11. 一名欠員、ただいま十一名

              (日本バプテスト同盟関西部会新年信徒研修会1999・1・24)

 

1.二人の弟子について

 共観福音書によりますと、イエスは夜を徹して祈って弟子の中から、み心にかなった十二人を選び出しておられます。そして、宣教に遣わし、悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆる患いを癒す権威をお授けになりました。この十二人はイエスのお働きを、担い継ぐべき中核として、使徒と呼ばれました。ところが、この十二人の顔ぶれを見ますと、当然入ってよさそうに思われる人が選ばれず、どうして選ばれたのかと思われる人が入っています。どうして選ばれたのかと思うのは、言うまでもなく後にイエスを裏切ったユダですが、どうして選ばれなかったのかと思うのは、ナタナエルです。この二人の姿から信仰の持ち方ともいうべきものを考え、そこから、教会の在り方、また信仰者の在り方について私自身の問われているところをお話しして、本日の責めを果たしたいと思っております。

 

a 使徒に選ばれても良さそうに思われるのに選ばれなかったナタナエルについて

まずナタナエルですが、ヨハネによる福音書1章4351節に基づいてお話し致します。

 

 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

 ナタナエルは共観福音書には出てきません。ヨハネによる福音書にだけ、それもたった二回しか出てこない人です。しかし彼は、イエスから、「見なさい、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と絶賛された人です。

 このような絶賛の言葉を、弟子となる際にイエスから戴いた人は、十二弟子の中に一人もいません。その彼が選ばれていないのです。どうして彼は十二弟子に入らなかったのか?そういう疑問に対して、いや彼は別の名前で十二弟子の中に入っているという説があります。ナタナエルはフィリポの紹介で弟子となった人ですから、フィリポとの関係は特に密接なのですが、十二弟子のリストを見ますと、共観福音書のいずれにおいても、フィリポと密接な関係に置かれている人がいます。バルトロマイという人です。そこからバルトロマイとナタナエルとは同一人物ではないのか、と言われるのです。しかし、私はこのナタナエルーバルトロマイ同一人物説には、同意し(がた)いものを感じております。

 と言いますのは、マルコによる福音書9章3840節に、十二弟子が、他の弟子たちが主の名によって悪霊を追い出しているのを見て、それを止めさせようとして、そのためにイエスに注意された話があります。

 

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 

 人間というものは直ぐに特権化するものでありまして、十二弟子たちも選ばれたことを特権的に誇って、他の弟子たちの働きを認めようとしなかったのです。そもそも選びというものは、神の愛と真実に基づく恵みでありました。したがって、選びに対しては、誇らずに感謝して、その選ばれた期待に応えるものでなくてはなりません。申命記7章7〜9節にあるとおりです。

 

 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、……

 

 しかし、イスラエルの歴史は、彼らが選ばれたことを一つの特権と考え、その特権意識の中で、自らを誇り、自らを頼み、高慢にも罪を犯していく歴史でした。つまり、イスラエル人は、神の選びに応える、まことのイスラエル人ではなかったのです。そして十二弟子もまたいま見ましたように、選ばれたことを誇る人々でした。彼らもまた、まことのイスラエル人と言える人ではなかったのです。事実、十二弟子は、ユダだけではなく、全員イエスを、最後には否んで十字架にまで従うことができず、選びに応えられなかったことを私たちは知っています。そういう十二弟子の情けない姿を見る時、「まことのイスラエル人だ、この人には偽りがない。」とイエスが絶賛されたナタナエルが、その十二弟子の中に入っているとは、私には思えないのです。だから、ナタナエルーバルトロマイ同一人々物説に、私は同意したくないのです。むしろ、イエスは敢えて彼を十二弟子に選ばず、いわば理想の弟子として、その外に置かれたのではないかと考えます。

 ナタナエルは先に申しましたように、共観福音書には一度も登場しない人です。登場するヨハネ福音書でも、弟子に召された最初のときのことが記されているだけで、その働きについては全く何も記されていません。ただひとつの例外は、イエスが甦られた時、その主に彼が出会ったことです。それはヨハネ福音書21章1〜2節に記されています。

 

 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

 

