8 小さい声で「今が一番いい」

 

18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

            (マタイによる福音書 11825

 

             

 

  マタイによる福音書11825を通して、私の示されましたことをお証しして、クリスマスのメッセージとさせていただきます。

 18節を読んでみましょう。

 

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

 

 マリアは「聖霊によって」身重になるのです。言い換えれば、イエスの誕生において、ヨセフは父としては排除されたのです。ヨセフの出る幕はなかったのです。しかし、聖書をよく読みますと、この処女降誕の話において、実は決定的役割を果たしているのは、このヨセフでした。19節を見ますと

 

夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

 

とあります。ヨセフは、自分の子でない子を宿した、言わば不倫のマリアを離縁する決心をしたのです。ところが実際にその決心どおりに離縁したかというと、そうではなくて、24節にヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、とあります。ヨセフは一度離縁の決心をしました。その決心をするだけでも苦しい葛藤の末のことでしょう。それであるのにその決心を、覆す決心をもう一度して、マリアを妻として迎えたのです。この二つの決心をしたヨセフの心の中の戦いなしに、おとめマリアの子としての、イエスの誕生はなかったのです。それを思えばヨセフは終始黙って、一言もものを言いませんけれども、イエスの誕生において、彼は決定的役割を果たしたと言わねばなりません。そして、このヨセフを通して、聖書全体のモチーフとも言うべき、神は我々と共におられる、インマヌエルの秘義が語られるのです。2223節に記されているとおりです。

 

このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 

 ユダヤにおいては、婚約は結婚とほとんど同一視されたといいます。ですからもし、婚約期間中に、男が死亡することでもあれば、女の方は未亡人とみなされました。二人は婚約において法的には夫婦であったのです。そういう当時の事情を考えますと、この場合のヨセフの驚きは大きかったと思います。しかも彼は、「正しい人」であったと書いてあります。チャランポランな、ルーズな人でなく、ユダヤ教の律法に忠実に、良心的に生き抜こうとする人でしたから、その悩みは痛ましいものであったに違いありません。

 ヨセフは律法に照らして、マリアが婚約中に身ごもったことを、当然、姦淫の罪と考えました。姦淫の罪は法廷に問われ、石打ちの極刑に処せられるべきものです。だから、そうすべきだと彼は考えたでしょう。しかし、愛するマリアをそういう目に遭わせたくない思いも、当然彼にはありました。なんとか律法に背かずに、しかもこっそりと処理できないものか、考えられることは、離縁することしかありません。幸いに婚約中の離婚は比較的簡単であったといいます。法廷に持ち込むことなしに離縁状をひそかに渡し、それを二人の証人が証言すれば、それでよいとされていました。こういうやり方なら、マリアをさらしものにせず、なんとか切り抜けられます。いろいろ考えた末にヨセフの達した結論はそういうものであったのでしょう。19節の「ひそかに縁を切ろうと決心した」というのは、そういう決心であったと思います。

 この決心に至るまで、彼は幾夜か眠られぬ夜を過ごしたに違いありません。そういう決心なのです。ところが先程も申しましたように、ヨセフはその決心を実行に移さないのです。それどころか20節を見ますと、「このように考えていると」とあります。つまり一旦決心した後で、彼は踏ん切り悪く思いめぐらし始めるのです。これは、自分の決心が律法に照らして間違っていはしないかと心配して、もう一度思いめぐらしを始めた、ということでしょうか。そうではありません。いま申しましたように、彼が決心したやり方は、律法の認めているところですから。

 しかし、彼はそこで考えたに違いありません。自分の決心は確かに正しい、けれどもそういう正しさだけで事は済むのか、マリアは一体どうなるのか。いかにひそかにとはいえ、離縁されては彼女はもはや、社会的には葬られたものとしてその一生を歩まねばなりません。生まれてくる子は父なし子として、生涯その負い目を負わねばなりません。自分の決心は正しい、しかし、手放しに正しいといえるのか、これで問題は片付いたといえるのか、どうしてもそうは思えない、ヨセフの心は、思いめぐらさざるを得なかったと思います。彼が「このように考えていると」というのは、そういうことでしょう。

