3. 最も重要な掟             マタイによる福音書 22章3440

 

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」                36節)

 

 イエスを試そうとして、一人のファリサイ派の律法の専門家がこう尋ねました。このような質問は、ここで彼が初めて出したものではなくて、ユダヤ教の中で、よく問題にされたものと言われています。たとえば旧約書のミカ書に

 

 人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。

(6章8節)

 

 という言葉がありますが、これなども、一体何が一番掟の中で大切かという問題に答えているものでありまして、こういう問答は、よくされていたようです。というのもユダヤ教のラビたちは、モーセの律法を613の掟に細かく分けて、その遵守を定めておりましたから、当然、そこでどの掟がより大事かという問題が出てまいりますし、さらには、どれが一番大切かという問題が出てくるからです。ですから、この質問自体は珍しいことではなかったのです。しかし、彼はこのありふれた質問を使って、イエスを試そうとしたようです。何を一番大切にするかでイエスの本質が明らかになり、批判の手掛かりが掴めると考えたのでしょう。

 イエスの答えは、

 

 『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。

 (3739節)

 

というものでした。「律法全体と預言者」というのは旧約書のことですから、イエスは旧約書の本質をこの二つの愛に要約されたことになります。大変みごとなお答えであると思いますが、実は、これはイエス独自のものとは言えないという説があります。というのは、たとえば「十二族長の遺言」という、思想的に新約書に共通点が多いので注目されている偽典があおりますが、その中に、「私は主を愛する。またすべての人を心を尽くして愛する」とか、「主とあなたの隣人々を愛し、貧しく弱き者を憐れめ」とか、そういうイエスのお答えに似た言葉があるからです。

 しかし、わたしはこの答えは、やはりイエス独自のものであったと思います。というのは、「どの掟が最も重要でしょうか」と一つの掟が求められているのに対して、イエスは、「神を愛すること」は最も重要な第一の掟、「隣人を愛すること」は同じように重要な第二の掟と答えられて、最も重要な掟を一つに絞り切っておられないのです。つまり、厳密に言えば、「どの掟が最も重要でしょうか」と一つの掟を求めた問いに、イエスは答えておられないことになります。

 イエスの言われた「神への愛」、これは申命記の

 

「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

(6章5節)

 

に基づくものです。またイエスの言われた「隣人への愛」、これはレビ記の

 

「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」             (19章18節)

 

に基づくものです。このようにイエスは、旧約書の中から二つの愛を大切な掟として選ばれたわけですが、しかし、この二つの愛をどちらか一つに絞らず、同様の重みを持ったものとして、二つの愛を一つの愛として答えておられるのです。二つの愛を二つのままに、同じように重要なものとして一つにし、それを答えとされています。そしてそこに、イエスの独自の考えがあると思われます。「どの掟が最も重要でしょうか」、この問いに対して、二つの愛を「同じように重要である」として、二つなからに重要な一つの掟とされたところに、愛に生きるイエスの面目があります。これらの愛のどちらか一つをとって、最も重要な一つとすることは、思弁的には可能でも信仰的には不可能、それがイエスの生きておられる信仰の世界なのです。

 

 マタイによる福音書25章31〜46節に「羊と山羊の譬え」と呼ばれる話があります。少し読んでみますと

 

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人々たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどか渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどか渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』……

 

 こういう話です。これは、人間の一生が決定的な仕方で計られる時、その基準は小さな愛の業に生きたか否かであることを語っています。ここに見られるように、イエスにとって隣人への愛は、神への愛のもう一つの形に他ならないのであり、両者は質的に同じものなのです。先に述べました愛についてのイエスのお答えは、これと同じことを言っているといえます。

 このことは、ガラテヤ人々への手紙の

 

愛の実践を伴う信仰こそ大切です。                     (5章6節)

 

あるいは、ヨハネの手紙Iの

 

目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(4章2021節)

 

