9. 人生を計るもの            ヨハネによる福音書 11章1727

     ―裸のラザロ―

 

 今朝、皆様とご一緒に学びたいと思っています聖書の箇所は、ラザロの復活の物語の一部分です。ラザロの病の篤いことを聞いても見舞おうともされなかったイエスが、二日経ってから、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と、やおら腰をあげられ、ラザロを失って悲しむ姉妹マルタとマリヤを訪ね、復活の希望を与えられたところです。

そして、2526節の

 

 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 

 この言葉で有名なところです。今朝は、この2526節に特に思いを致し、わたしの教えられたことをお話ししたいと思います。

先ず冒頭の1718節を読みましょう。

 

 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。べタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

 

 ここで注意したいことは、ラザロが墓の中に葬られて四日間か経過したということと、ベタニアの村がエルサレムから十五スタディオン(一スタディオン=約185メートル)、つまり、僅(わず)かに三キロメートル弱であったということとが、わざわざ書かれていることです。四日間葬られたということは、ラザロの死がひょっとすると仮死状態で、蘇生術を施せば生き返るかもしれないといった、そういう可能性をもはや全く抱き得ないものであったことを示しております。希望は全くないのです。また、エルサレムまで僅か三キロメートルという近くに接近されたということは、十字架につかれる時が目前に迫り、死の影が、いよいよイエスにとって濃くなってきたことを示しております。イエスに残された時間は、もはや多くないのです。要するに、ラザロの復活の可能性が全くないところで、十字架の死を覚悟しつつ、イエスはラザロを甦らせようとされたのが、ここの状況だと言えましょう。

 ところで、では人々、は事態をどう見ていたのでしょう? 19節を読みましょう。

 

マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

 

 人が死ぬと大勢の人が集まります。これはわたしたちも経験するところです。もっとも、すべての人が慰めに来るとは限りません。義理で来る人もあれば、手伝いのために来る人もあります。むしろ、そういう人の方が多いでしょう。ユダヤでは、泣き男、泣き女がいたといいます。しかしここでは、兄弟ラザロを亡くしたマルタとマリアに対する人々の同情は、やはり大きかったというべきでしょう。「多くのユダヤ人が慰めに来ていた」という言葉は、このまま素直に読みたいと思います。そこヘイエスも来られたのです。しかし、イエスは慰めに来られたのではありません。「ラザロを起こしに来られた」(11節)のです。墓に葬られてすでに四日間、望みも絶えたそこへ、イエスはご自分の死を覚悟しながら、ラザロを命へと起こそうと来られたのです。これこそ真の慰めの到来です。しかし、マルタとマリアには、そういうイエスのみ心は分かるはずもありません。2021節を読みましょう。

 

 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

 

 出迎えたマルタの口をついて出たのは、まず恨み言でした。もちろん恨み言が出たのは、イエスが居られたら、きっと助かったであろうにという信頼があればこそでしょう。ですから恨み言を思わず言った後、それを訂正するかのように22節で、

 

 「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 

と言ったのだと思います。それに対してイエスは23節で、

 

「あなたの兄弟は復活する」

 

 と言われました。このイエスの言葉をマルタはどう受け取ったでしょう? おそらくマルタは、イエスがもっと慰めに満ちた優しい言葉をかけてくださると期待していたのではないでしょうか。「あなたの兄弟は復活する」など言われても、すでに四日間も墓の中にいるラザロが甦るはずなどあり得ないのです。ですから、その時マルタは、イエスがとおり一遍の返事として、世の終わりには死者は復活するという、当時のユダヤ教が、一般的に信じていた教えを語られたのだと思ったに違いありません。なんとおざなりな、お茶を濁(にご)すような言葉でしょう、とマルタは思ったのではないでしょうか。そのことを24節は示しています。

 

マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

 

 公式的なユダヤ教の教えを、いまさら語られても、マルタは嬉しくも何ともありません。むしろ、そんな分かりきったことを語ってイエスが慰めようとされることに、マルタはちょっと腹が立ったに違いありません。「そんなことぐらい存じて居ります」と彼女はツンとした調子で答えています。しかしその時、イエスは、彼女の、そのいささかすねたような心を恥じいらしめて素直にし、心を開いてイエスを信ぜしめるようなことを言われたのです。それが今朝、問題にしています、先にお読みしました2526節なのです。これは今日の個所の、そしてラザロの復活物語の、さらには聖書全体の、と言ってもよいかも知れませんが、その中心になる言葉です。イエスという方が秘めておられる奥義がここに語られています。