 ナタナエルという人は、こうしてみるとイエスに出会った最初の時と、復活のイエスに出会った最後の時の二回だけ、そのいずれの場合もまるで十二弟子の一人のように、彼らと共に登場している不思議な人です。十二弟子に選ばれずにその外にいて、しかも彼らと行動を共にし、十二弟子以上に弟子らしく、心に偽りのない真のイスラエル人として振る舞って、弟子の理想像を示している不思議な人々です。ナタナエルという名は、「神の賜物」という意味だそうですが、まさに理想的弟子として、弟子の在るべき姿を教えてくれる、神よりの賜物のような人物、それがナタナエルと言ってよいでしょう。

 

 ではナタナエルから学ぶべき弟子の理想的な姿とは何でしょうか? 彼において特徴的なことは、そのイエスとの出会い方です。

 彼はぺトロやアンデレ、ヤコブやヨハネのように、あるいはフィリポのように、イエスに「わたしに従いなさい」と言われてすぐに一切を捨てて弟子になった人ではありません。彼はフィリポからまず声を掛けられ、「待ち望んでいた救い主に今出会った。それはナザレのイエスだ。」、そう言われましたが、他の弟子とは違って「ナザレから救い主が出るはずがない」、と否定するのです。けれども、「来て、見なさい」という再度のフィリポの呼びかけに応じて、彼はイエスの方に近づいて行きます。そこには人の語る証言を軽々しくは信じないが、さりとて頭から否定するでもなく、事実に心を開いて謙虚であろうとする真実さがあります。イエスは、ナタナエルの自分の考えを固守しないで真理には頭をたれるそのような姿勢を、「この人には偽りがない。」と言われ、そして「まことのイスラエル人である。」と彼を評価されたのでした。

 イスラエルとは、昔ヤコブが、ヤボクの渡しで神の使いと出会い、祝福を求めて格闘した時に、神に打ち勝たれて新しい人となって、戴いた名前です。彼は兄エサウを策略を使って騙し、エサウより長子の権を奪い、また父より彼の長子の権を奪った狡猾(こうかつ)な人でした。しかし、ヤボクの渡しの格闘で腿の関節をはずされ、無力なものとされ、神の力によって生きる新しいものとされて、このイスラエルという名を戴いたのです。ですから、イスラエルという名の核心は、神に負かされて、神に生かされるというところにあります。イスラエル人は神に負かされていてこそイスラエル人なのです。

フィリポの証言を、一度は否定したものの、その自分の判断を覆されつつイエスに近づいていくナタナエルに、イエスは、イスラエルに変えられていくあのヤコブの姿を見られたのでしょう。ヤボクの渡しで腿の関節をはずされて無力とされ、自分の力に頼る者から、神の力に生かされる者となったヤコブの姿は、まさにナタナエルのその時の姿です。そして彼を「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われたのです。「偽りがない」とは、したがって単に「嘘がない」ということではなくて、神に負かされている、無力にされて神に貫かれている、ということです。もっと一般的に言えば、自分の考えを固守しないで真理には頭を垂れていこうとする、ということです。そういう人がまことのイスラエル人なのです。

 ところで注意したいことは、ナタナエルが「まことのイスラエル人だ」と言われた時はいつであったか? ということです。それは先に見ましたとおり、ナタナエルが「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と信仰を告白するより前なのです。ということは、まだイエスを救い主と信じるには至ってないのに、とにかく、そのままでイエスに近づいていく、その途上に「イスラエル人」にとっての「まこと」が潜んでいる、ということになります。イスラエル人にとっての「まことさ」は、迷い求めるその途上にあるのであって、迷いがなくなった、イエスのことがすっかり分かって信仰告白をした、というところにあるのではないのです。換言すれば、神に負かされていく、その神に貫かれていくプロセスが信仰にとって大切だということです。迷い求めるナタナエルが、迷っているその最中に、「まことのイスラエル人」と言われたのは、そのことを示しており、真実に迷い求めた点において、彼はイスラエル人として「まこと」だったのです。

