神の主権(マタイによる福音書21・33〜44)

イエスは言われた。「聖書に

こう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。

『家を建てる者の捨てた石、これが隅の

親石となった。これは、主がなさったことで、

わたしたちの目には不思議に見える。』」(42節)

 

 考えてみれば、生きているということは、私自身の中に、それを支える何の手立てをも持たないことなのです。生きていることを少し延ばしたり、変えたりする手立てはあるとしても、生きていること自体は、全くの頂きものなのです。生かされて生きているのであり、いのち賜って生きているのです。日々の生活の底に、この生かされそして死なしめられてゆくいのちの事実を見る時、それは確かに、「不思議に見える」ことといわねばなりません。

 生きていることは、特にドラマティックでなくても、それ自体「不思議に見える」ことなのです。私たちは、何か面白いことはないだろうかと、刺激の強いこと、心を躍らせること、目先の変わったことを次々と求めるものですけれども、それは、生きていること自体への感動のなさを物語っているにすぎません。

 生きていること自体は、既に十分にドラマティックなのです。生きていることは、決して当たり前のことではなくて、その不思議さに感動すべきことなのです。そして、そう感動することこそ、いのちを賜った神さまの主権を認めることでありましょう。

 

 「ぶどう園の農夫」のたとえに出てくる農夫たちは、そこで働くことを当たり前のことと思っていたのでしょうか。そして、自分たちはこれだけ働いたのに、主人は旅に出ていて何もしていないのだから、収穫は自分たちのもので主人に渡す必要はないと考えたのでしょうか。それも確かに一つの理屈ではあります。しかし、彼らは大切なことを忘れているのです。それは、ぶどう園は主人のものだ、ということです。

 いくら汗水流して一生懸命働いたとしても、ぶどう園が自分のものになることは決してないのです。それは変わりなく主人のものです。この事実は何があっても動かせないし、動かしてはならないことです。そして更にまた、彼らは傭ってもらっているということをも忘れています。そういうことに気付けば、彼らにとって今こうして生きていることは、「不思議に見え」、感動すべきことになるはずです。

 数ある農夫の中でどうして自分は傭われたのか、それは考えれば考えるほど、不思議としか言いようのないことなのです。そして、その不思議が見え、また、見える故に感動をもって働く、その時、彼らは主人を主人とし、傭われている農夫である自分を自分とする本来の姿に立ち返ることになりましょう。つまり、ぶどう園の主人の主権は確立することになりましょう。

 

 生かされている感動をかみしめていない人生、それはどんなに豊かで、華やかなものであっても、人間の生としては、本来の姿からは外れた、虚しいものと言わねばなりません。生きていることが「不思議に見える」、そういう目が与えられること、そして、その不思議に感動しつつ日々を生きること、それが、いのち賜った神さまの主権を認めるものの姿なのです。

 神さまの主権といいますと、私たちはすぐに、何か神さまが人間の自由を抑圧されるような、人問が一方的に服従を強いられるような、そのような不自由さを感じるかもしれません。しかし、実はそうではないのです。それは、生きていることが決して当たり前のことではなくて、「不思議に見える」ということなのです。そして、そう見える故に、あだやおろそかに生きることはできないと、感動をもって一日一日を生きるということ、そのことなのです。神さまの主権に対しては、人は服従するのではないのです。感動するのです。感動をもって一日を人切にするのです。

 

  「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。……その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6・33〜34)

 

目次に戻る