10. 柔  和               ガラテヤの信徒への手紙 6章1〜5節

 

 ある視覚障害者の会の例会でお話しをした時のことです。その会に呼ばれたのは二回目でしたので、特に講師紹介ということもなしに、お話しを致しました。その後のスケジュールは、食事と親睦会だけでした。それで、私は先に帰らせていただくことにしました。ところが帰る間際に急に、自己紹介をお願いしますと言われたのです。突然でしたので、私を招いてくださった方に、「僕の代わりにやってくださいよ」と頼みましたら、簡潔に要領よく紹介をしてくださいました。それで、安心して私は頭を下げ、黙礼して失礼したのです。それで御用は終わったと思って帰ったのです。ところが帰りの電車の中で、ハッと気がつきました。しまった、目の見えない方々に黙礼をして何になるのか、何という心ない別れ方をしたのか、冷や汗がどっと出ました。恥ずかしくてたまりませんでした。出来ることなら今から引き返し、もう一度、挨拶のやり直しをしたいと思いました。そして、今度は、何々神学校を卒業して、何々教会に何年勤めて、といったような自己紹介ではなくて、身長一六三センチ、体重五三キロ、頭の毛の薄い、眼鏡をかけて、痩せた、そして何色の洋服を着て、何色のネクタイをしているか、ということをまず言って、自己紹介を始めたいと思ったことでした。

 平素、盲人の方と接することの少ない私は、いつもと同じ調子で話をし、いつもと同じ調子で帰ってしまったのです。ということはその時、その方々を本当に見ていなかったということです。また相手を見ていないその自分自身も、見えていなかったということです。いつもと同じ調子に安住し、それに流されて、いつもと同じ調子でやってはいけない方々の前に立っていたのです。何という傲慢、何という人を馬鹿にした無神経な態度、自分は全くエゴに流され、エゴに導かれるままになっていると、つくづく思いました。しかし、このことは、私の平素は、そういう身勝手なものなのだ、と図らずも気づかせてくれました。考えてみれば、信仰とか、祈りとか、み言葉とか言いながら、私を導いているものは、結局エゴなのです。わたしはそのことを深く、愕然(がくぜん)とした思いで知らされました。これからお話しますことはそういう反省に立って、私が聖書から教えられたことです。

 

パウロはガラテヤの信徒への手紙6章1節で、

 

 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。

 

と言っています。ここで「霊に導かれて生きているあなたがた」というのは、直ぐ前の5章25節に、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」とあるところから考えて、普通一般のキリスト者を指していると考えてよいでしょう。それは信仰者の中のすぐれて霊的な人とか、霊的指導者とか、そういった特定の人ではなくて、信仰者そのものを指しています。ですから、この6章1〜5節に記されていることも、霊的な特別な人だけではなくて、信仰者である、わたしたち皆それぞれに、語られていることとして読まねばならないでしょう。わたしたち信仰者は霊に導かれて生きているものなのです。エゴに導かれて生きているものではないのです。わたしは自分の失敗を反省しながら、改めて深くそのことを考えさせられました。

 

 ところで、霊に導かれて生きているとは、具体的にどういうことなのでしょう。ここで問題になっていることは、誰かが何か過ちを犯し、故意ではないにしても、とにかく罪を犯したような場合、わたしたち信仰者はどうするか、という問題です。裁くことも、軽蔑することも、怒ることも、交わりから締め出すことも、それに対して出来るでしょう。しかし、霊に導かれて生きている信仰者は、それらのいずれでもなく、取るべき態度はただ一つ、「柔和な心で正しい道に立ち帰らせる」ことだ、とパウロは言います。

 ここで注意すべきは「柔和な心で」ということでしょう。なぜなら単に「正しい道に立ち帰らせる」のなら、厳しく叱り飛ばしてでも出来るでしょうし、忍耐強く教えるという方法によっても出来るかもしれないからです。正しい道に立ち帰らせるという目的のためなら、取るべき態度は、いくつか他にも考えられます。しかし、問題は、その罪を犯した人を正しい道に立ち帰らせるにあたって、彼に対して持つべき心です。そしてその心は柔和な心でなくてはならないのです。

 

 正しく立ち帰るか否か、これは結局、本人の心掛け次第です。こちらがどんなに誠意を尽くして注意しても、適切な方法で注意しても、本人にその気がなければ、どうしょうもありません。しかし、こちらとしては相手がどういう反応を示すにしても、柔和な心を持って、それに対処せねばならぬ、というのです。柔和な心でその罪に陥った人に対する、それが霊に導かれて生きている者としての信仰者の態度であるというのです。繰り返し注意しておきますが、相手が正しい道に立ち帰るかどうかが、ここの第一の問題ではないことです。もちろん、そのことは願うとしても、それは、いま述べましたように本人の心掛け次第です。本人がその気にならなければ、こちらがどんなにヤキモキしても、これはどうしようもありません。しかし、その罪を犯した人に対する対し方、これは私自身の問題であり、私の責任で出来ます。そして、それは柔和な心を堅持することだ、とパウロは教えているのです。

