6. 安心して苦しむ      ルカによる福音書 15章8〜10

 

 私は引退してから母教会に帰りましたが、そこで「成人聖書の会」という教会学校の成人科のようなものを担当してまいりました。そして五年になります。一年ほど経った頃、次のような質問を受けました。それは、私の話にはあまり「悔い改め」という言葉が使われないが、どうしてなのかというものでした。その時まで四十年間の牧師としての働きの中で、一度も受けたことのない質問であり、そういうことは考えたこともなかったのですが、言われてみると確かにそのとおりです。

 教会では、罪ということをよく言います。そして、悔い改めて救われるということもよく言います。しかし、質問を受けて改めて考えて見ますと、確かに私は、あまり「悔い改め」という言葉を使わないで話しをしています。もちろん「悔い改め」について考えていないわけではなく、むしろ、絶えずそれは念頭にあることですので、どうしてだろうと自分でも不思議な感じがしました。そして、この質問をきっかけに、「悔い改め」に就いての自分の考えを問い直して見たのです。

 

 ()く信仰上の常識として、「悔い改め」とは罪を認め、神の前に謙虚に、それを告白し、キリストの赦しの恵みに委ねる、そういうことと考えられます。そのようなこととして、それが、深い罪の認識に立つ神に向かっての心の方向転換であり、神が慈愛と忍耐と寛容とを持っておられることであり、また神のくださる賜物でもあることが、聖書では繰り返し強調されています。

 バプテスマのヨハネも、主イエスも、初代の教会も「悔い改め」をもって、その活動の中心主題としました。とにかく「悔い改め」が、聖書の語る最も大切なテーマであることはだれも否めません。そして、私はもちろんこういう聖書の語ることを心に留めています。しかし、それにもかかわらず「悔い改め」という言葉を、私は指摘されたとおり、ほとんど使っていません。「悔い改め」は常に念頭にありますから、自分では使っているつもりなのですが、使っていません。なぜであろうと我ながら考えざるを得ませんでした。そして気づいたのですが、それは、「悔い改め」という言葉を使うと、逆説的なことを言うようですが、却って「悔い改め」ということが誤解されると考えているからではないか、そう思ったのです。そのわけはこういうことです。

 

 私の手元にあるコンサイスな聖書辞典を見ますと、「悔い改めとは、罪のこの世に向かっている心を、神の恵みの世界に向き変えることをいう」と書いてあります。おそらくどの辞典を見ても、心の方向転換を指摘する点では同じでしょう。ところで、この点に関してよく言われることは、「悔い改め」によく似た言葉に「反省」や「後悔」というのがあるが、それらとは「悔い改め」は全く違うということです。「反省」や「後悔」も心の方向転換ですが、それらは、人間が自分の言動を振り返って考えたり、うまくゆかなかったことを残念がったりすることであるのに対して、「悔い改め」は、人間が自分の心を神の方に向きを変えて、神の光の下で自分のいけなかったことを悔いるわけで、その点て「反省」や「後悔」とは根本的に異なると言われるのです。

 

 神の御心に(かな)った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。     (コリントの信徒への手紙II 7章10節)

 

 「反省」と「後悔」は「世の悲しみ」と言えるでしょう。「神の御心に適った悲しみ」である「悔い改め」とは、確かに根本的に違うのです。しかし、その違いは、「世」から「神の御心」の方に、心の方向転換をするところにあるのかと言えば、そういう面はあるのですが、さらにもう一歩踏み込んだところに、深い違いがあるのじゃないか、そういう気がするのです。なぜかと言いますと、心の方向転換といったことでは捕らえ切れないような要素が、「悔い改め」にはあることを示すと思われるたとえが、「悔い改め」についてあるからです。それは、「無くした銀貨」のたとえと呼ばれる話です。

 

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」        (ルカによる福音書 15章8〜10節)

 

 このたとえによりますと、見つけられた銀貨が悔い改めた罪人にたとえられていますけれども、では銀貨は何か心の向きを変えるようなことをしたかと言えば、何もしていないのです。ただ転がっていただけです。じゃ何も変化は無かったのかというと、あります。それは、この女に見つけられることによって、銀貨は、単に転がって在ったものから、見つけられたものに、その在りようが変わった、という変化です。銀貨は向きを変えるようなことは何もしなかったのですが、この女に見つけられることによって、転がって在ったものから、見つけられて在るものへ、在りようが変えられたのです。そして、そのことが「悔い改め」と言われているのです。ですから、「悔い改め」とは、自分の心を神の方に方向転換するというようなことではなくて、自分の思いで生きて在るものから、神に見つけられて神の思いに生かされて在るものに、在りようが変えられること、と深く解さねばなりません。つまり、「悔い改め」とは、心の向きを神の方に変えることではなくて、見つけてくださる神の思いの中にいる自分に気づくことなのです。あるいは、見つけてくださる神の愛の中に自分をスポーンと委ねることなのです。さらに言えば、自分が生きている自力の人生ではなく、生かされて生きている他力お任せの人生として、人生を受け取り直すことと言って良いでしょう。そういうことが、「悔い改め」について考えられるのではないでしょうか。

