書いてあるとおりに(ヨハネによる福音書12・12〜19)

イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。

(14節)

 

 入城するイエスを、群衆は 「ホサナ」 「イスラエルの王」と呼んで、なつめやしの枝を持って迎えました。群衆がそういう迎え方をしたのは、イエスがラザロをよみがえらせたことを聞いたからであり、それが政治的関心と結び付いて熱狂的な期待となったからです。しかしこれは、み国の福音を語って悔い改めを迫っておられるイエスにとっては、誤解以外のなにものでもありませんでした。そしてその時、「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」のです。

 ですからそれは、勇ましい軍馬ではなくて柔和なろばの子に乗ることによって、群衆の誤った期待に水をさし、正しい理解を求めようとされたかに見えます。しかし、そうではないのです。イエスはただ、預言者を通して言われている、「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」に従って、そのとおりになさったのです。

 つまり、誤解に抗議するためではなくて、「ろばの子に乗って」という神さまのご計画をただ成就するために、誤解はそのままにして、そうされたのです。イエスは群衆の誤解を嘆かれたでしょうが、それを正そうとされたのではないのです。誤解をそのままに受け止め、むしろ誤解の中こそがご自分の進むべき道として入城されたのです。それが、預言のとおりにろばの子に乗って進まれたイエスの真意でしょう。

 

 ろばの子に乗るということは、私たちでも出来そうに思えることなのですが、実はそうではないのです。何故なら、それは誤解の中を淡々と進むということであるからです。

 誤解を我慢することは、あるいは出来るかもしれません。しかし、誤解の中で居直るでなく、当たり散らすでなく、弁解するでなく、すねるでなく、あきらめるでなく、いささかも心乱されずに、淡々と自分のなすべきことをするのは、人間のよくするところではないでしょう。それは、神さまの雰囲気の漂ったことです。

 誤解されると、「お前などに分かってたまるか」とか、「分かる人に分かってもらえれば良い」とか、「人のことなどいちいち構っていられない」とか、なんとかかとか言って平気を装い、心のバランスをとろうとするものです。しかしそこには、分かってほしいという、物欲しげに屈折した心がやはりあります。私たちは誤解の苦痛に耐えられないのです。

 人間は皆理解を求めます。しかし、神さまは救いの業をなさるにあたり、それをお求めになりません。救いの業は人間の誤解を一切そのままにして、むしろそのただ中に、一方的になされるのです。ろばの子に乗るイエスが示されるのはそのことです。

 

救いについての理解の無さを私たちは省みて嘆くのですが、あまり気にする必要はないようです。そんなことは初めから神さまの計算ずみのことです。人間の理解など元々当てにされていません。私たちとしては、所詮誤解でしかないような私たちの信仰を、主がそのまま引き受けていてくださるところに救いがあることを信じれば、それで良いのでしょう。自分の信仰を正しいと思うことなども、慎みたいものです。

 

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