心をこめて今を(マタイによる福音書22・1〜14)

「……町の大通りに出て、見かけた者はだれでも

婚宴に連れて来なさい。」そこで、家来たちは

通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も

皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が

客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が

一人いた。王は、「友よ、どうして礼服を着ないで

ここに入って来たのか」と言った。この者が

黙っていると、王は側近の者たちに言った。

「この男の手足を縛って、……」

(9〜13節)

 

自分が納得するように生きたらそれでよい、自分の人生の主人は自分なのだから、と思っているところが私たちにはあります。確かにそう言っても良いところはあるのですが、だからといってそう言い切ってしまうと、何かしら無視してしまったようなものが残る感じがするのも、人生ではないでしょうか。

 

 一人の男がいます。大通りを歩いていました。すると知らない人から思いがけなく声をかけられ、婚宴に招かれます。誰の婚宴か分かりませんのに有無を言わさず招かれたのです。招かれたのは彼一人ではありませんでした。歩いていた人は皆、誰彼なしに招かれたのです。婚宴の席はそういう客でいっぱいになります。

 そこへその席の主人である王が入って来ます。歓迎の言葉を述べるかと思いきや、王は彼が礼服を着ていないと言って怒り出したのです。突然招かれたのですから礼服の用意など無いのは当然で、無茶な話です。しかし、彼が「黙って」いたところをみると、そして怒られたのが彼一人であるところをみると、非は彼にあったようです。何が悪かったのでしょう。

 招かれて有難迷惑な人もいたでしょう。予定を変更せねばならないので困った人もいたでしょう。体調すぐれず早く帰りたいと思った人もいたかもしれません。しかし、とにかく招かれたのです。そして、婚宴の席に入ったのです。そしたらもはやそこでは、自分の都合を数え上げてつぶやき続けるのは失礼でしょう。いろいろな都合はあるとしても、席に入った以上は「おめでとう」という気持ちで列席するのが礼儀です。つまり、思いがけないその招きをしっかり受け止めて、その席に居る限りはその喜びに参加すべきです。

 言い換えれば、その場になり切ることです。今に集中することです。そして、それが礼儀です。礼服を着るとはそのことです。招かれた招きを、たとえそれが思いも掛けない迷惑なことであっても、それはそれとして受け止めて、そしてつぶやかないで、招かれているその今をしっかり生きるということです。招かれていながら心そこにあらずということほど非礼なことはありません。彼の非はそこにありました。

 

 人生には思いも掛けないことが起こって予定が狂わされるということがよくあります。そういう場合、私たちはそれを思い掛けなく歩かせられるわき道のように考え、悔やみ、つぶやき、そこを歩むことに気を入れようとしないものです。

 しかし、その思い掛けないわき道こそ実は歩むべく定められていた人生の本道なのであり、逆に本道と予想していたほうが、自分勝手にそう思い込んでいたに過ぎなかったものであったのです。そう考え直すのが人生への礼儀であり、そう考え直さないでいつまでもつぶやきつつ生きるのは、人生をわきまえない非礼なのです。人生とは、本来招かれてのものだからです。

人生の主人は自分自身ではないのです。思い掛けないことに出会って、そこに招きを読みとり、そこで招いておられる人生の主人を仰いで生きてこそ、人生なのです。

 

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(フイリピ214~16)。

 不平や理屈を言わないのは無気力なあきらめではないのです。それは与えられた今を引き受けて生きていることであり、招かれて生きている人生への礼儀なのです。それ以外に人生に対する礼儀正しい生き方、すなわち、人生本来の姿はないでありましょう。私たちは招かれて生きているのです。心をこめて今を生きたいものです。

 

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