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愛は忍耐コリントの信徒への手紙1 13・4〜7)

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。

愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、

自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、

すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

(4〜7節)

 

 夫婦でも、親子でも、兄弟でも、親友でも、同じ考え方、生き方、感じ方をするわけではありません。良い悪いの問題ではなくて、とにかくお互い違うのです。この違うということが分かる、それが人間関係において第一に求められる知恵です。

 もっともこの違いが分かるということは、お互いの違いが理解できるという意味ではなくて、それが理解できないほどに深く違い合うことが分かるという意味です。人と人との違いは生易しいものではありません。結局のところは、お互い分からないのです。そういう者同士であると分かる、それが違いが分かるということであり、それが人間関係における知恵です。

 それは、相手は自分と違う人生を生きて、その中で身に付いたものを持ち、それは傍から口を挟むことを許さないものであることをよく呑み込むということです。それは、ひとりひとりの奥行きに対する洞察でもあり、また、その人がその人なりに一回きりの人生を必死で生きていることへの敬意でもあります。

 

 ですからこの知恵がないと、つい相手に注文をつけたくなります。自分が良いと思うことは相手にとっても良いはずと思い込んで口を出します。あるいは手を出します。それが、相手を大切にしてのことと思い込んでするのですが、実は、自分の考えを大切にしているだけのことであり、相手との違いに耐えられない忍耐の無さに他ならないのです。

 よく私たちは、見ていられないからといって人のやっていることに口を出すのですが、人がどのように生きようが、たといどんなに変だと思うことをしようが、口は挟まないことです。基本的には、それを認めることです。耐えることです。見ていられないと思うのは、こちらの見方であって、当人はそれで結構自分なりに納得し、満足している場合が多いものです。

 困っているようでも放っておく、手助けは、求められ、相談を受けた時だけにする、そういう突き放したような、距離を置いたような生き方、私たちがお互いの違いを認め合って生きてゆくためには、そういう一種の忍耐が必要でありましょう。

 

 お互い違うのです。とすれば違いに耐え合うことをおいて人間関係は成り立ちません。

 「愛は忍耐強い。……すべてを忍び、……すべてに耐える」と、繰り返し耐えることが語られるのは、人間の実際にとどいた、知恵に叶ったことといわねばなりません。愛は耐えることに極まるのです。

 注意したいことは、相手を受け入れようと違いに耐えているのは、こちらだけ、自分だけだと思わないことです。相手は少しも耐えていないなどと思わないことです。そう思うのは、自分の忍耐を物差しにして相手を裁くことです。

 そうではないのです。こちらが忍耐している時は、相手も必ず忍耐しています。なんらかの形で忍耐しているものです。自分の忍耐にうぬぼれないようにしましょう。むしろ、自分の忍耐において、相手の中にある忍耐が読みとれるように、そして、その相手の忍耐が信じられるように努めましょう。その時、忍耐は愛なのです。

 

 相手を自分の考えで見ないこと、あくまでも相手は相手、そのままに受け入れ、そのために耐えること、そこに、イエスキリストにあって、あくまでも私たちをそのままに受け入れてくださる神さまとの交わりを反映した、人と人とが生き合っている姿がありましょう。

 

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

(ヨハネによる福音書13・34〜35)

 

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