7 仕える-神の目と周囲の目-

 

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣(みなら)ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

           (マタイによる福音書 23・1~12

             

 

  今日の聖書の個所は、小見出しが「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」となっている段落の、冒頭部分ですが、一体なにについてイエスは非難されたのかと申しますと、彼らの偽善についてでした。それを、ここでは、群衆や弟子たちに向かって語り、その次の、読んではいただきませんでしたが、1336節では、直接、律法学者やファリサイ派の人々に向かって語っておられるのです。しかし、今日はそういう話全体についてではなくて、冒頭部分の最後の言葉、1112節に特に注意して、そこを中心に学びたいと思います。というのは、偽善を非難されたこの段落の中で、この両節は、おさまりが悪いというか、前後とのつながりから浮いているというか、そんな感じがするところだからです。1112節はこうなっています。

 

あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 

 どうして、こんな言葉が、偽善を話題にしているところに出てくるのでしょう。皆さんはどうでしょう。わたしは変な気がするのです。「偽善」の問題と「仕える」問題、どう結びつくのでしょう。それを今日は学んでみたいと思います。

 まずこの問題に入る前に、1336節、1~12節の順で、イエスが非難、警告された彼らの偽善について、少し学んでおきたいと思います。

 

 13節から36節には、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という文言が、繰り返し七回出てきまして、彼らの偽善が七つまとめて記されています。イエスは偽善批判を、あちらこちらで弟子や群衆に、繰り返し語られたに違いありません。それらがここにまとめられていると思われますが、この中に出てくる二つの言葉に注意して、それらを鍵に彼らの偽善の意味を考えてみたいと思います。1315節を読んでみましょう。

 

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を1人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。

 

 律法学者やファリサイ派の人々は、ここで「不幸だ」と言われていますが、この「不幸だ」という言葉に注意したいと思います。それが、彼らの偽善を理解する場合の、鍵になる言葉の一つと思われるからです。

「不幸」というこの言葉の元の意味は、悲嘆を表しています。ですから彼らが偽善者であることを、イエスが「ああ何と悲しいことだろう」と嘆いて、「不幸だ」とここで言っておられる、と考えられます。そしてこの「あなたたちは、不幸だ」という言葉は、いまお読みしました13節、15節に引き続き、16節、23節、25節、27節、29節にも繰り返されていまして、先程申しましたように全部で七回、彼らは「不幸だ」とされているのです。

 ふつう偽善者は、悪いとか、(ずる)いとか、二重人格だとか言われることはあっても、「不幸だ」と言われることはないでしょう。それであるのに、ここでイエスが、偽善者を「不幸だ」と言われたということは、興味深いことではないでしょうか。イエスの最初の説教、山上の説教ではこことは対称的に、九つの「幸い」が神にあって生きるものの姿として語られていました。そのことと考え合わせますと、この「不幸」という言葉がここで使われていることは、大切なことを示していると思われます。

 それは、神にあって生きることを「幸せ」と考えておられるイエスが、偽善を「不幸だ」と言われたのですから、偽善はその本質において神にあって生きないことと、イエスが見抜いておられたということです。偽善はその意味で、イエスにとって、道徳の問題というよりは、信仰の問題であったのです。

 広辞苑で調べてみますと、偽善とは、「本心からではなく見せかけにする善い事」と説明されています。偽善がもつ一番本質的な問題点は、《見せかけ》です。人は誰でも見せかけに弱いものですから、確かに見せかけで人を欺くことはできます。しかし、果たして神を見せかけで(あざむ)くことはできるのでしょうか。人間が見せかけの蔭に隠した本心を、見抜くものこそが神ではないでしょうか。詩編の中には、巧妙に思いを隠して悪を図る人に、神の矢は深く届いて、その隠れた本心を(あば)くことを歌ったものがあります(詩編64)。そのように見せかけでは、神の前に人はその思いを隠すことはできないのです。それであるのに、それが出来ると思って偽善的に振る舞うなら、それは神を見せかけでだませる程度のものと、見誤っていることであり、それは神を信じていないのと同じこと、神を見ていないのと同じことです。ですから、神を見せかけでだませる程度のものと見做(みな)している彼らの偽善は、単に道徳的に悪いことというよりは、実は彼らが神を信じていないことの(しるし)なのです。イエスにとって偽善は、人が人を見せかけでだましているのではなくて、人が神を見せかけでだましている不信仰のことでした。

 次に1622節に進んでみましょう。ここには誓いについての律法学者、ファリサイ派の人々の詭弁が、偽善として取りあげられています。読んでみましょう。

 

ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。

 

