1995年8月6日 献堂礼拝

「いのち ―その日一日に成り切る―」

聖  句 マタイによる福音書6章2534                

引用聖句 ヨハネ黙示録16章3節 ローマ人への手紙1章17

   

 

25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。28また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。29しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。32まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。33だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

 

 今朝皆様と共に学びたいと思いますマタイ六章2534節は、詩のように美しいところでありまして、「空の鳥を見るがよい」「野の花を考えて見るがよい」という言葉で、特になじみの深い一節であります。テーマは「思いわずらうな」ということであり、そのことは、ここに「思いわずらう」という言葉が七回出てくることからも明らかであります。ただ私の考えますところ、問題はもっと深く、命の問題を扱っており、そこから「思いわずらうな」のすすめが語られているように思います。それは25節に「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」とありまして、「命」に対する関心が、ここの出発点になっていると考えられるからであります。今朝はこの命について三つのことを申し上げたいと思います。

 

 ところでこの「命」という言葉は、聖書の中にあちらこちらに出て来ますが、常に「命」と訳されているわけではなく、場合によっては「魂」とか「精神」と訳されている言葉であります。

 

 私たちのよく知っている例で申しますと、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう」と、豊作で安心している金持ちが注意される話がありますが、あの「魂」というのは、この「命」と同じ言葉が使われています。又イエスが「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ」と言われた箇所がありますが、あの「精神」という言葉もまた、この「命」と同じ言葉なのです。そういうところから考えますと、この「命」は、単に生命というのではなくて、「魂」とか「精神」とかにも訳すことが出来るような、人間の内面的な働き、つまり、ものを考えたり、感じたり、行動を決定したり、そして、文学や芸術を創造したり、そういう働きをする、精神的な面をも意味する言葉と思えるのです。しかしこの「命」という言葉が、もしそういう精神的な命を意味するのなら、「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われて「鳥や花」の生き方を人間の生き方の模範とされたイエスは、鳥や花の命にも、人間と同じような内面的世界を生きる命を見ておられたことになり、それでは一寸(ちょっと)おかしいことになります。ですから、ここで使われている「命」には、人間だけではなく、内面性を持たない鳥も花も持っているような命、そういう生きとし生けるものの命、という意味があると考えねばなりません。そして聖書を調べて見ますと、そういう命、つまり、今申しましたような「魂」とか「精神」といった人間の内面的精神性をあらわすものとは違った、生けるものすべてが共有する命、そういう意味でこの「命」という言葉が使われている場合があるのです。例をあげますと、ヨハネ黙示録16章3節に「第二の者が、その鉢を海に傾けた。すると、海は死人の血のようになって、その中の生き物がみな死んでしまった。」とありますが、この「生き物」が「命」と同じ言葉なのです。ですから「命」という言葉は、内面的、精神的な人格的命の意味の他に、単純に「生き物」の命という意味もあると考えて良いでしょう。人格を持たない、内面性を持たない、鳥や花にもある、生けるもの全てにある命、つまり寿命、そういう意味もあるのです。そして今朝学んでいるところでイエスが、「自分の命のことで思いわずらうな」と言われた時は、そういう生きとし生けるものの命という意味で、この「命」という言葉を使われたと思われます。そして、そのことから、今朝皆様と共に注意したいと思いますことは、イエスはここで人間を、鳥や花と同じレベルの、生きとし生けるものの一つ、と考えておられるということです。ここでは、人間は神に似せて作られた特別な、すぐれた者でありつつ、その根底においては、全ての生き物と同じように、命与えられて生かしめられ、更にいつの日か、その命を取られて死なしめられる、そのようなものとして考えられているということです。私達は、自らのうちに、その存在を始める権利も力も持たず、又その存在を終らしめる権利も力も持たない、そういう被造物としての命を生きているという意味では、鳥や花と同じだということです。

 

