9 限定的肯定

 

 11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。

 15ところで、祭りの(たび)ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。19一方、ピラトが裁判の席

に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。21そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。22ピラトが、「では、メシ

アといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。23ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

          (マタイによる福音書 271126

             

 

  本日の聖書の個所は、マタイ福音書271126、イエスがピラトの法廷で裁かれ、十字架の判決を受けられる場面です。ピラトはローマ皇帝がユダヤに駐在させていた総督であり、紀元2636年その地位にありました。駐在地は地中海沿岸のカイザリヤ、彼がいまエルサレムに来ているその時は、ちょうど過越の祭りで、祭りの期間中の警備のためだったのでしょう。当時ユダヤ人は、ローマの支配下にあって政治の面でも、経済の面でも、司法の面でもいろいろな制限を受けていましたが、その一つとして、裁判で死刑の判決を下すことは許されていませんでした。その権限はローマが握っていたのです。したがって、祭司長、長老たちはイエスを殺そうと相談しても、それを実行することが出来なかったわけで、たまたまエルサレム警備に来ていたピラトに、イエスの死刑判決とその執行を求めて、訴え出たのです。訴えの内容はここには書いてありませんが、ピラトの質問が「お前がユダヤ人の王なのか」というものであったことから考えて、イエスがユダヤの王を自称し、反ローマ運動をしている危険人物である、

というものであったことは間違いないでしょう。

 そのピラトに対するイエスの答えは、11節によりますと、「それは、あなたが言っていることです」というものでした。このイエスの答えは、わたしたちが以前使用していました口語訳聖書では、「そのとおりである」となっていました。覚えておられる方は多いと思います。しかし、この口語訳「そのとおりである」は適切でないことが以前から指摘されておりまして、新共同訳はその点を考慮して改訳し、「それは、あなたが言っていることです」に変更したのです。ところでこの訳の変更は大変重要な意味を持つもので、それに伴ってイエスの答えは全然変わった内容のものになってしまったのです。つまり、「ユダヤ人の王なのか」というピラトの質問に対して、口語訳では「そのとおりである」と答えて、イエスはそれを認められたことになっていましたが、新共同訳では、「それは、あなたが言っていることです」となって、言外に「わたしはそんなことを言っていません」という意味を含んでいる、と取れるからです。しかし、それなら、なぜはっきり「わたしは王とは違う」と言われないのか、ということになりますが、その時のイエスには、「ユダヤ人の王か否か」といったそんな議論をピラトとする気持は、全然お持ちでなかったと思われます。どうしてかと言えば、もちろんイエスの自覚としては、ご自身はこの世を救うために来られた救い主としての王ですから、「わたしは王である」と言ってもよいのですけれども、もしそう言われると、その「わたしは王である」という言葉をユダヤの人々なら、自分たちをローマの支配から救い出してくれる指導者としての王と理解するでしょうし、ピラトのようなローマ帝国の人間なら、その言葉を、反ローマ抵抗運動の軍事的、政治的王と受け取るでしょう。いずれにしてもイエスを正しく救い主としての王と理解してくれることは、彼らに期待できないでしょう。イエスはそれまでの活動をとおして、そういう人々の無理解をよく承知しておられました。いくらご自身の使命、すなわち、造り主なる神との関係の回復、それを言葉と行いをもって呼びかけられても、それはそのとおりには受け取られず、この世的な考えや、希望や、期待で(ゆが)められてしまうことを承知しておられました。だからこそ、その人間の罪の解決のために、十字架への道を歩んでおられるのであり、いまさらローマ総督ピラトと、ユダヤ人の王か否かについて議論することは不毛と考え、その問題は、もはやイエスの念頭にはなかったのです。それでピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」の問いに、「それは、あなたが言っていることです」、という意味深長な返事をされたのでした。そして、その後イエスは、この法廷においてなされるどんな不利な証言に対しても、一言も語られることはなかったのです。その沈黙について、総督は不思議に思ったと、14節にありますが、イエスはつまるところ、ピラトにとって、「それは、あなたが言っていることです」以外何も言わない、不思議な人物であったわけです。

 