 律法学者、ファリサイ派の人々は「ものの見えない者」とされています。この「ものの見えない」という言葉に注意しましょう。これが、先程申しました彼らの「偽善」を考える場合の鍵になる、第二の言葉です。

 ここには彼らが、同じく神の名によって誓うといっても、何をかけて誓うかで、その効果が違うという強引なこじつけをしていたことが記されています。神殿をかけて誓うか、神殿の黄金をかけて誓うか、祭壇をかけて誓うか、祭壇の上の供え物をかけて誓うか、それによって誓いの重みが違うといった、およそナンセンスな不毛の議論で、結局、誓いというものを骨抜きにしていたことが記されています。そして、その不毛さが分からないのは、イエスに言わせれば、神が本当に見えていないからであり、彼らはその意味で、「ものの見えない者」と繰り返し、ここで呼ばれているわけです。この言葉は、16節、17節、19節、さらに24節、26節と五回繰り返し出てきます。「ものの見えない」とは(神が見えていない)ということでした。

 以上律法学者、ファリサイ派の人々の偽善について、いま指摘しました二つの、何度も繰り返された言葉、すなわち、「あなたたちは不幸だ」と、あなたたちは「ものの見えない者だ」、とを鍵にして考えてみますと、結局、彼らの偽善の本質は、彼らが神を信じると言いながら、不幸なことに実は不信仰であり、神が見えていないということにあったのです。神を口にしながら、そして神の名において何を、どれだけ、厳密に、立派にやろうとも、彼らは神が見えていない、すなわち《神の目》の前で振る舞ってはいないということ、その一点に、彼らの信仰の正体があったのです。彼らが意識しているのは、結局《人の目》であり、人の目の前で振る舞っているだけなのです。その意味で、彼らの信仰は、神のいない見せかけであったのです。

 

 そしてイエスは、この彼らの偽善に注意するよう、警告を教会に向かってされました。それが、今日の個所1~12節ということになります。

 1節によりますと、イエスは「群衆と弟子たち」、つまり、イエスを信じて集まっている誕生間もない原始教会のことですが、その「群衆と弟子たち」に語られます。ユダヤ教との関係はそこにおいてはまだ強く、律法学者、ファリサイ派の人々は、なお「モーセの座に着いている」、つまり、神的権威を持つものであったのでしょう。2節にそう書いてあります。律法を読んだり説き明かししたりする彼らの影響は、原始教会の中で、なお消し(がた)くあったと思います。イエスもそれを認め、3節で「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」と言われます。しかし、彼らは言うだけで実行しないから、彼らの真似をするな、とも言われています。これはどういう意味なのでしょう。

 彼らの言行不一致の真似はするなという意味でしょうか。そうではないと思います。と言いますのは、ファリサイ派の人たちは決して言行不一致ではなかったからです。例えば、わたしたちのよく知っている、ルカ18章にあります、ファリサイ派の人と徴税人が共に宮に上って祈った時の話では、ファリサイ派の人が「わたしは週に二度断食しており、全収入の十分の一を献げています」と言っていますが、あれは決して誇張でも、嘘でもなく、彼らはそのとおり実行していたと思います。だからこそそう言えたのであり、言行一致こそは、当時のファリサイ派の人たちが強調していたことでありました。4節で「重い荷物をくくって人々の肩に載せるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない」というのも、律法の細則を作って、それを重い荷物のように人々に課すだけで、彼ら自身がその細則を実行しなかったという意味ではなく、その実行のために人々の手助けをしなかったという意味です。手助けをしなかったという意味では、愛は足りなかったかもしれませんが、彼らの言行は不一致ではなかったのです。彼らは律法で定められたことは、実際に行っていたと思います。では彼らの問題は何であったのでしょうか。

 彼らの問題は言行不一致ではなくて、彼らがそれを行うにあたって、神に向かってなすべきそれらのことを、すべて人に見せるため、人に誇るためにしていたこと、その点であったのです。だから、イエスは5節で「そのすることは、すべて人に見せるためである」と喝破して、彼らの行為の動機を見抜いていることを示されたのです。彼らの実行していることは、すべて人に見せるため、人から注目されるため、人から尊敬されるため、そして、「先生」と人から呼ばれるための見せかけで、神に向かっては全く実行していなかったのです。そしてそれが、「彼らは言うだけで実行しない」の意味です。5~10節に列挙されている、聖句入り小箱を大きくするとか、衣服の房を長くするとかは、全てそういう彼らの見せかけの例であったのです。