 それにしても、イエスがここでナタナエルを指して、単に彼はイスラエル人だと言われずに、「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われたことは、イスラエル人を必ずしもイスラエル人ではなく、心に偽りのある「嘘のイスラエル人」がいるということでしょう。いま申しましたように、イスラエル人がイスラエル人である所以(ゆえん)は、ヤコブの故事が示しますとおり、神に負かされていることです。自分の力に頼らず、ただ神の力に委ねて生きんとするところにイスラエル人の面目があるのです、神に負けていないイスラエル人は嘘のイスラエル人なのです。そしてイエスは、イスラエル人がその選びに奢って特権化しつつ、嘘のイスラエル人になっている歴史を見ておられました。イスラエル人こそ、まず救われねばならないことを見ておられました。その救いのために、ご自身がこの世に遣わされたことを自覚しておられました。そして、弟子を選ばれたのです。しかし、その弟子もまた選びを誇り、特権化しました。そのことは先に見たとおりです。

 人間は、常にいつの間にか自分を誇り、特権化するものです。神に選ばれたことすらも誇りの材料とし、偽りものとなっていくものです。そういう中にあって、ナタナエルは選ばれることなく十二弟子の外に置かれ、しかも選ばれた十二弟子と行動を共にし、復活の主に十二弟子と共に出会うものとして位置づけられています。これは真に絶妙な神の配慮と言わねばなりません。なぜなら、ナタナエルは十二弟子でないことによって選びの奢りから守られつつ、十二弟子と共に行動して、弟子の理想の姿を示す役割を果たしているからです。

 

b 使徒にどうして選ばれるのか不審に思われるのに、選ばれたユダについて

 次に、どうして使徒に選ばれたのか、不審に思える弟子について学びたいと思います。つまり、イスカリオテのユダについてです。

 彼の名前は十二弟子のリストにおいては常に最後に、そして、「イエスを裏切ったもの」という説明つきで出てきます。しかし、彼はもちろん最初から悪い人ではなく、むしろ、有能な役に立つ人ではなかったかと思います。彼が十二弟子の中で、ただ一人南方ユダの出身であり、またイエスの一行の財布を預かる、いわば会計役をしていたのですから、どこか見どころのある人として選ばれたのだと思います。しかし、彼はイエスを銀貨三十枚で祭司長たちに渡して、十字架につけることに加担し、あとで悔いて銀貨を祭司長たちに返そうとして断られ、銀貨を神殿に投げ込んで、首を吊って自殺しました。

 彼の死に方には、もう一つの説がありまして、その別の説では、彼の最後は、不正の報酬で手に入れた地所へ真っ逆さまに落ち、二つに体が裂け、はらわたが飛び出すという悲惨なものであったと言われます(使徒言行録1章18節)。とにかく彼は、裏切り者の烙印(らくいん)を押されて、その名を歴史に残すことになりました。ある意味では、彼は十二弟子の中で一番有名な人とも言えます。キリスト教を知らない人でもユダの名前は知っているでしょう。

 ではイエスを裏切ったのは、ユダだけだったのでしょうか。そうでないことは、先にナタナエルについて学んだ時に、少し触れたとおりです。ぺ卜口をはじめ、十字架まで従った弟子は一人もいなかったのですから、その意味では裏切ったのはユダー人とは言えないのです。全員裏切り者なのです

 弟子は皆「みこころにかなう者」(マルコによる福音書3章13節(口語訳))としてイエスに選ばれたはずです。それであるのに、全員裏切り者であったという事実は、イエスの弟子選びが誤っていたということなのでしょうか。そうではありません。それは人間は、本質的に裏切り者だということです。私たちが罪人であるとは、私たちが神に造られた被造物であるのに、神にとって代わろうとする思い上がった生き方をしていることを言っているのですから、それは即ち、人間は神を裏切って生きているということであり、したがって裏切るということは、ある意味では人間の本質的性格なのです。誰を選んでも、弟子は皆裏切ったことでしょう。事実、結果はそのとおりであったのです。

 しかし、ユダ以外の十一人はユダのような裏切り方はしませんでした。ですから彼の裏切り方はやはり、彼独特のものと言わねばなりません。したがって、もしユダの裏切りを問題にするのなら、「彼はなぜ裏切ったのか?」という質問を立てるよりも、「ユダの裏切りはなぜ、あのようなものになったのか?」、それを問題とすべきでしょう。