 

 ところで、ここでイエスは何を言おうとしておられるのでしょう? イエスがここで、永遠の命について語られていることは明らかです。死んでも生きる、そして、決して死ぬことはない、そういう永遠の命を語られていることは明らかです。しかし、わたしたちはふつう、永遠の命といえば死後に与えられる命、あるいは世の終わりにおいて与えられる命、そういう将来に約束されている命というように考えているのではないでしょうか。しかし、この2526節に言われている永遠の命は、そういう将来に約束されているものではなくて、現在与えられているものとして、語られていることに注意したいと思います。もう一度2526節を読んでみましょう。

 

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 

 つまり、イエスご自身が甦(よみがえ)りであり、命であるゆえに、そのことを信じるものは、死んでも生きるし、生きているものは決して死なない、というのです。ですから、永遠の命は、信じるものには、現在、今ここで味わい得ることとして語られていると言わねばなりません。そして、このように、永遠の命を現在のこととして受け止める、将来のこととしてではなくて現在のこととして味わうのは、このヨハネ福音書に特徴的に告白されている信仰なのです。例えば、

 

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。   (5章24節)

 

とあります。イエスを遣わされた方、つまり父なる神を信じるものは、すでに永遠の命に移っているのです。永遠の命をこのように、現在、今ここですでに与えられているものと悟るのは、ヨハネ福音書の信仰の重要なポイントなのです。そして、いま問題にしています2526節は、まさにこのこと、永遠の命が将来のことではなくて、現在、与えられている事実であるということを語っているのです。そして、そのことを証しするために、死んだラザロは現在、いまここで甦らされるのです。ラザロの甦りは、永遠の命が現在、いまここでの命であることを証しする、まさにそのことのためにされた奇跡であることに、わたしたちは深く思いを致すべきでしょう。

 ところで、イエスは本当にラザロを甦らされたのでしょうか。38節以下を見ますと、「イエス、ラザロを生き返らせる」という見出しのついているところですが、ラザロは甦っているのです。そこでは、マルタが、ラザロは墓の中に納められて死臭を放って、もう臭くなっていますとためらうのに、イエスは墓の石を取りのけさせます。そして、「ラザロ、出て来なさい」(43節)と言われます。するとラザロが手足も、顔も、布で包まれたままに出てくるのです。ですから、確かに、ラザロはイエスの力によって息を吹き返したのです。言われたとおりになりました。ではラザロはそれっきり、再び、死ぬこともなく、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたとおりに、ずっと生き続けているのかというと、もちろんそんなことはなく、ラザロはもう一回死んでいなくなったことは言うまでもありません。ということは、イエスが言われたとおりには、結局はならなかったということです。イエスは「決して死ぬことはない」と言われ、確かにラザロは一度は墓から出て来たのですが、やはり死んでしまったのですから、「決して死ぬことはない」と言われたイエスの言葉は、成就しなかったと言わねばなりません。もしもイエスの「決して死ぬことはない」と言われた意味が、この世をいつまでも死なずに生きるという意味なら、そういうことになります。ですから、イエスの言われる「決して死ぬことはない」という言葉の意味するところは、この世をいつまでも生きることではないことは明らかです。

 ではイエスが言われる「決して死ぬことはない」命とは、どういう命なのでしょうか。

 

 そのことを考える手掛かりに、パウロの生涯をすこし見てみましょう。なぜなら、彼こそイエス・キリストを固く信じて、「決して死ぬことのない命を生きた人」なのですから。コリントの信徒への手紙Iを見ましょう。

 

兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。           (15章31節)

 

 彼はここで自分の命を、「日々死んでいる」命であると言っています。もちろん彼は生きておりますし、生きていればこそこんなことが言えるのですが、しかし、彼は「わたしは日々死んでいる」と言うのです。つまり、彼は単に生きているのではなく、また単に死んでいるのでもなく、死ぬことにおいて生きているのです。それが彼の日々なのです、命なのです。一日一日が死ぬことにおいて生きているのだと彼は言うのです。禅問答みたいですが、死んで生きる、あるいは、死の中に生きることを味わう、そういう命を彼は生きているのです。それはどういうことを言っているのでしょう。

