(マタイによる福音書1・18〜25)

このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。……」 (20節)

 

 ヨセフは夢をみます。彼はその時、聖霊によってイエスを身ごもったマリアと縁を切ろうと決心をしていました。しかし、それが実行できずに思いめぐらしていると、夢をみたのです。彼は「正しい人」(19節)であったのですが、単に正しいだけの人なら、その場合離縁することは律法に照らして正しかったのですから、直ぐに実行してこの問題に片を付けていたことでしょう。そして、夢もみなかったでしょう。

 夢は、人生を正しさで割り切らず、慎み恐れてなお迷うヨセフに、神さまがみ心を示されたことでした。クリスマスのおとずれは、この夢のお告げなのです。

 夢の中で天使は「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と命じます。そのとおりにして、イエスはヨセフの子となり、「ダビデの子」となり、メシアとなったのです。夢がクリスマスにおいて持つ意味は、決定的と言わねばなりません。

 夢のお告げはヨセフの決心の正反対、マリアを迎え入れることでした。これは彼の考えが足りなかったということでしょうか。そうではありません。彼がもっと深く考えたとしても、これには思い至らなかったでしょう。なぜなら、マリアを迎え入れることは、彼女に対して寛大であるというようなことではなくて、その子イエスに、「神は我々と共におられる」(23節)恵みをみるということであり、これは人間の考えをいくら徹底させても知り得ない、夢のお告げによるほかない知恵だからです。

 

 といってもヨセフはなお、自分の子でない子を宿したマリアの夫に何故自分はならねばならないのか、その問題が解けたわけではなかったでしょう。ただ、その問題にたじろぐ彼と共に神さまはおられることを、夢で知ったのです。ですから、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」(24〜25節)のです。

 ここには自分の過酷な運命に深くうなずき、それを受け止めているヨセフの姿があります。クリスマスの恵みは、問題を解決する恵みではなくて、神さまが共におられるから「これで良い」と、その問題を引き受けさせる恵みなのです。つまり、どんな苦悩をも「これで良い」と引き受け、いさぎよく生きるものにする、そういう恵みなのです。

 こんなことを言いますと、それはあきらめじゃないか、現実を直視していないのじゃないか、と言われるかもしれません。確かに、夢をみない人がそんなことを言ったら、そうでしょう。しかし、夢をみた人は、どう批判されても言うでしょう。「神さまが共にいてくださるのだからこれで良い」、そう神さまに、そして、自分自身に言うでしょう。「これで良い」、それは夢の賜物です。夢で共におられる神さまがみえるようにされた者の、感謝の告白です。人に向かって言う言葉ではありません。

 クリスマスのプレゼントは夢です。夢は現実を離れた幻ではありません。道理と知で凝り固まった人生に、神さまが開けてくださった、神さまのみえる命の穴です。

 私たちはクリスマスにおいて何よりも、神さまが共におられる夢をみましょう。そして、不平や理屈を言わずに(フィリピ2・14)いさぎよく生き始めましょう。

 

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