人を裁くな(マタイによる福音書7・1〜5)

「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

(5節)

 

 イエスは人を裁く者を「偽善者」と呼ばれました。なぜ人を裁くことが偽善なのでしょう。たとえば、散々相手を裁いておきながら、あなたのことが心配で注意してあげたい一心で言ったのだ、と親切を装った場合などは偽善といえるでしょう。しかし、イエスが「偽善者」と言われたのは、そういう特別の場合を指してではなく、人を裁く者は皆、本質的に偽善者である、という意味です。

 

施しをするときに、人からほめられようと会堂や街角でするなら、そういう人は偽善者と呼ばれても仕方ありません。「隠れたことを見ておられるあなたの父」の前で、右の手のすることを左の手に知らせないように、そっとしてこそ施しだからです(6・1〜4)。

 また、祈るときに人に見てもらおうと会堂や大通りの角に立って祈りたがるなら、そういう人も偽善者と呼ばれて仕方ありません。「隠れたことを見ておられるあなたの父」に対して、自分の部屋の戸を閉めて、ひそかにささげてこそ祈りだからです(6・5〜6)。

 更にまた、断食をするときに沈んだ顔つきで、見苦しくしてするなら、そういう人も偽善者と呼ばれて仕方ありません。「隠れたことを見ておられるあなたの父」の前で、頭に油をつけ、顔を洗って人に気づかれないようにしてこそ断食だからです(6・16〜18)。

 

 しかし、人を裁くということは、こういう施しや、祈りや、断食とは違って、公然としても偽善になりません。むしろ陰でするよりもフェアであり、あけすけな裁きは反感を招くことはあっても、偽善のそしりを招くことはありません。なぜ人を裁くことは偽善なのでしょう。

 

 人を裁くときに必ずだれにでも起こることがあります。それは、「隠れたことを見ておられるあなたの父」がおられなくなり、従って「隠れたところを見る」目がなくなることです。そしてそのため、人に対する目は仮借のないものに、自分自身に対する目はおざなりなものになることです。自分を棚に上げることです。

 「あなたの父」がおられれば、隠れたことは明らかになり、人を裁くどころではなくなりましょう。だから裁くということは、この父の前に立たず、「あなたの父」を追い出した上でなされることと言わねばなりません。従って裁くことは本質的に偽善なのです。どれほど筋の通った正しいことを言っても、人の裁きは偽善です。

 人を裁くことが偽善であるのは、それが忠告を装っているとか、親切を装っているとかだからではありません。それは、「隠れたところを見ておられるあなたの父」の前で自分を見つめる丁寧さがないからです。

 

 裁くということは、隠れたところを丁寧に見ない人のすることです。もし裁くべきことが人にあるなら、まず自分を丁寧に見ましょう。そして、自分の誤りの方が人の誤りよりも大きく見えるまでに丁寧に自分を見た時、ひょっとすると、裁くことは偽善でないものとして許されるかもしれません。裁きの言葉も相手の「はっきり見えた」忠告になるかもしれません。

 しかし、そうでなければ黙っていましょう。「あなたの父」自身が、彼に働いてくださいます。

 

 

目次に戻る