8. 「父よ」への救い         ヨハネによる福音書 4章1〜26

 

 本日の聖書の箇所は、イエスがシカルという町でサマリアの女と出会われた時のことを、伝えているところです。ここを通してわたしの教えられましたことが三つあります。それを今朝はお話ししたいと思っています。

 殼初に5節までを読んでみましょう。

 

 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると………ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。   (1〜5節)

 

 当時サマリア人々とユダヤ人々とは仲が悪く交際していなかったのですが、どうしてそういう関係になっていたのかという問題は、本日のお話を進めていくうえで必要がありませんので、触れないことにいたします。ただその対立は歴史的に根が深く、そして厳しく、ユダヤ人はサマリア人との接触を極端に嫌って、旅をする場合、遠回りをしてでもサマリアを通らないほどであったということに注意しておきたいと思います。イエスは、急いでおられたのでしょうか、そういうサマリアを敢えて通り、シカルという町に立ち寄られました、そして、そこが本日のお話しの舞台となったのです。

 

さて、シカルの町へ入られてイエスはどうされたのかと申しますと、

 

 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。                            (6節)

 

 とありますように、そのままドサッとへたり込むように、井戸の側に座られたようです。時は真っ昼間です。暑さの中で急ぐ旅に疲れ果てて、イエスは井戸端のわずかな木陰に座り込まれたのです。本日の箇所を読んで、まずわたしの注意を引いたのは、この疲れ果てたイエスの姿でした。

 「疲れたイエス」、これはわたしたちになじみのない姿です。そして、考えさせられるものがそこにあります。それは、イエスも、わたしたちと同様に疲れたもう方であることを知って、ホッ卜するといったことではありません。そうではなくて、その時が「正午ごろ」であったということ、そして、また7節に

 

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。

 

とあることが示しますように、その時イエスは渇いておられたということです。この二つのことはあることを連想させます。それは、十字架上のイエスです。と言いますのは、正午ごろというのは、マタイによる福音書27章4546節に

 

 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 

とありますように、イエスが十字架につけられたのと同じ時ですし、また渇いておられたというのは、ヨハネによる福音書19章28節に

 

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。

 

とありますように、これまた、イエスが十字架上で絶命された時の状態であるからです。シカルの井戸端に疲れ切って座り込んでおられるイエスと十字架上のイエスとには、そういう意味で妙に重なるものがあります。そして、ユダヤ人とサマリア人、この対立し、反目しあっている人間関係の中に、疲れ切ったイエスがおられる、そして、その疲れ切ったお姿は、十字架に重なるお姿であるということに、わたしはハットさせられたのです。それは対立、反目している人間関係の中には、十字架が立っているのだということです。

 わたしたちの日常生活には、さまざまな形の反目があります。対立があります。争いがあります。そういうことを経験せずに生き得るということは、残念ながらないでしょう。そして、反目しあっている時わたしたちは、(にら)み合っている相手だけをそこで見ていますけれども、そこにもう一人、実はイエスがおられる、それも疲れ切っておられる、わたしたちの反目を深く悲しみ、心を痛め、執り成しつつ十字架についておられるのです。今朝ご一緒に教えられたいことは、まずこのことです。

 

 さて、そこに一人のサマリアの女が登場します。もちろんイエスはここで、こんな女に出会えるなど考えておられなかったでしょう。女もまた、イエスに出会うなど予想もしていなかったでしょう。たまたまの出会いです。ユダヤ人とサマリア人、しかも全く見知らぬ、それも男と女、そして、この女は後に記されていますように、人目を避けて暮らしていた女です。ですからこの出会いは、それ以上に深まらないで、それっきりになって当たり前のような出会いです。しかし、イエスはこの女に「水を飲ませてください」と声をかけられました。水汲みの仕事は、ふつう暑さを避けて夕方に行われたといわれます。ですから正午ごろに一人水汲みに来たこの女に、イエスはふつうでないものを感じられたようです。何か影のある女とイエスは見て取られたようです。そして、この女を救ってやりたいと思われたようです。それで警戒する女の心をほぐすかのように、「水を飲ませてください」と言われたのです。真っ正面から魂の問題を取り上げたら、相手は逃げましょう。しかし、何かをしてくれないかと言えば、相手は心を開くでしょう。人の心を良く知ったイエスの巧みな、そして、熱心な魂を求める接近の仕方です。それでもやはり、思いがけない言葉に女はためらったようです。そのためらう女に向かって

 

