2004年9月19日 礼拝

「弟子の心得」

聖  句 ルカによる福音書9章1~9節

     

 

 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、へロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。

 

 

 本日の聖書の箇所は、ルカ9章1-9節、小見出しは「十二人を派遣する」及び「ヘロデ、

戸惑う」となっているところです。1-2節を読んでみましょう。

 

 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり(1-2節)

 

とあります。ですから、弟子に与えられた権能、そしてそれを行使する目的は、神の国を宣べ伝えること、及び、病人の癒しのためであったのです。神の国を宣べ伝えるとは、神の国、即ち神の支配を宣べ伝えること、つまり、神が支配しつつ《共にいて下さる》ことを宣べ伝えることです。人間が神を忘れ、無視していても、神の方は変わる事なく顧みを与えて下さり、その神の顧みのうちにわたしたちが生き、動き、存在していることを告げ知らせること、と言ってもよいでしょう。

 

 それに対して、病人を癒すとは、病という人間の存在そのものに直結する苦しみを、取り除いて下さることであり、神があらゆる人間の苦しみに関心を持っていて下さって、解決して下さることであり、つまり、病人を癒すとは、神共にいますということの具体性を象徴していることと言ってよいでしょう。

 

 要するに、『神の国を宜べ伝えること』と『病人を癒すこと』とは別のことではなくて、一つとなって、共にいます神の愛が、人間のあらゆる苦しみに徹底して届くものであることを示しているのです。その福音を携えて十二人の弟子は派遭されていくのです。とするなら、弟子自身が先ずその福音に相応しい生き方をしているものでなければなりません。そこに、3節以下に《弟子の心得》が説かれた理由があります。

 

 これから学びます弟子の心得は、そういう意味で、単に十二人の弟子だけにあてはまる心得ではなくて、神共にいますことを信じるわたしたち信仰者すべてにも、求められているものと言えましょう。そういうものとして3節以下を読んでみましょう。

 

 

 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。(3-6節)

 

 

 ここに三つのことが弟子の心得として語られています。第一は、3節の「何も持つな」ということ、第二は、4節の「入った家にとどまる」ということ、第三は、5節の『足についた埃を払い落す』ということ、この三つです。

 

 先ず第一の「何も持つな」ということですが、不可能と思える、反発したくなるような厳しいこの命令は、何を意味しているのでしょう。それを解く鍵は、弟子たちが派遣されるにあたって携えて行く、福音自身の中にあります。福音とは、先程申しましたように、神が共にいますということでした。従って、このことを宣べ伝える弟子は、先ず自ら、共にいます神の恵みに包まれている《安心》を生きねばなりません。派遣された生活がどんなに厳しくても、共にいます神の恵みに包まれているのですから、彼らは安心しているはずのものであるからです。だから何も持つな、なのです。つまり、それは『何も持つな』という禁止命令ではなくて、神が共におられるから「心安んぜよ」という、安心の勧めなのです。思い煩いからの解放の勧めなのです。

 

 イエスはマタイ6章で『空の鳥をよく見なさい』と言われました。更に『野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と言われ、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と、思い悩むなと言われました。また、「天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と言われて、「明日のことまで思い悩むな」とも言われました。そのようなイエスの言葉こそ、この「何も持つな」ということの意味を最も適切に説明するものでしょう。「何も持つな」とは、天の父が必要をご存じだから、先々を思い煩うことなく、安心して今日を、今ここを大切に生きなさい、ということなのです。そしてそれが、今ここに共にいます神と共に歩む、弟子の心得の第一とされています。

 

 次に、第二の弟子の心得は、「その家にとどまれ」ということでした。弟子たちは伝道するにあたって、その土地で一つの家を選んで、拠点にする必要がどうしてもあったのでしょう。その際、その土地から次の伝道地に向かって旅立つまでは、その家にとどまって、拠点を動かすようなことをするな、というのです。どうしてでしょうか?

