イエスを知らなかっ(ヨハネによる福音書5・1〜18)

しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。

(13節)

 

 38年間苦しんだ病気をいやしてくださった方がだれであるのか、この病人は知らなかったのです。口も利け、耳も聞こえ、目も見える彼が、いやしてくださったイエスを知らないということは考え難いことですが、事実彼は知らなかったのです。

 もっとも、そうなったのはイエスに責任のあることでした。「(イエスが)だれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである」とあるからです。イエスは、ご自分がだれであるかということも、ご自分のなさったいやしの業の意味も、しかと彼に教えることのないままに立ち去られたのです。イエスのことを知らなかったのは、その意味で彼の責任ではありません。

 では、イエスはこの病人を、言わばいやしっ放しにされたのでしょうか。彼はイエスのことを何も知らないままで喜んでおればそれでよかったのでしょうか。もちろんそんなことはありません。しなくてはならないことがありました。それは感謝することです。38年間苦しんだ病がいやされたのです。いやしてくれた人が何も言わずに立ち去ったからといって、感謝しなくてよいはずはありません。イエスがだれであるかを知らないのですから、明確にイエスに対する感謝にはならないでしょうが、それでも感謝はせねばなりません。イエスがこの病人に感謝することを課題として残して立ち去られたことは間違いありません。

 この病人はおよそ感謝とは縁の無い生活をしてきたことでしょう。ですから突然いやされた時、感謝するよりも戸惑ったと思います。38年も続けば病気はそのままで彼の人生です。それなりに生きる型ができ、それに慣れてしまっていたとしてもおかしくありません。興味深いことに、彼はいやされる前に 「良くなりたい」と言わず、いやされた後も喜んでいる様子が見られないのです。彼は病に安住していたのかもしれません。しかし、彼はいやされたのです。以後の彼の生活は、感謝を基調としたものに変わらねばなりません。そう変わってこそ救われているのです。

 彼はしかとイエスを知らなかったのですが、そんなことは彼の救いにとってどうでも良いことでした。救いにとって大事なことは、イエスを知っていることではなくて、感謝して生きることそれ自体だからです。だからこそイエスは、この病人を感謝して生きるようにはしてくださいましたが、ご自分については何も教えずに立ち去られたのでしょう。黙って去られたからといって、イエスの救い方が中途半端であったと思ってはなりません。イエスは感謝を課題として残しておられるのですから。

 感謝している人が救われている人なのです、信じている人なのです。イエスを知っている人が必ずしも救われている人ではありません、信じている人ではありません。

 

時々、イエスを知らない、しかし、深く人生に感謝して生きている人に出会うことがあります。「隠されている神の子」と言ったらよいでしょうか。そして、そう人に出会って深く恥じ入らされるのです。

 イエスを知っていると自負している私たち教会は、この「隠されている神の子」の存在の事実に謙虚でなくてはなりますまい。

 

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