 

 私たちは、欲に流されている平素の生活の中で、本心に立ち返って神の恵みの世界へと心の向きを変えますと、さも悔い改めたかのように思いますけれども、このたとえによると、実は、それではまだ本当に悔い改めていることにならないのです。なぜなら、それだけなら、確かに心の向きは変わってはいますが、それでもその変えている自分は相変わらず、自分の力でここに在るという在りようを変えていないからです。心の向きは変わっても、在りようが変わっていないのなら、それでは「悔い改め」としては不徹底と言わねばなりません。「悔い改め」は、銀貨のたとえに従えば、神に見つけられた、他力お任せのものになることだからです。自分を神の愛に委ねる、あるいは神の中に在る、あるいは神に生かされて生きる、そのように在りようを変えられてこそ、初めて自分は根本的に変わったのであり、悔い改めたことになるからです。とにかく「悔い改め」とは、自分が在ってその自分が神を仰ぐことに止まらず、見つけて下さる神の手の中に在る自分自身に気づくところにまで、徹底すべきことと思われます。

 以上のことに対する理解を深めるために、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(ルカによる福音書18章9〜14節)を読んでみましょう。

 

 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下(みくだ)している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

 ファリサイ派の人は神を仰いでいるのです。彼の心の方向は、間違いなく神の方を向いています。しかしその彼は、自分を正しいとうぬぼれ、他人を見下げている人でもあるのです。自分の善行を得々(とくとく)と神に告げることのできる人でもあるのです。その意味では、自分の力で立っている人です。そして、その彼は神に義とされませんでした。それに対し、自分をあるがままに神に委ねた徴税人の方は義とされたのです。ということは、神を仰ぐものが必ずしも悔い改めている者ではないということです。神の赦しの中に自分をそのまま委ねる、そのように他力お任せに、生かされて生きようとする者が、悔い改めている者だということです。

 いずれにしても、こういうたとえもまた示すように、「悔い改め」とは、私たちが神を仰ぐ者に変わることではなくて、神に見つけられて、

 

『我らは神の中に生き、動き、存在する』           (使徒言行録 17章28節)

 

と告白する者に変わることなのです。そしてこの変化は、ふつう言われているような、神の方に心の向きを転換するというのとは全く違うのです。しつこくなりますが、私はこの点を強調したいと思います。そうでないと、「悔い改め」は、「反省」や「後悔」とは違うと言いながら、いつの間にか、同じことになってしまうからです。

 そして、「悔い改め」で求められる方向転換が、見つけてくださる神の愛にスポーンと委ねるという意味を帯びることを言おうとすると、「悔い改め」という言葉には、どうも向きを変える意味合が強過ぎて、委ねるという意味が弱く感じられ、この言葉は「悔い改め」の内容には適切ではないように思えるのです。「悔い改め」という言葉を使うと、かえって「悔い改め」が分からなくなると最初に申したのは、そういう意味です。私はいろいろ考えていて、そういうことに気がつきました。

 

 そして、バプテスマのヨハネの言った「悔い改め」と、イエスの言った「悔い改め」の違いを、改めて思ったのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかける点では、二人とも同じです。しかし、ヨハネはその後「悔い改めにふさわしい実を結べ。……良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と言ったのに対し、つまり、正しい生き方への方向転換を迫ったのに対し、イエスはそういうことは言わず、ただ福音を宣べ伝えて、民衆のありとあらゆる病気や患いを、いやされたのでした。イエスの語られた「悔い改め」は、見つけ出して包み込んでくださる神の愛に、委ねることだけを求めるものであったのです。ですからイエスのもとに、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者などが連れて来られ、いやされ、そして大勢の群衆はイエスに従ったのです。

 バプテスマのヨハネはこの違いを良く承知して、

 

「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

                                    (マルコによる福音書 1章8節)

 

と言ったのです。

 イエスの授けられるバプテスマは、水のではなくて、聖霊のバプテスマなのです。聖霊、すなわち、見つけ出してくださる神の愛、それに委ねるそのことが、つまり、神の愛の中にすでに在ることに気づくそのことが、イエスが私たちに期待される「悔い改め」なのです。そして、この点を強調しようとすれば、「悔い改め」という言葉を使うよりも、「委ねる」という言葉を使う方が良いと私は考えます。なぜなら先に触れたとおり、「悔い改め」という言葉には、どう説明しても、自分の心の向きを変えよう、そして、正しく生きよう、という何か改革の思いがまといつき、「そのままに委ねる」という点が弱いからです。