 彼らは確かに神のことを語り、律法を教え、それを実行しています。生活全体が信仰に貫かれているようにみえます。神が崇められているようにみえます。しかし、彼らの本心は、自分のしていることを人に見せて褒めて貰い、自分自身が崇められることなのです。その意味で、学者、ファリサイ派の人々の信仰生活の中には、神は生きていないと言わねばなりません。しかも彼らは、口を開けば神であり、律法でありました。結局、彼らは見せかけの信仰で、神を欺いているのです。イエスが「彼らのすることにはならうな」と言われたのは、まさにその点、偽善についてでした。決して彼らの言行不一致についてではないのです。問題は彼らの信仰の見せかけでした。                       

 この神に対する見せかけの信仰、これがここで群衆と弟子たちとが形成する原始教会に与えられた警告でした。そして、先程13節以下にみました学者、ファリサイ派の人々の偽善は、その見せかけの悪しき例として記されていたのでした。

 

 ではどのようにしたら、神不在の見せかけの信仰は、神が見えている本物の信仰になるのでしょう、そのために具体的にどうしたらよいのでしょうか、1112節でイエスはその答えを示されました。もう一度読んでみましょう。ここが、冒頭に申しましたように、今日、皆様と一緒に一番心を致したいところです。

 

あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 

 皆さんはどう思われますか、この言葉には、10節までのイエスの言葉とはちょっとつながりの悪い感じのする唐突さがあるのではないでしょうか。そう皆さんは思われませんか。と言いますのは、見せかけというのは《周囲の目》を意識して起こることです。ですからここで見せかけを戒めるにあたって、そういう目を気にするな、といったようなことが語られるとつながりがよいのですが、期待に反してイエスはここで、見せかけへの警告として、「仕える者」になるように、「へりくだる者」になるようにと勧めておられるからです。つまり、イエスによれば、偽善の反対は、周囲の目を気にしないで自分を(さら)して、本音で生きるとか、正直に生きるとか、ありのままに生きるとか、そういうことではなくて、「仕える者」になることなのです。イエスによればそういうことになります。つまりイエスによれば、見せかけの反対は、「仕える」なのです、見せかけの反対は、「へりくだり」なのです、これはどういうことなのでしょう。私か今日の御言葉で一番考えさせられたのは、この点です。

 

 かって日本が中国を侵略して満州を建国、支配していた頃、満州国の高官であった日本人の書いたものに、こんな話がありました。ある日彼が役所から夕方帰宅した時、思いがけない場面を見たのです。まだ日が落ちていない明るい時間帯だったそうですが、満州人の使用人がたくさん働いている中庭の真ん中を、彼の娘、それも年ごろの娘が、素っ裸で堂々と、まるで周囲に誰もいないかのような態度で通り抜け、自分の部屋から風呂場に入って行く、そういう場面を偶然に見たのです。

 彼はその瞬間、満州国は滅びる、日本は中国に負けると思ったそうです。娘にとって満州人は、自分の裸を見られても恥ずかしくも何ともないもの、犬か猫か、少なくも人間ではないのです。彼は、自分の娘のその態度を見て、ここまで満州人を蔑視する考えを子供に植え付けてしまった、日本のそれまでの満州政策の誤りに、愕然とするものがあった、と言います。満州人を人として扱っていない、犬猫同然に扱っている、そういう日本人がどうして彼らの支持を得られる国をつくることが出来ようか、満州建国は失敗だったと思ったそうです。事実そのとおりになりました。

 

 人を他者なる人として認識した時、なんらかの意味の緊張を感じ、恥じらいを感じ、それを周囲の目として意識するのは、自然なことであり、ある意味では人間として大切なことではないでしょうか。周囲の目が気にならないのは、相手を無視しているか、軽蔑しているか、自分がだらしがないか、無神経か、いずれにしても人間としては問題のある態度です。周囲の目など気にならない、気にしないという人もいますが、そこには人間として何か欠けている、不自然さを感じさせるものがあります。人は一人で生きているわけではないのですから、周囲の目は必ずあるのであり、それが気になるのは自然なことであり、周囲の目を気にするのは、人を他者として、その存在を認識しているゆえの気配りであり、人間としては失ってならないセンスですらあると思います。イエスも、見せかけの偽善への警告はされましたが、だからといって周囲の目など気にするな、とは一言もここで言われなかったのです。

 人が何らかの意味で周囲の目を意識して生きているのは、自然なのです。その意識を全く心の底から取り除く、そんなことは人間には出来ませんし、する必要もありませんし、するべきでもないのです。周囲の目を意識することは、それはそれで大切な、人間の感覚です。この感覚を麻痺させてはならないと思います。

