真剣に生きる(ヨハネによる福音書3・1〜8)

「だれでも水と霊とによって生まれなければ、

神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは

肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは

新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、

驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音

を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを

知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

(5〜8節)

 

 自分の命は一体どこから来てどこへ行くのかといった人生の根本問題については、私たちはあまり真剣に考えていないと思います。もちろん、全く考えないわけではないのですが、いつの間にか中途半端に終わってしまったり、あるいは先送りしているうちに忘れてしまったり、徹底的に考えることはしていないと思います。そして、そうなるのは私たちが日常のことに心を奪われているからだといわれます。

 確かに一生懸命に考えているのは、仕事のこと、人間関係のこと、家庭のこと、健康のことなどであり、そういうことを考えながら、生き甲斐とか、幸福とかを追い求めているのが、私たちの実際でしょう。命の問題を正面に据えることは、何か危機的な状況に追い込まれた時などに少しはあっても、稀であることは否定できません。では、そういう私たちは生きることに不真面目なのかといえば、そうでもないと思うのです。

 

 一休和尚は、「とし毎に 咲くや吉野のさくら花 樹を割りて見よ 花のありかを」と詠みました。花のありかを樹を割って丁寧に調べても分からないように、命のありかも、自分自身を割るかのように厳密に考えても分からないのです。考えれば考えるほど、命のありかは分からず、まさにあるようで無く、無いようであるのが命なのです。

 どうして命与えられてここにこうして私は生きているのかということは、いくら考えても分かりませんし、死ぬということも、同様にいくら考えても分かりません。私たちは遂に生の真相も、死の真相も知ることはないでしょう。私たちの命は、どこから来てどこへ行くのか分からないものなのです。つまり、命は考察の対象にはならないものなのです。

 私たちが命についてあまり真剣に考えないのは、日常のことに流されているからということもありますが、むしろ、命が本来考察の対象ではないからなのです。ですから、命の問題を真剣に考えないからといって、その自分を不真面目と責めることもないと思うのです。では、命の問題はどう扱ったらよいのでしょう。

 

私たちは間違いなく生きています。命の存在とその動きとは明らかです。しかし、それがどこから来てどこへ行くのかは分からないのです。ちょうど、風がそよぎによってその存在と動きとが明らかでありながら、どこから来てどこへ行くのかが分からないのと同じです。

 ですから問題は、命の「どこからどこへ」を考察することではなくて、命が風のようなものとして私を生かしつつ存在し、動いているその不思議に感動することなのです。そして、命への感謝をもって生きることなのです。それが命に対してとるべき究極的な態度でしょう。そのことをイエスは、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)と言われたのです。

 命の「どこからどこへ」を知っている者ではなくて、それを知らない者が、知らないままで、風のように吹く命に吹き抜けられて、命を体験しているのです。そのことに気付いてはじめて人は、自分自身の命に目を開き、その一回限りの重みに感動するのです。つまり、命に真剣になるのです。

 命について真剣に考えていないことが、私たちの問題ではないのです。問題は、私を生かしつつ存在して動いている命の不思議、それに感動していないことなのです。命についての知識で満足して、命そのものへの感動を失っていることなのです。命は考察の対象ではなく、感動の源です。命から呼び起こされた感動をもって生きる、その感謝の日々が命への真剣であり、霊から生まれるということであり、新たに生まれるということであり、神の国を見るということなのです。

 

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