 いずれにしても大切なことは、「悔い改め」という言葉を、使うか使わないかではないと思います。見つけ出して下さる神の働きに委ねて、「神の中に生き、動き、存在する」在りようを生きるものになることです。「悔い改め」という言葉を使う人が、必ずしも悔い改めているわけではないのです。「悔い改め」という言葉を使っていなくても、悔い改めている人はいるのです。

 (ちな)みに、ヨハネによる福音書には「悔い改め」という言葉は一回も出てきません。つまり、著者ヨハネは「悔い改め」という言葉を使っていないのです。「悔い改め」という言葉は、聖書において大切な言葉ですから、四福音書のどの書にも出てくると思いがちですが、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの三福音書)にはありますが、ヨハネによる福音書には一つも出てこないのです。しかし、だからと言って、ヨハネは「悔い改め」を軽んじたかと言えばそうではなく、3章に出てくる「イエスとニコデモ」との会話(1〜21節)を読めば明らかなように、ヨハネは「悔い改め」を大切な問題として取りあげています。ただそれを「悔い改め」という言葉を使わず、「新たに生まれる」とか、「霊から生まれる」とかいった表現で、それを言っているのです。「新たに生まれる」、「霊から生まれる」とは、まさに神の恵みに委ねる「悔い改め」の、ヨハネ的表現に他なりません。

 ですから大切なことは「悔い改め」という言葉を使ったり、それを言ったりすることではなくて、その意味するところを(わきま)えて、私を見つけだしてくださる神の愛の中に、あの銀貨のように、スポーンと委ねて、見つけられたものとして在ることなのです。生かされたものとして生きることなのです。「悔い改め」とは、繰り返しますが、神の方を向くことではなくて、自分がすでに神の中に在ることに気づくこと、神に生かされて、今ここに在ることに気づくこと、主の愛にお任せの、他力お任せの人生として日々を受け止めて生きること、そのことなのです。

 私たちの人生は楽しく、平安である場合もありますけれども、思いがけない悲しみに打ちひしがれる場合もあります。説明のつかない、運が悪かったとしか言いようのない出来事に出会い、それで人生が狂わしめられることもあります。そういう良いも悪いも一切込みで、人生全体を、主の愛に見つけられている主の手の中の人生と受け止めて生きる、その生の在りようの変化、それが「悔い改め」ということではないでしょうか。

 

私の友人々に、二十歳の一人息子を、彼は医学部の学生でしたが、白血病を患って僅か数力月で失った母親がいます。彼女は神を(のろ)ったそうです。そうでしょう。しかし、約二年経った時に、彼女は涙とともに言いました。「あんな素晴らしい息子をくださって、その子を育てる喜び、そして共に生きる喜びを二十年間くださったことを神に感謝できるようになりました」、そう言われたのです。

 神も仏も無いと言っておられた彼女が、そう言われるまでの心の葛藤は、如何ほどであったでしょう。さらに、そこで私を驚かせ、感動させたことは、彼女がしみじみ述懐して、「これが悔い改めですね」と言われたことです。彼女は良いも悪いも一切込みで、人生を主の手の中に在るものと、主より受け取られたようです。「これが悔い改めですね」と言われた彼女の安心したような顔を、私は何か神々(こうごう)しいもののように感じて、まともに見られませんでした。確かにそれが悔い改めなのです。

 

「悔い改め」、それは心の方向転換といったことよりも、もっともっと深い人生開眼なのです。そして、そのように人生を見る目を開かしめてくださるもの、それは、「無くした銀貨」を捜されたように、私たちに注いでくださる主の目であり、それこそ神の愛の働きとしての聖霊の業なのです。主は銀貨のようになすところなく転がっている者を捜し、そして見つけ出していてくださるのですから、人生は根本的に安心してよいのです。安心してよいものとして、人生は在るのです。そうであるのにその安心をしないこと、それが、見つけだしてくださる神の御働きである「聖霊に言い逆らう、赦されることの無い罪」(マタイによる福音書12章32節)です。だから、主にある安心が「悔い改め」ということになるのです。

 

 人生において大事なのは、苦悩のないことではありません。悩みを安心して苦しむことです。苦しくても安心して、辛くても安心して、痛くても安心して生き得るとすれば、これに勝ることはあるでしょうか。私たちが心して求めるべきは、生き甲斐とか、幸福とか、豊かさとか、楽しさとか、そのようなものではなくて、安心して苦しむ、言い換えれば、(さわ)やかに生きることです。そして、そういう爽やかさは、悔い改めて主の手を通して人生を受け取って生きている者に(たまわ)る恵みであり、またその恵みに生きるものの(しるし)なのです。

 この人の世から苦悩のなくなることはありません。しかし、苦悩の中を爽やかに生きることは、悔い改めることによって、つまり、既に主に捜し出されて見つけられている自分の命の在りように気づくことによって、可能なのです。

 主は言われました。

 

 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

                  (ヨハネによる福音書 16章33節)