 問題は、人を見ているのは、その周囲の目だけではないということです。もう一つの目、すなわち、神の目も人を見ているということです。そして、神の目の下に自分を置いた時、つまり、常に(そそ)がれている神の目を自覚した時、初めて人は周囲の目を正しく周囲の目として意識出来るということです。神の目の注がれていることに気付かず、周囲の目をのみ意識している時、人は周囲の目を気にする臆病な偽善に陥るか、あの娘のように周囲の目を無視する無神経な傲慢に陥るか、どちらかになります。どちらにしてもそこでは自分を見失い、生きる態度が崩れます。

 人は二つの目で見られて生きているものです。神の目と周囲の目。そして、神の目とは、それに見つめられていることに気付いた時、それを自覚した時、人は自分の身勝手さ、小ささ、弱さ、愚かさ、高慢さを示され、いずれにしても、のさばっていた自我が打ちのめされて、人としての貧しさに恥じ入り、へりくだりに導かれ、心を開いて上よりのものに満たされることを切に祈るものとされます、そのようなのが神の目です。そして弟子の足を洗い給うたイエスにならって、どんな人に対しても仕えようとする願いを抱くものにされます、そのようなのが神の目です。先に述べたように、ファリサイ派の人々が見せかけに陥ってしまったのは、この常に注がれている神の目の前にあるという自覚が、彼らに欠けたからであって、彼らが周囲の目を意識したから見せかけに陥ったのではないのです。周囲の目を意識することは悪いのではないのです。それが原因で見せかけになるのではないのです。そうではなくて神の目に見つめられていることに気付いていないから、見せかけになるのです。神の目を自覚していないから、自我がのさばって周囲の目が気になるのであり、そこに見せかけが出てくるのです。その逆ではありません。その点は、忘れないようにしましょう。

 いずれにしても神の目を真に自覚している時、人はへりくだりに導かれ、周囲がそれまでとは違って、気にするよりは仕えるべきものに見えてくるのです。神の目は、周囲の人々がたといどんな人であっても、へりくだって仕えるべき人として見るように、迫ってくる目なのです。学者、ファリサイ派の人々の見せかけを批判されたイエスが、唐突に「仕える者になりなさい」という11~12節の言葉をもってその警告を終えられた意味はそこにあります。それは、神の目を自覚しなさいということなのです。

 何度も言いますが、周囲の目を気にすることは自然な、大切なことなのです。イエスはそれを否定されませんでした。むしろ周囲の目を正しく受け取るために、まさにそのために、まず決定的に大切なこととして、気にしなくてはならないのは、神の目であることを言われたのです。いつもどんな場合にも注がれている神の目をまず覚えて、仕える者となることを願いつつ、へりくだって生きなさい、それが偽善に陥らない道です、といわれたのです。

 

 ところで神の目を自覚して生きると言いますと、そんなこと言われるまでもない、信仰者として常識だと私たちは思うかも知れません。神の目に気付いて、その前で振る舞っているのが信仰者ではないか、と思うかも知れません。しかし、どうでしょう、わたしたちが意識しているのは、建前としては確かに神の目ですが、その実際は、周囲を気にする目、周囲に見せかける目、周囲を疑う目、周囲を無視する目になっているのではないでしょうか。律法学者やファリサイ派の人々にされたイエスの《見せかけ》批判は、そのままわたしたちにあてはまるのではないでしょうか。省みて、少なくともわたし自身は、神を見ていない、信じていない、神の目を真に自覚して振る舞っていない、そう思わざるを得ない点が多々あることを、否定できません。

 信仰は見せかけになりやすいものです。それは自分が一番よく知っていることではないでしょうか。見つめてくださっている神の目に素直に気付いて、「へりくだる者」となり、「仕える者」となることで、信仰の見せかけへの崩壊、偽善を防がねばなりません。

 

 まことに奇妙なことなのですが、信仰には、神の見えている信仰と、ファリサイ派の人々にみられるような、神の見えていない信仰とがあるのです。一見その違いは分かりません。両者の違いは、ただ「へりくだる」「仕える」の一点にあるからです。それ以外は全部同じだからです。そして、どちらの信仰に属するか、それが分かっているのは、本人自身だけ、いや本人も分からないのです。ましてひとには分からないのです。偽善を非難されたイエスが、この長い非難の言葉の中に、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という、おさまりの悪い言葉を混ぜられた意味は、そこにあります。

 信仰者なら皆神の目の前で振る舞っているはずなどと、間違っても思わないことです。神の目の前を生きているなら、「仕える」以外の人生態度を、ひとはとりえないのですから。自分の内に常にある「指一本貸そうともしない」(4節)尊大に、気を付けていましょう。

 

 (終)