見ないのに信じる幸い(ヨハネによる福音書20・24〜29)

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、

イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

(24節)

 

ああ主のひとみ、まなざしよ、

うたがいまどう トマスにも、

み傷しめして 「信ぜよ」と、

宣らすはたれぞ、主ならずや。

(賛美歌243番)

 

 トマスは疑い深い性格の人のように思われています。しかし、彼が主の復活の顕現を疑ったのは、ちょうどその時その場にいなかったからなのであり、何故彼がほかの弟子たちと一緒にいなかったかは問題になるとしても、ここで彼の性格を問題にするのは当たらないと思います。

 それにしても彼は、どうしてその場にいなかったのでしょう。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」 (19節) というのですから、そして、彼もそのあとすぐにほかの弟子たちの中に戻って一緒に閉じこもっていたというのですから(24〜26節)、その時何か意図するところがあっていなかったとは思えません。たまたまその時席をはずしていた、それだけのことであったのではないでしょうか。

 私たちの生活には、ちょっとしたことがひょんな結果を招くという場合がよくあるものです。もののはずみが日常の中で演じる役割は極めて大きいのです。トマスがその場にいなかったのも、運悪くといいましょうか、ついていなかったといいましょうか、偶然そうなってしまったことであったのでしょう。トマスは弟子の中でも特にひたむきにイエスに従った人のように伝えられています(11・16)。その彼が主が顕現される肝心の時にいなかったということは、人生のそういう不可解な一面を深く考えさせます。

ヨハネによる福音書は21章より成っていますが、第21章は後代の付加といわれます。そうだとすれば、トマスの話はこの福音書の、更に全福音書の最後の話ということになります。福音書はその最後にトマスの話を置くことによって、「これが人生というものなのだ」と教えているかのようです。

 確かに人生には、自分なりによく考え、ある程度の見通しを持って生きているのに、いつの間にか考えてもみなかった展開に押し流され、その自分の姿に愕然とさせられるということがあるのです。生きる意味とか、生き方とかいろいろ考えてはいるのですが、結局は不可解なままに生きているのが、人生の実際なのでしょう。

 

 しかし、そういうトマスに「八日の後」(26節)主は顕現されました。それも前回彼の不在中にされたのとまるっきり同じことを、トマスただ一人のために繰り返して顕現してくださったのです。その時まで運の悪い男だとトマス自身思っていたでしょう。しかし実は、彼はそのままでほかの弟子と同様であったのです。人生は不可解なのですが、同時にそこを生きる一人一人のために主が懇ろに顕現してくださるところでもあります。

 とすれば、不可解だからといって否定的にならず、人生を肯定して、どのような運命にある自分をも受け入れ、その自分と和らぎ、むしろその自分を好きになって生きてこそ人生でしょう。この不可解なままでの人生肯定 (あるいは実存的融和)、それが「見ないのに信じる人の幸い」(29節)といわれるものなのです。

 私たちはこの幸いに招かれています。自分を好きになりましょう。

 

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