2003年9月21日 礼拝

「自分の分」

聖  句 マタイによる福音書20章1~16

   

 

 天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと、1日1デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。それから9時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、12時ごろと3時ごろとに出て行って、同じようにした。5時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。そこで、5時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ1デナリずつもらった。10ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも1デナリずつもらっただけであった。11もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして12言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。13そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。14自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。15自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。16このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。

 

 

 本日のこの聖書の箇所は、「ぶどう園の労働者のたとえ」として、教会ではよく読まれるところであります。その労働者に対する賃金のすこし変った支払い方が、天国の奥義を示すものとして語られております。その内容については私たちはよく知っておりますが、もう一度心を新しくして学びたいと願っております。

 

 まず注意したいと思いますことは、このたとえの前後に同じようなことばが書かれているということです。たとえの前、つまり19章30節を読みますと、「しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」と書いてあります。そしてたとえの最後、つまり20章16節には、「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。」と書いてあります。順番は逆になっていますが、言っていることは同じことばがこのようにこのたとえの前後にあるのです。ですから要するに、このたとえの言わんとしていることは「あとの者は先に、先の者はあとに」ということと一応考えられます。

 

 それで今日のたとえに入る前に、まず19章16節からはじまります「金持ちの青年」の話に少し触れておきたいと思います。この青年は、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか。」と、イエス様に質問しております。そしてイエス様から「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われ、それが出来なくて悲しみながら立ち去っています。それを見ながらぺテロが誇らしげに言った言葉が、19章27節「そのとき、ぺテロがイエスに答えて言った。『ごらんなさい、わたしたちは一切を捨ててあなたに従いました。ついては何がいただけるでしょうか』」でありました。ぺテロが言おうとしていることは、あの青年は資産を捨て切れなくて永遠のいのちを得ることに失敗した、しかし私たちは一切を捨てた、だからその報いとして報酬がもらえるはずだがそれは何か、ということです。つまり自分は「捨てる」という苦労をしたのだから、それが評価されてそれ相応に報いとして永遠のいのちに与り、天国に行けるはずだ、というのです。彼は、天国に入ることを自分の苦労、自分の努力に対する報い、報酬と考えております。

 

 それに対してイエス様は、この19章30節で「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」と言われたのです。ですからイエス様はこのことばで、天国は報酬として与えられるものではない、それは神様の恵みなのだ、それなのに報酬と思い込んで自分の努力を数え上げているような者は天国には入れないであろうと、ぺテロの思い違いをさとして、「先の者はあとに、あとの者は先になる」と言われたのです。そして天国は、ただ恵みのみ、ただ恵みのみということをさらに強調するために、本日のぶどう園の労働者のたとえを語られたのでした。

 

 前置きが長くなりましたが、では、このぶどう園のたとえ話を学んでみましよう。

 

 ぶどう園の主人が夜明けとともに労働者を雇うところから、この話ははじまります。1、2節を読んでみます。

 

 「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、

出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと、一日1デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った」。

 

 労働時間は、日の出とともに始まり日没とともに終わると、当時は言われていましたから。

そして一日の日当は1デナリでしたから、この話はまったく普通の生活をそのまま映したものと言ってよいでありましよう。しかし主人はさらに9時ごろに出かけ、何もしないで広場に立っている人を見つけると、「相当な賃金を支払うから」と言ってぶどう園に雇うのです。このあたりから、話は奇妙な展開になっていきます。主人はさらに同じことを12時と3時にもするのです。そのことは3節、4節に書いてあります。9時から3時にかけて雇われた人々には、主人は1デナリと言わずに相当な賃金と言って約束をしております。「相当な賃金」というのは、あとの方を見ますと当時の日当1デナリのことであったわけですが雇われた労働者は当然そうとは思わない、途中から雇われたわけですから、それぞれの労働時間に応じた賃金ぐらいを予想していたことでありましよう。それはともかく、さてこれでもうおしまいかと思いきや、主人はさらに夕方5時ごろにまた出かけて行くのです。するとまだ広場に立っている人がいます。そして主人は彼らをも雇うのです。さすがに賃金の話はしておりません。雇われる方もそんな話はしません。ただ、短い会話が交わされております。

 

 6、7節「5時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った。『な

ぜ、何もしないで一日中ここに立っていたのか』。彼らが、『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたもぶどう園に行きなさい』」。

 

 この会話は、彼らがその時まで誰にも雇ってもらえなかった者であることを明らかにしています。しかし考えてみれば、もし彼らが昼間の12時頃や3時頃に職を求めて広場にいたら、必ず主人に雇ってもらえていたはずですから、その時まで彼らは一体何をしておったのか、ということになります。それに5時頃に職を探しに出て来ているというのはおかしな話でありますけれども、主人はそれまでの経過を一切問わずに、そのままに雇っております。