 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」         (1014節)

 

 このイエスとのやりとりは、この女の理解に余ったでしょう。「水を飲ませてください」と言われたイエスが、「水を与える」と言われるのです。しかも、その水が、いつまでも渇くことなく泉のように湧き上がる永遠の命に至る水であると言われるのですから、何のことかよく分からなかったでしょう。意味を計り兼ねているその女に、イエスは

 

「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」                 (16節)

 

と言われました。いま問題になっているのは「永遠に至る水」です。それであるのに、それに全く関係のない彼女の私生活の問題が、突然ここで取り上げられるのです。どうしてなのでしょう。

 わたしたちは「永遠の命に至る水」といった深遠な宗教的真理は、思いを高く天に上げるところで初めて分かると考え勝ちですが、そうではないのです。それは夫を呼んでくるという、まさに文字どおりの私生活に、目を注ぐところで分かるのです。そのことを、この「あなたの夫をここに呼んで来なさい」というイエスの言葉は物語っています。それにしてもこの女は、虚を突かれる思いで、このイエスの言葉を聞いたに違いありません。彼女の一番触れてほしくないのは夫のことであったからです。彼女の結婚生活は幸せなものではなかったようです。それは世間の目からは白い目で見られるようなものでした。だから彼女はできるだけ人目を避けて暮らしていました。いまも人目を避けて、真っ昼間の「正午ごろ」に、水を汲みに来ているのです。彼女は咄嵯に、「夫はいません」と答えます。それに対してイエスは

 

「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」                                (18節)

 

と言われました。どういう事情があったのか分かりませんが、そして、わたしたちは思いがけない運命にもてあそばれるものですから、いちがいに彼女を不道徳であったとは言い切れませんけれども、とにかく彼女には、五人の夫を過去に持ち、今も夫とは言えない男と暮らしている、そういう陰の部分があったのでしょう。

 人は誰でも、こういう私的な部分を持っています。人には言えない、見られたくもない、そういうものを密かに、生活の一番底のところに隠し持って生きるものです。そして、イエスはそこを問題にされたのです。そこを問題にすることが、いま取り上げている「永遠の命に至る水」が分かる手掛かりとなるからです。イエスはなにも意地悪く、この女の弱点を暴こうとしておられるのではありません。イエスがこの女の密かな部分、私的な部分を明るみに出そうとされたのは、「永遠の命に至る水」が分かるためには、人は自分の一番隠していたいところを素直に見つめなければならないからです。それを隠して、自分を棚上げにして、奇麗事で済まそうとしていては、救いはないからです。なぜなら、「永遠の命に至る水」は、それを飲みたいという渇き、霊的な渇きなしには分からないでしょうし、その霊的渇きは、自分の密かな私的部分を、つまり罪の姿に素直になることなしには、自覚されないからです。イエスが与えようとされる「永遠の命に至る水」を、感謝を持って飲むためには、わたしたちは私的に、内面的に自分の在り方を問うて、自らの密かな部分を見つめることが求められるのです。今朝深く思いたいことの二番目は、このことです。

 信仰は極めて私的な問題なのです。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」、この女にはこういう言葉で語りかけられましたが、わたしたちにも、それぞれの私的な部分に触れてくる言葉が、イエスから語り掛けられているはずです。それは何でしょうか。お互いに内なる「わたしの世界」に思いをいたし、主の声に導かれて、そこを問い続けてまいりたいものです。

 

ところでこの女は、イエスに何もかも言い当てられた時、どういう態度をとったでしょう。

 

女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」                           (1920節)

 

 さきほどから申していますように、ユダヤ人とサマリア人とは反目しています。そして、ユダヤ人がエルサレムの神殿で礼拝をしているのに対して、サマリア人はゲリジム山こそ礼拝すべきところと考えていました。20節の「この山」は、ゲリジム山のことです。それにしてもここでなぜ、この女は、突然礼拝の場所を問題にしたのでしょう。ある人は、彼女は自分の私生活を暴かれたので、イエスの追求を逃れるために、問題を礼拝問題にすり替えたのだと説明をしますが、そうではないでしょう。むしろこれは、イエスの追及によって罪を自覚した彼女の心に、真剣に神を礼拝しようという心が芽生えたことを示していると解釈すべきでしょう。礼拝しようという心が真剣となったればこそ、礼拝場所はゲリジム山かエルサレムかという、これまでいい加減にしてきた問題が、彼女にとって重大問題となったわけです。「一体どちらが本当の礼拝場所なのだろう?」、ここで彼女の口から礼拝場所の問題が出てきたのは、唐突の様で、実はそうではないと思います。「あなたの夫をここに呼んで来なさい」というイエスの言葉に促され、導かれて、私的な良心的反省が起こり、それは罪の自覚となり、それが更に救いへの渇きとなり、そしてそれは遂に、真の礼拝への願いとなって礼拝場所を問題とするに至ったのです。

