2.最初は感謝   マタイによる福音書 124345

 

「汚れた霊が戻ってくる」という奇妙な話がマタイによる福音書12章4345節にあります。

 

 「汚れた霊は、人々から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

 

 汚れた悪霊が、住み着いていた人から一度出たけれども、行き場がないので戻って来たところが、そこがあまりきちんとしているので、仲間を連れてもう一度入りなおし、そのためにその人の状態が一層悪くなった、そういう話です。この話を読むたびに私がおかしいなと思うのは、もし掃除が行きとどかず、家の中がひっくり返ったような状態であったのなら、悪霊は入りなおすことはなかったのですから、掃除をきちんとしていたのが悪かったことになるのかしら、ということです。どうしてきちんと整えるのはいけないのでしょう。

 この話を学ぶにあたり、まず注意しておきたいことが二つあります。第一は、この話は、その前から始まっているいわゆるベルゼブル論争の結びの話であるということです。そこでちょっとこの論争のあらすじをたどってみましょう。

 

 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。(2224節)

 

 つまり、イエスのいやしの業を救い主の業とみなす群衆に対して、ファリサイ派の人々は、それは悪霊の頭ベルゼブルの業だと言うのです。これがきっかけになってベルゼブル論争が展開されます。そしてイエスは、

 

しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。                  (28節)

 

 そう言われて、働いているのは神の霊であり、その神の霊の業を通して、神の国はすでに来ていて、神の支配は始まり、神が共にいてくださっているのだと語られます。そしてさらに、

 

 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜(ぼうとく)は、どんなものでも(ゆる)されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。(3132節)

 

と言われ、イエスのいやしの業によって悪霊は追い出されて、神は既に共にいてくださっていることを否む者は、永遠に赦されることはないと言われたのです。

 このベルゼブル論争は、次にしるしを巡る論争に変わってゆきます。

 

 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。                                  3839節)

 

 そう言われて、ヨナの故事を思い出させられます。そしてそのヨナの話から、ファリサイ派の人々に、いま必要なことは、しるしを求めることではなくて、「悔い改め」ることであると教えられたのです。続く41節がそれを示しています。

 

 ニネべの人たちは裁きの時、今の時代の者だちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。

 

 このようにベルゼブル論争をたどってみますと、聖霊の働きによって悪霊は追放され、神の支配は始まり、神が共にいますことが現実となっているのだから、そのことに悔い改めて気づくこと、それが、イエスのいやしの目指しているところであることが明らかになります。そして、この論争の後に、本日の「汚れた霊が戻ってくる」話がくるのです。

 ですから、この話は「汚れた霊は、人から出て行く」で始まりますが、それは、悪霊が自発的に出て行ったのではなくて、追い出されたのであり、当然、その後に追い出した聖霊が入って来て、神の支配は始まり、神がその人と共にいてくださることが、そこでは現実となっているはずです。

一方、悪霊の方は、追い出されたのですから新しい住処(すみか)を見つけねばなりません。そこで「砂漠をうろつき、休み場所を探し」ます。イエスの荒れ野の誘惑の話が物語りますように、確かに悪霊は荒れた水の無い所をうろつき活動しますが、そこを住処としているのではなく、そこは休む場所であり、そこで休みながら人の中に住処を求め、見つけるとそこに住み込む、そして、人の心を砂漠のようにかさかさにしてしまうのです。悪霊とは、そのようなものなのでしょう。以上が、この話を読む場合に第一に注意しておきたいことです。

 

 第二に注意したいことは、一体この奇妙な話を、イエスは誰としておられるのかということです。それはいまたどってきました流れからいって、当然ファリサイ派の人々、です。それでファリサイ派の誕生のいきさつについて、この話との関連でちょっと触れます。

 彼らは紀元前130〜140年頃、ユダヤ教の信仰復興運動のようなものとしてスタートしたと考えられます。詳しいことはよく分かりませんが、だいたいそういうグループと考えてよいでしょう。当時、ユダヤを支配していたのはシリアの軍隊でしたが、それに抵抗してユダヤの人々が、このシリア軍をパレスチナから追い出すという事件がありました。それは、政治的なユダヤ独立という意図と、宗教的なユダヤ教擁護という意図とがからまった行動でしたから、その展開の中で、おのずから政治と宗教が密接な形で結びつくという結果になりました。つまり、ユダヤを治める王が同時にユダヤ教の大祭司になる、言い換えれば、王が大祭司を兼任するという事態が起こったのです。その時、それをやむを得ない時の流れとして認めたのがサドカイ派と呼ばれた貴族階級の祭司たちです。それに対し、それは宗教の俗化であるとして抵抗し、純粋にユダヤ教の信仰の核心であるモーセの律法を守って、それに忠実に生きようとする、言わば宗教的・道徳的エリート集団が生まれました。それがファリサイ派です。彼らは、その意味では、ユダヤ教の信仰の中に入って来ていた政治的俗化という悪霊を追放して、律法をきちんと守り、それどころか律法の要求する以上にそれを厳しく守って、他と一線を画する人々でした。そういうファリサイ派の人々が、この「汚れた霊が戻ってくる」という話をされるイエスの相手であること、これがここを読む場合に注意しておきたい第二の点なのです。