 

 弟子たちにとってその土地は初めてでしようから、ここぞと思って泊まった家が、どうも居心地が悪い、非協力的であるということに後で気づく場合も、あったに違いありません。もっと歓待してくれる家、もっと協力的な家が、しばらくその土地にいると、必ず見つかるでしょう。その場合、後で見つけた良い方の家に移れば、最初の家の人は不愉快でしょうし、またその土地の人々も、弟子のそのやり方を、身勝手で、信義に欠ける行為と見るでしょう。そして、それは人々に(つまず)きを与えて伝道の妨げになるでしょう。だから「とどまれ」と勧められたのだと思います。つまり、都合の良い家を求めてそこに移って行くというのも、それはそれで一つのやり方ですが、そういうことをするな、それよりも《たまたま》泊まった家を、その土地にいる限りは、拠点として受け止めるべきだ、というのです。何故なら、家を転々とすることには、どうしても自分の都合を基準にした《エゴ》が入るからです。そして共にいて下さる神の導きへの信頼がなくなって行くからです。この家はだめだ、この家もだめだ、と移って行くよりは、《たまたま》の場所を受け止めて、たとえそこが不便でありい不都合であったとしても、そこにとどまることこそ、《そこにも共にいます神》に委ねた生き方であります。

 

 《たまたま》を受け止めると言えば、消極的な、投げやりな、無気力な生き方に見えますが、それは共にいます神に委ねた、潔い、積極的な生き方なのです。考えてみれば、人生は《たまたま》の連続ではないでしょうか。何もかも調べ上げて、計画を立て、きっちりと思い通りに行く、そういう場合も、勿論あります。しかし、偶然の思いつきで進路が決まったり、たまたまの出会いで結婚したり、遅刻したお陰で事故から助かったり、広告で知った一冊の本で人生観が変わったり、通りがかりの人の一寸(ちょっと)した一言で落ち込んだり、逆に元気が出たり、じっと自分の顔を鏡で見ているうちに心境が変わったり、まさに取り留めのない事の連続の中で、わたしたちは生きていると思います。今わたしたちがこの教会に来ているのも、《たまたま》のことでありましょう。偶然でありましょう。どうして他の教会に行かなかったのか、他の教会を調べ上げてここへ来た訳ではないでしょう。またどうしてキリスト教を信じているのか?他の諸宗教を調べて、キリスト教が一番良いからと、きちんと結論を出して信じている訳でもないでしょう。そういうことをしていては、慎重のようで結局、自分を物差しにして迷い続けるだけであります。神が共にいますということは、《たまたま》の気に入らない不十分なところも、実は神と出会っているところだということなのです。他に求めなくても、今ここを掘り下げるなら、ここでも出会って下さるのが神だということです。《ここ》も自分にとって大切な、意味あるところだということです。難しく言えば、必然は偶然という形で現れるということです。《たまたま》を受け止める、《たまたま》を大切にする、そういう《受け止めて、潔く生きる》生き方を、共にいます神は、共にいますゆえに、お求めになるのです。弟子の第二の心得、「その家にとどまれ」が語らんとすることは、そういうことでしょう。《たまたま》に我が人生を見るということです。うろうろするよりはここを掘れ、ということです。生きるのはここなんだ、ということです。

 

 次に、第三の弟子の心得は、「足についた埃を払い落す」ということでした。これは、元来は、ユダヤ人が異邦人の土地を立ち去る時に、異邦人の汚れを払い落して、異邦人との無関係を示す行為であったと言われます。そこから、《自分には何の関係もない》ということを示す、ユダヤ的な表現形式となりました。つまりここでは、弟子が福音を伝えても人々が、彼らを迎え入れず、それを拒んだ場合、それは拒んだ人の責任であり、弟子には何の責任もない、ということを示す行為であったわけです。ところで人々は、弟子の伝道に対して、一体どんな反応をしめしたのでしょう? それを示していますのが、テキストの後半7-9節の「ヘロデ、戸惑う」というところです。読んでみましょう。

 

 

 ところで、領主へロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」。そして、イエスに会ってみたいと思った。(7-9節)

 

 

 ここに二つの反応が記されています。一つは領主ヘロデの反応です。このヘロデは、イエスが誕生された時のへロデ大王の息子で、当時ガリラヤ地方を治めていた人です。彼は、以前自分の不倫な行為を、バプテスマのヨハネにいさめられて、腹立ち紛れにヨハネを殺した人ですので、「イエスはヨハネの生き返りだ」という人々のうわさを聞いて、不安になったようです。

 

 もう一つは民衆の反応です。当時のユダヤ教の信仰では、救い主が来られる前に、エリヤという紀元前9世紀に活躍した預言者が、先立って出現すると信じられていました。それで人々は、最初ヨハネを見た時、ヨハネこそエリヤでないかと期待したのです。しかし、そのヨハネは、今申しましたように、へロデに殺されてしまいましたので、期待をイエスに置き換えて、イエスこそヨハネの再来、或いは、エリヤ自身の再来と考えたようです。中には「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたようです。いずれにしましても、一般民衆は、ユダヤ教の民間信仰に立ってイエスを理解し、「ヨハネの生き返りだ」とか、「エリヤが現れた」とか言っていたのです。しかし、イエスという方は、人々の思いつきもしないような、全く新しい神の救いをもたらすべく来られた方でした。パウロがIコリント2・9で、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」と言っている通りの方なのです。だから民衆が示したような、通俗的民間信仰を手掛かりにするような態度では、分かるはずはありません。