 

 いずれにいたしましても、この5時の男たちとの短いやり取りは、この主人がぶどう園に必要な労働者数を考えた上で雇っているのではなくて、あぶれている人をみな働かせてやりたいから雇っているだけである、ということを端的に示しております。察するに、ぶどう園に必要とする労働者は、おそらく夜明けと共に一日1デナリで雇った時点で、もう満たされていたと考えられます。あとはみなあぶれている人々に、つまりその日一日を生きていくために必要なものを手に入れられない人々に与えられた、主人の恵みによる人々でした。夕方五時ごろ雇ったところで、一体どれだけ働かせることができるでしょう。主人が彼らの労働量をはじめから問題にしていないということは明らかです。主人はただ、あぶれている人は一人もいないようにしてやりたい、その日の生活をすべての人に確保してやりたい、それだけで雇っているわけです。彼から見れば労働者一人ひとりの労働時間など、これは問題外です。すべての労働者が仕事を与えられて、その日の暮らしが成り立つようにする、それが問題なのです。

 

 しかし、そうは考えないのが労働者側であります。そのことが明らかになるのが、8節以下12節までの賃金が支払われる場面であります。読んでみます。

 

 「さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。そこで、5時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ1デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも1デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』」。

 

 最初の男たちの不満は極めてもっともであります。主人のやり方は不公平であり、公正さを欠くと言わねばなりません。しかしそう思うのは、これは労働者側からの人間の論理で見てのことです。労働時間の長い短いを根拠にして報酬に差がつくのは当然、と考えている人間の論理で見てのことです。主人の側の論理から言えばそうではない。主人は、みなに今日一日の生活ができるように日当を与えてやりたい、それだけです。その主人の気持ちが13節以下に良く表れています。

 

 「そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』」。

 

 主人の方から言えば、どれだけ労働者に支払うかは、これはわたしの自由である、おまえたちの指図は受けぬ、というわけです。そしてわたしのやりたいことは、同じように支払ってやりたいということ、つまり、一人ひとりの労働者がその日一日の日当をもらって、その日の生活が可能となること、それだけです。

 

 これが主人の側の論理です。労働者側の報酬の論理とはまったく別の、「恵みの論理」であります。イエス様はこのようにこのたとえを語られることによって、先程の金持ちの青年のところで言いましたように、天国は、『恵みの論理』の支配するところで、『報酬の論理』の支配するところではないということを語り、報酬の論理に心を奪われて、これだけ神様のために一生懸命働いたのだから天国に行けるなどと考えている者は、先のつもりでもあとになるであろう、と言われたのです。このたとえは、大体以上のようなことを意味しているであろうと考えます。

 

ところで、みなさんはいかがでしょうか。私はこのたとえを読んでいて、ふと、おかしいなと思ったことがありました。それは、最後の者にも同様に払ってやりたい、とそれぞれに1デナリずつ払ったのは、これは恵みの論理として分かるのですが、しかしなぜその支払いを最後の者からはじめたか、最後の者からはじめて順々に最初の者に渡すように順序を逆にしたのであろうか、という疑問であります。

 

 主人のねがいは、みな平等に1デナリ、ということだけであるなら、最初に雇われた人々から順々にあとの者に払っていっても、これはちっとも差し支えないはずであります。その方が普通であります。その方がみな納得する順番であります。わざわざ最初の者たちをいらいらさせるような、いじわるともとれるようなやり方をどうしてする必要があるのでしょう。なぜ、「順番は逆に」と、わざわざぶどう園の管理人に指示を与えて、そんなことをする必要があるのでしょう。

 

 先程言いましたとおり、神様の恵みの論理は、「最後の者にも同じように支払ってやりたい」でありました。つまり恵みの論理とは「みな同じ」ということです。それに対して報酬の論理は、「みな違う」という言葉で表わすことができるでしょう。夜明けと共に働き出した者、9時頃働き出した者、12時頃働き出した者、3時頃働き出した者、そして夕方5時から働き出した者、労働時間はみな違う。この「みな違う」ということに力点を置く、そしてその違いをくらべる、そしてそれぞれに見合ったものを要求する、それが報酬の論理です。そこにあるのは、違いを重視する、違っていることに力を入れる。そして、違いを問題にするところでは、必ずくらべる、比較する、ということが伴うわけであります。したがって報酬の論理の実体は比較の論理であると言えると思います。そしてこの比較、他とくらべるということをまさに浮かび上がらせるために、今問題にしている「順番を逆にして支払う」という奇妙な、と申しましょうか、すこし変った支払い方法が必要とされて、主人はぶどう園の管理人にその方法を指示した、と私は考えます。

