、ここで求められている人間の完全ということでしょう。

 完全とは、神にあっては、一切の区別を越えられる《包容のこと》です。しかし、人にあっては、一切の区別を相対化して先走りさせないで《生き合うこと》なのです。

 人間の先走りの一つの例を聖書のなかに見てみましょう。ルカ福音書18・9~14をお開けください。

 

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下(みくだ)している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に(のぼ)った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。 『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。 『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

 ここでファリサイ派の人が祈って言っている言葉は、決してウソではないでしょう。彼は、実際にこのとおり律法を完全に守り、徴税人とは比べものにならない立派な人でした。ところが神に義とされたのは、つまり、神との関係において完全と認められたのは、彼ではなく、律法を守っていない徴税人の方だったのです。どうしてでしょう。

 確かにファリサイ派の大は律法を十分に守りました。それはそれでいいのです。しかし、彼はいつしか先走りして、律法を行っているゆえに自分を良しとし、逆に、律法を行っていないゆえをもって徴税人を悪とする、そういう絶対的な区別をする垣根に、律法を仕上げてしまっていたのです。一方徴税人の方は、律法を守っていませんから目を上げることもできません。ただ彼は、良いものにも悪いものにも等しく太陽を昇らせ、等しく雨を降らせてくださる、区別を越える神の無限の包容に、ひたすら身を委ねているのです。

 ファリサイ派の人は神に祈っていながら、実は神を全く見ずに、律法を物差しにして人だけを見ています、そしてひとより高いと自分を誇っています。徴税人は目を伏せながら、実は目を高く天に上げ、神の無限の包容に身を委ねています、彼は神の哀れみを乞うのみで、他の人のことなど眼中にありません、彼はひとを全く見ていません。

 ファリサイ派と徴税人、両者の心の有様は、両者の外見とは実は全く正反対なのです。ファリサイ派の人の心は実は浅く、それは他と比べて自分の方がましだという、先走りした自己満足となっています。徴税人の心は実は深く、それは自分を手放して、ただ神の無限の包容の下に置くしかない、自分の浅ましさを見つめる、そういう自己放下となっています。それはつまり、魂の医師であるイエスの癒しに常に委ねている《病人の自覚》とも言い換えてよいようなものです。そして、この病人の自覚を生きる、そこにこそ人の完全というものがあるのではないでしょうか。

 イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」と言い、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9・1213)と言われたのです。私はこのみ言葉に、人間が神の前に完全になるこつがあると思います。それは、生涯、病人の自覚に止まるということです。どんなに順調でも、間違っても自分は健康だなどと決して思わないことです。生涯一病人として生きる、求められている人の完全は、そのあたりにあるのではないでしょうか。

 

 包容無限の神の完全にお応えする人の完全、それは、《生涯一病人として共に生き合うこと》、そのあたりだと思います。

 

 

 (終)