6 命そのもの

 

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

14「いと高きところには栄光、神にあれ。

 地には平和、御心に適う人にあれ。」

15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを

人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

              (ルカによる福音書 2・8~20

 

 

 イエス・キリストは、教会の信仰によれば、ユダヤの寒村ナザレに生まれ、(おのれ)(むな)しくして(しもべ)の道を歩み、最後は私たちの救いのために十字架について、神の赦しの愛を示してくださった方ということになっています。教会はこの信仰を2000年にわたり語り伝えるとともに、さまざまな活動を通してその証しをしてまいりました。皆さんが属し、活躍しておられるYWCAも、その活動の一つであると思います。その意味では、YWCAの創立者はイエス・キリストであると言ってもよいでしょう。今日は、そのイエス・キリストの誕生を記念するクリスマス礼拝であります。聖書の語るその出来事に、しばらくご一緒に思いを致してみましょう。

  イエス・キリストの誕生についての記事は、聖書の中に二つあります。一つは、先程読んでいただきました、ルカによる福音書2・8~20で、そこには、野宿をしていた羊飼いたちに、天の使いが、ベツレヘムにイエス・キリストが生まれたこと、そして、布にくるまって飼い葉(おけ)の中に寝かされていることを告げ、羊飼いたちはそれを目印にイエスを捜しあてて、神を賛美したという話が記されていました。

 もう一つは、マタイによる福音書2・1~12です。よくご存じだとは思いますが、読んでみましょう。

 

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星(せんせい)術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、(もつ)(やく)を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 

 東から来た占星術の学者が、星に導かれてベツレヘムに来て、イエスにまみえ、献げ物をしたというこの話は、ルカ福音書の話に劣らぬ、美しい詩情溢れる話です。そして、聖書の伝えるクリスマスの話は、この占星術の学者の話と羊飼いの話、この二つだけです。

 ところで、まずお話ししたいと思っていますことは、これら二つの話の内容についてではありません。それは、それぞれの話の結びの言葉についてです。と言いますのは、面白いことに、この二つの話はまったく別の話であるのに、結びの言葉だけは完全に同じだからです。

 マタイ福音書の方を見ますと、2・12に「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とあります。ルカ福音書の方を見ますと、2・20に「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」となっています。つまり、共に「帰って行った」という言葉で終わっています。これは興味深いことではないでしょうか。そして、さらに興味をそそられますことは、その、それぞれ帰って行った彼らが、それを最後にして再び聖書の世界に登場することはなかったということです。

 

 学者たちの(ささ)げた黄金、乳香、没薬は、星占いに際して使用する道具であったといわれます。ですから占星術の学者たちにとってそれらは、極めて大事なものであったと言わねばなりません。それを献げたのですから、それは自分自身を献げたようなものであり、彼らにとってイエス・キリストの誕生は、極めて大きな意味を持つものであったことが(うかが)われます。ですから、この後、彼らは一体どのような生活をするものになったのだろう、と大いに興味のあるところですが、聖書は何も伝えないのです。「帰って行った」でおしまいなのです。帰って行った後彼らが、キリストによってどのように変わったのか、キリストのために何をするものになったのか、知りたいところですが、なにも分かりません。

 この点は、羊飼いたちもまた同じでした。天使のお告げを聞いて、直ぐに駆けつけ、布に包まれた飼い葉桶のイエス・キリストを見て、人々に知らせ、神を崇め賛美したとありますから、彼らにとってもキリストの誕生は極めて大きな意味を持つものであったはずです。しかし、「帰って行った」後、彼らはどのように変わったのか、キリストのために何をするものとなったのか、聖書は何も伝えないのです。

 このように、占星術の学者も羊飼いも、ともに「帰って行った」で、聖書の世界から消えてしまいます。その意味では、この二つの話は、それぞれこれで完結しているのです。イエスの誕生を伝える二つの話が、それを喜び、感謝し、賛美した人々のその後について、なにも語らず、それでおしまいということは何を意味するのでしょう。それは、イエス・キリストの誕生において現れた神の愛を感謝し、喜ぶものの態度が、具体的に、ここに全部描きつくされている、これ以上に求める必要はない、否、これ以外に求めてはならない、ということではないでしょうか。たった二つしかないクリスマスの物語が、二つとも、主人公が「帰って行った」で完結して、その後何の発展もない、言わば短編読み切りになっているということからわたしはそのように思うのです。クリスマスを喜び、感謝するものの人生態度は、すでにこの短い話の中に語りつくされている、そう思うのです。

 