などの、み言葉も示しているところです。

 とにかく、神への愛は隣人への愛において具体的となり、隣人への愛は神への愛によって基礎づけられるのであり、二つの愛をいずれか一つに絞り切ることはできないのです。神への愛と隣人への愛は、もし分けてしまうなら、その時どちらの愛も偽りのものとなってしまうのです。まさに両者は「同じように重要」であり、一枚の紙の両面のようなものとして、二つなからに最も重要な一つの掟なのです。こういうイエスの答えは、愛を語って出色であり、無比と言わねばなりません。

 

 しかし、ここで正直なところを言えば、私にはちょっとひっかかることが、このイエスの答えにはあります。それは、神への愛と隣人への愛が「同じように重要」であるという立場を徹底させたら、もはや第一、第二という順序はなくなるのではないか、必要ないのではないかということです。いっそのこと第一、第二という順序を無しにして、例えば「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神とあなたの隣人を愛せよ」ではいけないのか、あるいは「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」ではいけないのか、ということです。

 もちろん確かに隣人への愛は、神への愛によって初めて基礎づけられ、方向づけられ、命与えられるのですから、その意味で第一、第二の順序は理解できるのですが、それでもそういう順序が、「同じように重要」と言われる二つの愛につけられていることに、私はなお釈然としない思いをどうしても抱いてしまうのです。ところが、この積年の疑問に光を与えてくれることを、最近経験したのです。

 

 かれこれ一年半ほど前の話ですが、全く知らない一人の青年から便りを貰いました。長々と彼の個人的生活歴が書かれた後に、一つの質問が書かれていました。その要点は、「私は神を信じるものです。しかし、どうして隣人を愛さねばならないのですか」、というものでした。正直なところ虚を突かれたような感じで、一体この人々は何を求めているのだろうか、と思いました。愛そうとするのだけれども、どうしても愛せない、どうしたら良いのか、こういう問いなら分かります。しかし、なぜ愛さねばならないのか、こういうことは問いにならないあたりまえのことと私たちは思っているのではないでしょうか。しかし、繰り返し便りを読んでいるうちに、これは極めて大切な問題を提起している問い掛けであることに気がついたのです。

 彼は文面から察するに、少し心病む人のようなのです。そして、それゆえに招く、周囲の人々の無理解に深く傷ついているのです。彼が何もしていなくても、ごく普通に振る舞っていても、周囲の人々には奇異な人々に見えるらしく、特別な注目を浴びるのです。そういう周囲の反応は彼にすぐ分かり、彼は傷ついてしまうのです。しかもその彼の心に、おまえは神を信じているのだから隣人を愛すべきだという迫りが、重くのしかかってくるのです。そのため、冷たい目をする周囲の人々の失礼な態度をも、彼は自分なりに許して、優しく接しようと努力するのです。けれども、そうすればするほど、彼の態度はぎごちなくなり、結果は逆になります。そして、彼は一層変な男と見なされ、彼の社会不適応は深刻になるのです。彼は隣人愛を真剣に考えて思案に暮れているのです。便りを読んでいるうちに、彼の気持ちが、どうして隣人を愛さねばならないのかと質問する彼の気持ちが、非常によく分かりました。では、その彼に一体どのように答えたらよいのでしょう。

 彼に隣人を愛するということについて説明することはできるでしょう。彼は神を信じているというのですから、神への愛と隣人への愛とが表裏一体であること、そして、敵をも愛することが信仰であること、そういうことを聖書のあちこちにある言葉を引用しながら語ることは、そう困難なことではないでしょう。しかし、そういう説明は彼には既に分かっていることであり、丁寧に説明すればするほど、それは悩む彼の心に届かない説明になることは明らかなのです。愛についての教え、それを裏づける聖句、それらは彼を苦しめこそすれ解決にはならないでしょう。一体どうしたらよいのか、それを考えている時に、先に触れた問題、愛の順序の問題に思い至ったのです。