 ところが、こういう命が私達にはよく見えていないのではないでしょうか。そのために、鳥と花とは違った特別の命を生きていると、平素思っているのではないでしょうか。私達は文化や科学や芸術やさまざまな営みをし、その目的のために鳥や花をはじめ、他の被造物を思いのままに支配し、利用する力を持っていますから、そういうものとは違った特別の命を生きていると考えているのではないでしょうか。確かに人間は、そのような力を持ち、さまざまなものを所有し、さまざまな創造的な行為をして来ました。現にしています。しかし、どれ程所有するものが多くなっても、またどれ程行うことが広く、大きく、速くなっても「今夜あなたのたましいは取り去られる」という定めは、つまり生かされているものであり、又死なしめられるものである、という被造物の定めは変わらないのです。存在としては、やはり、鳥や花と同じ命を生きているのです。そして、この命の単純な姿、それを忘れてはいけない! というのが、今朝の箇所が私に語ってくる、そして皆様に申し上げたい第一の点であります。私達はいつの間にか、生きとし生けるものと同じレベルの命を生かされている、という単純な事実を忘れて、何を持っているか、何をしているか、そういう言わば命の上辺にくっついた面に気をとられ、そこで他の人と比べて安心したり、失望したり、傷ついたり、争ったりして、思いわずらっているところがあります。人は何故思いわずらうのか? ある人はこれに答えて「他の人と比べて何とかしてまさりたい、少なくとも劣りたくはないというもがき」に思いわずらいの原因がある、と言います。確かに、人の評価に一喜一憂し、劣等感と優越感の間を行き来し、時に尊大となっておごり、時に卑屈になってへつらい、ねたみ、そしり、憎み、そういう感情にふり回されて思いわずらうということはあると思います。私自身かえりみて、そういう思いが、まさに業という言葉で表現するのが最もふさわしいと思える程に、根強くあります。しかし、そのことを更に深く考えれば、そのように思いわずらうのは、自分の予定ではまだまだ生きている、という前提で事を考えているからではないか。つまり、自分の命を、真に与えられた命、そして取り去られる命という単純なレベルで生きていないからではないかと思うのです。

 

 私の母は五十三歳で子宮ガンで亡くなりましたが、入院中ある時、院内をブラブラ歩いていて、待合室の中に、かねてよく知っている奥さんが、青白い顔で淋しそうに座っているのを見たことがありました。その時母は病室に戻って来て、私にしみじみと言いました。「あの人と色々ライバル意識を持って今迄やって来たことが、どんなにつまらないことであったか、よく分かった」。そう非常に深刻な顔をして言ったことを、四十数年前の話ですが、鮮明に覚えています。母はその時、自分も相手の奥さんも、共に「生きとし生けるものの命を生き合っている者同士」として見えたのではないかと思います。上辺が除かれた裸の命において、お互いが見えたのでないかと思います。くり返しますが、私共は、鳥や花と同じく、命いただいて生き、そして取り去られて死ぬ、そういう存在なのです。その命のレベルで自分を見つめる、それが被造物としての人間の節度、慎みでありましょう。命の上辺にくっついたものを追って、思いわずらっている目をうちに向け、そういうものをそぎ落として、単純に命を見つめて生きなさい、そういう意味で主は「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」(25節)と言われたのでありましょう。

 