 ユダの裏切りについては、古来いろいろな説があります。欲の深い人であったので、お金に目がくらんだからであるとか、熱心党的な政治的関心が強かったので、イエスに政治的期待をしたのに、それがかなえられなかったからであるとか、唯一人のユダ出身者として弟子の中で孤立していたからであるとか、またユダは悪魔であったとか(ヨハネによる福音書6章70節)、あるいは、イエスを裏切るように予定されていたとか(同13章27節)、そういう説明もあります。しかし、わたしとしては、以上述べたところから、可能性として裏切る要素をもっていた弟子全員の中で、ユダだけがあのような行動に出てしまった、そのきっかけに注意をし、そこからユダの裏切りを考えてみたいと思います。

 ところで、ユダはいつ裏切る気になったのでしょう。「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(ヨハネによる福音書13章2節)という記事がありますから、最後の晩餐のときより前に既に、ユダは裏切る気になっていたということになります。では、その気になったのはいつのことかといえば、それはその夕食の前に起こった事件、即ち、12章1〜8節に伝えられている、イエスの足にマリアが、純粋で非常に高価なナルドの香油を塗った事件の時だと考えられます。

 

 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々、に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(ヨハネによる福音書 12章1〜8節)

 

 マリアはその時、女性の直感と申しましょうか、愛してやまないイエスの、最後のときの近づきつつあることを感じていたのでしょう。悲しさと愛とに千々(ちぢ)に乱れた、その思いをナルドの香油に託して、それをイエスの足に塗り、自分の髪の毛を恥ずかしさも忘れてほどいて、それでイエスの足を拭いたのです。皆驚いたでしょう。これは一体なんだ、と思ったことでしょう。イエスは当然マリアのすることを押し止められるものと思ったかも知れません。しかし、イエスは何もなさいませんでした。なすにまかせられるイエスを見て、不審に思いながらも、しばし沈黙がその場を覆ったことでしょう。その時、それを破るかのようにユダが言ったのです。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

 察するに、マリアのしたことはユダには耐えられなかったのでしょう。なぜなら、ユダは預かっている財布の中身をごまかしていたからです。そういう彼には、マリアのような、無私で、純粋で、率直な行為は、鋭く良心をとがめる行為でした。自分の醜悪さがあぶり出されるような行為でした。しかもそれをイエスが認められて、なすに任せられるのですから、ユダにすれば、もう身の置き所がないのです。だから、彼はマリアのしていることを非難したのです。本当は、マリアの行為を見て、自分のしていることを恥じ入るべきであったのに、自分を守ろうとして、逆にイエスにマリア非難をぶっつけたのです。そして、もしイエスが、おまえの言うとおりだ、マリアはけしからん、とでも言ってくだされば、ユダの心は平静さを取り戻したでしょう。しかし、聞きようによっては極めて(もっと)もなユダの非難を、イエスは聞き流し、「この人のするままにさせておきなさい。」と言われた時、いま風に言えば、彼はキレたのです。自分を正当化しよう、自分を守ろうとするユダの思いは一気に爆発して、イエスを離れて、イエスを裏切ろうという方向に膨らんだのです。その意味でユダの裏切りは、彼の自己正当化がもたらしたものです。

 先に指摘したように裏切る可能性は、弟子たちに共通してあります。しかしユダの場合、それが決定的裏切り行為になったのは、銀貨三十枚に目が眩んだというよりは、また政治的野心に挫折したからというよりは、マリアの純粋で無私な心に触れて、自分を反省しなくてはならないのに、そうするよりも逆に自分のしていることを隠し、自分を守り、自分を正当化しようとしたからであると考えられます。もし、マリアの塗油事件に出会わなかったら、おそらくユダは財布の中身をごまかしながら、素知らぬ顔をして、他の弟子だちと一緒にイエスについて行ったことでしょう。そして最後は、皆と一緒にそのまま逃げたのではないでしょうか。

