「ラボニ」(ヨハネによる福音書20・11〜18)

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 (16節)

 

 「前向きに!」とよく励まされます。困難に出会ってしょげているようでは確かに駄目なのです。困難をチャンスにするくらいの積極的な前向きの姿勢が大切なことは、言うまでもありません。しかし、復活されたイエスは前からではなくて後ろから「マリア」と声を掛けられたのです。ということは、前向きに生きるだけではなくて、後ろを振り向きながら生きる必要が人生にはあるということを暗示しているのではないでしょうか。

 

 ところで、マリアは二回後ろを振り向いています。一回目は、「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」(14節)。そして二回目は、「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った」(16節)。同じように後ろを振り向きながら、どうしてこういう違いが出てきたのでしょう。それは、一回目はマリアが後ろを振り向いてイエスを捜したのに対し、二回目はイエスが声を掛けてマリアを後ろに振り向かせられたからです。

 マリアはイエスへの思慕の情を押さえることができなくて、夜明けを待ち兼ねて墓に行ったのでしょう。そして、墓から石が取りのけてあるのを見て、ペトロたちに知らせたのです。その後も墓の外に立って泣いていたのです。身をかがめて墓の中をのぞきもしたのです。天使たちと話もしたのです。そして更に、イエスを探して後ろを振り向いてもみたのです。つまり、マリアはイエスを求めていろいろと努力をしたのです。しかし、実はそういうマリアの後ろにイエスは既に立っておられました。そして、後ろから声を掛けられたのです。

 ですからその時、マリアは自分自身の思いや努力でイエスを求め続けてきたことの誤りに気付いたに違いありません。更に、悲しみにうろたえているままで実はイエスに包まれていたことにも気付いたに違いありません。つまり、自分は生きているのではなくて、イエスの命に包まれて生かされていたのだと気付いたに違いありません。そして、マリアは「ラボニ」と言ったのです。ですから「ラボニ」は、この生かされているという被造感の告白に他なりません。そして後ろを振り向く必要が人生にあるのは、まさにこの被造感を告白するためなのです。それは、反省のためでもなければ、慎重を期するためでも決してないのです。私たちが被造物としての本来の在り方に帰るためなのです。

 復活のイエスは後ろから声を掛けてくださいました。その声に振り向いて私たちは被造物に復活するのです。

 「前向きに!」、確かにそのとおりなのですが、罪の匂いがします。自分の努力やはからいで生きるのが人生だと思い込んでいるような罪の匂いがします。

 

花がきれいですねえ

誰かがそういって

うしろを過ぎていった

気がつくと目の前に

花が咲いていた

私は何を見ていたのだろう

この華やかな

春の前で

いったい何を

考えていたのだろう

(星野富弘)

 

 振り向きながら前へ進みましょう。それが被造物の慎みです。耳を澄ますべき主の声は常に後ろにあります。

 

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