ところで以上のように申しますと、人間の命を鳥や花の命と同じとみなすことは、人間を低く卑しめることではないか。人間は神に似せて作られた霊的な命を生きており、自由な主体的存在であり、永遠の生命を約束されているではないか、というご批判があるかもしれません。しかし、主は、空の鳥、野の花の思いわずらいのない生き方を、模範的生き方として示されたのであります。従って、今迄に申しましたような生きとし生けるものと同じ命、最近よく言われる表現を使えば、自然と共に共生している命の一つと、人間の命を考えることは、決して自分を低く卑しめることではないのです。むしろそれは逆に、思い上がって、何か特別な高等の存在と自惚れている私達を、命の現実に謙虚ならしめ、命与えられて生きている人間の単純な事実に落ち着かせることなのであります。私達はそういう単純な命への見方がもうすっかり出来なくなって、命の上辺にくっついたことを追い回して、人生を複雑にし、自ら作ったその複雑な日常性の中に埋没してしまいました。そして、思いわずらいにさいなまれて、重苦しい生き方になっているのではないでしょうか。その点鳥のように、単純な命の姿に身をゆだね、生かされるままに生きることは、人間を卑しめるどころか、人間を取り戻すことと言っても良いことなのであります。私共はお互い、病める時も健やかな時も、若い時も老いた時も、富める時も貧しい時も、幸せな時も不幸な時も、得意の時も失意の時も、順境の時も逆境の時も、色々経験せねばなりません。しかし、そういう上辺の姿は種々変っても、命を与えられて生かされ、それを取り去られて死なしめられる、という命の単純さはいささかも変りません。それが人間存在の究極の事実です。そのことに注目し、その命にゆだねて生きることが、上辺に振り回されないで生きる、つまり「軽く生きる」、それが、空の鳥がまくこともせず、刈ることもせずに、天の父の養いにゆだねて生きている姿から学ぶべきこととして、主が教えられたことでありましょう。鳥に学ぶことは決して人間を低くすることではなくて、命の本来に生かしめる事なのです。又主は、野の花を見よ、と言われました。野の花は、公園の花ではなく、誰に見られることなく、その一生を終えることでしょう。いや途中で動物に食べられ、踏みつけられてしまうかも知れません。朝に咲いて夕には枯れる短い命かも知れません。しかし、花は自分を咲かしめている命に従い、精一杯美しく咲いているのです。ソロモンの栄華にまさる美しさで咲いているのです。そこには与えられている命のままにゆだねている故の充実した姿があります。どうせ誰も見てくれないのだから、どうせすぐにしぼむのだから、といった投げやりなところはありません。この程度で咲いたことにしておこうといった気侭(きまま)さもありません。ただ一瞬一瞬精一杯咲いて、命の充実を楽しんでいます。それが花の美しさです。そしてそれが、野の花が、働きもせず、つむぎもせず、そして明日炉に投げ入れられるかも知れないのに、天の父の養いに委ねて生きている姿から学ぶべきこととして、主が教えられたことでありましょう。花に学ぶことは、決して人間を卑しめることではなくて、命の本来に生かしめる事なのです。

 

 「鳥の如く軽く」「花の如く美しく」。これが命の本来の姿なのであります。何度も申しますが、人の命は、他の生き物とは別の、特別のものではないのです。生きとし生けるものに共通する命なのです。日常性に埋もれて、この単純な命の事実を忘れがちですが、それに気づいて、それにさめて、その命にゆだねて、軽く、美しく生きる、それが「思いわずらうな」と言われた主の御心でしょう。「思いわずらわない」とは、何も考えないで、なるようになると、その日ぐらしの刹那(せつな)主義をすすめているのではないのです。それは、命にゆだねて軽く、命を充実せしめて美しく生きる、ということであります。これが今朝の箇所が私に語ってくる、そして皆様に申し上げたい第二の点であります。主は、空の鳥と野の花を、決して気まぐれに選ばれたのではないと思います。生きとし生けるものの代表として、数ある中から、さそりでもなければ羊でもなく、空の鳥と野の花を特に選ばれたのは、あの軽さ、あの美しさこそ、神から賜った命にいかされているものの有りようであると、思われたからでしょう。

 

