神は生きている者の神である(マタイによる福音書22・23〜33)

イエスはお答えになった。「あなたたちは

聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。

復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、

天使のようになるのだ。死者の復活については、神が

あなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの

神である』とあるではないか。神は死んだ者の

神ではなく、生きている者の神なのだ。」

(29〜32節)

 

私たちはお互い聖書を読んでいます。いろいろな読み方をしています。

 ある人は渇いた心で慰めを得ようと読み、ある人は進むべき道を求めて読み、ある人は自分を発見するために読み、ある人は処世訓のようなものを学ぼうとして読み、ある人は歴史上のイエスという人はどんな人であったのだろうという興味で読み、ある人は社会的、政治的視点で読むかもしれません。古典を学ぶように読む人もいるでしょう。批判的にこんなことは信じられないと思いつつ読んでいる人もたくさんおられるでしょう。また、熱心にむさぼるように読む人もいるかと思えば、時々読む人もいるでしょう。ほとんど読まない人もいるかもしれません。

 どういう読み方をしようと自由ですが、しかし、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」、といわれますと、はて自分の聖書の読み方は果たしてどうかな、とちょっと立ち止まらされる思いがするのではないでしょうか。

 

 では、聖書はどのように読んだらよいのでしょう。イエスさまは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」、と言われました。私たちは神さまをいろいろに思い浮かべますけれども、神さまご自身は「生きている者の神」として信じられることを望んでおられるのです。ですから、そのように信じた時、聖書を思い違いしないで読んだことになるといってよいでしょう。

 ところで、「神は生きている者の神である」とは、神さまはあらゆるものにいのちを与え、それを支えて、『生かせ いのち』(阿部野龍正・高野山真言宗元管長)と働かれている方だ、ということです。

 従って、この神さまの前にはいのちしかないのです。神さまは全てのものを生かしつつ神なのであり、それ以外ではないのです。この世的には死者というものがあっても、神さまの前では彼らもまた生きているのです。死んでいるものは何ひとつないのです。「神は死んだ者の神ではない」 のですから、全てがそこでは生きているのです。生きてくるのです。輝いてくるのです。そういう力、神さまはそういう力であるということ、それが「神は生きている者の神である」、ということなのです。

 そして、そういうことが聖書を読んで分かるなら、それが聖書の思い違いをしていない読み方なのです。それが分からないなら、その読み方は思い違いなのです。どんなに数多く読んだとしても、どんなに正確に読んだとしても、どんなに多くのことを知り得たとしても、聖書の読み方としては、それは思い違いなのです。大事なことは、聖書を読んで、全てのものが意味あることとして生きてくる、いのちを復活してくる、そのいのちの源としての神さまに出会うことです。それ以外の読み方は思い違いなのです。

 

 「神は生きている者の神である」のです。神さまの前では全てが生きているのです。ですから、つまらぬ雑用も生きるのです。無駄と思える努力も生きるのです。空しく過ぎたと思える時間も生きるのです。踏みにじられた厚意も生きるのです。役に立たなかった準備も生きるのです。報いられなかった忍耐も生きるのです。はかなく潰えた希望も生きるのです。そうです。皆生きるのです。孤独も生きる、病気も生きる、不幸も生きる、悩みも生きる、痛みも生きる、罪さえも生きるのです。そのように全てを生かしてくださる力、それが聖書の神さまです。

 そのような方としての神さまに出会う、聖書は、そのように読めたらどのような読み方をしてもよい本です。しかし、そのように読めなかったら、いくら厳密に読んだとしても、思い違いをした読み方なのです。

 「神は生きている者の神である」のです。思い違いをしないようにいたしましょう。

 

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