 

 と言いますのは、もし順番を逆にしないで、夜明けと共に雇われ働き出した者から順々に支払いをはじめたらどうなるでしょう。彼らはおそらく約束どおりの1デナリをもらって、それで満足して帰っていくのではないでしょうか。日当1デナリというのは、はじめの約束なのですから、それを受け取って働かせてもらったことを感謝して、それで帰っていくでありましょう。彼らはあとから働き出した者のもらい分は当然自分より少ないはず、1デナリ以下と思い込んで帰っていくでありましょう。

 

 それで万事平穏に終わるところでありました。ところが順番が逆になった。そうすると、否でも応でも、彼らはあとから働き出した者に支払われる賃金というものを目にせざるをえない、そしてそれがなんと自分に約束された1デナリと同じ額であるということを知ったとき、その時、このたとえが問題にしていることがらが起こったわけであります。「雇われた」というその恵みはふっとんでしまった。そして噴き出して来たのは、不公平という怒りであります。そのために、一日の労働を感謝するという点で、まことに「あとにいる者が先になり、先にいる者があとになる」ことが起こったわけであります。

 

 ぶどう園に雇われた労働者たちは、夜明けとともに雇われた者も夕方五時に雇われた者も、主人に雇われてその日一日の暮らしを支えられたのです。主人の願いは、同じように労働者みんなの暮らしを守ってやりたい、ということであります。そして、そのようにしたのであり、そのようになった、みなその日を守られたことを感謝しておれば、そしてその感謝が本物であれば、何事も起らなかったはずであります。しかし残念なことに彼らの感謝は本物ではありませんでした。にせものの感謝でありました。そのことを自覚させ、ほんとうに恵みに感謝する者へと招くために、主人は最後に来た者から順々に、という変った支払い方を管理人に命じたのではないでしょうか。

 

 賃金の支払いがはじまった時、最初に雇われた者は予想外の支払われ方に驚きました。「これはなんだ」と、「不公平だ」と、「だれもかれも1デナリずつなんてそんなバカなこと」と、怒りに爆発しそうな心をおさえながら、少し待てよ、自分たちは夜明けから働いたんだ、ひょっとするとボーナスが出るかも知れない、そんな期待を持ちながら、それこそ固唾をのんで支払われていくのを見守っておったことでありましょう。しかし彼らも1デナリずつでありました。彼らは約束どおりの1デナリをもらったのです。ですから、今日一日を感謝して帰ればよかったのです。感謝が本物ならそうなったはずであります。しかし他の人の賃金を見、それとくらべて比較した時、労働時間の多い自分の賃金の少なさに感謝はふっとんだ。不平、怒り、ねたみ、そして自分の労働量にふさわしい賃金の要求、ということになりました。彼らの心は、他の労働者の賃金と自分の賃金との違いを比較する報酬の論理に占領されてしまいました。もはや、みんなを同じように扱いたいという主人の恵みの論理を受け入れる余地は全くありません。労働量の違った者をみな同じに扱う、そんな人をバカにした不公平な、社会的に見て正義に反することは許せない、と思いました。

 

 だから11節をみると、こう書いてあります。

 

 「もらったとき、家の主人に不平をもらして、言った」。

 

 『もらったとき』、この11節をじっと見ておりますと、私は自分の心を読まれているような気がします。受け取ったのは1デナリ、つまり最初に約束されたとおりの額です。それだけを見ていれば何事もなかったはずです。感謝のはずです。ところがそれをもらってまず感謝、でなくて、それをもらってまず不平、なのです。一応感謝してから、それから意義を申し立てて不平を言うのならまだ分かりますが、彼にそう言わせる心の余裕もないのです。感謝の「か」の字も彼の心にはない、あるのは怒り、不平、ねたみ、報いを求める報酬の論理のみです。だからこの11節に書いてありますように、「賃金をもらったとき」すぐに主人に不平を言った。

 

 いずれにしましても、主人の恵みをありがたく受け取るには、最初に雇われた者たちは、自分の賃金と他の人の賃金とを比較することをやめねばなりません。14節の主人の言葉の意味するところはその点です。主人はそこで言っています、「自分の賃金をもらって行きなさい」。これは新共同訳では、「自分の分を受け取って帰りなさい」と、こうなっています。今朝の説教題を『自分の分』としましたのは、新共同訳からとったのですが、「自分の賃金をもらって行きなさい」、新共同訳では「自分の分を受け取って帰りなさい」。

 

