信仰と愛(ヨハネによる福音書12・1〜8)

   ユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、

   貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、

   貧しい人々のことを心にかけていたからではない。

   彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身を

   ごまかしていたからである。イエスは言われた。

   「この人のするままにさせておきなさい。わたしの

   葬りの日のために、それを取って置いたのだから。

   貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、

   わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

   (4〜8節)

 

マリアがイエスの死を予感して、その葬りに備えてナルドの香油を大切に取っておいたとは思えません。しかし、彼女がイエスに対して感謝の思いを抱いていたこと、そして、それはその時の彼女には、香油をイエスの足に塗るより他に表現のすべのないような、(あふ)るる思いであったことは間違いないでしょう。

 

 そのような思いとしてそれは、たとい人々のひんしゅくを買ってでも、今ここでの行為にならざるを得ませんでした。主への感謝は、それが真実なものであれば、今ここでの告白となるはずですし、それを妨げるものは何もないからです。もし今日は都合が悪いから次の機会にしようなどと考えられる感謝なら、それは嘘です。

 信仰は今日のことなのです。昨日のことでも、明日のことでもありません。「わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われたその主が一緒におられる今日、この時を逃しては告白の時を逸するのが信仰です。

 

 しかし、愛はそうではありません。「貧しい人々はいつも……一緒にいる」のですから、愛には明日でも間に合う余裕があるのです。そして、「なぜ、……貧しい人々に施さなかったのか」というユダの批判が、極めてもっともなものでありながらうさん臭い感じがするのは、この余裕を無視して、愛を絶対に今日しなくてはならないことにしたからなのです。ユダの批判が彼自身の不正を隠すためのものであったことを差し引いても、なおうさん臭さが否めないのはそのためです。

 考えてもみましょう。隣人を愛するといっても、私たちは自分の力の及ぶ限りで、自分に可能な方法で、自分が気付いた範囲の人々に、自分がその気になった時に実行しているだけなのです。助けを求めている人がいるのにそれに気付かない場合はいくらでもありますし、気付いていても助ける気持ちも力も無い場合だって少なくありません。

 もし助けを求める人すべてに、満遍なく十分に応える愛でなくてはいけないのなら、自分の愛の中途半端な貧しさに、私たちは絶望せざるを得ません。そんなことなどとても出来ないのが私たちの実際の姿なのです。

 では私たちの愛は、所詮はいい加減なものというべきなのでしょうか。そんなことはありません。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」ということは、隣人愛は必ずしも今日しなくてはならないことではないということです。今日助けを求めている人々に愛の手を差し伸べられない時があれば、「ごめんなさいね」とお詫びをし、次の日気を取り直して困っている人を助ける、それでも間に合うのが愛だということです。というよりは、そういうものが実は愛だということです。

 愛には明日があるのです。今日実行出来なかったからといって、必ずしも愛の失格者であるわけではありません。

 愛にとって大切なことは、今日は出来なかったとしても、それで自己嫌悪に陥らないで、明日は出来るかもしれないと気を取り直して、出来るだけのことを根気よく試みてゆくことです。それであるのに、この明日のある愛を、今日絶対に実行しなくてはならないことであるかのように主張したために、ユダの批判は、道理は通っているのに、うさん臭いお題目になってしまったのです。

 信仰には今日しかありません。急いで主との関係を点検しましょう。そして、悔いるべきは今日悔い、感謝すべきは今日感謝しましょう。

 しかし、愛には明日があるのです。実行出来なくても、失望することはありません。気を取り直して次の日励みましょう。それで良いのです。忘れてならないことは、どんな場合にも、愛が実行出来たと思える場合でも、「ごめんなさいね、十分なことが出来なくて」というお詫びの心を常に忘れないことです。私たちの隣人愛は、所詮お詫び付きのものでしかありません。

 

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