 いずれにしても彼が下した決心自体は、正しいのです。しかし、その決心の正しさは、律法主義に基づいた正しさです。いわば、人間の決めたルールに叶っている正しさです。しかし、おとめが身ごもるという、とても考えられない、降って湧いたような問題は、手持ちのそういう人間的ルールで片付けて済むことなのか。彼はここで、人間の手では片の付かないもの、というよりは、片を付けてはいけないもの、に直面していることを思って、恐れおののいて、思いめぐらしているのです。

 繰り返しますが、彼がマリアの離縁を決心しながら実行せず、思いめぐらしたということは、自分の決心が律法主義にかなっているかどうかをもう一度検討しているのとは違うのです。人間の手で片付けることの許されない問題の前に、彼が立ちすくんでいる、(うずくま)っている、そういうことなのです。

 そして、そこで彼は夢を見たのです。20節の冒頭の「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」はそのことを伝えています。夢とは聖書の世界においては、神が御心をお示しになる手段です。夢によって神の託宣、預言がなされた例はたくさんあります。ここでもそうです。人間の手で片付け得ない問題に直面して、(うずくま)って思いめぐらしているヨセフに、神がそれの片付けかたを夢で教え給うたのです。

 ここで特に注意しておきたいのは、いま申しましたように、思いめぐらしているヨセフが、夢を見たということです。これは大切なことです。もし彼が思いめぐらすことをしなかったなら、つまり、不可解な運命を律法主義で片付けていたら、ヨセフは夢を見ることはなかったでしょう。そして、マリアを離縁してしまったヨセフは、イエスの担い給う奥義、インマヌエル、神は我々と共におられる、ということを知らされることもなかったでしょう。彼が思いめぐらしたこと、そして夢を見たこと、これは、処女降誕において決定的に重大であると言わねばなりません。

彼は人生の不可解さに謙虚に(うずくま)れる人でした。そして、その(うずくま)る心、それに神が御心を示された、それが夢です。ですから、ただ単に正しい人は夢を見ません。一度決めた自分の答えの正しさに安住する人は夢を見ません。なおも迷い、疑い、問いつづける、それを止めない、そういう魂が夢を見るのです。

 そして、クリスマスの訪れは、この夢のお告げでした。クリスマスはそういう意味で、夢見る人にだけ分かるものなのです。クリスマスは確かにすべての人に与えられましたが、しかし、誰にでも分かるわけのものではないのです。それは、夢見る人、すなわち人生の不条理に困惑し、迷い、求め、問い続ける人、問題を持てあまし、手こずり、悩んでいる人、自分の手では片付かないものを無理に片付けず、その前に(うずくま)りつづける人、要するに、《人生に丁寧である人》のものなのです。

 

ところでヨセフは夢の中で何を示されたのでしょう。2021節を読んでみましょう。

 

このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は、自分の民を罪から救うからである。」

 

 それは、要するに、「マリアを迎えよ」ということでした。ヨセフの決心の正反対でありました。ヨセフはマリアを離縁することで、彼の身に降りかかった問題を片付けようとしましたが、神はマリアを受け入れることが、問題の片付けかたであることを示されたのです。さらに、その受け入れた妻マリアが男の子を産むこと、そして、その男の子はイエスと名付けられて罪を救う者となることを示されたのです。つまり、彼に思いもかけぬ大問題となったマリアを、避けるのではなくて受け入れる時、受け入れたそのマリアが、罪の救いを生み出すのです。問題を受け入れることが、救いになるというのです。

 しかし、それにしても、なぜそうなのでしょう。受け入れたら、苛酷な運命が幸せな運命に変わるというのでしょうか。そんなことはありません。少しも変わりません。理由は別のところにあります。もう一度、2223節を読みましょう。

 

このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 

 つまり、ヨセフに苛酷な運命を負わせたマリア、その彼女を受け入れた時、そのマリアの産むイエスが、インマヌエル、神は共におられる方だからなのです。言い換えれば、苛酷な運命においてこそ、神は共におられるからなのです。身ごもるマリアを受け入れねばならないという、ヨセフが人生の不条理を(のろ)ったその辛い運命、避けられるものなら避けたいと思ったその酷な運命、まさにそこにおいてこそ、共におられるのが神だからなのです。

 神は、人間の願いどおりにとんとんと事が運んでいるような、万事問題のない幸いなところには、実は共におられない方なのです。神を幸いなところに共におられる方と、わたしたちは思っているかもしれませんが、実はそうではなくて、人間の思いとは全く別の、万策尽きた人間の限界状況、そこですでに共にいて待っていてくださる、神はそういう方なのです。神はわたしたちが考えているような、あるいは期待しているような、わたしたちに都合のよい方とは全然違うのです。だから逃げては救いがないのです。そして、そのことを示すのがクリスマスであり、その奥義を主の使いは、「ダビデの子ヨセフ、『恐れず』妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と言ったのです。この言葉の意味は実に深いといわねばなりません。

 

 ところで先程からわたしは、ヨセフの直面している状態、不可解な運命をヨセフー人にだけ起こった特殊な状態のように申しています。そして、おそらく皆様も、そう考えておられるだろうと思います。しかし、これはただ一人ヨセフだけのことなのでしょうか。

 

 一九九〇年兵庫県の高等学校で、校門の鉄の扉に女子生徒が挟まれて圧死するという痛ましい事件がありました。それから十年経った今年の五月の半ば頃であったと思いますが、「命の管理はもう止めて」という、聞いたこともない名前の会から話の依頼をいただきました。

 あの時、その事件を、兵庫県教育委員会の管理主義教育がもたらした厳しい校門規制の結果であるととらえて、その責任を追及すると共に、その生徒の死を風化させないで学校教育の現場の改善に生かしていこうという人々が集まって、会が結成されました。その会の名前が「命の管理はもう止めて」なのです。この会には、保護者だけでなくて、広く現在の社会の諸問題を憂える一般市民も加わり、年齢的にもかなり幅のあるもののようでした。あの事件に関する裁判の支援をしたり、問題を深めるための勉強会をしたり、校門前で追悼の集いをしたり、会報を発行したり、あの時から十年間、活動を地道につづけてきておられる会でした。わたしはそういう会の存在すら知りませんでした。電話をくださった方はクリスチャンであり、わたしを知っておられて窓口役を買って出ておられるようでしたが、会そのものは全く宗教色はなく、むしろ社会問題について尖鋭的な、意識の高い人々の集まりのように思えました。

 わたしは、折角のご依頼でしたがお断りいたしました。理由は、あの事件はもちろん知っていますが、関心が薄くもう忘れており、語る知識も資格もないこと、また、もしあの事件を考えるとしても、「命の管理はもう止めて」というような問題意識では考えないであろうこと、したがって、講師としては全く不適任、そう申して堅く断りました。彼女はよく分かってくれ、話はそれで終わりました。

 ところがそのことをすっかり忘れていた九月頃に、また彼女から同じ依頼がきたのです。正直なところわたしは不愉快でした。断る理由はすでに言ってあるのに、いまさら一体なにを話せと言うのだ、何も話すことはないのに、と思いつつ断りつづけました。しかし、今回は彼女はどうしても引き下がらないのです。押し問答がつづきました。そのうちにわたしの考えは変わってきました。そんなに言うのなら、全然考え方も感じ方も違う人々に、自分の考え方をぶっつけるのも意味があるのかもしれない、ひょっとすると、いつもわたしの願っている、《宗教に関心のない人に、宗教的な言葉を使わないで、宗教を語る》、そういうチャンスになるかもしれない、なにもこちらがやらせてくれと言っているわけでなし、失敗してもともと、やってみよう、という気になりました。そして、彼女に「あなた方の会の趣旨に添うような話はとてもできません。むしろ、命の管理はもう止めて、といった問題意識を批判するような話になりますけれど、それでよいのならお引き受けします」と言いましたら、あっさりと「それでよい」という答えでしたので、話はまとまり十月の末にお話に行きました。だいたい次のようなお話しをしました。