 ピラトの法廷でイエスの言われたこの一言、「それは、あなたが言っていることです」、私たちは今日、これを特に心に留めたいと思います。ふつうこの言葉は、いま申しましたように、「そう言うのはあなたであって、それはわたしの言っていることではない」と、間接的にイエスがピラトの言ったことを否定された言葉、と説明されています。わたしもそうだと思います。しかし、今回繰り返しここを読んでいるうちに、このイエスの言い方はそういう《間接的な否定》と言うよりは、むしろ肯定、あるいは《限定的な肯定》と言った方がよいのでないか、と思うようになりました。というのは、イエスはピラトの言っていることを、間接的な形とはいえ否定するのではなくて、あなたの立場から見ればそういうことになるだろうね、と限定的な形で肯定しておられると取った方が、イエスの心により近いように思えるからです。

 一体、権力の論理で物事を考えるのが身についているピラトに、政治犯としてイエスを裁いているこの法廷で、イエスに対するまっとうな理解を期待することなど、そもそも無理な話です。ローマ皇帝の顔色を窺いながら、民衆の動向に気を配って、不安定な地位を守っている政治家ピラトの立場からいえば、イエスを「ユダヤ人の王」と疑って考えるのは極めて自然なことです。ですからピラトの考えを否定するよりは一応認めたうえで、しかし、それはおまえのような立場のものが言っているだけのことだ、と限定しておられるのが、このイエスの「それは、あなたが言っていることです」の意昧だろうとわたしは思うのです。

 繰り返しますが、ピラトの法廷は、ユダヤ人がイエスを政治犯として訴え、当時、ユダヤを支配していたローマ総督がそれを処理している法廷です。政治の世界の権力者としてピラトが、イエスを「ユダヤ人の王」と疑ったのは自然であり、さらに彼が、「お前がユダヤ人の王なのか」と問うたのもあたりまえであり、誰だってその立場にいたらピラトと同じことを言うでしょう。イエスはだからピラトの言葉を否定はされなかった、とわたしは思います。しかし同時にイエスは、ただし「それは、あなたが言っていること」、つまり、政治の世界にどっぷり浸かり、そういう問題意識でしか物事を考えられない、あなたの言っていること、わたし自身は違います、とピラトの言葉を限定されたのです。イエスはピラトの言葉を「それは、あなたが言っていること」と一面で肯定しつつも、同時にもう一面で、それはそう言っているあなただけのことと限定して、そして、わたしはそんな見方だけで理解できるものではありません、とスルリと彼の問題意識の外に立っておられるのです。そして、ピラトの理解の外に立って、そこでピラトのために、さらに、同じくイエスを理解できない祭司や長老、群衆のために、そしてもっと広く全ての人間の罪のために、執り成しの業、十字架の道を誰にも理解されないままに歩んでおられるのです。わたしはこの意味深長な返事をされたイエスに温かさを感じます。ピラトの間違った考えを、ピラトの立場に立ってできるだけ肯定しながら、その足らざるとこ

ろ、誤てるところを身をもって執り成されるイエスの広い心を感じます。

 考えてみればわたしたちも、ピラトが政治の世界にどっぷり浸かっていたように、それぞれにどっぷり浸かった世界を生きているのではないでしょうか。どんなに冷静に、独善的にならないように注意して、客観的に考えた積もりでも、自分の性格や、育った境遇や、負わされている状況や、自分の好みや、利害打算や、世間体や、そういうどっぷり浸かったものから全く離れて、物事を正確にそのままに理解することは、お互いできないものです。そして同じことが、信仰においてイエス・キリストを理解する場合にも、いえると思います。例えば、クリスチャンホームに育った人と、そうでない人とでは信仰の理解が微妙に違います。また、内省的に一人考えることに充実を感じる性格の人と、社会的に活発にする奉仕活動に充実を感じる性格の人とでも、その信仰の理解には微妙な違いがあります。信仰の理解においても、わたしたちはそれぞれがどっぷり浸かっているものの影響から、完全に離れることは出来ないのです。しかし、それらさまざまに違った信仰の理解は、違ったままでみな肯定されるべきもの、ただし本人に限定されて肯定されるべきもの、そして、それぞれの誤てるところは共にイエスによって執り成されて生かされるものだと思います。