 私は最近ふと思うようになったのですが、軽く、美しくということこそが、人間の深さだということです。一般に信仰の世界は、内面的に深く自分を見つめ、心の奥底をさぐって行き、そこで神と出会い、神もそこで人間に御心を示して、導きを与えられるように思われています。意識下の奥深い、深層心理の世界、そういう世界が求められ、深いことは神秘的であるかのように思われています。しかし、上辺にくっついているさまざまなものの底に生きている「命」に気づいてゆだねること、それこそ深い生き方であり、そうだとすれば、人生を深く生きるとは、以上見てきたことから言えば、「軽く、美しく生きる」ということになるのではないか。そういう単純な生き方が、実は深い生き方ではないか、そう思うのです。鳥のように軽く、とらわれず、こだわらず、心を広げて、淡々と、風のように自由であること。そして花のように美しく、人がどう見ていようと心動かされることなく、又不平を呟くことなく、置かれたところで自分を小さくとも咲かせようと誠実であること。この軽さと美しさ、それが人間の深さです。それは決して、人間を低く卑しく見なずことではなく、「風は思いのままに吹く。霊から生まれる者も皆同じ」と言われたように、主ご自身が生きられた世界であり、私達を招き入れようとしておられる人生態度であり、命の実相に即した本来的、究極的な生き方でありましょう。

 

 三番目に、この箇所から私が学び、皆様に申し上げたいと思います点は、最後の33節、34節であります。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」。

 

 少しややこしくなりますが、言葉の説明を先ずさせて頂きます。「神の国」とは、神が支配、統治しておられる状態であります。そういうものとして、人間の歴史的進化の中に、人間の力で達成されるものでなく、神ご自身が介入して来られて与える終末的な世界、それが神の国であります。だから「目を覚まして待ちなさい」(マタイ25章1節~)と言われる国でもあります。しかし同時に、単に待つだけではなく、「神の国は既に来ている」一面もある国であります。次に「神の義」ですが、「神の義はその福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」(ローマ1章17節)というみ言葉の示します通りに、それは、単に神の正しい性質といったものではなく、啓示されて福音となり、更に人を信仰に至らしめる、そういう神ご自身の働きであります。又それが、啓示されて福音になったということ、つまり、罪のゆるしとなったということは、神の義が、人間の罪をさばく正しさと、それをゆるすあわれみが、共に備わるようなものであることを示しています。要するに、神の義とは、人間の罪をさばきつつゆるす、神の救いの働きそのものと言って良いでしょう。こうして見ますと、「神の国」と「神の義」は、前者が「神の支配」、後者が「神の救」と、一寸(ちょっと)ニュアンスは違いますが、共に神がご自身をあらわすべく関わって来られる働きを意味していると思います。神は私達から離れた方ではないのです。神は、あるいは支配せんとし、あるいは救わんとして働きかけて来られる生ける方であります。そして私達は、その神の働きに包まれて、生き、動き、存在しているのです。その事実に目ざめなさい! という意味で、「まず神の国と神の義とを求めなさい」とイエスは言われるのです。つまり、神の働きのうちに生き、動き、存在しているものであることに先ず(まず)気づいて、思いわずらいの日常性から自分を取り戻すこと。それが、この言葉の意味するところでしょう。ですから先程から申していますところから言えば、「まず神の国と神の義とを求めなさい」とは、先ず「命にさめなさい」ということではないでしょうか。自分で生きているのではなくて、生きとし生けるものの一つとして、賜わっている命の単純さに目ざめて、それにゆだねて生きなさい! ということではないでしょうか。命の上辺にくっついたものを追い回して、自分で複雑にしてしまった日常性を、一度そぎ落として、裸の命を見てごらん!

 

 ということではないでしょうか。それが「まず神の国と神の義とを求めなさい」の意味です。そしてそのように命にさめる時、すべてのものは添えて与えられる。一日の苦労はその日一日だけで十分である}と言われるのです。命与えられて生かされている単純な事実に気づいて、それにゆだねて生きれば、すべては添えて与えられ、明日を思いわずらう必要はないと言われるのです。しかし、これに対して、そんな考えは甘すぎる。人間は鳥や花とは違うのだから、そうは行かない。鳥や花にはない文化的営みへの視点がここには欠けているという批判が矢張り出て来ましょう。たしかに文化というのは、ある意味では明日のことを思いわずらうからこそ、進歩して行くのであり、このイエスの言葉には、それが欠けていると言えなくはありません。しかし、イエスがここで言おうとされたことは、そういう文化的視点の欠如を云々するようなことなのでしょうか。そうではないと思います。では、イエスは何を言おうとしておられるのか。私はここで理屈による説明ではなくて、一つの実例を持って、その答えとしたいと思います。