 

 あの亡くなった女子生徒はRさんというのですが、あの事故の日、Rさんのいつも乗る地下鉄は、予定時刻より三分遅れたのだそうです。駅から学校までRさんは、遅れを取り戻そうと走ったに違いありません。扉を閉めた先生はカウントダウンをしながら扉を押したそうです。Rさんがその扉を通り抜ける時間は一~二秒、いくら遅くても三秒あれば十分に通り抜けられます。もし地下鉄が遅れなかったら、いや遅れても三分でなくて、例えば2分30秒、あるいは3分30秒の遅れであったら、そして、Rさんの走る早さがもう少し早かったら、あるいは、もう少し遅かったら、そして、先生の扉を押す力がもう少し強かったら、あるいは、もう少し弱かったら、ほかにもいろいろ考えるべき要素はあるでしょうけれども、単純にいま申したような要素だけを考えても、まことに些細(ささい)なそれらのことが不運にも重なり結びついて、運命のその2~3秒に、彼女は校門の《その位置》を通り、扉も校門の《その位置》にきてしまったのです。そして、想像するだけでも胸苦しくなるような痛ましいことが起こったのです。Rさんも、先生も、そんなことになるとは、もちろん思ってもいません。Rさんはただ走り、先生はただ閉めたのです。それだけです。しかし、だれもが意図しないのに、事故になってしまったのです。

 乱暴な閉め方は危険であると、校長はすでに注意をしていたそうです。ですから、不注意であった先生の責任、気が付きながら扉の閉め方に安全策をきちんと取らなかった、校長および学校の責任は免れないと思います。さらに、そういう校門指導を指示するような兵庫県教育委員会の管理主義的姿勢が、なによりも問われるべきでしょう。あるいは、あの事件の後、校長は「遅れる者が悪い」と言ったそうですが、まことに酷な言い方ですが、Rさんの方にも責任なしとは言えないでしょう。そして、そういういろいろな原因の考えられる状況の中で、その時まで誰にも起こらなかった事故が、その時、初めてRさんの身に起こったのです。

 遅れてくる生徒がたくさんいる中で、なぜRさんなのか、なぜほかの生徒でなかったのか、いろいろな条件が重なり重なって、どうしてRさんという一人の命を死に至らしめるように働いたのか、これはいくら考えても分かりません。結局それは、運が悪かった、そういうよりほか仕方がないことです。

 運、こういう言葉を使うのが適当かどうかはさておき、そうとでもしか言いようのない人生の不可解、人生の不条理が、いくら考えても、どうしてもそこには残ります。つまり、いろいろ原因は考えられるにしても、全面的、かつ決定的にこれがRさんを殺したというものはないのです。ですから、この事件に犯人はいない、わたしの言いたいことは、そのことです。

 「命の管理はもう止めて」、こういうスローガンを掲げて、それを会の名前にして運動をするということは、極めて分かりやすい事件の捉え方であり、社会に問題を鮮明に訴える仕方ですけれども、そこでは犯人は、すでにはっきりと特定されています。犯人は先生であり、学校であり、教育委員会とされています。しかし、果たしてそうなのだろうか、わたしはそうは思えないのです。運としか言いようのない人生の不条理、不可解が、曖昧なものながら、しかし、決定的なものとしてそこにある、それであるのに、そういう要素に目を(つむ)って、管理主義教育に一切の原因があると考え、教育委員会や、学校や、先生に全責任を負わせてしまうというのは、事件の分かりやすい捉え方ではあっても、事件の微妙な一面を見落としている粗雑な見方ではないか。「命の管理はもう止めて」というのは、この事件に関する主張としては正確ではないのではないか。主張するのなら、「管理主義教育はもう止めて」とすべきでないか、管理主義教育が、Rさんの命を奪った大きな一因であることは否めないのですから、そこまでは言ってもよい、しかし、管理主義教育といえども、生徒の生命まで管理してしまうことのできないことは明らかである以上、「命の管理はもう止めて」というのは、事件の実態を正確に見ていない、粗雑で感情的な言い過ぎであり、わたしはそれを認めるわけにはいかない。そこには人生に対する丁寧さがない。管理主義教育批判をすることはよいとして、さらにそれと併せて、この事件にはもう一つ、運が悪かったというよりほか説明の仕様がない要素があることをも認めて、その人生の不可解を丁寧に見つめる機会とすることが、この事件に対してとるべき態度ではないか。