 

 さて前置きが長くなりましたが、この汚れた悪霊は、さきに見ましたように、自発的に出たのではなくて、イエスが神の霊で追い出されたことによってやむを得ず出たのですから、住むべき所を探さねばなりません。しかし、見つかりません。それで元の家に戻って来ますと、どうぞ入って下さいと言わんばかりに、空っぽ状態で掃除もきちんと行きとどき、すぐ住めるように整えられています。悪霊は、これは自分一人ではもったいないと思ったのか、自分よりも悪いほかの霊を七つも連れてやって来て、そこに住み着きます。こうして、この人は前よりも一層悪い状態になったのです。この人にすれば、こんなことになるのなら、イエスに悪霊を追放してもらわない方が良かったと思ったでしょう。悪霊を追い出して救っていただいた結果一層悪くなったのですから。アフターケアをやってもらわないと困る、と注文の一つもつけたかったかも知れません。

 それにしても、こういう話を読むと、救われるとはどういうことか、考えこまざるを得ません。救いとは一体どういうことなのでしょう。注意しました二つの点に留意しながら、この話をとおして考えてみましょう。

 

 悪霊は自発的に出たのではありませんでした。聖霊に追い出されたのです。ですから、悪霊の出た後には聖霊が入って来ます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(28節)とありますから、そういうことになります。注意したいのはこの点です。悪霊を追放された人は、決して「空き家」にはならないのです。そこには神の霊が入って来て、神の支配がなされ、神が共におられる状態になるのです。何度も繰り返しますが、汚れた霊は自発的に出たのではないのです。追い出されたのであり、そのあとに追い出した神の霊は入り、神の国は来たのです。「空き家」になることは決してないのです。ところが、この話では悪霊が戻って来た時、「空き家」になっていたと書いてあります。ということは、この人の場合、悪霊が出て行くという段階で止まってしまって、空っぽ状態にその人がなっているということです。どうしてなのでしょう。

 それは、すでに追放した聖霊が入っていてくださるのに、そして聖霊が中に満ちて神の国はすでに来ているのに、だから神が共にいてくださることを感謝し、安心して生きればよいのに、この人はそのことに気づいていないために、空っぽ状態と思い込んでいるからなのです。そして、空っぽと思い込んでいるために、そこを何とか埋め合わせようとして、その人は自分の力でもがき始め、掃除をしたり、飾りをしたりして整え出しているからなのです。中身が空っぽだと思い込んでいますから、自分の力で何とかその補いをし、それを隠そうとし、掃除をしたり、整えたりするのです。人間はみなそうです。中身の無い人々ほど外側に力が入ります。

 

 ところでそういう掃除や整頓をするのは誰かといえば、それは自分です。やるのは自分の発想によるのであり、自分の力によるのであり、自分の意思によるのです。だから、そういうことを一生懸命にやればやるほど、その人の心は自分で一杯になります。聖霊で一杯になり、神が共にいてくださる感謝で一杯になるべきところが、そして、事実そうなっているのに、それに気づかず、自分で一杯になり、やがて自分はこれだけ掃除をし、これだけ整頓をし、これだけ美しく整えたと自負し、また高慢な思いで他を見下げるようになります。その姿はまさに、ファリサイ派の人々が宗教的俗化に抵抗して、信仰に純粋に生きようとした結果、自分を義人と自惚(うぬぼ)れて、他を見下げ、自分のみを価値高いものとして、エゴー杯になったのと同じなのです。ですから、「空き家になっており、掃除をして、整えられていた」とは、ファリサイ派の人々の姿に他なりません。ここに描かれている人々は、いまイエスが話しておられるその相手、ファリサイ派の人々のことです。彼らは気づいていませんが、ここで彼らは痛烈な批判を受けているのです。

 彼らは確かにさきに触れたように、サドカイ派の人々と違って、信仰に純粋に生きようとしていました。きちんと律法を守っていました。さながら家を掃除し、整えるかのように、きちんとしていました。しかし、彼らは決定的な誤りを犯しているのです。彼らをそのように信仰の俗化から守ってくださっているのは共にいて働いてくださる神であるのに、そのことに気がついていないことです。そしてその代わりに、自分の力で、自分の熱心さで、一生懸命信仰を純粋に守ろうとし、事実、自分たちはそのようにしていると自負していることです。したがって、彼らの心を支配しているのは、汚れた悪霊を追放して入ってくださった聖霊ではなくて、「自分の思い」なのです、エゴなのです。その意味で彼らは、前よりもっと悪い状態になっているのです。表面はきちんと律法を守って信仰的ですけれども、中身は以前よりも、もっと自己中心的であり、人を見下げて高慢になっています。そのため信仰的にはまさに空っぽ、「空き家」なのです。この話に描かれているとおりです。この話の最後は、「この悪い時代の者たちもそのようになろう」となっています。イエスは、ここでファリサイ派の人々と鋭く対決しておられるのです。イエスがファリサイ派の偽善を厳しく批判されたことは福音書の随所に出てきますが、この話は、そのファリサイ派批判の核心と言ってよいでしょう。