 

 

 山下紀子さんという方がおられました。二十歳の時から、国際線のスチュワーデスを勤め、三十歳から空港勤務についた人で、頭の切れる美人で独身、職業人としての誇りに生きた優秀な人で、その航空会社で期待されていた人でした。しかし惜しいことに、三十四歳で胃ガンで亡くなりました。その人について記されたものを最近読みました。それを書いた人は、彼女が入院していたカトリック系の病院の婦長で、シスターでもある方ですが、そこには亡くなる最後の三日間のことが、くわしく記されています。それによりますと山下さんは、末期ガンの烈しい嘔吐で、笑いを失い、やつれ、苛立ち、表情は極めて厳しいものとなっていました。亡くなる三日前の朝、看護学生が交替します。看護学生たちは二日間夜の実習を交替でするのですが、その日の学生の技術と知識の未熟さが、山下さんをさらに苛立たせます。学生は、山下さんの顔を見るのが怖いと言い、泣きながら看護実習をするのですが、その度に「他の看護婦さんを呼んで下さい!」と言われる始末。しかし、学生は自分の未熟を恥ながらも、頑張り続けます。知識も教養もキャリアも、学生とは段違いの山下さんは、プライドの高い人で、学生はつらい思いで一日目の実習を続けたのです。婦長はその様子を見ながら、山下さんのターミナルケアに尽し、機会を見ては山下さんと話し合うのです。山下さんは言います。「私は治ると思っている。そう信じている。しかし、治るというわずかのしるしが欲しい。一週間すれば少しは良くなるというしるしが欲しい」。それに対してシスターである婦長は、気休めのようなことを言わずに、次のように言います。「一週間とか、一ヶ月とかは、今のあなたにはもう遠い日よね。毎日を精一杯生きて見ない? 毎日、毎日、自分をかけて、たとえば朝看護婦さんに『今日もしっかりやりますからよろしく』と挨拶できるようにね」、そう言います。婦長はかねがね山下さんを尊敬していました。それは、常に誠意と忠実をもって、職業に打ち込み、仕事に生きる女性の魅力を、山下さんに感じ、自分も又、そのように看護の仕事に生涯生きて来た者として、共感するところがあったからです。婦長は山下さんに更に言います。「あなたと私は似ているでしょう。職業にしっかり生きて来た者同士として。だから、そのしっかり生きて来た思い出を枯らさないようにして欲しいの。それが一日一日を生きることではないかしら」。しかしそれに対して山下さんは、「そうね、でももうどうなってもいいの」と呟きます。そして嘔吐が又始まり、話は中断されたままとなりました。ところが翌朝、心配しながらシスターが山下さんを見舞った時、病室に何か違った雰囲気が感じられました。山下さんは生き生きとした目を輝かせながら、明るい朝の挨拶をするのです。「今日は何となく気分がいいのよ。お天気のせいかしら」と彼女は微笑します。夜勤の看護婦からも、今朝山下さんに「おはよう、今日もしっかりがんばるわ」と言われてびっくりした、という報告がありました。前日トラブルを起こした看護学生も、今日はいそいそ身の回りの世話をしています。何か様子が違うのです。平安な一日がその日続きました。そこでシスターは、山下さんに「お祈りしましょうか」と声をかけたのです。すると何のためらいもなく、まるでその時を待っていたかのように、いつも無神論者だと自称していた山下さんは、うなずいて合掌したのです。祈りのあと山下さんは「私、洗礼を受けたいけれど、どうしたらよいかしら?」とシスターの全く予期しなかったことを言ったのです。その日の午後、あわただしくととのえられた洗礼式が病室で行われました。急な話でしたが、いろいろな人が花を持って集まり、山下さんは花束に囲まれ、花嫁さんのようにほほえんでいました。そして翌日早朝、病状は急変して、山下さんは召されたのです。話は実はこれからなのです。

