イエスがこれと思われた者(ヨハネによる福音書13・23)

イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。(23)

 

 弟子の中に 「イエスの愛しておられた者」と特に呼ばれた人がいたということは、私たちを当惑させることではないでしょうか。イエスは特定の弟子を別扱いするような愛し方をされたのでしょうか。弟子たちは、仲間がイエスの愛を特別に受けているのを見て、皆で祝福するほどに美しいグループではなかったでしょうから、これではユダならずとも、不信の念を抱いて裏切ろうとする者が出てくるかもしれません。ヤコブとヨハネの母が、息子たちが出世するよう直訴したというのも分かる気がします。この呼び方は、いろいろの説明がなされていますが、いずれにしても嫌な感じがします。果たしてイエスは、そういう片寄った愛し方をされたのでしょうか。

 弟子といっても、能力、性格など様々であり、優劣は当然あったと思います。重大な局面には必ず登場する弟子もおれば、一度もその活動の記録されていない弟子もいたのですから、俗に言えば、役に立つのと立たないのとが混ざっているのが弟子の実状であったでしょう。そして、「イエスの愛しておられた者」と言われたこの弟子は、イエスが特に期待し、信頼し、みそばに置かれた弟子であったのでしょう。彼にはそれだけのものが備わっていたのですから、当たり前の話です。

 それは、イエスが片寄ったことをされたというのではなくて、弟子の一人一人をそれぞれに相応しく用いられたということなのです。イエスは弟子を粒をそろえて選ばれたわけでなく、型にはめて育てようとされたわけでもありませんから、弟子を生かして用いようとすれば、当然そういうことになります。

 ところがこの当たり前のことが当たり前でなくなって、仲間内で彼を特別の目で見るようになったのです。そうなったのは、イエスご自身が「この男は私の愛している者だ」などと言われるはずはありませんから、弟子たちが勝手にそういう見方をしたからです。そして、そのように見方をゆがめてしまったもの、それは弟子たちのねたみでした。「イエスの愛しておられた者」など一人もいなかったのです。それは弟子たちのねたみが作り上げた幻影であったのです。

 本来弟子とは、イエスが「これと思って呼び寄せられた人々」です(マルコ3・13)。弟子たち自身がどう思おうと、彼ら一人一人には「これと思われた」イエスの思いが注がれているのです。役に立つ者であろうとなかろうと、その点は同じです。仲間が「イエスの愛しておられる者」 に見えるのは、そう見ている弟子自身が、「イエスがこれと思ってくださっている自分」を見失っているからです。

 

 「イエスの愛しておられる者」など実在しないのです。実在するのは「イエスのこれと思われた者」だけです。弟子は皆「イエスがこれと思われた者」ばかりです。ですから弟子は、常にそのことに気付いてそこから迷い出ないようにせねばなりません。これは一つの修行です。弟子はこの修行をせねばなりません。必須のことです。

 

自分の中には 自分の知らない 自分がある

みんなの中には みんなの知らない みんながある

みんなえらい みんな貴い

みんなみんな 天の秘蔵っ子

                     (安積得也『一人のために』より)

 

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