 パウロの伝道生涯は苦難と、迫害と、飢えと、病と、心労との連続でした。彼は日々その苦労の連続に耐えつつ、神の御業(みわざ)のために、自分を神の道具として献げて生きました。つまり、彼は自分の命というものを、自分の真ん中に据えて自分の思いのままに生きるものとは考えていなかったのです。そうではなくて、神を真ん中に据えて、神の思いのままに委ねて、それに従って生きるものと考えています。言い換えれば、自分に死んで、神に生きる人生態度で、自分の命を神から戴いたもの、神から贈られてある命と受け止めて生きています。彼が「日々に死んでいます」と言う時、それは、そういう人生態度が彼のものとなっていたことを示しています。彼は自分の命を、自分の思いのままに生きてよい命とは考えていないのです。神の思いに委ねて、それに従って生きるべき、贈られてある戴(いただ)きものの命と受け止め、それゆえに、日々に自分の思いに死んで生きているのです。そして、日々に自分に死ぬ人生態度で、彼が生きているそのような命こそ、「決して死ぬことはない」とイエスが言われたところの永遠の命ではないでしょうか。

 

わたしたちは自分を中心に据えた生き方で、命は自分の思いでなんとでもなるかのように人生を生きているところがあります。そして、その生き方の中でわたしたちは、なんとあくせくと愚かな心労に疲れ果てていることでしょう。そういう生き方の向きを変える、それがつまり、日々死ぬということですが、そういう日々死ぬ人生態度において、もともと神から贈られてある命は、その本来の命の輝きを取り戻してくるでしょう。すなわち、甦(よみがえ)るでしょう。そして、この甦って本来の輝きを取り戻した戴きものの命こそ、「決して死ぬことはない」とイエスが言われた永遠の命であり、パウロが生きた命なのです。永遠の命とは、将来、やがていつの日か与えられる命ではありません。すでに与えられて、私たちを生かしていて、しかもわたしたちが自分中心に生きるために無視されてしまっている命、しかし、わたしたちが日々死ぬことで本来の姿に甦ってくる命、そういう命なのです。永遠の命とは、わたしに与えられて現にいま、わたしを生かしている、神から贈られてある命に、実は他ならないのです。それは、いまわたしが生きていることとは離れた命でもなければ、将来に約束された命でもありません。先に触れましたように、ヨハネが永遠の命を現在のこととして語っているのは、その意味です。

 しつこくなりますが、もう一度言いますと、わたしたちは、この世にある限り、どうしても命を自分中心な生き方で生かそうとします。しかし、命は本来、私のものではなく、贈られた戴き物であることは間違いありません。何人も自分で自分の命をつくったわけでなく、気がつけば生きているのであり、与えられてそれを生きているのです。ですから、命が本来の贈られてある姿で生きられるためには、人は自分中心な生き方に死なねばなりません。日々に死んでこそ、命は本来の姿に甦るのです。つまり、命は死を経て命なのです。これが命の仕組みです。そして、この死を経て、初めて本来的に生きるものとなる、という命の仕組みを悟られたのが、イエス・キリストでした。だからイエスは「私は復活であり、命である。」と言われたのです。そして、このイエス・キリストを信じて、日々に死ぬ者も、また贈られてある命を生きる平安、充実を味わうでしょう。それをイエスは、「私を信じる者は、死んでも生きる」と表現されたのです。したがって、この2526節でイエスが問題にされている「死んでも生きる」ということは、この世で死んでもなお将来、永遠に生きるという、命の長さの問題ではないと言わねばなりません。そうではなくてそれは、贈られてあるものとしての命を、それらしく生きる、つまり、戴き物として生きる、そういう人生態度の問題なのです。

 

 すこしややこしくなりましたが、このように読んできて、今日の個所から、私の教えられていることが一つあります。それは、人が生きるということを計る物差しは何か、ということです。一体、人が生きるということは、何で計るのでしょう。年月、つまり長さで計るのでしょうか。その一生でなしとげた仕事の量で計るのでしょうか。その人の果たした役割で計るのでしょうか。いずれでもないでしょう。またもちろん、富も、名誉も、人生を計るに値する物差しとは思えません。では一体何で、人が生きるということは計られるのでしょう。

 

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」                                            (2526節)

 