 

 山下さんが亡くなった前日、つまり、洗礼を受けたその日の夕方、山下さんとトラブルを起こした例の看護学生は、二日間の実習を終えるに当たり、その報告に婦長室を訪ね、次のように語ったというのです。「今日実習を終わりますが、この二日間、山下さんから沢山のことを勉強しました。辛い二日間でしたが、私の至らないために山下さんに不愉快な思いをさせ、申し訳ありませんでした。山下さんにはお詫びしました。そして、一つ山下さんにお願いをしました。『私はあなたの受け持ちになって、多くのことを学びました。ありがとうございました。私はきっとあなたのことを生涯忘れることが出来ないと思います。私がもし縁があって結婚し、女の子が出来たら、あなたのお名前、紀子をいただきたいと思いますが、よろしいか?』、そう申しましたら山下さんは、大きくうなずいて、涙をこぼしながら『有難う』と言ってくれました」。そう報告して学生は泣いたそうです。彼女は卒業して間もなく結婚、生まれた女の子を、約束通り「紀子」と名づけたということです。

 

 たった二日間の実習期間、それも全く険悪な空気の実習期間の中で、これ程の変化をもたらす感銘を、山下さんがこの学生に与えたのは何であろうか、と思うのです。それは私の考えるところ、シスターに「しっかり生きて来た思い出を枯らさないようにすることが、一日一日を生きることではないかしら」と言われた山下さんが、その言葉の意味を、その夜苦しみの中で求め考えて、生きているのは過去の得意の日々でも勿論なければ、将来に予想される暗い日々でも又なく、それは「今」であると気づいて、そして翌朝「おはよう、今日もしっかり頑張るわ」と、その日一日をしっかり受け止め、その日一日に成り切った、その一日の受け止め方にあるのではないか。国際線に乗っていた華やかに活躍していた頃の一日も一日ならば、今死に瀕している病床にある一日も又一日なのです。その一日を、元気に生きてきた一日と同じようにしっかり頑張る、それが賜わっている命を生きるということであり、まさに神の国と神の義とを求めて、命賜わる神の御働きにゆだねて生きることにはかならないでしょう。その日一日山下さんの病室にあふれた生き生きとした雰囲気、それはさまざまな思いわずらいを捨て、その日一日の命にゆだねた軽さ、その日一日の命に充実した美しさ、その日一日が命の現実と悟った深さがもたらしたものではないか。命は結局、今日という一日を「真新(まっさら)な一日、これっ切りの一日」として、その日に成り切ることで、神の賜わったその日の命として輝くのでしょう。山下さんを恐れていたこの学生が、自分の娘に山下さんの名前をつけたいと思うまでに変った、たった一日で変ったのは、山下さんの力でも何でもなく、神様の下さる命が、それ自身の持つ豊かさで「おはよう、今日もしっかり頑張るわ」と山下さんを言わしめ、山下さんがその豊かさにゆだねて生きた、そのことによるのでしょう。そして、それがまさに、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」と主が言われたことではないでしょうか。山下さんには必要なことは、すべて添えて与えられたのです。

 

 「一日の苦労はその日一日だけで十分である」とは、投げやりな刹那(せつな)主義でもなければ、先程申しました、人間の文化的営みを無視したことでもなく、「その日一日に成り切りなさい」ということであり、生かされて生きる命本来の在り方への招きなのであり、まさにそれは、命の現実に的確に届いた人生態度の確立を願っての、主のとりなしの御言葉というべきでありましよう。

 

 最後に今日の箇所をもう一度お読みして終わりたいと思います。

                              「(マタイ6章2534節)」