 

 結局、権力者ヘロデも、一般民衆も、全く無理解な態度で、弟子たちの伝道に戸惑ったに過ぎませんでした。7-9節の小見出しは「ヘロデ、戸惑う」ですが、戸惑ったのはヘロデだけではなかったのです。彼らは共に、イエスの福音の新しさに対する、感動も恐れもなく、極めて常識的な知識や、期待で、反応を示したに過ぎなかったのです。そして、そういう結果に終わったことに対して、弟子は何の責任をも負うことはないと言われるのです。「足についた埃を払い落しなさい」とは、その意味です。弟子の立場からすれば、そういう結果に終わったならば、せっかくイエスに派遣されたのに申し訳ない、と自分たちの力不足に対して責任を感じるところです。しかし、イエスは責任を感じなくてもよいと言われるのです。弟子は、伝道の(わざ)に責任を負わなくてもよいのです。これは、一体どういうことなのでしょう?

 

 これを理解するために、私たちのよく知っている、タラントンの(たと)えを考えてみましょう。開けていただかなくて結構ですが、マタイ25・1430にその話はあります。三人の(しもべ)が、それぞれの力に応じて、5タラントン、2タラントン、1タラントンの財産を預けられ、主人の留守中に、その運営を任された話です。5タラントンの男と2タラントンの男は、それぞれ精一杯にそれを用いて商売をし、倍にして、10タラントン、4タラントンにして返します。主人は「忠実な良い(しもべ)」と言って僕たちを全く同じ言葉でほめます。ところが1タラントンの男は、もし商売をして失敗をしては大変と考えて、1タラントンを土の中に隠しておき、そのまま返します。それに対して主人は、「怠け者の悪い僕」と言って叱ったという有名な話です。

 

 ところで、この話で注意しなければならないのは、5タラントンを倍にした男をほめる時に「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は《少しのもの》に忠実であったから・・・」と言っていることです。これは2タラントンの男に対しても同じです。しかし、1タラントンは当時の労働者の給料六千日分に相当する額といわれます。ですから、5タラントンは3万日分の給料であり、決して「少しのもの」ではないのです。それどころか一寸(ちょっと)見当のつかないような巨額なのです。それであるのにここで《少しのもの》というのはおかしいのですが、これは恐らくこの(たと)えの元になった話では小額であったものが、話が伝承されていく過程で巨額になってしまったのでしょう。それにも拘らず、《少しのもの》という言葉だけは残ってしまったからだと言われています。ですからこの《少しのもの》を文字通りに取る必要はないわけです。むしろこの少しのものという言葉に引っ張られて、三番目の男が主人から預けられた1タラントンを 《少しのもの》と想像しないようにせねばなりません。うっかりするとそう思ってしまうのですが、彼が預かった主人の財産1タラントンは実は六千日分の日当に相当するものだったのです。巨額だったのです。

 

 ですから彼も他の二人同様にやれば、たとい倍にはできなくても、少しは増やすことはできたと思います。主人はそう期待したからこそ、銀行に預けずに、彼に預けたのです。ところが彼は他の二人と比べて、どうせ私は1タラントン、頑張ったところで結果は知れている、二人に負けるに決まっている、主人も二人ほどには期待してくれていないのだから、減らして叱られるよりは、埋めておいてそのまま返そうと考えたのです。彼は結果を気にして、自分を否定的に捕らえています。そしてその自分の臆病を、主人は厳しい人だからと主人のせいにして自分を正当化しています。彼は卑屈なうえに卑怯でもあります。そうなったのは、他の二人と比較しながら《結果》を気にしたからでしょう。しかし、この(たと)えの言わんとしていることは、神は結果ではなくて、与えられた賜物を生かす《忠実さ》を問題にされるということでした。

 

1タラントンの男は、結果を気にするが故に憶病になり、それを正当化するために主人を非難し、自分をそのままに肯定的に受け止めようとする素直さに欠けています。素直に自分の人生を肯定的に見れば、他と比べれば少ないとしても、六千日分の給料に当たるものを生かして商売が出来る力は与えられているのです。主人はそれを見込んで1タラントンを預けたのでした。しかし、結果を他の二人と比べながら気にするので、彼にはその主人の心が、忠実さを問題にしている、その心が見えないのです。