 ピラトの法廷のイエスの一言とその後の沈黙、そこから学び示されることは、一人一人の境遇や立場を汲んで、その人を肯定して生かす、そういう一人一人に届くイエスの温かさです、広さです。そして、わたしはそこに慰めをいただいております。

 

 わたしと家内は結婚して五十年近くなりますが、この間、お互いの信仰について話し合ったことはほとんどありません。だいぶ違った信仰をもっていることは、初めからお互い分かっていましたが、突っ込んで話題にしたことは未だにありません。時々なにかした拍子に家内の信仰の内容が分かり、こんな信じ方をしているのかと思うことがあります。家内の信仰は、要するに教会学校の子供の信仰のような全く単純なもので、そういう信仰の理解は基本的にわたしは好きです。できることならわたしも持ちたい、しかし、わたし自身は生来、そういう単純さに耐えられない、グチャグチャ考えをこねまわす人間です。長く一緒にいますから、いつの間にか、わたしに影響されてきているのかなと思うような面を、家内の信仰に感じることがありますが、同じタイプの信仰をもって欲しいとわたし自身は思ったことは、一度もありません。信仰に関しての、こういう平行線を歩むような態度がよいのかどうか、もっと真剣に話し合うべきではないのか、時々考えないわけではなかったのですが、本日の個所を読んでいて、ピラトの法廷のイエスの一言とその後の沈黙に、わたしは慰められるような思いがしました。信仰の理解が違ったままで平行線でいいのだ、このまま共に歩めばいいのだと思いました。どんな信仰でも否定されることはない、肯定される、主の執り成しによって肯定されるということです。

 

 わたしたちはみんな、ピラトがそうであったように、お互いそれぞれどっぷり浸かったところで、それに足を取られながら生きています。信仰もまた、それから自由ではないのであって、お互い歪みに満ちた自己流の信仰しか持っていないと思います。しかし、主はその自己流を否定されるのではなくて、限定的に肯定されて、(あやま)てるところを十字架で執り成して、よしとしてくださるのです。それが、「それは、あなたが言っていることです」との一言だけで、後はただ沈黙されたイエス・キリストの恵みではないでしょうか。わたしたちの信仰は自分でどんなに正しいと思っていても、イエスに執り成していただかねばならない、《限定的な正しさ》しかもたないものです。いろいろなタイプの信仰がありますが、皆、主の執り成しによって限定的に肯定されているところの、その人、本人にしか通用しないその人の信仰であり、そういうものとして、互いに尊重しあっていくべきものでしょう。傍から見ればどうかと思う信仰も確かにあります、お互いそう思っているかも知れません。しかし、それもその人のどっぷり浸かったところで、主に執り成され許されているその人の信仰として、尊重しあいたいと思います。わたしたち信仰者が一番心すべきは、自分の信仰を正しいとして、ひとの信仰を裁くことです。これほど、「それは、あなたが言っていることです」の一言だけで沈黙された主イエスの心から遠いものはない、とわたしは思っています。

 よく正しい信仰を持ちなさいと言われます。しかし、正しい信仰、そんなものを持つ必要はないし、そもそもそんなものはないと思います。みんな同じ信仰を持つ必要なども全くないのです。「それは、あなたが言っていること」の一言のみで沈黙された、ピラトの法廷のイエスから、広く豊かな執り成しの温かさをわたしは感じ、どのような信仰もよしとされていると思うからです。そして金子みすずの言葉「みんな違ってみんないい」を連想します。お互いわたしたちはどっぷり浸かったところに足を取られながら、もがいて生きています。そういう者同士として、「みんな違ってみんないい」と自分を肯定し、ひとをもまた肯定して生きあって行くのが、イエス・キリストの執り成しの恵みに生きるものの姿ではないでしょうか。もし正しい信仰というものがあるとすれば、まさにそういうもの、主に執り成された者同士として生きあっていく信仰だろう、それしかないと、わたしは思っています。

 