ではこの二つの話の主人公たちは、イエス・キリストの誕生において現れた神の愛を、どのような態度で感謝し、喜んだのでしょう。

 まずマタイ福音書の方ですが、そこに出てくる占星術の学者たちは「東の方から」来たと書いてあります。「東」とはここではバビロニヤ付近を指しています。星占いである彼らは、星を見ていてイエス・キリストの誕生を知り、遥々(はるばる)とバビロニヤから旅をして来たのです。彼らは、ユダヤ人からいえば異邦人です。ですから、ユダヤ民族の待ち望んでいた救い主イエス・キリストには、一応関係がない人々ですのに、旅をして来たのです。当時の旅ですから大変であったと思いますが、星の招きに心動かされて、遥々とやって来たのです。

 一方、この学者たちとは対照的な態度をとった人が、この話に出て来ます。ユダヤの王ヘロデです。彼は学者たちからイエスの誕生の話を聞きながら、祭司長たちを集めてイエスの誕生した場所を調べさせたり、その結果を学者に教えたりはしましたが、自分自身は最後まで一歩もエルサレムから動こうとせず、遂にベツレヘムに行くことをしませんでした。

 エルサレムからベツレヘムまでは約8キロの道程です。私は約30年、京都御所の近くにある教会におりましたが、その間、毎朝のように御所一周のジョギングをしていました。御所は一周4キロです。ゆっくり走っても30分を越えることはありません。エルサレムとベツレヘムというと、私はいつもこのことを思うのです。つまり、エルサレムからベツレヘムまでは、御所二周、軽く流すように、時には歩くことを交えて走っても、一時間くらいで行ける距離です、本当に近いということです。でもヘロデ王はベツレヘムに行こうとはしませんでした。それは自分の王としての地位を守るために、「救い主」と呼ばれる人の存在を認めたくなかったからです。それどころか逆に、幼子イエスを殺そうと画策したことが、この話の後の方に出てきます。

 バビロニヤから長い長い旅をして、動いて来た古星術の学者たちと比べて、何とわずか8キロをも、動こうとしないヘロデ王。そして、クリスマスに神の愛を感謝し、喜びを味わったのは、動く学者たちであって、動かぬヘロデ王ではなかったのです。この点、つまり学者は動き、王は動かなかったという点に注意しましょう。

 ところで学者たちは、イエスを拝んだ後、ユダヤ民族の待ち望んでいた救い主の誕生を祝ったからといって、別にユダヤ教に改宗したようには思えません。そんなことは書いてありません。彼らは相変わらず、異邦人であり、異教徒のままです。聖書はそんなことに興味を示していないのです。クリスマスにおいて大切なのは、そういう宗教の問題ではないようです。宗教を変えることではなくて、人生態度を変えること、それが人間にとって第一義であること、クリスマスが語りかけてくる問題は、それなのです。

 学者たちは占星術の専門家ですから、天を仰ぎ、星の運行を絶えず見つめる人々でした。彼らは夜空に拡がる無数の星を常に見上げている人々でした。そのように上を見上げていた彼らは、ある日不思議な星を見て、動くものになったのです。上を見上げて動く、それが学者たちがクリスマスを喜び、クリスマスに感謝し、神の愛に生かされている態度でした。

 これに対し、ヘロデは反対でした。人々の顔色をうかがい、ローマの意向ばかりを見詰めて、自分の王位を固守しようとしていました、つまり、下ばかりを見詰めてヘロデは動かなかったのです。そして、(わず)かに8キロ、目の前にある、神の愛を示すクリスマスに出会うことができず、その喜びを知らずに終わりました。

 学者とヘロデの、この対照的な態度が教えようとしていることは次のことです。すなわち、上を見上げて自分を動かす、つまり、心を開いて自分にこだわらず、自分にとらわれず、自分を動かして行ける広い心、そこに、イエス・キリストにある神の愛に生かされ、それを喜んでいる人の態度があり、逆にヘロデのように、下を見詰めて自分を動かそうとしない、つまり、心を閉じて自分にこだわり、自分にとらわれ、自分を動かせない狭い心、そこには、折角の神の愛を拒んでいる人の姿がある、ということです。

 結局クリスマスは、小さい自分にとらわれず、こだわらず、広く、広く、もっと広く生きるように、と招かれる神の業です。そこにこそ、神の愛に生かされている人間らしい人生態度があることを示す神の業なのです。占星術の学者たちは、「帰って行った」後も、そのように生きて神の愛を感謝し、喜び続けたことでしょう。ですから「帰って行った」後は、別に知る必要はないのです。

 