 自分の賃金、自分の分だけを見ておればよいのです。他とくらべることはないのです。よそ見をしないで自分の賃金、自分の分だけを見ておればよいのです。それを受け取って帰ればよいのです。そのことが、雇ってくれた主人の恵みを感謝するということに通じるでありましよう。

 

 さらに「自分の分」「自分の賃金」だけを見ている時、それをじっと見ている時に、なぜこの主人がその日5回も広場に出て行って労働者を雇ったのか、その意味も彼はおのずから悟るのではないでしょうか。みなが比べ合うライバルではなくて、同じ雇われた者同士として、等しく今日一日を生かされたことを喜び合う仲間として見えるようになるのではないでしょうか。「自分の分」をしっかり受け取ることが、報酬の論理から離れて恵みの論理に生かされていることに気づく道であるということを、この「自分の賃金をもらって行きなさい」「自分の分を受け取って帰りなさい」という主人のことばは、示しているのです。

 

 「人とくらべる」、万事はそこからおかしくなった、そこから感謝すべき自分が見えなくなった、共に喜び合う仲間も見えなくなったのです、「人とくらべる」ということは、その人から自分を見、そして人を見る視力を奪うのです。人とくらべるということは、要するに人を盲人にするのです。

 

 ところで、受け取るべき、それだけを見ているべき、その「自分の分」、「自分の賃金」とは、これは一体何のことでしょう。それは、彼らが今日一日の糧を得ようと願って広場に立っている時に、自分の力によるのではなくて、ただ一方的に主人の好意によって与えられたものでありました。つまり主人に雇ってもらって、仕事を与えられて今日を暮らすことができる、その生かされた今日一日のいのちの事実、それが受け取るべき「自分の分」「自分の賃金」なのであります。

 

 考えてみれば、私たちはこうして生きているわけでありますが、今日生きておるということは、私の方から何も主張できない一方的に与えられている事実であります。したがって今夜のうちにも取り去られるかもしれない事実でもあります。私としては、ただ受け取って感謝して精一杯生きるだけのものであります。生きるということはそういうことであります。そして、そういうものとして今日を生きているということがまさに「自分の分」であり、「自分の分」とは、今日一日のいのちの事実そのもののことなのです。

 

 しかし、そのようないのちの事実に私たちはどれだけ目覚めているでありましょうか。むしろその事実に目覚めることをしないで、私たちはよそ見をしていることがある。よそ見をして何を見ているか。「他の人の人生はいかに」と、他の人の人生とくらべて心を乱しているのではないでしょうか。うらやんだり、ねたんだり、悔やんだりしているのではないでしょうか。そんなことをしないで、「自分の人生の今日」をそのまましっかり受け止めて生きる、それが自分の分を受け取るということです。生かされているいのちの今日にしっかり立って生きる、それが「自分の賃金」「自分の分」を受け取るということなのであります。

 

 たしかに、私たちの生活の中には、他の人とくらべたくなるような違いがいやというほどあります。能力が違う、運命が違う、境遇も違う、あらゆる面でひとさまざまです。人の方がみんなよく見える。くらべるなと言われても、くらべないわけにはいきません。どうしてこうも違うのか、どうして私だけがこうであるのか、どうしてあの人のようにうまくいかないのか、よそ見をするなと言われても、あまりの違いに不平不満にさいなまれながら、よそ見をせざるを得ません。これはみなが違うのですから、どうしてもそうなってしまう。それが現実であります。最初に雇われた人たちが洩らした不平も、その点ではよく分かります。まる一日、暑い中を辛抱して働いたのに、一時間しか働かない連中と一緒にされてはたまらないという不平は、至極もっともなことです。そういうこともあります。そしてある意味では、そういうふうな不平を言うのは自然でもあります。ですから、そういう事態で不平を言う人の口を一概にふさぐわけにはいかない。ですから、言いたい人は不平をいったらよい。言わせてあげたらよいと思います。それが必要なこともありますし、必要な場合もあるからです。黙っているとストレスがたまります。不平をぶちまけたければそれもよいと思います。それで社会的不公平が是正されるかもしれません。結果はともかく、少なくともストレス解消には間違いなくなるでありましよう。

 

 しかし、わすれてはならないことが、ここにあります。そういう態度をとっているところでは、天国はないということです。このたとえの一番最初にご注目ください。このたとえは、「天国は」ということばで始まっているのです。この話がたとえで言おうとしているのは、「天国のこと」なのです。社会的正義の確立による労働問題の解決、ストレス解消による人生問題の解決、そういうものを考える立場からすれば、不公平を我慢させるようなこんな話はたしかにまったくナンセンスであります。

 