 ところでピラトの法廷は、その後どうなったでしょう。死刑の判決をイエスに下すまで、大分手間取ったようです。その経過が1526節に記されています。

 大体ピラトという人は、ユダヤ人を弾圧することを平気でやった人でした。強固な宗教心を持ったユダヤ民族を支配することは厄介な仕事でしたから、ユダヤに駐在することを総督たちはみな嫌っていました。ということは、逆にいえばユダヤ総督という地位は、政治的力量を発揮できる地位でもあったということです。ですから野心家ピラトはここで政治的手腕を奮って、皇帝のお覚えをよくしようと、かなり強圧的態度でユダヤ支配をしました。ガリラヤ人を殺して、その血を、神殿に献げる犠牲の血に交ぜるという、ユダヤ人の信仰を逆なでするような残酷なことをしたことが、ルカ福音書(13・1)に伝えられていますが、冷酷で残忍なこの野心家は、ユダヤ人を侮辱しては、抵抗する民衆を弾圧し続けました。しかし、その悪政は結局失政ということになり、その(とが)で裁判に付されることになり、彼はそれを逃れるために入浴中に静脈を切って自殺したといわれています。

 そういう彼だけにイエスを裁く本日の法廷も、法の名によって厳正に裁くというよりは、総督としての点数を稼ぐように、少なくとも自分の実績に汚点を残すことのないように処理しようとしたと思われます。イエスがもし、民の長老たちの訴え出たようなローマに抵抗するユダヤ人の王なら、当然死刑と彼は考えたでしょう。それが一番簡単で、皇帝も認めてくれるはずです。ところがそこへ19節にあるようなややこしい問題が加わりました。

 

一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」

 

 ピラトのような威張っているタイプの人は、案外こういうことを言う妻には弱いものです。途端に彼はどうしたものかと迷い出しました。元々ピラトは先程申しましたように、イエスを「非常に不思議」な人物と感じていましたから、さらに妻からイエスは「正しい人」と言われると、もう裁判をするのに嫌気がさしたのでしょう。すぐ法廷を閉じてイエスを釈放しようと思ったようです。しかし、狡猾な政治家である彼は考えました。イエスを訴えたのが祭司長や長老たちだけなら、訴えを却下するだけで事は済む、しかし、この訴えの背後には群衆の後押しがあるように思える、群衆の意に反することをして暴動でも起これば、治安の責任を問われて総督を罷免される、そう考えて彼は1517節にあるようなことをしたのです。

 

ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」

 

 実は祭りごとに囚人を許すという習慣はなかったといわれます。おそらくこれは、ピラトがここで民衆を恐れるゆえに、とっさに思いついた苦肉の策ではなかったかと思われます。バラバという囚人と並べて、どちらか一人を赦そうと民衆の希望を聞けば、イエスがエルサレムに入城される際に大歓迎をした民衆は、きっとイエスを赦せというだろう、その民衆の賛成を得てイエスを釈放すれば一件落着と彼は考えたのでしょう。しかし、それは誤算でした。民衆は祭司長たちに説得されて、「バラバを」赦せという声をあげたのです。そのことは2023節に書いてあります。大変な誤算にピラトは、23節によりますと「いったいどんな悪事を働いたというのか」とイエスを弁護しようとすらしていますが、もう手遅れ、イエスを「十字架につけろ」の民衆の大合唱です。万事休して彼はついに裁判権を放棄しました。そしてこの件には一切関係ないことを示すために水で手を洗い、イエスを十字架につけることを認めたのです。24節が伝えているとおりです。

 

ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」

 

 こんなことになるくらいなら、初めからこの訴えは門前払いしておけばよかったと、ピラトは(ほぞ)()む思いであったでしょう。祭司長たちの(ねた)みにもとづく訴えであることは、最初から分かっていたのですから、無視してもよかったのに、政治的野心に駆られて関わり、そのため逆に民衆の声に押しまくられて、なにより大事な総督の権威は失墜し、せっかく捕まえた「評判の囚人」バラバを釈放する羽目になり、許すつもりのイエスを十字架に追いやってしまい、妻にも怒られたことでしょう、なにもかも無茶苦茶です。冷酷、残忍、狡猾でありながら、臆病で優柔不断な野心家である彼は、賢く立ち回っている積もりで何もかも失敗に終わりました。