 マリアの美しい行為は、ユダにとって運命の岐路でした。それは財布の中身をごまかしている彼にとって、反省を迫る、悔い改めの絶好のチャンスとなることでした。しかし、それを彼は、逆に裏切りのきっかけにしてしまいました。そうさせたもの、それは、自分を正当化しようとするあがきです。ユダを裏切らせたものは、自己正当化のあがきです。金銭欲でも、政治的野心でもありません。そういう点なら、他の弟子たちも同じだったのですから。このことは、自分を正当化しないように自分と闘うということが、弟子にとって最も大切で、本質的な課題であることを物語っています。

 

C 二人から学ぶことについて

 以上、ナタナエルとユダの二人の姿を見てきて、教えられることがあります。それは、自己正当化は、信仰にとって致命傷だということです。

 ナタナエルはフィリポの呼びかけを一笑に付しましたが、しかし、その自分の考えを固守せず、熱心に招くフィリポの呼びかけに、半信半疑、疑いつつ迷いつつですが、とにかくイエスに近づいて行きます。彼はイエスを疑っていますが、それは同時に自分自身の今まで思い込んでいた「ナザレから何か良いものが出るだろうか」、という考えを疑いつつのことでもありました。彼は自分の考えを正しいものとして、その上でイエスを疑っているのではありません。だからこそ、彼はイエスの方へ近づいて行くのです。そういう彼をイエスは、「偽りがない」と言い、「まことのイスラエル人だ」、つまり「真の信仰者だ」と言われたのです。ですから、信仰とは、疑いも迷いもないことではなくて、疑い迷いつつ、その不安定さの中で求めることを止めない求道性そのものと言えましょう。

 その点、ユダはマリアによって折角開かれた、この求道の機会を、自己正当化によって逸したと言えましょう。彼は偽善的に、貧しい人々への思いやりを示すかのようなふりをして自己を正当化し、求道を止めて、イエスのもとを去りました。

 自己正当化、これは程度の差こそあれ、私たちが皆いつもやっていることです。そのために、どれだけ心を使い、ストレスに悩み、人を責め、自分を弁護し、人間関係を複雑に歪めていることでしょう。私たちの力の多くは、このことのために使われていると言ってもよいくらいです。しかも、そのことに気づかず、気づいても止められず、自己正当化の泥沼に私どもは、はまったような生活をしています。また自己正当化とは、自己を神とすることに通じることですから、まさに神を神とする信仰の、根幹を揺るがす罪なのです。その意味で、自己正当化は、皆がしているからと言って、決して認めてよい、ささやかな心の動きではないのです。放っておけばユダに見られるように、まさに命取りです。さらにまた、自己正当化は外からは見えません。したがって、自己正当化に敏感に気づき、丁寧にその思いを除こうとする、そういう自己との内なる戦いを根気よく戦うことなしには、人は主の弟子に相応(ふさわ)しくあることは出来ないでしょう。

 少し角度を変えて自己正当化をしないとは、どういうことかを考えて見ますと、それは自己をどうしても正当化しようとする執われ、「その執われから自由になる勇気」を持つということ、つまり、「非は非とする素直さ」を持つことと言えましょう。要は「素直」ということです。「素直」ということは、これはなんでもないことのようで、実は信仰の根幹に触れる問題なのです。信仰と言えば、愛、忍耐、謙遜、柔和、寛容などが大切とされます。言うまでもないことです。しかし、私は自分自身の経験から言って、自己を正当化しない「素直さ」こそ、信仰にとって重大事でないかと思っています。

 

 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。

                  (ヤコブの手紙 3章17節)

 

 「上から出た知恵は、何よりもまず純真」なのです。純真、つまり、ピュァ、わたしの言葉で言えば、神に貫かれて「素直」であること、それが上から出た知恵の第一です。信仰とは、神に向かって素直であること、そのものと言えるのではないでしょうか。

 