 わたしはそのようなことをいろいろな面から申しまして、次のような言葉でお話しを終えさせて貰いました。

 

 こんなことを言ったら、「命の管理はもう止めて」、と教育委員会や学校を批判しておられる皆さんのお怒りを受けるかも知れませんが、Rさんご本人は、果たして「先生が悪い」「学校が悪い」「教育委員会が悪い」と、怒り、悔しがっておられるのでしょうか、そうではなくて、案外「わたしは運が悪かった」と、自分の不運を受け止めておられるのかもしれません。こう考えるのは、もちろんわたしの好み、あるいはわたしの美学と言ってもよいことですが、しかし、決して荒唐無稽な想像でもないと思うのです。むしろそう考えて、生きるということの、説明のつかない不可解さに思いを致したい、日ごろ忘れがちな、そして、面と向き合うことを避けて過ごしがちな、そういう人生の深さというか、思いがけなさというか、そういうものに謙遜になりたい、そして、お互い生かされているという不思議に、心しつつ丁寧に生きたい、それがRさんを追悼するということになるのではないでしょうか、わたしはそう思っています。

 

 質疑応答は活発で二時間の予定の会が30分オーバーして終わりました。わたしにはよい経験でしたが、わたしの話は全体的に宿命論のように受け止められている感じで、問題提起以上ではなかったと思います。やはり場違いであったかな、という印象でした。

 

 ヨセフは婚約中のマリアが自分の子でない子を宿すという、なにがなんだか分からない運命的な問題にぶっつかりました。確かに、これは一見極めて特殊な出来事のように思われます。しかし、考えてみれば、Rさんのは痛まし過ぎる例ですが、わたしどもも皆、程度の差こそあれ同様の、なにがなんだか分からぬ問題に振り回されて生きているのではないでしょうか。健康の問題、家庭の問題、職業の問題、能力の問題、そして、性格の問題、お金の問題など、どうしてこうなんだろう、なんという不公平なんだろう、他の人はそうでもないのに、どうしてわたしだけがこうなんだろう、どうしてどうしてと問うても、答えの出せない運命的なことがたくさんあります。そして、どうあがいても仕様がなく、解決することもできず、さりとて投げ出すことも出来ず、その与えられた限界の中で、生きております。宿命と言ったらよいのか、運命と言ったらよいのか、いずれにしても人間の手で片付けることを許さない、神の領域ともいうべきものにわたしたちは限界づけられ、支配されています。これはなにも悲観的なことを言っているのではありません。丁寧に、ありのままに見た人生のふつうの事実を言っているのです。それは特別の人にだけ起こる、特殊なことではありません。

 神様は、エデンの園で、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と言われましたように、《限界を置く神》なのです。私たちはこのことを忘れ、誤解しがちですが、神はそもそも限界を置く神なのです。これは肝に銘じておくべき大切なことです。もし、そういう限界が置かれなければ、人間は自分の願いを満たす方向に神を求め、神を利用し、そして、その人間の願いは果てしがありませんから、その結果、その追求のうちに神を見失い、自分をも見失ってしまうでしょう。現代社会はまさにそういう社会になっています。