 それにしても、ピラトの法廷とはこうしてみると、法廷とは名のみ、これがイエス・キリス

トの十字架を決定したとは思えない出鱈目な茶番劇です。手間はかかりましたが内容は全くない、お粗末この上ない法廷と言わねばなりません。イエスはこのような手続きで、十字架につけられたのです。ピラトの野心と臆病、祭司長たちの嫉妬と狡猾、群衆の無定見な野次馬根性、それらが織り成す騒然たる雰囲気の中で、何か何やらさっぱり分からぬうちにイエスの十字架は決まってしまったのです。これはおかしいじゃないか、無茶苦茶じゃないか、異議あり、反対、と叫びたい気がします。しかし、その間イエスは一言も言われなかったのです。そして、十字架は立ちました。

 

 わたしたちの教会では第一聖日の礼拝で、使徒信条を告白します。これはキリスト教会ならばプロテスタント、カトリックを問わず、すべての教会が告白する基本信条ですが、その中に「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、……」というところがあります。ピラトの名前は使徒信条の中に残っているのです。全文わずかに250字足らずのこの信条の中に記されている人間の名前は、興味深いことに、母マリアを除けばただ一人、ピラトだけです。それは、とにもかくにも彼はイエスを死に定める裁きをしたからです。ピラトの法廷は無茶苦茶でしたが、彼の法廷において、イエスは十字架に定められたのです。

 イエスが救い主であるためにはイエスは死なねばなりません。しかし、ただ死ねばよいというのではありません。イエスが病気になって死なれたのでは駄目なのです。交通事故で死なれても駄目なのです。長生きされて老衰で死なれても駄目なのです。事件に遭われて殺されたのでも駄目なら、戦死も駄目、溺死も駄目、自殺も駄目です。イエスの死は、法廷で裁かれ、死刑を宣告されての死でなくてはなりません。イエスが死に給うたのは、罪人であるわたしたちが受けるべき神の裁きを、代わって受けられた執り成しの死でありますから、その死は裁きの死でなくてはならないからです。イエスはわたしたちに代わって、神の裁きを受けられたのです。ピラトの法廷は、その神の法廷を指し示しているのです。ピラトの法廷自体は茶番劇でも、ここで裁かれることによって、イエスは病死でも、事故死でも、老衰でもなく、まさに《裁かれて死ぬ死》を死んで、私たちが《裁かれて受けるべき死》を死んでくださったのです。そして、その法廷を取り仕切ったのは、ピラトでした。ですから彼の名は救い主の死を告白するに

あたって残さねばなりませんし、事実残ったのです。

 ピラトの法廷でイエスは沈黙を守られました。旧約聖書イザヤ53・7~8に、次のような言葉があります。

 

苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

 

 イエスの沈黙は、このイザヤの言葉が示すように、イエスがピラトの法廷を神の法廷と受けとめられていることの証しです。イエスはピラトの法廷で真にばからしい裁きを受けることにおいて、神の裁きを人に代わって受けるという神のご意志に服しておられるのです。この法廷で見落としてはならないことはその一点であり、ピラトの法廷指揮の出鱈目さなどはどうでもよいことです。おそらく、ピラトならずとも誰がやっても、その法廷は人間の罪深さ丸出しの、同じような法廷になったことでしょう。ここで大事なことはイエスの沈黙、そしてその沈黙において遂行されている神の執り成しでした。

 

 イエスはピラトの法廷で一言だけ、「それは、あなたが言っていることです」、そう言ってピラトに限定的肯定を与えて、後は沈黙のうちに執り成されたのです。わたしたち一人一人の信仰は誤り多いものながら、イエスのこの執り成しによってすべて許され、おまえの信じるとおりでいいよ、と限定的に肯定されているのではないでしょうか。わたしはここをそう読み、「みんな違ってみんないい」と包んでくださる主の恵みを呼吸しながら、心を豊かにされ、広くされて生きていきたい、生きあって生きていきたい、そう思っています。

 

 (終)