 しかし、このたとえが語ろうとしているのは、「みな違う」ということを正当に取り扱わない不公平で筋のとおらない状態を正す、ということではなくて、その不公平な現実の底にもう一つの現実として、「みな同じ」という筋がとおっているということ、つまり最後の者にも最初の者と同じように支払ってやりたい、という公平がとおっているということ、そして不公平の底にあるこの「みな同じ」という公平、そこにこそ天国、すなわち神様のみこころの支配があるということを語り示そうとしているのであります。

 

 逆に言えば、自分のしたことを数え上げて違いを主張したり、報いを求めたり、他とくらべてつぶやいたり、ねたんだりすることがどんなに正当であっても、それは実は神様のみこころから離れた愚かな思い煩いであり、それこそ地獄である、そういう心にとりつかれている時は地獄である、ということを語っているのです。よそ見をして、比較の論理、報酬の論理に心を奪われると、せっかく与えられている「自分の分」を見失い、生かされていることが感謝すべき恵みとなるよりは苦痛と不平の種となり、生きることは地獄になる、まさに「先の者はあとになる」。それに対して、困難と不安の中にあっても、生かされている今日ここでのいのちの不思議に感動して生きるなら、そのいのちそのものへの注目こそ「自分の分」を受け取って生きることであり、平安と感謝の天国を味わうことになるでしょう。まさに「あとなる者は先になる」のであります。そういうことを、イエス様はこのたとえで言っておられるのではないかと思います。

 

 「自分の分」を受け取って今日一日、良い時もあれば苦しい時もあり、楽しい時もあれば泣きたくなるような時もあり、誇らしげな時もあれば人がうらやましくてたまらない時もありますが、そのままが私に与えられた私の賃金、わたしの「自分の分」です。生かされている恵みを感謝して、今日一日を大切に、よそ見をしないで精一杯生きれば、そこは天国、私はそう思っております。

 

 天国とは、死なないと行けないところではないのです。それは、「自分の分」を受け取って、今日という日を精一杯、よそ見をしないで生きる時に、おぼろに、かもしれませんけれども、しかし納得して味わえる「今日の事実」でもあります。私はそう信じております。

 

 カトリックの作家の曾野綾子さんが、何かの本に書いておられましたが、私たちは夜寝る時にお祈りをします。曾野さんもなさる。でも、途中で眠ってしまうことがある。雑念で脱線して、何をしているのか分からなくなることがあります。私などしょっちゅう経験しておりますが、曾野さんもそれを経験するので、もうお祈りはやめて、「今日まで生かしてくださって、ありがとうございました」、それだけで寝られるのだそうであります。「今日一日をありがとうございました」、もうそれで寝る。私は、曾野綾子さんがそう書いておられることを見て、本当に同感、そのとおりであると思いました。

 

 お互い、いろいろ苦労の多い毎日の連続でありますが、今日一日を「自分の分」と受け止めて、精一杯生きて、夜寝床につく時に「今日一日ありがとうございました」と祈って休めば、これにまさる恵みにゆだねた信仰生活はない、と私は思います。

 

 今日という一日をよそ見をせずに精一杯、それで万事はO・Kなのであります。それが、過去と、未来と、周囲から自分を解き放って、「自分の分」を生きている者の姿であります。

 お祈りをいたします。

 

 

 父なる神様。

 

 今朝は、この愛する穂高の教会の皆さまと共に、あなたを礼拝賛美するひとときを賜わりました。あなたのお許しとお支えを覚えて、感謝をいたします。

 

 私たちの生活は、一人ひとりさまざまであり、違っております。まことに不公平に世の中は動いております。その違いに目を奪われて、自分かみえなくなる私どもでございます。どうぞみことばに導かれて、その違いの底にある等しい恵みの事実、一人ひとりが今日一日を生かされ、支えられているといういのちの事実に気づき、今日を感謝し、よそ見をしないで精一杯、自分の一日の苦労をして、そこにあなたの御手の中にある平安を、天国を、味わうことができるように、強く私たちの心をとらえて下さいますように、祈るものでございます。

 

 一年二ヶ月ぶりに、この穂高の美しい教会をお訪ねすることがゆるされました。毛見先生ご夫妻を中心に、まことにいきいきとあたたかく、着実に歩みをすすめておられる姿に接することは、しもべにとりまして無上の喜びであり、励ましであります。感謝をいたします。この教会が、群れとして与えられている自分の分を感謝しつつ、さらに歩みを進められて、この地に天国を偲ばせる麗しい群れとなっていかれるように、あなたの御祝福を祈るものでございます。

 

 感謝と祈り、あがめたてまつる主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。

アーメン