 そういう中にあってクリスマスは、神を求める方向が《人間の願いの充足》の方向にではなくて、人間の願いが限られるその《限界の受容》の方向にあることを示してくださったのです。インマヌエルとはそういうことではないでしょうか。ヨセフに耐え難い不運を与え、つまり、限界を避けてはならないものとして与え、まさにそこで共におられるご自身を神は示されたのですから。神は限界を置く神であり、その限界において出会ってくださる神なのです。

 そしてこのように、不可解な人生のただ中に、限界の受容の方向で神が共にいてくださるというのなら、インマヌエルとは、うんと砕いて分かりやすく言えば、「今が一番いい」、ということになるのではないでしょうか。なぜなら、どんな不可解な状況でも、それを拒まずに受け容れるところで、共におられる神に出会えるのですから、「今が一番いい」と、いつでもどこでも感謝をもって言えるのが、信仰の自然だからです。そしてそう言えるということこそ、イエス・キリストが与えてくださる救いにほかなりません。

 

ところで「今が一番いい」なんて言いますと、おそらく反論があるのではないかと思います。それは(あきら)めではないか、居直りではないか、やせ我慢ではないか、無気力ではないか。決してそうではないのです。先程申しましたことをどうぞ思い出してください。インマヌエル、神が共におられる、これは夢の賜物(たまもの)でした。

ヨセフは、イエスにおいて神が共におられるということを、夢の中で聞いたのです。彼は一度マリアを離縁する決心をしつつ、それを実行することもできず、なお思いめぐらす迷いの中で、夢を見せていただいた、そして、その夢の中で神が共におられる、を知るのです。ですから、神が共におられるとは、取り乱して迷う者への恵みなのです。この恵みは、取り乱さない者には分かりません、夢を見ない者には分かりません。最初に申しましたが、クリスマスはすべての人に与えられましたが、誰にでも分かるものではないのです。

 よく考えてみましょう。取り乱しているところで出会い、支えてくださる方、それは、「共におられる」神様なのです。そして、この「共に」には限りがないのです。ここまでは共にいるか、これ以上はもう共にいるわけにはいかないといった、そんな限度つきの「共に」ではないのです。それは限度のない「共に」です。ですから、「共におられる」神様に対しては、人は、そのまま、ありのまま、取り乱したままでよいのです。このことは、取り乱すこともなく、キチンとしっかり信仰を生きていると思っているところでは、分かりません。そういう人には「神」は分かるかも知れませんが、「共におられる」神様は分かりません。そして、クリスマスが示したのは、神は「神」ではなくて、「共におられる」神様だということなのです。どんな時でも、どんな状態でも、それでも「共におられる」神様、それが神なのだということなのです。だから「今が一番いい」と、どんな時にも言い得る支えを、この日、取り乱すヨセフはいただいたのです。そしてわたしどもにも、今日、この支えは提供されているのではないでしようか。

 

 「今が一番いい」、これは人に向かって、分かってもらおうと思って、大きな声で言う言葉ではありません。それは、「共におられる」神様と、自分自身に向かってだけ言う、自分の置かれて居るところをそのままに納得し、受け容れている言葉なのです。テキストの最後のヨセフの姿をみましょう。

 

ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

2425節)

 

 ここには自分の運命に、自分の置かれたところに深くうなづいている、心安らかなヨセフの姿があります。彼の問題は完全に解けているわけではありません。しかし、黙々と命じられたとおりにしているヨセフの姿には平安を感じさせるものがあります。「今が一番いい」、そうヨセフはささやいているのではないでしょうか。

 問題のただ中でのこの平安、クリスマスの与える平安はこういう平安です。それは、問題の解決した平安ではないのです。クリスマス、それは暗さが明るくなることではありません。神が共におられるゆえに、暗さがそのままに明るいことに気付くことなのです。そして、「今が一番いい」と、だれにも聞こえない小さい声で、「共におられる」神様にささやけるように、主に支えていただくことなのです。

 

 (終)