正気(マルコによる福音書5・1〜20)

イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。   (18節)

 

 悪霊に取りつかれたゲラサの人は、イエスにいやされてどうなったのでしょう。「服を着、正気になって座って」いたというのですから、墓地に住み、昼も夜も叫び、石で自分を打ちたたき、それをだれも押さえることのできなかった彼では、もはやなくなったのです。正気の人として、彼の町の共同体に仲間入りのできる人間に間違いなく変わったのです。では、彼は実際にその社会に適応したのでしょうか。どうやら違ったようです。

 彼はその時まで正気でない状態で生きてきました。その意味では、それは彼が生きていく上での装いであったともいえます。ですから、正気になるとはその装いが引きはがされ、丸裸同然で社会に放り出されることであり、かえって彼は生き難くなったかもしれません。その上、豚という大切な財産を失って、町の人々はイエスに反感を抱いています。そのイエスにいやされたのですから、町での彼の立場は微妙で困難なものであったに違いありません。仲間入りするどころではなかったでしょう。

 彼は、一緒に町を出て行きたいとイエスに願い出ています。しかし、イエスは、「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と彼に命じられました。これでは町の人々の反感を一層買うだけです。イエスは、町の仲間入りをするのに既に困難を覚えている彼に、更に困難を加えるようなことを命じられたのです。イエスは彼を正気にしてくださいましたが、共同体に適応して、仲間入りするようにはしてくださらなかったのです。

 私たちは社会に適応することを大切なことと考えています。それのできる人がまともな人間、できない人を脱落者と思っています。しかし、社会に適応することはそれほど大切なのでしょうか。社会は適応せねばならぬほどに誤りの無いものなのでしょうか。イエスによって正気にされた人が、相変わらずその社会に不適応であったということは、社会の方にも問題があるということです。病んでいるのはこの男だけではなかったのです。社会も病んでいるのです。そして、社会が病んでいるのなら、その社会に適応して、自分も他の人も同じということで安心して生きているのは、それこそ人間としては正気を失ったことと言わねばなりません。

 イエスは、社会に適応するように彼を正気にしてくださったのではありません。ただ端的に正気にしてくださっただけです。

 

 もちろん社会に適応することは大切なことです。自分の信念に忠実だからといって、自分の考えを頑なに通して、人と容れないというのは、やはりよくないことです。世間の流行も軽んじてはなりますまい。適応するための勉強と努力は怠ってならないのです。

 しかし、それでもどうしてもうまく適応して生きていけないというのなら、別にそれを苦にすることはないでしょう。それはそれで良いのです。自分の道を歩みましょう。また、そういう人がいても、変わり者のように思わないことです。社会に適応しているかどうかは、人間にとっては第一義的なことではないのですから。そのことをよく弁えて、「適応できない自分」を恥じずに大切にしていきましょう。「適応できない人」もゆるく大切に受け入れていきましょう。それが正気ということです。

 

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