 次にルカ福音書の方ですが、ここに出てくる主人公、羊飼いは、クリスマスの知らせをどのように受け止めたでしょうか。

 ここではクリスマスの知らせを真っ先に聞いたのは、知識も、教養も、信仰もあるファリサイ派の人々、あるいは、学者、長老と呼ばれる人々ではありませんでした。羊飼いでした。彼らは、体を動かして厳しい自然の中で羊と共に暮らす、言わば土臭い人々でした。その彼らが真っ先にクリスマスのおとづれを聞いたのです。

 ところで天使のお告げを聞きますと、彼らは恐れはしましたが、直ぐに言います、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」、そして、急いで行って、イエスを探しあてたのです。彼らは、天使のお告げについて、それがいったい何を意味するのか、考えようとはしない人々でした。恐れたものの、そこで立ち止まって考える、思いを巡らす、そういうことはしない人々でした。そういうことは苦手の人々でした。彼らは、お告げの中身をじっくり考えるよりも、まず告げられたことを見ようとし、それを急いでする人々でした。そして、探しあててイエスを見たとき、その見たことが、何もかも自分たちに語られたとおりであると納得し、神を崇め、賛美しながら、帰って行ったのです。

 天使のお告げを聞いたとき、彼らは恐れています。それはそうでしょう。預言者でもなく、宗教家でもなく、学者でもなく、王でもない、一介の土臭い羊飼いに、そんなことが起こるとは予想もできないことですから。しかも、夜通し羊の番をしている最中です。羊を放って置くわけには行かない状態です。仕事中なのです。しかし、彼らは「さあ、ベツレヘムへ行こう」と急いで出発したのです。別に天使は彼らに「ベツレヘムに直ぐ行け」とは言っていません、「お生まれになった」と言い、そして、その生まれた救い主の「しるし」を教えただけです。それであるのに、「さあ、ベツレヘムへ行こう」なのです。信仰厚いというべきか、純情というべきか、軽率というべきか、とにかく彼らには、事態をよく理解して、それから行動を起こすという慎重な構えは全然ありません。彼らにあるのは感動です。天使の賛美の中で聞いたお告げに素直に反応し、そのままになれる感性です。知識も、教養も、信仰もあるファリサイ派の人々などにはない感性です。いろいろ思慮分別をし、善悪を判断し、損得を計算し、立場や世間体を考慮する、そういう心の厚化粧をすっかり落とした、身に起こったことをそのままに受け取れる素直な感性です。

 

この感性で彼らは何を知ったのでしょう。

羊飼いというのは、ユダヤでは珍しくない職業でした。50頭から200頭くらいの羊を、頭数の少ない羊飼いは自分一人で、あるいは、時には子供たちに手伝わせながら、そして、頭数の多い羊飼いは人を雇って手伝わせながら、飼っていたようです。獣に襲われないように、泥棒に盗まれないように、あるいは、迷い出さないように羊を見守りながら、時には水を飲ませるために水場を求め、時には餌をやるために草場を求めて、厳しいユダヤの荒野をさまよう、それが、彼らの仕事でした。そして、休む時は、洞窟の中などに羊を追い込んで野宿していたようです。「野宿をしながら、夜通し羊の番をしていた」とありますのは、そういうことでしょう。その仕事の最中に、天使の「救い主がお生まれになった」というお告げがあったのです。

 このお告げで注意したいことが二つあります。一つは、救い主の「しるし」として、イエスが「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子である」と告げられたということ、もう一つは、天使は羊飼いたちに命令して、「救い主を拝みに行きなさい」とは言っていないことです。つまり、救い主を見分ける手がかりとしての「しるし」を示しただけで、拝みに行くか行かないかについては何の指図もしなかったことです。ですから、羊飼いたちは、いま仕事中なのですから、羊を置いて簡単には動けないわけですから、行かなくてもよかったと思うのです。クリスマスのページェントでは、数匹の羊を連れて羊飼いが現れますが、あれはページェントの話です。

50頭から200頭の羊を、置いて行くにしても連れて行くにしても、いずれにしても簡単にはベツレヘムに行ける状態ではなかったのです。

 大体こんな大切なお告げは、常識的に考えても、もうとっくに偉い人たちには告げられていること、と思うのが普通ではないでしょうか。何も自分たちが仕事を投げ出してまで飛んで行って、人々に知らせなくてはならないことではない、と考えるのが普通じゃないでしょうか。ところが彼らは話し合って、「さあ、ベツレヘムへ行こう。」と急いで行動を起こし、乳飲み子イエスを探しあて、そして、人々に知らせた、ということになっています。どうしてこんな、考えようによっては出過ぎたことを、彼らはしたのでしょう。