以上、ナタナエルとユダ、この二人が逆の形ではありますが、共通して示している信仰のまこと、あるいは信仰の命と言ってもよいものを、私は求道性と呼びたいと考えます。

 求道というのは、洗礼を受けるまでの一時期のことではありません。信仰者は生涯求道者であり、自分の確信するところを正当化せずに、真なる方に頭を垂れて、自分自身を素直に問い質していく、その不安定さの中に、身を置くことを止めない者のことです。信仰とは、安定ではなくて常に迷っている、あるいは、自己絶対化せずに、常に自分自身を問題とする、そういう生き方を迫ってくるものです。そのような迫りに応えて、自分の信仰を正当化せずに、迷って不安定の中を生きてこそ、深まっていくのが信仰であり、信仰の喜び、平安、感謝といったものも、そういう不安定の中で味わえるものであり、そういう不安定の中で、信仰のまこと(命)を納得するのが、信仰のもたらす究極の恵みではないでしょうか。

 

 私たちは、誰しも安定を望みます。そして、自分の経験、立場、知識、感覚、判断、意見などを、間違いないこととして固守し、正当化し、それらを基準にして行動し、もし、それらが揺さぶられると不安になり、自分の考えを固守し、正当化しようとします。信仰でも同じです。しかし、理想の弟子ナタナエルも、イエスを裏切った弟子ユダも、自己の安定を求める努力は、信仰を偽りものとし、むしろ、主に揺さぶられる不安定を生き場所として、そこで迷うことが信仰を偽りのないものにすることを、逆の方向からではありますが、共に示しました。私は二人を見てそう思うのです。

 イエズス会のアントニー・デ・メロの言葉に、「神について作り上げたイメージが、本物かどうか疑ってかかりなさい。そのほうが、単に崇拝するよりも、もっと神に喜ばれる」(『心の泉』女子パウロ会、1987)というのがありますが、確かに逆説的ではありますが、確信するより疑うことの方が信仰に相応しい、と言える面が信仰にはあると思います。

 

2 マティアの選出について

 以上、まことの信仰ということに思いを巡らしていて、私はふと思ったのです。「教会はその出発において、あるいは誤ったのかも知れぬ」ということです。使徒言行録1章1526節のマティア選出の記事から、ふとそう思ったのです。

 

 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。(ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。)――註・この( )は口語訳により付した――詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当だったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

 

これを読んで、私の抱いた思いをまとめると、次のようになります。

 

教会はその出発において、あるいは誤りを犯したのかも知れぬ。

マティアを選んでユダの補充としたのは、誤りであったのかも知れぬ。

主は十一人の使徒たちに宣教の使命を託そうとされたのに、

欠員を補充して十二人としたのは、誤りであったのかも知れぬ。

 

十二という数は彼らにとって好ましい、心の落ち着く数であったろう。

十一はどうもなじめない、不安定な数であったろう。

しかし、主は十一人に宣教を託された。

もし十二人で出発すべきであったなら、主ご自身が補充されたであろう。

しかし、主はそれをなさらなかった。

その主のなさらなかったことをして、教会は出発に備えた。

誤りではなかったのか。

 

使徒の数を十二人という伝統的な数に揃えた時、

彼らの心にある種の安定が戻ったことであろう。

しかし、それは十一人に宣教を託された、主の閉め出されるときでもあった。

 

「一名欠員、ただいま十一名」という不安定な状態に耐えて、

主ご自身がそれを補い、整え、

安定を与えてくださるのを待つべきであった。

ユダの空席は、教会が自らの姿を如実に見、

そして祈るものとされる場所として、教会の中心を占めるべきであった。

それであるのに、使徒たちは自らの手でそれを埋め、教会の出発に備えた。

安定の持つ、魅力、そして魔力。

 

自らの手で安定を得ようとして主を閉め出した群れに、

聖霊は(くだ)った。

生まれ給う余地のないベツレヘムに主が生まれ給うたのと同じである。

聖霊が下るとは、教会の中に聖霊の座し給う席が作られること、

ユダの空席の回復である。

 

安定は人間の計らい、不安定こそ主の計らいによる賜であった。

地上のどの集団も持たない、主より(たまわ)るこの不安定、その中で求め、迷う。

そのことを()いて教会の存在理由はない。

 

迷っていることが信じていることである、

迷っていることが祈っていることである、

迷っている人が許されている。

そして、迷っている人が許すことへ導かれる。

 