 この言葉の前に立つとき、私の示されますことは、人が生きるということは、(その人がどれだけ自分に死んだかで計られるものだ)ということです。言い換えれば、(人がどれだけ自分の思い通りに敢えて生きなかったかで計られるものだ)ということです。敢えて自分の思いどおりには生きない、これは動物にはできない、人間だけにできることです。私たちの命は贈られてある命、戴き物の命です。したがって、自分の思いに死ぬ時に、初めて輝くのです。この命の仕組みを心に留めて、日々自分の行きたくないところへ連れて行かれるような生き方、それで人生は計られると思うのです。

 

ところでラザロの復活の話の終わりはどのようになっているのでしょう。

 

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。            (11章4344節)

 

 ユダヤでは亡くなった人々を葬る際に、全身に布を巻き付けるようにして、包んだようです。甦ったラザロも手足を布で包まれ、顔も布で覆われたままに出てきたわけです。ですから、イエスはその時、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われたのです。これがこの場におけるイエスの最後の言葉です。ということは、これでイエスの奇跡は終了、完成したということでしょう。しかし、これは考えてみれば、妙なことです。なぜなら、布をほどけば、ラザロは裸になるからです。もちろんマルタとマリアは早速甦ったラザロに、何かをまとわせたでしょう。しかし、イエスはそういう指示をされませんでした。裸のままです。そして、これで、すなわち裸の姿で、このラザロの復活の奇跡が完成したということ、私はこれを極めて意味あることと考えています。甦りとは裸の命、つまり、さきほどから繰り返し言っています、命が本来の贈られてある姿に甦ることなのです。

 私たちは仕事や、地位や、家柄や、財産や、才能や、学歴や、業績や、あるいは、思想や、主義主張や、好みや、生き方や、感じ方などで自分を装って生きています。そして、そういうものにいろいろ心を使い、またそれらを人と比べて、競争しながら生きています。しかし、命はそもそも、与えられ、生かされた戴きものです。したがって、今夜のうちにも、取り去られるかもしれないものです。それであるのに、そういう命のいわば裸の事実に対して、どれだけ私たちは心遣いをしているでしょうか。わたしたちは、命与えられ、生かされ、支えられ、そして、やがて取り去られるという命の裸の事実に思いを致すよりは、命にまといつけた、さまざまな装いに心遣いして、一喜一憂、不毛の心労に疲れ果てているのではないでしょうか。

 野の花を見よ、空の鳥を見よ、と言われるイエスの言葉は、命の裸の事実に気づき、生かされているという端的な事実に委ねることから人生を始めよ、ということでした。そして、ラザロの甦りの話が言わんとしていることも、結局同じことです。命の裸の事実に気づけよ、ということです。裸の、生(なま)の命に醒(さめ)ること、それが取りも直さず、命の甦りでしょう。ラザロの復活をとおして示されることの中心はこれです。だからこそ、ラザロは裸にされて、そこでこの甦りの話は終わるのです。

 わたしたちは、結局何もかも取り去られていくでしょう。命にまとうた、さまざまの栄光も、知識も、富も、力も、幸福も、そして、健康も取り去られていくでしょう。ですから、それらだけが生きることの価値だと思っているならば、私たちは価値を失って、無価値なものになっていくしかないでしょう。しかし、裸の命は、決して無価値なものではないのです。裸の命は、ただ単に命にまといついたさまざまな装いが無くなったというだけのことです。むしろそこで、命は、贈られてある命の本来に甦る、と言ってよいのです。ですから、さまざまなものを取り去られて悲しむものが、実は、裸の命、生(なま)の命の豊かさのゆえに慰められるのです。その命の仕組みを、ラザロの復活の裸の姿は語っています。ラザロの復活は、裸の命に、生(なま)の命に目覚めよ、そして、その贈られてある命をそれらしく生きよ、つまり、戴きものとして敢えて自分の思いどおりではないように生きよ、そこにこそ、悲しむものへの慰めがあるということ、それを結局は語っているのではないでしょうか。

 「ほどいてやって、行かせなさい」、イエスが悲しむマルタとマリアに渡されたのは、裸のラザロでした、衣服をまとったラザロではなかったのです。いろいろなものを装って、不毛の心労に神経を擦り減らしている自らを省みるとき、これは、誠に含蓄の深い慰めの言葉と言わねばなりません。「ほどいてやって、行かせなさい」。