それは、わたしの考えるところ、天使の告げた救い主の「しるし」のせいであると思

います。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」、このお告げが、彼らを、「さあ、ベツレヘムへ行こう。」と突き動かしたのではないか、とわたしは思います。

 というのは、皆さんは「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」という言葉から、どういうことを連想されますか。神の独り子が、人間と共にあるために、何人(なにびと)も経験しないような、(いや)しい姿でお生まれになった、と神の愛と謙遜を思われるでしょうか。それはその通りだとわたしも思いますが、敢えて言えばわたしは、そういうことよりも、むしろ「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」に、ずばり《命そのもの》を連想します。

 なぜなら、飼い葉桶というのは、動物からいえばそうではないでしょうが、人間からいえば、決して奇麗とは言えない、むしろ汚い、臭いものです。その桶の中に、布にくるまっているだけの裸の赤ん坊が寝ているのです。それをじっと見つめていると、わたしは、人間的な一切の虚飾を脱ぎ捨てた命そのものを、連想するからです。つまり、人間的な意味でいえば何もないけれども新鮮そのものの命、輝くばかりの、はちきれんばかりの命そのものを連想するからです。こんな考え方おかしいでしょうか。

 一体命そのものとは、わたしたちはそれを生きているくせに、日々の暮らしの中で、実は忘れているものです。日々の暮らしの中で幸福や、富や、名誉や、地位や、業績やらを追い回し、あるいは、怒りや、(ねた)みや、不安や、恐れやらに捕らわれているうちに、忘れてしまっているもの、それが命そのものです。

 わたしたちは日頃、生きているという端的な事実を、自明のこととして、あまり意識してはいません。忘れています。そしてわたしは、この忘れている命そのものを、この「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子イエス」に、連想するのです。何もかも脱ぎ捨てた命そのものが、そこにあると思うのです。

 そして、さらに思うのですが、羊飼いたちも、この命そのものを、実は忘れていたのではなかったか。つらくて単調な毎日とはいえ、羊を飼う仕事に追われていた彼らは、生きていることを当然のこととし、病気や不幸や、事故などにあわない限り、すべて問題がないかのように思っていたのではなかったか。しかし、その羊飼いたちも、天使の告げた救い主の「しるし」、すなわち「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」に、はっと自分たちが忘れているもの、この命そのものを思い出したのではなかったか。イエスが「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」(ルカ12・20)、と言われた、その命そのものを思い出しだのではなかったか。わたしたち人間の意思に関係なしに与えられ、そして取り上げられる、言わば神の領域に属する命そのものを、思い出したのではなかったか。そして、裸のイエスにこの命そのものを見た、気付いた羊飼いたちは、拝みに行けと言われなくても、急いで行かざるを得なかったのではないか、わたしはそんなことを思うのです。

「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」という、イエスが身に帯びた「しるし」を聞いて、彼らが「さあ、ベツレヘムへ行こう。」と即座に反応したことは、決して軽率なことではなくて、彼らが人間としての本来に目覚めた行動、今夜、命が取り上げられることに、いままで気付かないで暮らしていた、その人間としての愚かさ、鈍さ、迂闊(うかつ)さに彼らが気付いた行動、と言わねばなりません。そして、この人間としての愚かさに気付くその感性、それこそが土臭い羊飼いたちが持っていた《命そのものに感動する素直さ》であったと思います。

 結局クリスマスは、日頃、暮らしに埋没して忘れている、神の領域に属する命そのものに気付かせてくださる神の業です。それに目覚めて生きるところに人間らしい人生態度があることを示す神の業です。羊飼いたちは、神を崇め賛美しながら帰って行った」後も、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」を、日々自覚しつつ、 クリスマスの神の愛を感謝し、喜びつつ生きたのではないでしょうか。暮らしに流される《生活》から、命を考える《人生》へ、生きる重心を移しながら生きたのではないでしょうか。ですから「帰って行った」後のことは別に知る必要はないのです。

 

 今日は、二つの降誕物語からわたしの示されましたことを、証しさせていただきました。占星術の学者からは、上を見上げて動くこと。羊飼いからは、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」に目覚めて生きること、その二つです。

 クリスマスの恵みに対する感謝と喜びを現す表し方は、いろいろありましょう、しかし、本質的にはこの二つの生きる態度に凝縮されるのでないか、わたしはそう示されております。今宵取られるかもしれない命に思いを()らしながら、自分に捉らわれず、こだわらず、広く広くもっと広い心で生きたいと思います。その人生態度で、命そのものであるイエスの誕生を祝い、感謝し、喜んでいきたいと思います。

 

 (終)