完全なもの(マタイによる福音書5・43〜48)

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

あなたがたの天の父の子となるためである。

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、

正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて

くださるからである。……だから、あなたがたの

天の父が完全であられるように、

あなたがたも完全な者となりなさい。」(43〜48節)

 

 「完全な者となりなさい」、このみことばを読んで誰しもこれはとても無理な話だと思うのではないでしょうか。「天の父の完全」とは、一体どういうものなのでしょう。また私たちに求められている「完全」は、それとどういう関係にあるのでしょう。

 

 私たちはさまざまな物差しをそれぞれに持って、人を評価しながら生きています。この人は善い人だ、この人は悪い人だ、この人は役に立つ人だ、この人は邪魔な人だなどと区別しながら生きています。そういうことを全くしない人はいないでしょう。そして、そのことは別に悪いことではないのであり、きちんと人の区別ができないようなお人好しではこの世は渡れません。

 ただそこで注意をしておきたいことは、区別をするということがそれだけに止まらないものだということです。それは相手を非として審いたり、あるいは逆に、自分を是として反省が甘くなったりということになるものなのです。つまり、それは相手と自分とを隔てる垣根を作り、更には垣根の向こう側にいる相手を、共に天をいただけないような敵にまでしてしまう場合すらあるものなのです。

 しかし、考えてみるまでもなく明らかなことですが、共に天をいただけないといくらいきり立っても、天は人間のそういう思いにかかわりなく、垣根の両側にいるものを共に覆い、ひとしく太陽を昇らせ、ひとしく雨を降らせます。人間は区別をしますが、天は覆うのです。そして、この天の、人間のする区別のすべてを越えて覆い包む抱容無限、それが「天の父の完全」というものでしょう。

 

 それにしても、人間のする区別が単にそのことに止まらないのはどうしてなのでしょう。それは、パウロは「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」(Iコリント4・5) と警告しましたが、人間が 「先走り」するものだからです。先走って自分の物差しだけで相手を見て、区別してしまうものだからです。つまり、人間の目が本質的に一方的なものだからです。

 ところで一方的に見る目はものを見る目ではあっても、ひとを見る目ではありません。ものに対しては私たちは、それが役に立つ限りは利用し、役に立たなくなれば捨てるというかかわり方で見ています。ものを見る目は一方的な目です。

 しかし、ひとに対してはそういう見方は許されません。ひとはそれぞれに自分の考えや立場を持っていて、それに基づいて働きかけてくるものです。ですからこちらから一方的に扱うわけにはゆきません。ひとに対しては、その立場や考えを尊重するというかかわり方をしなければ、いくら見ても見たことにはなりません。ですから、ひとに対しては一方的にではなくて相互的に見なくてはなりません。

 しかし、私たちの実際はどうでしょうか。私たちはものを見るようにしかひとを見ていないと思います。ひとを自分の物差しで決め付けながら、自分の意のままに扱おうとしています。ひとをそのひととして受け入れてゆく相互的な目を持っていません。私たちの目は、そのままでは致命的なまでに一方的なのです。ひとを見る相互的な目は、抱容無限な天の父に自他共に見られていることに気付いて初めて開かれる目でしよう。

 

「天の父が完全であられるように」、と私たちに求められている完全は、このひとを見る目に関することです。それは、道徳的に完全なものになるというようなことではありません。それは、抱容無限の「天の父の完全」に応じる完全であり、従って、ひとをもののように一方的に見るのではなくて、あくまでもひととして相互的に見るということ、つまり、ひとを真に一人のひととしてそのままに受け入れるように、ということです。

 

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