 

 よく経験することですが、ある人が罪に陥り、それを正しい道に立ち帰らせようと努力しているうちに、相手がそれに気づかず、気づいても立ち帰ろうとしないと、だんだん相手に対して腹立たしくなり、いらいらし、憎しみの心が湧いてきて、いつの間にか立ち帰らせようという善意が意地になってしまうことがあります。しかも、その意地になっていることに、自分自身が気づかず、最初の善意で変わりなく相手のことを心配していると自負して、正しい道に立ち帰らせようとし続け、やがて、意地が敵意になり、とうとう相手と抜き差しならぬ関係になってしまう、そういう例は少なくありません。どんなに人として歩むべき正しい道でも、歩むのは相手の問題ですから、いくらこちらがそれに立ち帰らせようとしても、本来、それは私の力ではどうにも出来ませんし、してもならないことなのです。それを(わきま)えないと、善意は性急な自分の考えの押しつけとなり、相手の立場への無理解となり、相手を一方的に裁くことになり、やがて、そのことによって、こちらが逆に罪を犯すことになります。霊に導かれている信仰者はその危険に気づきます。そして、そうならないように柔和な心へと押しやられるのです。

 ですから柔和とは、単に優しいとか、穏やかとかいうことではありません。それはどういうことかと言えば、「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と、その次に書かれているように、自分も同じ過ちをひょっとすると犯すのでないか、犯しているのでないかという反省、自分自身への厳しさを持つということです。

 だいたい人の罪を見ていると、どうしても、私たちの目は相手の方に厳しく注がれてしまうものです。その時、その相手に注いでいる厳しさの向きを変えて、厳しい目を自分の方に注ぐ、それが柔和の本質です。それは単に物腰や語り方が、優しいとか、穏やかであるとか、そういう表面上の問題ではありません。自分に厳しいということ、それが柔和なのです。罪に陥る弱さは相手にだけあるのではなくて、こちらにも間違いなくあります。自分に厳しくある時、こちらの、自分自身の弱さもよく見えます。相手が、その罪でこちらに迷惑をかけているように、こちらも知らないうちに相手に迷惑をかけているものです。必ずそうなのです。だから、お互いに重荷を担い合わねばなりません。つまり、許し合い、我慢し合い、譲り合い、時には、見て見ぬふりをして包み合わねばなりません。そうしてこそ、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13章34節)と言われたイエス・キリストの律法を全うすることになるでしょう。だから2節に

 

 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

 

 と続くのです。霊はそのように導きます。

 ところで自分を厳しく見る時、自分はどのように見えるのでしょうか。それをみごとに言っているのが3節の言葉です。

 

 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を(あざむ)いています。

 

 つまり、厳しく自分を見つめる目に映る自分の姿は、「何者でもない」のです。「何者でもない」、そう見える時、人は自分を厳しく見つめているのです。しかし、この自分を厳しく見つめるということが、残念ながら、私たちには出来ません。そして、どうしても甘くなり、「ひとかどの者」とうぬぼれ、「自分自身を欺いて」平気な顔をしてしまいます。そうではないでしょうか。もし自分自身を欺いて、甘い評価を自分に下すようなことをせず、また、自分をかばおうとする自己正当化の思いを厳しく退けて率直に自分を見れば、私たちは「何者でもない」自分の実際の姿に、直面せざるを得ないでしょう。人間の実際は、「何者でもない」というところにあるからです。それであるのに、「何者かである」、あるいは「ひとかどの者」であると思うなら、それは自己吟味の不足以外のなにものでもありません。パウロはその点を突いて4節で言います、

 

 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

 

つまり、各自がそれぞれ人のこととしてではなくて、まさに自分のこととして自分を吟味したら、「ひとかどの者」と思っているのは、自分に対してだけの自己満足の自惚れの誇りであって、それは、とても他人に対しては通用するような正当な誇りでないことに気づくであろうというのです。しかし、わたしたちの自己吟味は、そのような厳しいものに、どうしても徹底しないのです。どうしても自惚れ(うぬぼれ)、どうしても甘くなり、どうしても自己弁護になり、どうしても自己正当化をしてしまうのです。実際の自分を、しっかり見る素直さに欠けるのです。その点においては、私たちはまことに(かたく)なです。ですから、問題は人のことではなくて、自分自身のこのどうしようもなく頑固な自己弁護、甘い自己肯定にあるのです。そして、このどうしようもない自分自身こそ、担うべき自分の重荷となります。かくして、重荷は罪に陥っている人のことではなくなります。自分自身こそ重荷になります。霊はそのように教え導きます。ですからパウロは言ったのです。

 

めいめいが、自分の重荷を担うべきです。                      (5節)

 

 以上1節から5節までのパウロの言葉をたどってきたわけですが、ここで教えられることが二つあります。

 一つは、この問題の出発点は、だれかが罪に陥ったのを見たというところにあったのに、結論は、めいめいが自分の重荷を担う、つまり、一人ひとりが自分の問題を見つめることになったということです。そして、そのように問題を見つめる方向が、相手より自分に変わるまでに導いてきたのは、何であったかといえば、それは霊であったのです。そして、このことから、私は改めてここで霊に導かれるとはどういうことなのか、教えられたのです。