 それはこういうことです。私の得た結論は、乱暴なことを言うようですが、彼は隣人を愛さなくてもよいのではないか、ということでした。

 隣人を愛そうとすることは彼を苦しめるだけではないのか、隣人を愛するということは、聖書の信仰から言えば正しい、だれも反対できない、しかし、そのだれも反対できない正しさが、彼の場合負い難い重荷となり、生きる意欲を失わしめているのではないか、そうであるなら隣人を愛さなくてもよいのではないか、そういうことはとんでもないことだが、許されるのではないか、なぜ許されるかと言えば、それは隣人愛は第二だからだ、隣人愛は第一ではない、それゆえに彼の場合は隣人愛をひとまず横において、神への愛だけを考えることが許される筈ではないのか、そう考えたのです。

 そして神への愛は、ヨハネの手紙Iに、

 

 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。     (4章10節)

 

と告白されているような神の愛、それに委ねることなのですから、この青年は、イエズス会のアントニー・デ・メロの言葉を借りれば、「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」のではないか、そう思い至ったのです。隣人愛の全く分からなくなっている彼は、分からなくてもよいのだ、そのままで良いのだ、そのままで君は神様に愛されている、お委ねして安心して良いのだ、そう返事をしてあげようと思いました。そして、そう返事をしました。

 

 そして、改めて思ったのです。こんな乱暴なことが言えるのは、神への愛が第一で、隣人への愛が第二だからです。愛に順序がついているからです。もし二つの愛が、単に「同じように重要」と言われるだけのものであるなら、隣人への愛をひとまずちょっと横におくなんてことはできません。そして、隣人愛のために人は窒息してしまいます。現にこの青年がそうなのです。しかし、二つの愛は表裏一体の分かち難いものでありながら、分けることはその愛を偽りものにするという密接な関係にありながら、しかも厳として第一、第二の順序があるのです。隣人愛は第二なのです。ですからここに、なぜ隣人を愛さねばならないのか分からなくなっている彼にとって息がつけるところがある、救いがある、そう思ったのです。

 隣人を愛さなくても良い場合があるのでないでしょうか、少なくとも彼の場合はそうではないでしょうか。皆さんはどう思われますか。

 

マタイによる福音書 26章6〜13節に一人の女の行為が伝えられています。読んでみましょう。

 

 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壷を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。……」

 

 これによりますとイエスは、貧しい人をちょっと横においてひたすらイエスを愛したこの女の行為を、神の業に触発された人間の真実の行為と見なしておられます。そして、世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所で語り伝えられるべきこととして激賞しておられるわけです。つまり、隣人はいつも一緒にいるものであり、必ずしも今愛さねばならないものとはされていないのです。それに対し、神は今を措いては愛せない方とされています。神への愛と隣人への愛は、同様でありながら、しかも隣人への愛は、今でなくても良い、ひとまずちょっと横におくことができる、そういう第二の位置に置かれています。そういうことを、このイエスの言葉からも汲み取ることが許されるのではないでしょうか。いずれにしても、この話も第一の愛と第二の愛の順序を語っています。

 考えてみれば、この青年ほどではなくても、隣人を愛せない苦しみをお互い味わいながら生きているのではないでしょうか。もし神への愛と隣人への愛が、第一、第二の順序がなく、ただ「同じように重要」な、順序のない一つの愛ならば、少なくともわたし自身は、その愛の掟のゆえに窒息せざるをえません。しかし、神への愛が第一である故に、隣人への愛の点では極めて欠け多い私も辛うじて、生きることが許されているのです。そう思えば神への愛が第一ということは、見方を変えれば、一人ひとりの人がそれぞれそのままに大切にされることが第一であるということなのです。つまり、いかなる人も、そのままに本人であることが許されているということなのです。そうではないでしょうか。

 一人ひとりは外からは(うかが)い知ることのできないその人だけの、その人本人の歴史を生きています。同じ時代に、同じ社会で、同じ経験をしている者には、確かに共通したものがありますけれども、それでもやはり、人はそれぞれにその人だけの思いを抱いて生きています。皆違うのです、同じということはありません。その多様な一人ひとりが、それぞれそのままに本人として大切にされる、それが人間として第一に思慮すべきこと、神への愛が第一とはそういうことなのです。

 さきほどの青年からは返事は来ませんでしたが、半年ほど後に、思いがけなく彼に出会いました。彼は私の手紙を読んで、自分も同じようなことを考えていたので慰められたと申しておりました。