 

以上、学んできて教えられることは、神の霊によって汚れた霊を追い出してくださったイエスの願いは、きちんとした掃除の行き届いたような人間に私たちがなることではないということです。もちろんそういう行きとどいた生活は大切です。しかし、それよりも大事な、もしこれを欠いたらきちんとした生活も全く無意味になってしまうようなことがあるのです。それに気づくように、それがイエスの願いだということです。それは何かと言えば、悪霊を追放した神の霊によって神の支配は始まり、神は共にいてくださって、自分はもはや「空き家」ではないということに気づくことなのです。

 私たちは「空き家」ではないのです。そのようにイエスはしてくださったのです。つまり、神は共にいてくださって、その恵みで満たしてくださったのです、くださっているのです。ですから、人生は基本的に感謝なのです。いやなこと、つらいことが一杯あっても、人生は基本的に感謝すべきものなのです。人生の基本的気分は、イエスによって生かされて、いまあることへの感動なのです。それが、主イエスにあって神を信じているということでしょう。しかし、ファリサイ派の人々には、きちんとした生活はありますが、神への心からの感謝はありません。人生への感動はありません。信仰を持っているつもりで、信仰もありません。代わりに、自分の整った生活を誇り、人を見下すエゴがあります。その点、彼らは普通の人々よりも、もっと悪いのです。彼らは正しいけれども悪いのです。

 

私たちは自分の姿を(かえり)みて、これでは駄目だ、もっと正しく、もっと忍耐強く、もっと清く、きちんと生きなくちゃならないと焦りを感じることがよくあります。これでクリスチャンと言えるのだろうか、と恥ずかしく思うことがあります。やるべきことがやれず、やってはならないことをやってしまう、情けない姿に自己嫌悪を感じることがあります。しかし、敢えて言えば、そんな焦りも、そんな恥ずかしさも、そんな自己嫌悪も必要ないのです。それよりもそんな駄目人間にも、駄目なままで、そのままで共にいてくださる神への感謝で、まず心を静めたいと思います。すべてはそこから始まるのですから。そうでないと、いつの間にか、ファリサイ派の人々が誤ったように、自分の力で何とか正しく、何とかきちんと生きようとして、内に満ちて寄り添っていてくださる神の働きを見落とし、「空き家」になってしまうからです。せっかく、共にいて支えていてくださるのに、まるで共にいてくださらないかのように自分の力で何とかしようと努力するのは、共にいてくださる神の霊に対する冒涜と言わねばなりません。

 

人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。                                                    31節)

 

とは、このことです。

 私たちはみな中身の無い空っぽの「空き家」のような駄目人間です、しかし、実は、その駄目なままでそのままで、共におられて、包み、支え、生かし、慰める神の霊に満たされているのです。決して「空き家」ではないのです。ですから、そのことへの感謝で、乱れる心を静めたいと思います。全ては、そこから始められるべきことなのです。感謝で人生を整えるべきであって、正しさで人生を整えるべきではないのです。感謝の無い正しさは、励めば励むほど人間を貧しくします。人生を砂漠のようにします。

 

 じゃんけんするときに、「最初はグー、じゃんけんぽん」とやります。私たちイエス・キリストを信じる者は、何をするにも「最初は感謝」、そして「じゃんけんぽん」とやりたいものです。私たちは、主にあって「空き家」ではないのですから。「最初は感謝」、これを忘れると、後は私たちのやることは、どんなに熱心でも、どんなに正確でも、どんなに大きな結果を得ても、そしてどんなに人に喜ばれても、「空き家」のわざになり、汚れた霊は、いつの間にか戻って来ているでしょう。よい結果を上げた、人々に喜ばれた、そういうことだけで満足してはならないでしょう。それでは掃除をして、きちんと整えているのと同じことであり、「空き家」でも、それくらいのことはできるのです。私たちは、気づいていなくても、実感していなくても、そのままで神が共にいてくださるのであり、「空き家」ではないのです。どんな状態におかれても、また何をするにあたっても万事、「最初は感謝」、そして「じゃんけんぽん」とやりたいものです。その時、たとい現実の私たちの行動や生活が駄目でも、汚れた霊は入ってこれないでしょう。パウロも言っています。

                         

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。     (テサロニケの信徒への手紙I 5章1618節)

 

 乱れがちな日々を、正しさでではなくて、感謝で整えたいものです。まず内に注目。満ちて、支えて、共にいてくださる方に感謝。それから万事をゆっくりと始めたいものです。それが救われている人の姿でしょう。