ところで、彼女の礼拝場所を求めるこの問いに、イエスは

 

 「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人々から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」         (2124節)

 

と言われたのです。このイエスの言葉で大切なポイントは、神が父と呼ばれていることです。「父」という言葉が、ここに三回出ていることは注意するに値しましょう。この神を父とする礼拝こそ、霊と真とをもってする礼拝であり、そして、そういう礼拝を献げる者にとっては、もはや礼拝場所などどこでもよいのだ、それがここでイエスが言おうとされたことなのです。大切なことは神を父と呼ぶ信仰態度、信仰姿勢です。「ゲリジム山か、エルサレムか」、とユダヤ人もサマリア人も礼拝場所を重大問題として争っていますが、そんなことをつまらぬことにしてしまうほどに、神を父として身近に、生き生きと、支える力として信じられること、それが大切なのだとイエスは言われるのです。

 そして、この神を父と信じる信仰を可能にする者こそ、いまおまえの前に立って「水を飲ませてください」と語りかけたり、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言ったりして、霊的渇きを目覚ませつつ、永遠の命に至る水を与えようとしているこのわたしなのだ、そうイエスは言われるのです。本日の聖句の最後を見ましょう。

 

イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」      (26節)

 

 イエス・キリストにおいて、主において、人は罪に気づかしめられ、そして、その罪を許される父なる神に出会うのです。そしてその時、もう礼拝場所は問題でなくなります。エルサレムであろうが、ゲリジム山であろうが、そんなことはどうでもよいのです。問題は、神を父よと感謝をもって呼ぶ、その礼拝態度、礼拝姿勢です。礼拝において、その真実性が問われるのは、場所ではなくて、姿勢、態度です。イエス・キリストにおいて神を父よと呼ぶ、その命の根源への姿勢です。その姿勢に礼拝があるのであって、場所に礼拝があるわけではありません。

 

これについては、ヨハネの黙示録に示唆に富む言葉があります。読んでみましょう。

 

わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。                                  (2122節)

 

 何と意味深い言葉でしょう。聖所、すなわち、神と人とが出会う礼拝の場所は、この都にはないと言われるのです。この都、すなわち、神の救いの成就した新しいエルサレムでは、礼拝の場所など問題でなくなるのです。問題となるのは、「全能者で主である神と子羊とが聖所」という信仰、つまり、イエス・キリストにあって神を「父よ」と呼ぶ信仰自体なのです。その信仰姿勢にこそ、礼拝の真は掛かっているのです。

 

 いずれにしても、このようにして、サマリアの女は、神を「父よ」と呼ぶ真の礼拝を主にあって献げる者へと招かれたのです。イエスが「水を飲ませてください」と呼びかけられて始まった救いの業は、こうして真の礼拝者へと彼女を招くことで終わったと言ってよいでしょう。つまり、イエスの業は「真の礼拝への救い」でした。「父よ」への救いでした。これが今朝深く思いを致したい第三のことです。

 

 わたしたちは「父よ」へと救われるのです。わたしたちは救いを「苦しみからの救い」、「悩みからの救い」、あるいは、「罪からの救い」などと考えます。それはそのとおりなのですが、では一体「何への」救いなのでしょう。苦しみや、悩みや、罪から、「それらが無くなることへの救い」なのでしょうか。そうではありません。救いは「父よへの救い」なのです。苦しみや、悩みや、罪の中にあっても、そのただ中で「父よ」と神を呼ぶものとなるように、そのようにわたしたちは救われるのです。救いは「父よ」への救いです。

 サマリアのこの女のその後については、彼女がイエスを信じ、イエスを証しするものとなったことは記されていますが、その私生活が、誰からも批判を受けない清い生活に変わったとは全く記されていません。彼女が変わったのは、生活ではなくて、生活はどのようであれ、その中で「父よ」と呼ぶ方を知ったということ、そのことなのです。汚れた暗い生活の中でも「父よ」と呼べる方を知る、それがイエスの与えようとされる救いなのです。聖書の関心はそこにあります。