悔い改め(マタイによる福音書21・28〜32)

「……ある人に息子が二人いたが、彼は

兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って

働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、

後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、

同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と

答えたが、出かけなかった。この二人のうち、

どちらが父親の望みどおりにしたか。」

彼らが「兄の方です」と言うと、……。

(28〜31節)

 

 あるいは私たちは思うかもしれません。父親の求めに対して最初から「承知しました」と答え、そしてその通り実行するのが一番良いし、それが父親の望むところであったのではないか、そう思うかもしれません。しかし、最初「いやです」と答え、あとから考え直した兄の態度が、「父親の望みどおり」であったのです。

 神さまの望まれることは、「あとで考え直す」 ことなのです。その必要のないほどに立派に生きることではないのです。「あとで考え直す」必要のない、そんな優等生みたいな人問を、神さまはお望みではないのです。

 人間は、兄のように「いやです」と思慮を欠いた拒否をしたり、弟のように「承知しました」と口先だけの従順を示したりする、その程度のものなのです。神さまはそういう人間の実際をご承知なのです。それを承知の上で、「あとで考え直す」ことを望んでおられるのです。神さまのお望みになることは、ただ一つ、「あとで考え直す」、つまり悔い改めること、それだけなのです。

 

 ところで、「あとで考え直す」、その「あと」とは何時のことなのでしょう。あとの祭り、ということもありますから、いくら 「あとで考え直す」といっても、あまり「あと」過ぎては問に合わなくなりましょう。

 イエスは、「実のならないいちじくの木」のたとえ(ルカ13・6〜9)で、三年間実がならなかったいちじくの本を切り倒せと命令する主人に対して、園丁に次のような答えをさせておられます。

 「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」

 園丁のこの執り成しの言葉は、実がなるチャンスは今年一年しかいちじくに残されていないことを示しています。つまり、もう「あと」はないのです。来年に実をならさなければあとの祭りになるのです。だから問題はこの一年なのです。すなわち、今です。今をおいて「あと」はないのです。ですから、「あと」とは「今」のことといわねばなりません。「あとで考え直す」とは、「今考え直す」ことなのです。

 しかし、来年になって、しかも実がならなかった時、園丁は「一年待っていただきましたが実がなりませんでした。やむを得ません。切り倒しましょう」というでしょうか。

 間違いなく彼は再び、同じ執り成しの言葉を繰り返すことでしょう。そして、その後も毎年執り成し続けることでしょう。その意味で、実は何年後になっても、間に合わないということはないのです。つまり、「あと」はあるのです。ですから、「あと」とは 「いつでも気が付いた時」 のことといってもよいでしょう。「あとで考え直す」とは、従って、「いつでも気が付いた時に考え直す」ことでもあるのです。

 

 神さまのお望みになることは、最初から「承知しました」と答えてそれを実行する優等生になることではなくて、「あとで考え直す」こと、つまり、悔い改めることなのです。そして悔い改めは、今しないと間に合わなくなる「あと」のないことなのですが、同時にどんなに遅れても間に合う、決してあとの祭りにはならない「あと」のあることでもあるのです。

 ですから、気が付いたら悔い改めましょう。気が付かなければ仕方がありませんが、気が付いたら、手遅れだなどと思わないで、その場で悔い改めましょう。間に合わない悔い改めはないのです。

 

  「……イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう』」(31節)。

 

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