 霊に導かれるとは、何か不思議な結果に導かれるとか、思いがけない体験をするとか、予想もしないような展開に恵まれるとか、そういう何か人間の知恵では、考えられないようなことに出会うことではなくて、見詰める方向が人から自分になり、自分こそが問題なのだ、という風に思いが導かれることなのです。つまり、自分は「何者でもない」ことに気づかしめられる、そういう自分への厳しさに深まることこそ、霊の導きだということです。これが一つ。

 もう一つ教えられることは、霊の導きとしての自分への厳しさは、他の人に対しては、柔和として表現されるということです。自分は「何者でもない」という厳しい自己吟味は、決して息の詰まるような、神経質な、自虐的な検討を自分に加えて、それで終わることではなく、それは柔和な心で罪に陥った人を正しい道に立ち帰らせるという展開をするということです。したがって、柔和という他者を包むような、あるいは他者を許すような、いずれにしても、他に対して心開くような表現を取らない自己吟味は、霊に導かれた自分への厳しさではないというべきでしょう。単に自分に閉じこもるような自分への厳しさは、一見真面目そうで真剣であっても、それは病的に深刻に自分を凝視しているだけであって、パウロが言う意味で、自分の重荷を負っている霊的な自己吟味ではないのです。

 柔和、それは霊に導かれている自己吟味の方向を示しています。逆に言えば、柔和な者になるために、柔和でない頑固な自分を重荷として担うように、自己吟味を迫る、それが霊です。霊とは、柔和へとすべてを押しやって行く力に他なりません。

 イエス・キリストはエルサレムに入城される時、ロバにわざわざ乗られました。それは預言者ゼカリヤが、ゼカリヤ書9章9節で、

 

彼は神に従い、勝利を与えられた者

高ぶることなく(=柔和であって(口語訳))、ろばに乗って来る

 

 という預言の成就としてでありました。主が高ぶることなく、柔和であられることによって、その救いの業がまさに霊的な、神の恵みの業であることが示されています。霊に導かれているものは、必ず柔和という表現を取ります。柔和という花を咲かせるのが、霊です。

 

 わたしが現在出席している教会は、単立の千里山教会という大阪の郊外にある教会ですが、この教会の名前は正式には「河辺貞吉記念千里山キリスト教会」と言います。河辺貞吉は、日本自由メソジスト教会の初代の監督であり、大阪日本橋教会の創立者であり、大阪キリスト教短期大学の基礎を築いた、牧師であり、教育者であった方です。1864年に生まれ、1953年(昭和28年)に亡くなられましたが、愛の伝道者として、また名説教者として日本キリスト教史に大きな足跡を残された方です。私は晩年失明されたころに、親しく先生の説教を聞き、教えを受けたものです。

 先生には、その信仰を語るエピソードがたくさんありますが、おそらくあまり語られていないと思われる、先生の祈りについてのものをご紹介します。ご令息夫人から直接聞いた話ですが、ある時、すでに失明しほとんど寝たきりになっておられた先生の部屋にそっと入って、夫人がお世話をしようとされた時、先生はそれに気づかず、お祈りを始められたそうです。先生は誰もそこにいないと思って声に出して、密室の祈りを始められました。思わずじっと聞いておりますと、その内容は「神様、私は愛が足りません、神様、私は愛が足りません」の繰り返しであったそうです。夫人は、そのままそっと部屋を出られたのですが、その祈りを聞いた感動を忘れることができず、後で話してくださったのでした。

 わたしからみれば、先生は聖者と言ってもよいような、本当に謙遜な愛の人でした。わたしの約五十年の信仰生活の中で、あれほど主に捧げきった人に会ったことはありません。神様との関係が、いつもきちんと通っているような方でした。その先生が亡くなられる少し前、「愛が足りない」と密かに祈っておられたということ、具体的にどういう問題があってのことか知る由もありませんが、ここには柔和な心を生きようとして、誠に厳しく自己吟味をしている一つの魂があると思いました。その時、先生八九歳、何という若々しい信仰、何という初々しい信仰、初心を忘れぬ、霊に導かれておられる信仰でしょう。

 信仰とは、何をするかという行動に関するものというよりは、むしろ何をするにしても、自分に厳しく人に優しくを基本にするという、生活の作法に関するものになるはずのものです。信仰は、「何者でもない」と自分が見え、互いに重荷を担い合う同士と相手が見えるゆえに、柔和をもって生活の作法とすることを、生涯かけた課題として担い続けることです。

 冒頭に申しました、目の見えない方々に黙礼をして帰ってしまうようなわたしは、たとい、そこでどんなに良いお話しをしたとしても、またどんなに皆さんと親しく交わったとしても、霊に導かれている信仰の失せた、そして人間の作法を欠いた者と言わねばなりません。