 使徒言行録1章1526節によれば、主の昇天に際して、エルサレムに留まって約束の聖霊を待つことを命じられた弟子たちは、ユダの裏切りによって生じた一名の欠員を補って、態勢を整える必要を感じたのではないでしょうか。彼らは使徒の補充をして、その時を待とうとしたのです。そして、弟子の中から「主イエスがおられた時に一緒に行動していたものの中から、主の復活の証人となる人」を選ぶことにして、候補者二名を立て、祈りつつ、くじ引きでマティアという弟子を十一人の使徒の仲間に加えた、というのがここの記事です。

 しかし、私は教会はその出発にあたって、こういう欠員の補充をする必要が果たしてあったのだろうか、という気がするのです。欠員補充の必要についてペトロは百二十人ほどの人々に向かって説教をしていますが、そこで彼は、ユダの死の一部始終を語って、その死んだ土地が血の土地(アケルダマ)と呼ばれるに至った次第を、そういうことは、エルサレムの全住民の知っていることと思われますのに、まくし立てています。そしてその上で、欠員補充が必要であることの根拠として、「地位は他人に取り上げられ」という詩編109編8節を引用するのです。しかし、109編は感謝の言葉で終わっているものの、内容は敵への呪いを願う、いわゆる復讐の詩編です。こういう、自分の義を自負し、敵を憎悪する詩編の中の一節を根拠にして欠員補充をするということは、キリストの愛を証しする教会のスタートに相応しいことなのか、口語訳ではこの部分が( )の中に入っており(参照、168169頁。「注 2;マティアの選出について参照」)、聖霊を待つにあたっての説教としては、ここは不自然という理解が古来あったようでもあります。

 よくは分からないのですけれども、このペトロの説教について、私の思いますことは、いずれにしても、これは欠員補充の必要を、詩編を予言にして語っているようで、実は十一人の使徒たちに、欠員を補充したいという思いがまずあって、それを正当化するために、この詩編をこじつけて引用したのじゃないか、ということです。彼らは一名欠員という不安定さに耐えられなかったのではないか、しかし、実は一名欠員という、使徒としては、極めて不安定な形で教会は出発するのが、御心ではなかったのか、ということです。

 もし一名の欠員が補充されるべきであるならば、主ご自身が補充されたのではないでしょうか。夜を徹して十二人を選ばれたイエスです。十二人がどうしても必要ならば、そうされたと思うのです。ユダが裏切って使徒たちから離れた時、十字架の時は切迫していたとはいえ、どうしても欠員の補充が必要ならば、そうすることの出来る時間はあったと思います。たとえばナタナエル、こういう弟子は側にいたと思います。先に触れたように、彼は使徒たちと行動を共にし、復活の主に使徒だちと共に出会っているのです。使徒の条件は十分に満たす人です。他にも、そういう弟子はいたかも知れません。少なくともナタナエルはユダの裏切りによる欠員を補充し得る位置にいたと思います。しかし、イエスは欠員を補充されませんでした。私は、イエスは補充されなかったという、その事実をこそ、大切にすべきではないかと思います。

 ナタナエルのように使徒たる条件を備えたものが側にいても、イエスが欠員を充たそうとされなかった御心(みこころ)は何か、ぺ卜口たちがエルサレムで約束の聖霊を待っているとき、彼らが求めるべきは、むしろそのことではなかったでしょうか。イエスが十二人を祈りのうちに慎重に選び、側に置き、いろいろな権威を授けて、主の業を託してくださったのに、その一人が欠けてしまった、そういういわば予測しなかった不安定な状態に、自分たちが残されてしまった、その意味を、使徒たちは考えるべきではなかったでしょうか?

