星の導き(マタイによる福音書2・1〜12)

イエスは、へロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで

お生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが

東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王として

お生まれになった方は、どこにおられますか。……」

……彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が

先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

(1〜10節)

 

 東の国の占星術の学者たちは星を見てユダヤ人の王の誕生を知り、エルサレムにやって来ます。そして、「どこにおられますか」 と尋ねます。ということは、星はキリスト誕生の時は知らせましたが、その場所は知らせなかったということです。

 学者たちの質問に促されて、ヘロデ王は祭司長らに「メシアはどこに生まれることになっているのか」と問いただします。彼らは「ベツレヘムです」と答えます。もっともこの答えは事新しいことではなく、当時一般に抱かれていた期待であり、周知のことでした。

 ですから、どうしてその時まで人々はキリストを拝みにベツレヘムに行かなかったのか、ということになるわけですが、それは、いつお生まれになるのかその時が分からなかったからです。彼らはキリストがお生まれになる場所は知っていても、その時は知らなかったのです。

 キリストに出会う上で決定的に大切なことは時といわねばなりません。そして、その時を知らせたのが星であったのです。

 

では星は場所について全く教えなかったのでしょうか。実はそうではないのです。星はその後、占星術の学者たちを先導して動いて行きます。そして、キリスト誕生の場所を示して止まるのです。

 つまり、ちゃんと場所を教えてくれるのです。学者たちはエルサレムに行って尋ねる必要など無かったのです。彼らは場所は知らなくても、時を教えてくれた星の導きのままに従っておれば、おのずからキリストに出会えたのです。

 博士たちは焦ったようですが、時を示した星の導きにただ従っておればそれでよかったのです。キリストは、出会うという点に関しては、時の問題が決定的に大事な方なのです。場所の問題は第二義の方なのです。そのことを星の導きは示しています。

 星のこの導き方は、私たちが真実に生きようとすれば、問われるのは時をいかに生きるかであって、どんな場所で生きるかではないことを示しています。

 

 今をいかに生きるか、昨日はもう過ぎてしまいました。明日は来るとは限りません。生きているのは今日、今です。その今を大切に生きる、このことをさておいて生きるということは、たといどんなに恵まれた場所にいても内容を失うでしょう。逆にいえば、今という時を大切にすれば、どんなに恵まれない場所においても命は輝くのです。

 人生においてはどこで生きるかは、実は決定的に大事なことではないのです。そのことをわきまえて時を大切にするならば、人はそのままで、どこででも与えられた命を完全に燃焼させているといってよいのです。

 よく私たちは、たとえば、ここでは自分の能力を十分に発揮できないからといって、ほかの場所に変わるといったことをします。確かに変わることによって、水を得た魚のように能力を発揮できるようになるということはありましょう。

 しかし、能力が発揮できるということと命が輝くということとは、全く別の問題であることを忘れてはならないでしょう。得意において褪せる命もあれば、逆に失意において輝く命もあるのです。「能力の発揮」と「命の輝き」との区別がつかないままに、都合の良いと思われる場所をいたずらに求め回って、命の空洞化を招いている例は決して少なくありません。

 星がキリスト誕生の時を語って場所を語らなかったのは、星の落度ではないのです。それは、キリストという方は、私たちがどこでどういう状態にあっても、今出会いまつることのできる方であることを語っているのです。つまり、私たちの命はどこででも輝きうるものであることを語っているのです。見落としやすい今の大切さに気付いて生きるように、クリスマスの星は招いています。

 

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