 

 もし結果の大小を問題にするのなら、いくら一生懸命にやっても与えられた賜物が違うのですから、勝負は初めから決まっているわけです。だから、それはそれで問題にしなくて良いのだとこの(たと)えは語っているのです。わたしはそのようにこれを読んでみて、人間は自分の一生に、深い意味では、責任を持たなくても良いものではないのか、と考えさせられたのです。出だしが違うのですから、結果の違いは初めから既に出ているのです。

 

 一人一人に与えられているものの違いは、才能の違いだけではありません。人間はいろいろな点で、初めから違うのです。生まれ育った家庭が違います。経験することが違います。出会う人が違います。運が違います。それらは本人の希望に関係なしに、有無を言わせずに与えられるものであり、個人の力では、どうにもならない違いです。そして、その影響と制限の中で、わたしたちは生きるよりはかないのです。ですから、人生には責任を負わねばならぬ部分は勿論ありますけれども、責任の負いようのない部分も決定的に大きいのです。従ってわたしたちは、とにかくそれなりに精一杯生きたならば、どんな結果になっても、それはそれでよいのであり、その結果には、それがたとい如何(いか)ようなものになったとしても、別に責任を感じる必要はない、と思ってよい面があると思います。もし責任をいうのなら、それは共にいます神が最終的には負い給う性質のものでしょう。とするなら、自分の人生に、必要以上に深刻な責任を感じるのは、真面目そうで実は、負う必要のないものを負おうとする傲慢に他ならないということになります。

 

 ですからとにかく、その人なりに精一杯生きたら、結果は失敗しようと、笑われるようなものであろうと、眉をひそめられるようなものであろうと、それはそれでわたしにとっての人生だと、自分の人生を肯定すべきではないでしょうか。自分の人生を否定的に見るべきではないのです。それが、神共にいますことを信じるものの人生態度でしょう。そして更に、肯定するのは自分の人生に対してだけでは、勿論ありません。他人の人生に対してもそうであり、人の人生も同様に肯定すべきでありましょう。たとい気に入らない生き方をする人であっても、気に入らないという気持ちを持つのは仕方がないとしても、その人の人生を否定するような見方までは持ってはならないでしょう。何故なら、その人のそばにも神は共にいますのであり、その人にとっては、それがたった一回切りの人生なのですから。

 

 自分の人生をそのまま肯定すると言えば、居直っているような、諦めているような、そんな生き方に見えますが、実はそれは共にいます神の手から人生を受け取っている謙虚な態度なのです。反対に、あれやこれやと自分の人生に不満を持ち、否定的にみるのは、自惚れであり、傲慢なのです。

 

 以上が、弟子の第三の心得「足の埃を払い落せ」から示されることです。元々人生において、自分が責任を負わねばならぬ部分は僅かなのです。ですから、思い詰めて、全責任を自分が背負い込むような深刻な生き方をする必要はないとそれは勧めているのではないでしょうか。妙に悲壮な責任感を払い落して、わたしの人生はこれで良いのだ、あなたの人生もそれで良いのだ、と互いに認め合って生き合うこと、そこに神が共にいて下さることを信じる弟子たるものの心得がある、そのことをこれは言っているのではないでしょうか。

 

 最初に申しましたように、イエスが十二弟子を派遣するにあたって言われた三つの弟子の心得は、当時の弟子にだけ当てはまる心得のようですけれども、以上のように見て参りますと、今日のわたしたちにも当てはまるものがあると思われます。即ち、神共にいますことを信じる故に、わたしたちは、第一に「何も持たないこと」、つまり、思い煩うことなく安心して生きること。第二に、「入ったその家にとどまること」、つまり、人生はたまたまの連続であるけれども、その与えられたことを大切に受け止めて、潔く生きること。第三に、「足についた埃を払うこと」、つまり、責任を負う必要のないことまで責任を感じてあまり否定的に、深刻に自分の人生を見ないで、わたしの人生はこれでよし、あなたの人生もそれでよし、と肯定的にお互いの人生を認め合って生きること。この三つ、これを主を信じる者の心得として生きるべきでないかと思うのです。そして、その生き方を自(みずか)らしながら、その生き方で、神は共にいますという福音を証しする、それがつまり、伝道するということでないか、と示されるのです。

 

 