 欠員のある状態はよくない状態、補充すべき状態、とすぐに彼らは考えて補充しましたが、実は欠員のある状態こそが、教会の出発すべき状態ではなかったでしょうか? ナタナエルのように「まことのイスラエル人」と絶賛された理想の弟子をも(a)えて()されず、イエスはただ約束の聖霊を待つようにと命じられただけだったのです。欠員の補充はイエスのお考えにはなかった、と言うべきではないでしょうか。

 

 教会はその出発にあたって、「一名欠員、ただいま十一名」という不安定な状態に置かれたのです。イエスはユダの補充をされませんでした。その空いているユダの席に座し給うのは、裏切り者を赦される聖霊であるはずでした。そして、その時、教会はその席を見て、裏切る人の罪と、その罪を許す主の愛を絶えず覚える群れとなって、出発するはずでした。しかし、安定を求めた十一人々は、ユダの席に、マティアを選んで座らせました。使徒たちは安定しました。しかし、聖霊の座し給う余地はなくなりました。

 その余地のないところに、聖霊は(きた)り給うたのです。ちょうど、泊まる余地のなかったベツレヘムの宿屋から閉め出されつつも、かいばおけの中に生まれ給うたイエスのように、来り給うたのです。ユダの裏切りを許し、さらに、安定を求めて先き走りをして、主の求められぬ欠員補充をしてしまった、その意味では、ユダ同様裏切り者であった十一人を(ゆる)して来り給うたのです。聖霊はユダの席に、つまり教会の中心に座し給いました。ユダの空席は回復したのです。使徒たちは、かくして実際には「一名欠員、ただいま十一名」という不安定な、しかし、主の赦しに満たされて、教会として出発したのではないでしょうか。マティアという人は、くじで選ばれて使徒になりましたが、彼の活動は何も記されていません。

 だから教会は、常にユダの席が空いていることを見ていなければなりません。そのユダの空席を見て、教会は、自分たちが裏切り者であることを忘れてはならないのです。同時に、その席に聖霊の座し給うことを見ていなくてはなりません。その席に座し給う聖霊を信じて、教会は、自分たち裏切り者が許されていることをも忘れてはならないのです。そして、この両方が、つまり、裏切り者である自覚と、赦されているものである自覚とが、相反するものでありながら、相即しているものである、そういう両者の緊張が信仰の真実であり、教会の生ける(しるし)であることを忘れてはならないのです。

 

 福音書では、ユダは繰り返し「十二人の一人」と記されていました。ユダのしたことはユダー人の問題ではなく、他の十一人の問題なのです。ユダが裏切って出て行ったから、そして、死んでしまったから、十一人はユダとはまるで無関係のように、新しい使徒を選ぶことなどしてはならなかったのです。

 ユダは依然として「十二弟子の一人」として、教会の中の空席から、他の十一人に問いかけているのです。「お前たちとわたしはどう違うのだ、わたしと同じではないのか」、そういう問いかけが聞こえてきます。それと共に、裏切り者を赦す主の恵みが、この空席を満たして、語りかけてくるのです。「お前は赦されている」、「お前は赦されている」、そういう福音が聞こえてきます。罪の問いかけと赦しの宣言、この相反するものを、相即するものとして聞き続けている、その緊張、その不安定さ、そこに信仰の求道性、信仰のまこと、そして、教会の命はあるのではないでしょうか。

 ペンテコステに聖霊が(くだ)ったということは、「欠員なし、ただいま十二名」という人の思いが作った安定の上にスタートしようとした教会を、ひたすら赦しの恵みに委ねて生きるより他ない群れらしく、「一名欠員、ただいま十一名」の不安定の形に、神が立て直してくださったことではないでしょうか。迷い求めるナタナエルを指して、「見なさい、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われたイエスの心が、そこに、この教会のスタートにおいても、あるというべきではないでしょうか。イエスを迷いつつ求め、求めつつ迷う、そこに信仰の真実があるのです。教会はその真実を求められている群として、「一名欠員、ただいま十一名」の不安定さを、常に自らの姿として覚えている一人ひとりの群でありたいと思います。つまり、常に自らの足らざることに気づき、その不安定の中で迷い求め、そこで聖霊の働き給うところを感謝するものとさせていただきたいのです。

 

 伝道の大切は言うまでもありません。しかし、敢えて言えば教会は、この求道性をさらに大切にせねばならないと思います。要するに自分自身に伝道することであります。私たちは、自分自身に常に伝道し続けねばなりません。

 アントニー・デ・メロの言葉をもう一度読んで、終わります。

 「神について作り上げたイメージが、ほんものかどうか疑ってかかりなさい。そのほうが、単に崇拝するよりも、もっと神に喜ばれる。」