 教会では、よく伝道ということが言われます。教会の使命はイエス・キリストを伝えることだと言われます。教会の外にいる人々に、福音を伝えることだと言われます。それは間違いないことです。しかし、その際考えておかねばならぬことは、伝道とはイエス・キリストについて人々に語り、説明して、伝えることではないということです。伝道とは冒頭に申しましたように、「神は共にいて下さること」を伝えることなのです。ですからそれは、伝える者自身が先ず「神が共にいて下さること」を、身をもって生きていなくてはなりません。伝える者が、「神が共にいて下さることを信じ、そのように生きて、共にいて下さる神の慰めを経験する」、そのような実際の《生き方》をしないで、いくらイエス・キリストについて語り、説明をしても、それは、《教え》の伝達にはなっても、イエス・キリストにあって《生きる道》を伝える、或いは《生きる慰め》を伝える伝道にはなりません。教会の使命は、イエス・キリストについての、《知識の伝達》ではなくて、イエス・キリストにあって神と共に生きる《人生態度の伝達》なのです。つまり伝道とは、《生きる道》を伝えることであって、生きる道の《説明》をすることではないのです。ですから、伝道する者には先ず、その生き方で、神は共にいますことを証しする者であることが求められるのです。本日の箇所で、イエスが十二人を伝道に派遣するにあたって、三つの《生き方の心得》を語られた意味を、私たちは深く思わねばならないでしょう。

 

 いずれにしても、「神が共にいて下さる」その福音を伝える者は、先ずその《生き方》において、自分自身が、神共にいまし給う故に《安心》しているかを問い、次に、神共にいまし給う故に一日一日を大切に掘り下げて、受け止めて潔く生きているかを問い、更に次に、神共にいまし給う故に自分の人生も人の人生も肯定的に認め合っているかどうかを問わねばなりません。そしてその時、人は誰しも、そういう生き方をしていない、或いは、そういう生き方の出来ない自分に向き合わざるを得ないでしょう。人に伝道するどころの話ではないのです。伝道する相手は先ず自分自身なのだ、と気付かされるでしょう。そして、その問題は生涯自分に問い続けねばならない問題と気付かされるでしょう。私たちは、生涯そういう自分に向き合って生きねばならないのです。

 

 よく私たちは、洗礼を受けるまでは求道者、洗礼を受ければ信仰者、そして信仰者は伝道せねばならない、そう考えます。しかし、これは大いなる錯覚、ないしは甘い自惚れではないでしょうか。

 

 パウロは「恐れおののきつつ《自分の救いを達成するように》努めなさい」(フィリピ2・

12)と言っています。洗礼を受けるということは、自分の救いの達成のために恐れおののきつつ歩み始めることでありこそすれ、他の人の救いのために伝道を始めることではないのです。それはむしろ、自分に向って伝道を始めることなのです。そして、生涯「神共にいます」ことを自分自身に確かめつつ生きることなのです。そして、その恐れおののいた、自分に伝道する生き方こそが、接する人々に伝道することになるのです。自分に伝道していない人の言葉に、人の心を捕らえる力はありません。教会とは、その意味では、生涯求道者の群れであることによって、その使命とする伝道の業を果たすところであろうと思います。

 

 「神は共にいます」という福音は、言葉で伝達する《教え》には決してならないことです。それはただ人生態度で伝達する《生き方》にしかならないことです。だからイエスは、人生態度を「弟子の心得」として示した上で、弟子たちを伝道に派遣されたのではないでしょうか。

 

 お互いまず自分自身に、「弟子の心得」を伝道し続けるものでありたいと思います。そしてそれが所謂(いわゆる)人に伝える伝道になるか、ならないか、その結果は神のお働きによることでしょう。お(ゆだ)ねするのみであろうと思います。お祈りします。

 

 

 父なる神様。

 

 今朝も私たちを礼拝に招いて下さいましたことを、感謝いたします。そして、み言葉によって、思いを内に向け、内なる目を開いて下さることを感謝します。私は今問われています。安心しているか、あなたによって安心しているか、あなたによらずして、他の何ものかによって、安心しているのでないか、あなたよりもほかのものによる安心を求めているのでないか、問われています。

 

 よそ見する心を静めて、どのような状態にあっても共にいて下さるあなたご自身によって、安心して生きる者として下さい。そしてその不動の安心の姿をもって、あなたの福音を証しする弟子として下さい。一言の祈りを、ここに集められておられるお一人お一人の祈りに合わせて、主の御名によって感謝と共にお捧げ致します。  アーメン